君に降る(修正版)


― 9 ―


少女が故郷へ帰ってから,いく日が過ぎたのか.
少年は,以前と変わらぬ日々を送っていた.
変わらないはずなのに,色を失った生活に身を置いていた.

少女がいなくてさびしいのか,図書館の本たちも静かだった.
それとも,少女を引き止めなかった少年を怒っているのか.
当然,仕事ははかどらずに,少年は休日も仕事をするようになった.

今日も,少年は休日にもかかわらずに図書館にいた.
本たちに呼びかけても,反応は鈍い.
少年は,もう家に帰ろうかとため息を吐く.
すると,扉が開いて珍しい客がやってきた.
「お兄ちゃん,差し入れだよ.」
妹のユウヒである,手にバスケットを持っている.
「焼きたて,おいしいよ!」
少年を元気づけるように,満面の笑みを浮かべている.

「ありがとう.」
お菓子の入ったバスケットを受け取ると,甘いにおいがした.
「お兄ちゃんってさ,」
妹は,すねているような笑っているような妙な顔をする.
「だまされやすいというか,勝手に勘違いしているというか,」
おかしそうに,くすくすと笑い出す.
「お兄ちゃんには当分の間黙っていろと,伯爵様に言われたけれど,」
バスケットの中には,母親が作ったにしては少々形がいびつなクッキー.
少し前まで少年は,当たり前のようにこれを口にしていた.
「お兄ちゃんが気づく分にはいいよね?」
問いかけるように顔を上げると,妹は得意げに笑う.
「何度も言うようだけど,焼きたてだから.」
少年はバスケットを妹に押し返して,外へ飛び出した.

休日ののどかな真昼の街中を,全速力で駆けてゆく.
人々は皆,ゆったりと休日を楽しんでいるのに,少年だけが息を切らして走っている.
近道をするために路地裏へ入りこむと,たるの上で昼寝をしていた猫がびっくりして跳ね起きる.
「ごめん.」
律儀に謝って,少年は薄暗い道を通り抜けた.

家に帰り着くと,母親がびっくりした顔で少年を迎えた.
「途中で逢わなかったのかい!?」
誰と? など聞くまでもない.
少年はすぐさま,来た道を引き返した.
「わが息子ながら,要領が悪い.」
母親の声を背に受けて.

図書館まで戻ってくると,さすがに少年は汗だくだった.
扉のそばの壁に手をついて,ぜいぜいとあえぐ息を整える.
この図書館に息を切らして駆けこんでくる者などいない.
休日の街以上に,館内は時間がゆっくりと流れているのだ.

額の汗をぬぐって,少年は扉を開いた.


― 10 ―


館内に入ると,扉脇の棚の上にはクッキーの入ったバスケットが置いてあった.
どうやら,妹は帰ったらしい.
少年はぐるりとあたりを見回して,探し人を探す必要のないことを知る.

ぽつりぽつりと文字が降っていた.
大きな背の高い本棚と本棚の間に.
ささやくような本たちの声.
それは,ただ一人の少女に降り注ぐ.

のぞきこめば,少女は少年に気づかずに一冊の本を棚から取る.
少女が開くのを待たずに,本はあるページを示す.
少女の横顔がぎょっとする.
ぱたんと,強引に本を閉じて,
「ほれ薬なんて作れませんよ.」
占いの本を棚に戻したところで,少女は少年の存在に気づいた.

本の背表紙をつかんだままで,少女は凝り固まる.
「お,お邪魔しています.」
ここまで空気に溶けこんでいるのに,他人行儀なことを言った.
「おかえり.」
少年は微笑を浮かべる.
異国の衣装を着た少女は別人のように見えるが,遠くにいるとは感じられなかった.
「ただいま,です.……あの,サライさん.私,お願いがあって,」
少女は本から手を離し,体ごと少年に向き直る.

ひさしぶりに逢った少年はなぜか汗だくで,体温とにおいと重さを兼ね備えていた.
汗の流れ落ちる首筋に,少女はほおを赤らめてうつむく.
けれどちゃんと顔を上げて,言わなくてはならない言葉がある.
「地球に帰っても,職員じゃなくなっても,」
それはほんのちょっとの勇気が足りなかったばかりに言えなかった言葉.
「ときどきでいいから,この図書館に来てもいいですか?」
さようならと,再会の約束.

ふしぎな,精霊が息づいているような図書館.
この館の主は,本に愛されている少年.

古い失われた一族の歌を口ずさんで,あなたに逢うために世界を越えてきてもいいですか?

少年は顔を隠して座りこんで,くつくつと肩を震わせた.
「君に対して閉ざす扉を,僕は持たない.」
笑っているらしい.
「僕一人だけが勘違いをしていた.」
少女がこの世界に戻ってこれないと.
あのとき何かを言いかけた少女をさえぎらなければ,このような勘違いなどせずにすんだのに.

「次に来るときは,地球のお菓子を持ってきますね.」
顔を上げると,華やいだ少女の笑顔.
黒い瞳が,まっすぐに少年を見つめる.
光と色を取り戻した図書館で,少年は笑った.
「ならば僕は,お茶を用意して待ちましょう.」
君に降る光,僕たちを包む光.

たくさんの言葉に囲まれて,その光はありふれた名前を持っている.

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