心の瞳


第五章 迷い


抱きしめられて唇をあわせる.
つい1ヶ月程前までは,手を握ったことさえなかったのに…….
しかもだんだん,キスの時間が長くなっているような気が,水鳥にはする.
ガロードの姿が戻ってから,もう10日以上が経っていた.

「背,高くなったね.ガロード.」
少年の長い紺の髪を引っ張りながら,少女はつぶやいた.
「そうかな?」
伏せられた少女の瞳を覗きこんで,少年は訊ねる.
「出会ったときは,私より頭一つ分小さかったじゃない?」

ガロードと水鳥が同行している商隊は今,国境まで後5日というところまで旅を進めていた.
東の方に見えるエンデ王国の城砦は,サライ諸侯国との国境を守護するものらしい.
第5騎士団,約500名が砦に在中している,またサライ諸侯国との和平条約によって,この騎士団は通常の半分の人数である.

水鳥が意外に思ったことには,ラオがガロードの王都への帰還を主張しなかったことだ.
「殿下には無断で事を運んで申し訳なく考えておりますが,殿下の第7騎士団,私の第4騎士団は,私たちが王都から出る前に, すでに脱出させておきました.」
そこでにやりと笑い,
「陛下はおそらく,ガロード殿下が騎士団を連れて逃亡していると考えているしょう.」
水鳥の視線の先で,ガロードが困惑しつつ,ラオに聞いた.
「それで彼らはいったいどこへ?」
「50人ほどでグループを作り,王都やその郊外,大多数は魔族がいた月の砂漠に身を隠しております. 殿下が号令をかければ,すぐに集まることができますよ.」

そして真剣な顔を少年に向けて,ラオは言った.
「殿下はどうなさいますか? 第4,第7騎士団があれば,城を攻略し陛下を倒すことができますが?」
水鳥は瞳を曇らせた.確かにそうかもしれない,しかし,それでは……,
「それでは,内乱になってしまう.私はこの商隊について,サライ諸侯国まで逃げることにするよ.」
ラオは大きなため息を吐き,諦めたような笑顔をガロードにみせた.
「殿下なら,そうおっしゃると思った.」
王位よりも名誉よりも,人の命を,民衆のことを第一に考える方だから,兵士たちは諦めきれないのだ.
少年が王となることを…….

国境付近で,商隊は王都へ向かうエンデ王国第5騎士団とすれ違った.
その数,およそ400名.
ラオは怪訝な顔をしてつぶやいた.
「これではほとんど国境がカラになってしまうではないか.サライとは和平が結ばれているとはいっても……. 陛下は何を考えていらっしゃるのだ……?」
「まさか,ガロードに対抗するために,王都に兵を集めているのかしら?」
ラオはぎょっとして,発言の主である漆黒の髪の少女をみやる.
「王様にとって,大事なのは国よりも玉座なのね.」
少女の瞳に皮肉な光が浮かぶ.そう,この少女をみくびってはいけない…….
ガロードが指揮する第7騎士団を,王国最強の戦闘集団に変えたのは彼女なのだから…….

つと少女は視線をラオに向けてたずねる.
「ねぇ,ラオ将軍.なぜ,ガロードに王都に戻るようにもっと強く言わなかったの?」
まっすぐな視線を受けて,ラオは正直に話すことに決めた.
「それは,ユウリ殿下に頼まれたからです.」
そしていたずらっぽく笑って,
「初めての恋ほど真剣なものはない.殿下が元に戻っても,しばらくは二人をそっとしておいてやってくれ,と.」
「なっ…….」
少女は顔を真っ赤にして,口を忙しく開閉した.
「そ,そんなことで……?」
「まぁ,それもありますけど,もう一つ,理由はあるのです.我が王国は8年に渡る魔族との戦いで疲弊しきっています. そこに乗じてレニベス王国が攻めてくるかもしれません.」
水鳥は怪訝そうな瞳をラオに向けた.
「レニベス王国って,確か東隣の大きな国よね.まだまだ内乱が続きそうって聞いたけど…….」
「王位継承で3人の王子が争っているらしいのですが,だからこそ,攻めてくるのかもしれません,武勲を立てるために. ユウリ殿下はそうおっしゃっておりました.」
もしレニベス王国が攻めてきたならば,少年は国を守るために,一二も無く王の元へ戻るだろう.
王だって少年を粗略にはできない.
そうして,ガロードに武勲を立てさせ,今度こそ王位につけるつもりなのかもしれない,ラオは.

暗い部屋の窓から,城下の町を覗き込む.
こげ茶のくせっけをした比較的小柄な若者は,部屋の前を行き過ぎる兵士の群れに皮肉な笑みを投げかけた.
元第4騎士団,副官テディである.
エンデ王国王都,この街は今,奇妙な緊迫状態にあった.

まず,王子の失踪があり,次に第4,第7騎士団の逃亡があった.
また,王に捜索を命令されたはずの第1,第2,第3騎士団でも逃亡が相次いだ.
捜索のため城外に出たまま帰らないもの,逃亡者を発見しても報告せずに見逃すもの, 逃亡者のためにこっそりと門を開ける衛兵さえもいた.
しかし,彼らにしては当然なのだ.なぜ,王の命令とはいえ,魔族の侵攻からの救国の英雄たちを,ひったてなくてはならないのか?
自然,捜索活動もサボタージュがちになるのだ.

この調子では,ガロードが騎士団を連れて王都に姿を現したとき,城門は内側から開いてしまうのかもしれない…….
テディは窓から離れ,彼の上官であるラオに報告書を書き始めた.

5日後,ガロードたちを乗せた商隊は,エンデ王国国境を越えた.
少年は,馬車の中で隣に座る少女の体温を感じながら,さりゆく故郷を感慨深げに眺めた.
彼にはまだ,自分がこれからどうするべきかが分からなかった.
彼はただ,内乱を避けるために,そして自分自身と水鳥の命を守るために,逃げているに過ぎなかった.
明確な将来のビジョンなどあるはずがない.ただ流されているだけだった.
これではいけないのだろう…….

エンデ王国暦871年.現王バルバロッサの唯一の子供である王子ガロードは,初めてその足を外国に踏み入れた…….
彼はそのとき,16歳であった.

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