手のひらから魔法01


秘密の恋,なんて艶っぽいものじゃない.

「先生,イッチー先生!」
どたどたと騒がしい足音,そしてそれよりもさらに騒がしい声.
「待ってってば! こんなにも必死に追いかけているのに,何で止まってくれないの!?」
一時間目の教室に向かう廊下で,俺はしぶしぶ振り返った.
「当たり前だ,災厄が近づいてきているのだから.」
災厄,すなわち藤原 壱架(ふじわら いちか)である.

「ひっどぉい,先生を純粋に恋い慕っている生徒に対して,」
入学したての一年生,きっと危ない恋とやらをご所望なのだろう.
「邪心だらけのくせに何を言う,さっさと教室へ入れ.」
対する俺は新任教師,百戦錬磨の生徒たちの格好の餌食だ.
「えぇ〜,やだぁ,」
かわいい振りをして,おどけてみせる.
俺は朝にちゃんとセットしたばかりの髪を掻いてしまった.
「俺より先に入らないと,遅刻扱いにするぞ.」

「それは困る!」
現金な藤原壱架は,廊下をばたばたと走り出す.
俺はひとつため息を吐いた.
そして解けた靴紐を結ぶ振りをして,時間調整をする.

すると教室のドアの前で,
「イッチー,今日,抜き打ちテストをするつもりでしょ?」
藤原壱架が振り返って,得意そうにへへんと笑う.
俺はなぜ知っているのだと眉をひそめた.
「顔が微妙に険しいよ!」
動揺すると肯定するようなものなので,俺はぐっと足を踏ん張る.
「先生のことなら何でも分かるからね! これぞ,愛の力!」
これぞ,新任教師に対するいじめ…….
好き勝手なことを言って,藤原壱架は教室へと入った.

いくら自由な校風の私立高校だからといっても,程がある.
あんなにも堂々と教師に言い寄るとは…….

俺は教師としての威厳とはいったい何であろうと思い悩みながら,教室のドアを開いた.

秘密の恋,なんていかにも不幸になりそうなものじゃない.

イッチー先生のりりしい←これ,超重要ね! 教師姿を私はうっとりと眺めた.
あぁ,素敵…….
黒板の数式をなぞる先生の手,解答を説明する先生の声,眼鏡の奥の鋭い(と私だけが思っている)瞳.
抜き打ちテストの結果は散々だったけど,愛は点数で測れるものじゃないものねっ.

ぼんやりと先生の顔を見つめていると,
「イッカ,イッカ!」
隣の席の唯(ゆい)ちゃんが小声で呼びかけてくる.
「やばいって,イッチー先生がにらんでるってば!」
「マジ!? ということは相思相愛!?」
動揺のあまり,私は立ち上がった.
途端に,イッチー先生が氷河期のような冷たい視線をよこしてくる.
未来のお嫁さんに対して,その目はちょっとぉ……,
「藤原,問2の答えは?」

もちろん,授業の内容なんて聞いてません.
「えっとぉ〜〜〜,2/6あたりですか?」
でも,しかめっ面もす・て・き…….
「せめて間違えるにしても,分数の約分くらいはしてくれ.」
教室はどっと笑い崩れる.
がぁぁん,約分って小学生の算数じゃん.
「答えは3/4だ.」
ひどいよぉ,イッチー先生.
私の馬鹿っぷりを,みんなに晒すなんて…….

秘密の恋,なんて甘美なものじゃない.

授業終わり,案の定廊下を追いかけてくる気配に,俺は妙案を思いついた.
「先生! イッチー先生!」
ちなみに俺の本名は,一村 圭(いちむら けい)だ.
イッチーなんていう変なあだ名を広めたのは,もちろん,
「藤原壱架.」
勢いよく振り向いて,今までの俺とは違うことをアピールする.
そう,これこそが教師の醍醐味だ.
「俺は数学のできない生徒は嫌いだ.」

すると予想通り,藤原壱架はがぁ〜んとショックを受ける.
「いいか,再来週に中間テストがあるだろう?」
ぽんぽんと藤原壱架の肩を叩いて,あ,やばい,セクハラになる.
「60点以上だ,できるな?」
俺はさっと藤原壱架から離れた.
「……できません.」
藤原壱架は涙目である.

「分からないときは,数学準備室まで聞きに来なさい.」
テストを作るのはベテランの高野(たかの)先生だ.
俺が藤原壱架の勉強を見てやっても,テスト問題の漏洩にはならないだろう.
「なんでも教えてやるから,さすがに九九は無理だけど.」
すると藤原壱架は真っ赤な顔をして見返してきた.
なんだ? 九九ぐらい知っています! とか言い返すと思っていたのだが…….

「先生,私……,」
藤原壱架はうるうるとした目で,両手を祈るように組む.
何を言い出すのだ,俺は気持ち一歩下がる.
女とはまた別種の怖さを持つ,それが女の子というものかもしれない.
「先生に絶対に百点満点をプレゼントしますから! 愛の力に不可能はありません! ラブ オブ パワーです!」
意気込んで,藤原壱架は廊下を走って教室へ戻る.
俺は多少引きつった笑いで,藤原壱架の後姿を見送った.

ラブ オブ パワーは愛の力ではなく肉欲である.
藤原壱架,お前は英語の成績も悪いのか…….

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