心の瞳


第七章 川の向こう


レニベス王国.
この地方では,一番の大国である.
東に向かえば海があり,北西にはサライ諸侯国,南西ではエンデ王国と国境を接する.
また,文化の中心地でもあり,優れた魔術師も多いことで知られる.

しかし,エンデ王国にとっては,油断のならない長年の敵国である.
エンデ王国暦,849年から851年にかけては,大挙して国境に押し寄せ,ときのエンデ王国国王ロッカーフィルは,王国南東部の領土を譲り渡した.
このとき,現王バルバロッサは18歳.
レニベスに対して復讐を誓った彼は,しかしそのとき,王位継承権さえ持たない青年であった.

そのレニベス王国軍が,ひさびさに攻めてきたのだ.
しかも,サライ諸侯国側の領土からである.

「敵の指揮官は第1王子のフィローン.兵の数は3000.」
「今砦には留守番のわれわれしかいないぞ.」
「たった100の兵で勝てるわけがないだろ! どうする!?」
砦中が混乱の渦に飲み込まれていた.
彼らはとりあえず,王都と王都に向かった第5騎士団へ伝令を送り,篭城戦の準備を整えた.
しかし,これからどうしたものか……?

しかし,救世主は意外なところから現れた.
ある日,城門に姿をあらわした少年は,自分はガロード王子であると名乗ったのである.

魔族からの救国の英雄,バルバロッサ王の呪われた闇の御子.
その性質は残虐で,魔族をたった一人で殲滅したという…….
しかし,少年はそのうわさを裏切る穏やかな笑みをみせて,言った.
「大丈夫.彼らを追い払うことはできます.」
そう,きっと彼の愛する少女ならこう言うであろう.
「彼らに地の利はありません.それに彼らの背後に控えるのは安全な母国ではなく,あの計算高いサライ諸侯国です.情勢が悪くなれば,すぐに裏切るでしょう.それに母国にしたところで,今内乱の真っ最中です.こんなところで火遊びしている間に帰る家が無くなっている危険性があるのです.」
そこで一息おいて,少年は周りにいる騎士,兵士たちをしっかりと見回した.
「そこのところをつつけば,必ず勝てます.」
そうして,彼らを安心させるように,微笑んだ.

「殿下.ちょっとバルコニーまで来ていただけませんか?」
「なんだ,ラオ.」
少年は足音軽く,部屋を出てゆく.
残された騎士たちは戸惑った顔を見合わせた.
聡明な瞳,身分低いものに対する丁寧な物言い.まったく噂とはあてにならないものだ!
「なんだか,勝てそうだな.」
「あぁ.」

遠くに,エンデ王国国境の砦を眺めながら,水鳥は,彼女を捕らえる青年に向かって聞いた.
「ねぇ,こんなことしていていいの?」
金の髪を持つ青年は,その蒼い瞳を興味深げに光らせた.
「こんなこととは?」
「こんなところで火遊びしていていいの? さっさと国に帰らないと,帰る家自体がなくなっているんじゃないの?」
少女の黒い瞳に皮肉な光が浮かぶ.
「それに,背後だって安全というわけではないじゃない? それともあんたのそのおめでたい頭は,サライを全面的に信用しているわけ?」
フィローンは少女の日の光を照り返す瞳を,驚いて見返した.
なんだ,この少女は.単なる子供ではないのか?

「お前,もしかして貴族か,王族か?」
「単なる一般市民よっ.」
水鳥はきっとフィローンをにらみつけた.
「シミン?」
意味の分からないことを言う.それとも,霧の国の人間は皆このようなものなのだろうか?
なんにせよ,彼最高のコレクションになるはずだ,この少女は…….

それに加えて,地の利も無い…….
水鳥は心の中でひとりごちた.
彼らは,自ら不慣れな場所を戦場に選んだ.
水鳥の見る限り,詳細な地図は無く,地理的な情報は無に等しい.
ガロードたちが今どこにいるのか分からないが,必ず国境警備軍と合流するはずだ.
そして,きっとこの国境から,無法者の集団を追い払ってくれるだろう.

