心の瞳


第十二章 決戦前夜


ガロード…….
記憶の中にある母は,いつも悲しげに微笑んでいた.

「ねぇ,ガロード.アシュラン姫って誰?」
少年の初陣の後,漆黒の髪の少女は訊ねた.
その明るい微笑み.

なぁ,ガロード.
君だってこんな城から抜け出したいよな.
お母さんを説得するのを手伝ってくれないか……?
子供の頃は本気で自分の父だと思っていたユウリ叔父.

「殿下,殿下こそ,王となるべきお方…….」
ラオの熱っぽいまなざし.

もう逃げないってことは,いつか王様になるぞってことよね?
少女の伏せた漆黒の瞳.

ガロード,今ごろもっと遠くまで逃げていると思っていたのに…….
こんなに早く君に軍を率いてこられると困るんだよ…….

ガロード!
少女の悲痛な叫びを聞いたように思った…….

少年は唐突に目覚めた.
起き上がろうとして,しかし腹部に激痛が走る.
「つぅ…….」
少年のベッドの脇では,見慣れない女性が驚いた表情をして座っていた.
その女性はすぐさま立ち上がり,部屋のドアから廊下に向かって叫びだした.
「ミドリ,ミドリちゃん! 殿下が目を覚まされたわよ!」

一瞬の空白の後,漆黒の髪を躍らせて少女が部屋に入ってきた.
「ガロード!」
そして少年に抱きつき,子供のようにわぁわぁと泣き出す.
「ミド,……つぅ…….」
言葉にならない痛みに顔を歪ませながら,少年は少女を抱きとめた.
この世に,これほどいとおしいものがあるのだろうか…….
「……ミドリ.」
少女の黒髪をやさしくなでる.

「よかったわ,よかったわねぇ.」
そばで微笑む女性に,ガロードはふと気付いて赤面した.
青い瞳のやさしげな女性……彼女は……,
「ラジカル夫人.」
ガロードは意識がどんどん覚醒してゆくのを感じながら質問をした.
「私が倒れてから,幾日がたったのですか?」

「ラオ将軍!」
副官のテディに呼ばれて,ラオは振り返った.
こげ茶のくせっ毛を持つ彼の副官が,後ろから馬を寄せてくる.

彼らは第4,第7騎士団を連れて,南へと馬を進めていた.
「斥候からの報告によりますと国境の第6騎士団は敗退したそうです. 砦は燃やされ,レニベス軍はまっすぐに王都に向かっているそうです.」
「で,王都の方の様子は?」
「城門をきっちり閉めて,篭城の構えですね…….」
「そうか…….」
ラオはつぶやいた.今のところ少女の予測通りの展開だ.

「しかし,ミドリ様の予測はよく当たるな.」
ラオが感嘆すると,隣に馬を並べてテディが答えた.
「ミドリですか? そういや,……以前に言われましたよ,私の得意キョウカは歴史だと.」
昔から妙に少女と仲のいい副官を,ラオは眺めやった.
「ショカツコウメイとかシンセングミが好きだとも,言っていましたね.」

王都に向かって,西へと行軍してゆく.
レニベス軍中にありながら,皮肉な笑みをユウリは自分自身に向けた.
彼の斜め前で馬を進める男が話しかけてくる.
「で,王子ガロードは本当に来ないのだな.」
亜麻色の髪,比較的がっしりとした体格の壮年の男性である.
レニベス王国,第二王子フェノール.それがその男の身分であった.
ユウリの甘言に乗って,エンデ王国にまでやってきたのである.
「えぇ,あの傷では動けませんよ.それに彼の兵たちは彼以外の命令を受け付けません.」
ユウリ叔父上……少年の驚いた表情を,彼は打ち消した.
「まったくフィローンに先越されたときは,どうなるものかと思ったが.あいつは勝手に自滅したし.ははっ,女になんかうつつを抜かすからだ!」
「そうですね…….」
気の無い様子で,ユウリは相槌をうった.
「後は,王城と王直属兵たちだけか!」
さて,そううまくいきますかね…….
ユウリは瞳に浮かぶ皮肉な光を押し隠した.

