心の瞳


第三章 初陣


家に帰らなくては,一刻もはやく帰らなくてはならない.
街路樹に見守られた,緩やかな坂を少女が走って下ってゆく.
セーラー服に身を包んだあどけない顔の少女だ.

夏休みが明けての久々の登校だったのだが,今は正直学校どころではない.
父と母の様子が変なのだ…….
いつも大声で喧嘩していたのに,最近ではなにやら神妙な顔つきで話し合っている.
本当は妹の萌葱とともに家に帰りたかったのだが,彼女のクラスはまだホームルーム中だった.
水鳥だけでも,はやく家に帰らなくてはならない.

日常は,水鳥の日常は,両親の離婚という事件のもとにあっけなく崩れ去ってしまうのかもしれない.
家へと続く角を曲がるとき,水鳥はつと振り向いた.
それがいけなかったのだ…….

街路樹の脇に,一人の少年が立っていた.
水鳥と同じ歳の頃の,外国人の少年だ.
濃い紺色の髪を,ポニーテールで結い上げている.
紫紺の瞳が悲しげに揺れている.

「……ごめんなさい.」
しかし,その口からは明瞭な日本語が飛び出してきた.
それだけいうと,少年は足はやに,少女の方に近づいてくる.
水鳥は驚きのあまり,立ちすくんでいた.
「ごめんなさい,うらむのなら僕をうらんでください.」
水鳥の周りのアスファルトの地面が白く光りだす.
それはどんどん明度を増していった…….
「さぁ,手を…….」
少年が手を差し伸べる.
「やっ…….」
少女は,やっとこれが尋常ではない事態だと理解したのか,後ずさった.
少年は傷ついたかのように,瞳を閉じた.少女もあまりのまぶしさに目を開けていられない.
光が二人を包む.

あの日から,もう3年が経ったのだ.
今,少女は自分の意志で,少年のそばにいる.
エンデ王国,王都の北東にあるカイライ村.
村の宿屋にガロードと水鳥は二人,身を寄せていた.
心を閉ざした少年は,金の姿のままに沈黙している.

なぜだろう,暗い紺の色をしているときよりも,輝くような黄金の姿のほうが,寂しげに見えるのは…….
「ミドリ.」
ドアを開けて,一人の青年が部屋に入ってきた.
軍人らしいたくましい肉体,そしてそれにふさわしい頑強な精神を持っている男だ.
「ラオ将軍.」
少女の漆黒の瞳が,安心したように笑んだ.
「サライ諸侯国までいく商隊に便乗できるようになったよ.」
「ありがとう,将軍.サライ諸侯国ということは,とりあえず北に逃げるのね.」
「あぁ,まだチワワニアの方へ,つまり南に向かうよりはましかな,程度だけどね.正直,ガロード殿下が元に戻るまでは,ただ逃げるしか無い.」
「……そうね…….」
少女は瞳を伏せて,同意した.
少女は逃げるだけで満足しているようだが,しかし,ラオはそうではなかった.
そう,今はただ逃げるだけだ……しかし,必ずガロード殿下には王都に戻っていただく.
そのためにこそ,騎士団の兵士たちを城から逃がしたのだから.

少年は名をガロードと言った.
王である父の命令によって水鳥をこの世界に連れてきたのだ.
「で,なぜ,私なの? 私,戦争に役に立つ力なんてないわよ.」
少年は,眼を合わせて人としゃべることに慣れていないのか,もじもじと下を向いてしゃべった.
「すまない,誰でもよかったんだ.」
少女の瞳に閃光が走る.
「なによ,それ! こっち向きなさいよ!」
水鳥は少年の頬にしたたかビンタを食らわそうと,手を上げた.
「…….」
うつむいた少年の顔は,連れてこられた水鳥よりもつらそうだった.
水鳥は,つい少年に同情してしまった.
「ねぇ,あんた,何歳?」
少年はきょとんとして顔を上げる.
「ぼく,……私は13だが.」
少年の身長は少女の肩ほどにしかない.
「何よ,年下じゃない.あんたも親で苦労しているのね.」
なんとも,答え難く少年はただうつむいた…….

