リオノスの翼 ―少女とモフオンの物語―

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  番外編「割れたカップ」  

「あ」
 瞳はあわてて手を伸ばしたが、間に合わなかった。ティーカップは食器棚から床に落ちる。ガシャンと音を立てて、割れてしまった。白い陶器の破片は足もとに広がり、瞳は身動きが取れなくなった。どうしよう、と困っていると、
「何の音だい?」
 台所から食堂に、エプロン姿のロールがやってくる。割れたカップに気づいて、心配げにまゆを下げた。
「けがは?」
「ないです。……ごめんなさい」
 ありがとうのいっぱい詰まった、ごめんなさいだった。幻獣保護区に勤める大人たちは、みんな親切だ。食器を割るそそうをした瞳を責めるどころか、けがをしたか問いかける。ロールは優しくほほ笑んだ。
「ほうきを持って来るから、待っていなさい」
「はい」
 瞳は返事した。ロールはスカートをひるがえして、食堂から出ていく。瞳は、割れたカップに目を落として落ちこんだ。このカップは、彼のお気に入りのものだ。
 自分の黒い髪に手をやると、髪飾りのチョウがいる。銀でできたアクセサリーだ。こんなタイミングで、こんな失敗をするとは。
 部屋の扉が開く音がして、瞳は顔を上げた。すると、目を丸くしたガトーが立っている。彼は幻獣リオノスの医者で、保護区における最年長者だ。ガトーはすぐに事情を察した。
「けがはないかい?」
「ないです」
 瞳が言うと、ガトーはほうきを取ってこようとする。
「待ってください。今、ロールさんが」
 瞳が話し終えないうちに、ロールが戻ってきた。彼女は手早く、ほうきとちりとりで割れた破片を片付ける。次に、瞳の服や体に破片が残っていないか、じっくりと見て確かめた。
「大丈夫だね」
 彼女はほっとする。
「ありがとうございます。昼食作りのじゃまをして、ごめんなさい」
 瞳は謝罪する。手伝うはずなのに、食器を割ってしまうとは情けない。ロールは、にこりと笑んだ。
「次からは気をつけるんだよ」
「はい」
 瞳が答えると、彼女は台所に戻る。瞳は、食器棚からスプーンなどのカトラリーを取り出した。それらをテーブルの上に並べる。ガトーはすでに席について、のんびりと食事を待っていた。瞳は彼にたずねる。
「あのカップは、シフォンさんの私物ですよね?」
 彼はたいてい、あのカップでハーブティーを飲んでいる。
「そうだね。首都クースで買ったと聞いたことがある」
 遠い場所で購入した特別なものだ。瞳の気分は、ずどんとしずんだ。シフォンはリオノスを研究する学者で、瞳にとってもっとも年齢の近い人物でもある。保護区にいるのは、ほとんどが四十代以上の大人だからだ。
「大丈夫だよ、瞳。ちゃんと謝れば、彼は許してくれる」
 ガトーがやんわりと笑う。瞳はうなずいて、再び食器棚に向かった。ガラス扉に、瞳の暗い表情と、昨日シフォンが買ってくれた髪飾りが映る。
 彼はとても寛大だ。瞳が謝れば、簡単に許してくれる。しかし、瞳は彼にとって大切なものを壊した。ごめんなさいと頭を下げるだけで許されるのは、心苦しい。けれど、別に怒ってほしいわけではない。口さきのみではなく、きちんとおわびをしたいのだ。
 食器棚から人数分の皿を出して、瞳は考えた。彼のために何ができるだろう。本棚の整理を手伝ったり、山で一緒にリオノスを観察したり、お茶をいれたりするばかりでは、もの足りない。もっと役に立ちたいのだ。
 皿をテーブルの上に置くと、次は慎重に食器棚からカップを取る。ちょうどそのとき、くだんの人物が食堂に入ってきた。シフォンだけではなく、タルトやビターたちもやってくる。
 瞳は悩んだが、謝罪方法が思いつくまで黙っているわけにはいかない。カップをテーブルに並べ終わると、素直にシフォンに謝った。すると彼は予想どおりに、あっさりと瞳を許した。
「構わないよ。けがはないかい?」
 心配そうに、瞳を頭から足のつま先まで見る。
「ないです。カップのことですが、どうやってつぐなえばいいですか? 私にできることはありませんか?」
 瞳は真剣に質問した。ところがシフォンは、瞳の言葉を本気に取らない。
「気にしなくていい。小さな破片が服に残っていないか?」
「ロールさんに確認してもらいましたから」
 会話を聞いていたタルトたちが、おかしそうに笑い出す。
「にたもの同士だな」
「たがいにたがいを思いやって、話が平行線だ」
「さすがに熱い。窓でも開けようか」
 瞳は反応に困った。シフォンが苦笑して、瞳を食堂から廊下へ連れ出す。
「実はあれは、大事なものではないんだ」
 彼のせりふに、瞳はとまどった。まさか瞳が気づかわなくていいように、うそをついているのか。
「四年ほど前に旅の土産に買ったけれど、贈る予定の人は別の男性と結婚して、それで仕方なく自分で使っていたんだ」
 シフォンは、あはははと情けなく笑った。彼は振られたらしい。こんな優しい男性を振るとは、見る目のない女性だ。だが彼が振られていなかったらと想像すると、瞳の胸はふさいだ。
「今、思い返せば、ものを買うより、気持ちをしっかりと伝えればよかった」
 シフォンは苦笑いをした。それから瞳の髪につけられている飾りに目を留める。瞳はシフォンの視線に気づいて、どきどきして彼の言葉を待った。
 似合っていますか? かわいいですか? 本当は今日は、この姿を見てもらいたかった。なのに、カップを割る失態をした。するとシフォンは、
「僕は進歩がない」
 がっくりと肩を落として、食堂に戻ろうとする。
「え? 待ってください」
 予想外のリアクションに、瞳は彼の腕をつかんで引きとめた。シフォンが少し驚いて振り返る。
「今はまだ無理ですが、いつか必ずあなたに新しいカップを贈ります」
 瞳は胸に小さな決意を抱いて、宣言した。シフォンは微笑する。
「ありがとう。待っているよ」
「はい」
 瞳もほほ笑む。シフォンは扉を開いて、瞳の手を引く。にぎやかな昼食が始まりつつあるテーブルへ、ふたりで歩いていった。
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