ガロードが動けないといっても,彼には分身のような少女がいる.
少女は決して黙って事態を見守ってはいないだろう.
そして少女には実戦部隊を指揮することのできる将軍ラオがついているのだ.
必ずなんらかの軍事行動を起こすに違いない…….

しかしそれはユウリにとって,どうでもいいことだった.
たとえここでエンデ王国が滅びようと,レニベス軍が全滅しようと.
彼にとって重要なのは,もう過ぎ去って帰らない過去のことだけだった…….

ミドリ,ガロード.なぜだろう…….
君たちのほほえましい恋愛を見つめた瞬間から,アシュランの復讐を望む心が抑えきれなくなってしまったんだよ…….

アシュランを愛していたのですか?

孤独な玉座に座り,エンデ王国国王バルバロッサは愛した女性のことを思い起こした.
誰もが賞賛する美貌の持ち主.
愛しくて,父王の後宮からさらってきた少女.

少女がそばにいるだけで,王位を求める心もレニベスに復讐を誓う心もどんどん溶けてゆき,無くなってしまいそうだった.
恋に落ちる,まさに落ちてゆく感触だ.
決して自分の意志では止められない…….

そして産まれた王子は紺の髪に紺の瞳という異様な容貌をしていた…….
異世界のものとの混血児……!

「バル,抱いてみて.私たちの赤ちゃんよ.」
輝くような少女の微笑を,彼は残虐な気持ちで踏みにじった.

弟の責める声が聞こえる.
「魔族とアシュランは違う異世界から来たんだよ! アシュランは人間だ!」
ならなぜアシュランは,彼の魔法によってあんな化け物に変化するのだろうか?
それは彼女が異世界から来た,バルバロッサとは違う生物だから…….

その認識に彼は耐えられなかった.

「ガロード!?」
少女の驚いた声に少年は振り返った.
少年は自らの部屋で背中に長剣を背負い,旅支度を整えていた.
「まだ無理だよ.この前やっと意識が戻ったばっかりなのに!」
少年は少女を安心させるように微笑んだ.
「もう目覚めてから5日は経ったよ,ミドリ.」
少年の微笑で少女は思い知らされた.
少女の目の前にいるこの少年は,正真正銘の王子なのだ.
祖国を守るために戦う…….

「じゃ,私も連れていって.」
少女は少年の紫紺の瞳をまっすぐに見つめた.
「ミドリ…….それは…….」
しかし少女は少年の言葉をさえぎり,強い口調で言った.
「ガロード,ガロードも私を白鳥にすることができるんでしょ.人間ではなく鳥の私を連れて行って.」
少年は顔をこわばらせた.
「ミドリを鳥にできるのは,父上だけだよ…….」
「いいえ,ガロードにもできるわ.昔ユウリさんが言っていた,魔力は遺伝するって.だからガロードにも可能なはず.」
少女は必死に言い募った.
「お願い,そばに居させて…….」
離れたくない…….
だってこの戦いが終われば,私は…….

……すべてが終わったら,俺と一緒に異世界へ帰りたくなる魔法だよ.

少年は少女を見つめた.なんだろう,彼の傷を心配しているのとは何か違うような気がする…….
しかし少年は,結局少女の希望を聞くことにした.
この少女はすでにいくつもの戦場を少年と共にした少女だ.
いまさら戦場に来るなとは言えない…….

「じゃ,ミドリ.目を閉じて…….」
少女はほっとしたように笑顔を見せ,固く瞳を閉じた.
「直接,魔法を送るから…….」
そう言うと,少女の固い瞳に口付ける.

途端に,少女の体は光り輝きはじめる.
純白の輝きが部屋の外にも漏れ,城外の者たちでさえ驚いた瞳を上げる.
部屋の前の廊下を歩いていたアイリッシュは驚いて,王子の部屋のドアを開いた.