「君たち,なんかわけ有り?」
商隊長だという男は,じろじろと水鳥たちを,特にガロードを見た.
サライ諸侯国出身のでっぷりと太った男で,水鳥は誰か芸能人に似ていると思った.
すると,ラオは,ただにっこり笑って,金貨のずっしり入った袋を手渡した.
男は,興味なさげに振舞いつつ,袋の中身を見た.
「なっ,こんなに!?」
「弟は実は心の病でしてね.これでお願いしますよ.」
ウインクするラオに,水鳥はあっけに取られてしまった.

「あれ? どこに行くの,ガロード?」
王に謁見室に呼ばれた水鳥は,メイドに案内されつつガロードと共に城の廊下を歩いていた.
このまま一緒に行くと思っていたのだが,ガロードはどうやら違うところへ向かうようだ.
「ぼ,……私は今日,初陣なんだ.」
「ウイジン?」
「あの,初めて戦争に参加するんだ.」
まったく敬語を使わない水鳥にメイドは目を丸くしている.
そして,いつガロードが背中に背負った長剣で,水鳥を切り捨ててもいいように,心の準備を整えた.
「今から行くの? 戦場に?」
「あぁ,城の転移装置ですぐに前線まで飛べるから.」
「いや,そうじゃなくって.あなたまだ子供でしょ.」
なんだか,栄養の行き渡っていない痩せた体の少年に,少女は心配そうな眼差しを向けた.
「確かにまだ成人の儀はおこなっていないが……すまない時間だ.」
そう言うと,少年は小走りに,角を曲がっていった.

母親が死んでから,こんなにも人と会話したのは初めてだった.
漆黒の意志の強い瞳が自分をまっすぐに見詰めてくる様を思い浮かべて,少年はなんとなく顔が熱くなるのを自覚した.

どこの世界でも金銭というものは力を持つらしい.
水鳥たちは,その夜,結構な歓待を受けた.
ガロードのことをとやかく聞いてくる,商人たちの追求をかわして,水鳥はふと星空を見上げた.
この世界の太陽や月,天体の運行は,地球とは異ならない.
もしかしたら,少し違うのかもしれないが,水鳥には分からなかった.

ガロードとは似てない.
それが王への第一印象だった.
壮年の若々しい肉体に,傲慢な顔が乗っている.
ガロードは水鳥と一つ年下にしては背が低く,やせぎすだが,王は長身で栄養の行き渡った体をしていた.
「ひざをつき,頭を垂れよ.」
「へ?」
水鳥がその命令を理解するまで数秒がかかった.
「自らの故郷に帰りたくば,はやくしろ.」
鼓動が波打った.私,帰れるの?
水鳥は慌てて,膝をつき頭を垂れ,上目遣いで王を見上げた.
王はにやにや笑いながら,水鳥を見下ろしていた.

「それでは,試して見るか…….」
「え?」
王と視線が交差した瞬間,激痛が水鳥を捉えた.
「きゃ,ああああ!」
くすくすと笑い声が,水鳥の両脇にいる貴族たちの間から漏れる.
激痛に,水鳥は階段上の王へと続く赤いカーペットの上に倒れこんだ.
ふっと意識がスパークした.

謁見室には白い大きな鳥が出現した.
周りの貴族たちが感嘆のため息をつく.
白く輝く純白の羽が舞い,白鳥は大きくはばたいた.
……アシュラン姫…….
水鳥はふっとそのせりふを言った一人の貴族を見た.
その青年貴族は目に見えて狼狽した.隣にいる他の貴族にも聞こえなかった彼のつぶやきに気づいたのか?

そのようなことなど,つゆにも気にかけず,王は笑い出した.
「ふふ,はははは……,あっはっはっは!」
「これはいい! まったく,異世界,チキュウからの客人ほど役に立つものは無い!」
水鳥は,王に驚きの視線を送る,ついで,非難の視線を.
「いいのか? おまえを故郷に帰すのは,私次第なのだぞ.」
王は楽しくてたまらないように,笑う.
「さぁ,ミドリよ.戦場へ行け.行って魔物どもを殺すのだ!」
戦場……ガロード!
水鳥は飛び立った.一直線に部屋の天上に向かって飛び上がる.
しかし,水鳥が天上にぶつかることは無い,半分幽体みたいなものであるこの身体は,天上をすり抜けて一気に空に出た.