水鳥はエンデ王国からサライ諸侯国へと流れてゆく大河を見やった.
レニベス王国軍の西側をゆったりと南から北へと流れている.
その水の清く深い色は,少年の瞳を思い起こさせた…….

「これでは,簡単に勝てそうだな…….」
ガロードはいっそ呆れたようにつぶやいた.
「えぇ,彼らはあの装置のことをまったく知らないのですね.」
ラオとガロードはバルコニーから,敵対する軍の配置を確認した.
ほぼ,横一列に隊列を組んでいる.
これだけ兵力に差があるのだから,きっと包囲殲滅戦を狙っているのだろう.
しかし,サライ諸侯国は,彼らにまったく戦場の助言を与えなかったらしい.
軍隊の通行を許可しておきながら……,まったく油断のならない国だ.
ラオはつぶやいた.

少女が少年の手から連れ去られてから,10日以上が経っていた.
フィローンは水鳥自身が目的でさらったのだから,きっと水鳥は殺されはしないだろう.
しかし,少女のやわらかい頬も温かいまなざしも,その漆黒の髪の一筋に至るまで,本来は少年一人のものなのだ.
バルコニーを出て,少年は一人の騎士に,兵士たちを魔法の得意な者,剣技の得意なものに二分するように命じた.
「分かりました.しかし援軍を待たなくてよろしいのですか?」
「あぁ,援軍を待っていれば,敵に先手を取られてしまう.それにこっちの都合で悪いが,急いで助けたい人がいるんだ.」

攻撃は意外なところから始まった.
西から川を越えて,兵士たちが踊り出てくる,先頭を走るのは,長い紺色の髪をした少年だ.
すぐに,レニベス軍,西端と戦闘状態に入る.
しかし,圧倒的に人数に差がありすぎる.ほとんどまともに戦わずに,彼らは川の向こうへと逃げ出した.
それをレニベス軍は,全軍揃って追いかけた.
しかし,先頭集団が川に足を踏み入れた瞬間,異変は起きた.
川の中で,地面から突如,石碑が生えて,川の流れを北ではなく,東に変えてしまったのだ.
「土嚢を突き崩せ!」
川の向こう側で紺色の少年が命令を発した.
とたんに一気に水量が増えた.
レニベス軍の兵士たちは成すすべもなく,東へと流される.

川の流れが収まったとき,彼らは泥にまみれて,泥炭地に座り込んでいた.
すると,今度は東の森の中から,新たなる敵が出てきた.
その集団の先頭に立つラオが号令を下す.
「撃て!」
すると,何十もの雷が兵士たちを襲った!
彼らは,皆,大きな水溜りの中に足を突っ込んでいる.逃げ道などない!
「うわぁぁ〜〜!」
「逃げろ,逃げろ〜〜〜!」
われ先にと逃げ出す敵兵を見やって,ラオは第2射が必要ないことを知った…….

水鳥はこの光景を,戦場の後方から糧食隊の荷馬車と共に眺めていた.
水鳥の予想通り,エンデ王国軍が勝った.
少女は大河の流れを変える装置の存在を,以前ガロードから教えられていたのだ.
しかし,少年が人殺しを指揮する様を眺めていることは,決して愉快なことではなかった.
泥にまみれた兵士たちが,戦場から離脱してゆく.

水鳥は彼女の左右を囲む兵士たちに話し掛けた.
「あなたたちも,はやく逃げなさい.」
兵士たちは戸惑った視線を合わせる.
「逃げなさい,私を置いて.私を連れてゆけば,ガロードは必ず来るわよ.」
水鳥のまっすぐな視線に負けたのか,ガロードの名に負けたのか,兵士たちは逃げ出した.