そこには人間の身長の半分ほどの大きさの純白に輝く鳥が翼を広げ,そしてそのまま窓から飛び去ってしまった.
後に残された金に輝く少年は,アイリッシュの姿を認め軽く会釈をした.
そしてすぐに白鳥を追って,窓から飛び出してしまう.

アイリッシュは驚いて窓まで駆け寄り,下を眺めた.
こんな高さから落ちて,無事なわけが無い!
すると窓の下から少年を背に乗せた白鳥が,一気に上空へと舞い上がって来た.
そうしてそのまま,南へと過ぎ去ってゆく.

言葉も無く,アイリッシュは窓の側に座り込んでしまった.
あれが,白鳥の騎士…….
夫が忠誠を誓う少年…….

ガロードを乗せて,ミドリはどんどんと南へと下ってゆく.
この幽体のような体がなぜ少年を乗せることができるのかいまいち少女には理解できなかったが,万能としか思えないこの鳥の能力が今はありがたかった.

「アシュランとは母の名だ.」
「母上は光り輝く白鳥となり,魔族との戦場で父上を守っていたんだ.」
初陣の後,少年は少女にこう答えた.
「なら,私はガロードを守ってあげるね.」
背の低い一つ年下の少年に,少女は笑顔を見せた…….

ふっと気付くと,少女は見慣れない部屋のベッドで眠っていた.
側には紺の髪の少年が居る.
「ミドリ,眠っていていいよ.」
少年の紫紺の瞳がやさしげに微笑む.
「ここまで飛んできて疲れたろう.あ,ここはトリノ町の宿屋だよ.目的地まではもうすぐだ.」
そう言って,少年はベッドから離れた.
「夜があけたら,出発しよう…….」
「待って!」
意外に強い調子の少女の声に,少年は少女の顔を見返した.
「ここにいて,そばにいて.」
少女は大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら懇願した.
「私,ガロードが好きなの,すごく好きなの…….」
戦争に関係の無い友人を戦場に送るほど…….
そして少女の立てた作戦で,今度は多くのレニベス軍の兵士たちが死ぬのだろう…….

「ミドリ,何か隠してないか……?」
少年の紫紺の瞳が,覗き込んでくる.
少女は激しく頭を振った.
少女は戦争が終わったらシュリと共に,シュリの世界へと帰らなくてはならない.
それはすでに決定されたものとして,少女の心に刻みこまれていた…….

この少女の様子にはどこか見覚えがあった.
少女を無理やり異世界へ帰したときだ…….
あのときはまだ帰すことができた,しかしもう今は,
「ミドリ,離さないよ…….」
少年は,泣きじゃくる少女を抱き寄せる.
「いまさら離せるわけがないだろう…….」
こんなにもいとおしいのに…….

出会った頃は,まるで弟みたいだった.
端整に整った顔に,いつも悲しげな寂しげな瞳をしていた.
いつから,こんなにも好きになってしまったのだろう…….

……初めての恋ほど真剣なものはない.
ほんとに,そうね…….

朝日に照らされて,少女は目覚めた.
ベッドには少年の姿は無く,少女は急いで着替えを済ませた.
隣の部屋へ行くと,少年が窓から戦場の南のほうを眺めていた.
ふと少女の視線に気付いて,少年は甘く微笑んだ.
「ガロード…….」
頬が赤くなるのを知りながら,少女は少年の名を呼んだ.
しかしすぐにきゅっと気を引き締めて,少年を見つめた.
「行こう,戦場へ.」
「あぁ…….」

すると唐突に少年は少女の前に膝をついた.
「え?」
そして少女の手を取り,口付ける.
「ミドリ…….」
少年の真摯な瞳が,立ちすくむ少女を射ぬいた.
「この戦いが終わったら,正式に求婚するよ.」
少女の瞳に戸惑いの影が映る.
その瞳には別れた両親の姿が映っていた…….

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