戦場まで,今の水鳥にとってはあっという間だった.
魔物の群れの中,一人戦うガロードをすぐに発見した.
岩の塊のような怪物に,妖艶な美女の半身を持つ魚の化け物,炎を吐くドラゴン.
右に左に,ガロードが長剣を振るうたびに,魔物がなぎ倒されてゆく.
ふと,剣をその群青の瞳の前に掲げて,ガロードは呪文を唱えた.
「われの前に立ちふさがる者どもを焼き払え,炎よ!」
とたんに,ガロードの周りにいた魔物たちが燃え上がる.

いっそ弱弱しい印象を与える少年なのに,戦場ではまるで別人だ…….
水鳥は他の場所に目を移した.
数人の兵士たちがつたの化け物に首をしめられている,他の場所では大鎌をもった死神のような化け物に,兵士が今まさに首をはねられようとしている.
水鳥は考えるより早く,兵士と死神の間に割り込んだ.
翼を大きく広げ,背後に兵士をかばう.と,いきなり死神は倒れてしまった.
死神の背後では,長剣を持ったガロードが肩で息をしていた.
「大丈夫か?」
「よかった,無事だ……な…….」
水鳥の目の前で,ガロードの姿が変容してゆく.

紫紺の暗い髪が黄金に輝き,悲しそうに揺れる紺の瞳が,感情を移さない琥珀の瞳へと変貌した.
いや,変貌したのは姿形だけではなかった.
「うおおおお!」
いきなり魔物の群れの中に突進してゆくガロード.白鳥がその後を慌てて追いかける.
その剣の一閃ごとに,ガロードは魔物を倒してゆく,空を飛ぶ怪鳥,尻尾が何本もある獣,半透明の影の化け物.
しかし,一人で群れの中に飛び込んだものだから,たちまちに囲まれてしまう.
すると,
「光よ!」
あたり一帯に光の矢が突き刺さる.
もはやガロードの周りで無事に立っているものは居なかった.

さすがに恐れをなした魔族たちは,次々に撤退を開始した.
なお,ガロードはそれを追おうとする.
水鳥はその瞬間,重力を感じた.
「待って,ガロード!」
いつのまにか,人間に戻っている.
少女の声に振り返った,ガロードはもはや金の姿をしてなかった.
そして,その場で崩れ落ちてしまった.

「ガロード,ガロード! 大丈夫なの?!」
少女は慌てて,少年の元へ駆け寄った.
「……ミドリ.」
少女の予想に反して,少年は平然と立ちあがった.
「よかった,無事で.」
少女はほっと微笑み,少年を見つめた.
少年は戸惑いつつも,自分の身を案ずる少女を見つめた.

すると,横合いから話し掛けてくるものがいる.
「さ,先ほどは,助けていただき……まことに……,」
一人の兵士が,二人の前で震えながら平伏していた.
二人はきょとんとした顔を見合わせる.死神のような魔族に殺されそうになっていた兵士だ.
すると,少年は困ったように,兵士に話し掛けた.
「顔を上げてください.私は王子として,指揮官として当然のことをやっただけですから…….」
しかし,兵士はますます恐縮して,頭を下げる.
「まことに,まことに,ありがとうございました……!」
少年は戸惑い,ついで淡く微笑んで,礼を述べた.
「こちらこそ,ありがとうございます.」
兵士が驚いて,少年の顔を見上げる.
「あ,あの,こんなに感謝されたこと,僕,初めてなので…….だから,お礼を…….」

「変な理屈……!」
と言って,隣の少女がくすくすと笑い出す.
兵士はただ呆然と,少年を見つめる.

この少年が第一王子ガロード,バルバロッサ王の呪われた闇の御子…….
王族なのに,最前線で戦い,王子なのに,一介の兵士の命を救い,しかも,当人はそれがあたりまえだと思っている.
少年の周りに兵士たちが集まり,膝を突きはじめた.
戸惑う少年と少女を囲んで,彼らは戦いの前にいきなり王から突きつけられた命令を心から喜んで受けようと思った.
この少年が,彼ら第7騎士団の指揮官となることを…….

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