それを見やってから,水鳥は戦場へと駆け出す.
「ガロード! ガロード!」
「ミドリ!」
しかし,その声の主は少女の愛する少年ではなかった.
「フィローン……,」
泥にまみれ,プライドをしたたか傷つけられた王子は,欲望の煮えたぎる眼で水鳥を見つめた.
「絶対に,お前は逃がさんぞ!」
水鳥は,無言で川の方へと逃げ出した.多分,ガロードは森ではなく川の方にいるはずだ.
少年は戦場ではいつも,一番危険な最前線にいるのだ.
お願い,まだそこに居て!

祈るように,水鳥は足を動かした.
しかし,少女と青年では,身体能力に差がありすぎた.
すぐに追いつかれて,水鳥は背後から腕を取られた.
「ミドリ,もしも私が本気で愛していると言っても,逃げるのか?」
少女の両腕を拘束して,金の髪の王子は聞いた.
少女の瞳に閃光が走る.
「力ずくで,私をどうにかしようとするあんたが,私を愛しているわけがないわ!」
水鳥は必死で,拘束から逃れようとした.
「あんたは最初から私のことを物としてしかみてなかった.それに私,戦争を引き起こす人なんか,大っ嫌い!」

「ミドリーーーー!」
川の方から,紺の長い髪をなびかせ,少年が走ってくる.
「ガロード!」
少女は叫んだ.すると,フィローンは乱暴に少女の両腕を開放し,剣を抜いた.
ガロードも背中から長剣を抜き去り,構える.

やばい…….水鳥は直感した.
ガロードがすぐに切りかかってこない,この王子は強いのだ.
水鳥は再び川の方へ,駆け出した.
フィローンはそれを視線で追う,しかし,その瞬間ガロードが攻撃を仕掛けてきた.
「すき有り!」
「甘い!」
しかし,ガロードの斬撃は受け止められてしまう.
そのまま,二人はもつれ合うように,斬激を交し合う.

「誰か,誰か早く来て! フィローンが,フィローン王子がここに居るわよ!」
走りながら,水鳥は絶叫した.もう,息がきれそうだ!
すると,エンデ王国の兵士の一群が水鳥に怪訝な視線を向けながら,ガロードの方へと向かっていった.
「ガロード殿下!」
「フィローン王子だ! 捕まえろ!」
兵士たちが口々に叫びながら,やってくる.

「くっ,ここまでか!」
ガロードとの何十撃目かの剣のやり取りの後,フィローンは逃げ出した.
「待て!」
「追いかけろ!」
幾人かの兵士たちが追いかけようとする.すると,ガロードは,強い口調で彼らを止めた.
「やめろっ,追いかけるな! あの王子は強い,無駄死にするな!」
「……はい.」
武勲よりも兵士の身を案じる王子に感激した兵士たちの視線の中で,ぜいぜいと呼吸を整えながら,少年は少女の姿をついに探し出した.
「ミドリ……,」
少女の漆黒の瞳がまっすぐに少年を見つめている.
逢いたかった…….

その夜,砦では盛大な宴が催された.
彼らはたった100の兵で,3000名からなる侵略軍を打ち破ったのだ.
しかも味方は,軽い怪我以上のものを誰も負わず,まったくの完封勝ちであった.
しかし,その場には,主役となるべき少年の姿はなかった.

彼らの指揮官は,戦闘終了と同時に疲労こんばいの末,倒れて眠ってしまったのだった.
「寝顔はまだまだ子供ですな.」
年かさの兵士が言うと,周りの兵士,騎士たちは皆で笑いあった.
この少年がガロード王子.将来,彼らの王となるべき少年だ…….

暗い部屋の中で少年はふと目を覚ました.
少女が,少年の横たわるベッドに顔を突っ伏して,寝息を立てていた.
よかった…….少年は少女の滑らかな髪をなでて思った.
少女が眼を覚ます.
「ガロード.」
「助けてくれて,ありがとう.」
少女のまなざしも微笑みも変わらない.少年はついに少女を取り戻したのだ.
少年は少女と,いつもよりも長く,口付けを交し合った…….

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