君に降る(修正版)


― 5 ―


赤い目の朝が減ってゆく.
そして少女は,赤い目の代わりに甘いにおいをさせてやってくる.
「すっかりお菓子作りの名人だね.」
少年の言葉に,花のほころぶような笑顔でこたえた.

静かな図書館に,彩りが加わったように思える.
けっして華美ではない,淡い暖かな色彩だ.
日差しの差しこむ窓辺に立てば,いつの間にか花びんに花がいけてある.

静ひつな空間であったそれが乱されたとは感じない.
ただ,景色がほんの少し立体的になっただけ.

館内にしとしとと文字の雨が降れば,大きな本棚と本棚の間で少女が本を読んでいる.
はるか遠く神話の世界に思いをはせると,におい立つ草原が波のように押し寄せてくる.
人の子を見守る定めを持つ世界神ジャーバの娘が,そこには立っているのだろう.

「ヤヨイ,」
声をかければ,少女はほほえんで顔を上げた.
「サライさん,この本を借りてもいいですか?」
黒の瞳にはもう,迷い子のような不安のかげりは映らない.
しっかりとこの世界に息づいている.
「その本は,ヤヨイが最後のページをめくるまで,本棚に帰らないと思うよ.」
すぐに少女は,少年の言わんとすることに気づいた.
試しに本を本棚へ戻そうとするが,本はするりするりと帰宅を拒絶する.
それどころか本棚の中に収まっていた本たちまで,ことことと動いて邪魔をする.
少女は思わず笑ってしまった.
「仲よしですね.」

「上中下巻だから,特にね.」
兄弟のような感じだ.
少年が手をかざすと,どこからともなくしおりがふわりと舞い降りる.
少女の手にある本に挟んでやると,本はひとりでにしおりを抱いた.
「一緒にお邸に帰ろうね.」
少女が少し照れながら,おどけたことを言う.
見つめあってほほえみあえば,誰よりも何よりも少女を近くに感じる.

そうして少女の存在が当たり前になったころに,別れは訪れる.

「地球に,故郷に帰れるようになりました!」
出勤と同時に,少女は興奮した面持ちで叫んだ.
「あの,シン王子様がいろいろと調べてくださって,それで,」
朝の光が館内を柔らかく包む中で,少年は言葉をなくす.
この王国の中で,少年ほど言葉を知っている人間はいないのに.
「明日,帰ることになりました.」
興奮していた少女も,もじもじとうつむく.

これは,喜ばしいことだ.
自分に言い聞かせた後で,少年はほほえむ.
「よかったね.」
「はい.」
ほっとしたように,少女は笑みを返す.
「それで,サライさん,」
少女の言葉の先を読んで,少年は少しだけはやい口調でしゃべった.
「明日は見送りにいけないけれど,」
少女の黒の瞳が,みはられる.
自分にこんな意地悪な切り返しができるとは思わなかった.
「今までありがとう,ヤヨイがいてくれて助かったよ.」
悲しげに伏せられる黒の瞳.
色の失った図書館で,少年は唇を笑みの形に押し上げた.


― 6 ―


どうしてだろう,少年にだけは言えなかった.
さようならと,もうひとつの言葉.

うまくタイミングがつかめなかった,なんて言いわけだ.
話を切り出せなかった,勇気を出せなかった.
ほんの少しの勇気が足りなかったために,もう二度と少年には逢えないのかもしれない.

通常どおりの仕事を終えると,少女はいつもどおりの時間に邸に帰ってきた.
短い間だったが,親しくなった人々が迎えてくれた.
メイドのマイカはぎゅっと抱きしめてくれたし,厨房のバンリはまかないに少女の好物ばかりを用意してくれた.
「さびしくなるよ.」
「ヤヨイがこの邸を出るのは,結婚するときだと思っていたのに.」
暖かな人々に囲まれて,少女は涙を流す.
一人で見知らぬ世界に飛ばされたとばかり思っていた.
けれど実際は,この優しい人たちにずっと見守られていたのだ.

そして夜になると,邸の女主人であるカリーヌが少女を呼び出した.
「明日は必ず,見送りに行くよ.」
少女はあわてて恐縮する.
「私なんかのために,もったいないです!」
カリーヌは大変優秀な女性で,図書館の運営のほかにさまざまな仕事を持っている.
よって多忙であり,わざわざ少女のために時間を割くなど,本当にもったいないことだ.
「見送らせておくれ.短い間だったが,ヤヨイは私の被保護者だ.」
大輪のバラのような微笑に,少女は顔を赤くする.
歳はおそらく二十代後半と,少女は考えている.
が,この麗しい女主人の年齢についての話題は,邸内ではタブーである.
「明日はサライも来るだろう? 彼と会うのは,ひさびさだな.」
館長の少年は,めったことでは図書館から出てこない.
普段そばにいるから分からなかったが,少年はこの王国ではかなり特殊な存在らしい.

「いえ,サライさんは明日は仕事なので,」
少女の言葉に,美貌の女主人は意外そうにまたたきした.
「なんだ,薄情な奴だな.」
「サライさんはまじめなんです!」
おとなしいはずの少女が,少年をかばうために反論をする.
カリーヌは,そんな少女の様子がほほえましくてたまらないと声を立てて笑った.
がらにもなく,純真な少女だったころを思い出す.

「今まで,ありがとうございました.」
話がひと段落したところで,少女はぺこりとおじぎをした.
腰を曲げて頭を下げる動作が礼をあらわすことを,カリーヌはすでに分かっている.
それほどまでに,少女の存在はこの邸に溶けこんでいた.

今夜は眠れないだろう.
自室に戻ってベッドにもぐりこんでも,少女は寝返りを打つばかりだ.
明日,地球に帰る.
母に会える,姉に会える.
家族や友人たちの姿が,脳裏に浮かび上がる.
異世界での滞在は,覚悟していたような永続的なものにはならなかった.
たったの二か月半,けれど母や姉は心から少女の身を案じているだろう.
早く家族に会いたい.
それに一生懸命に受験勉強をして入った高校なのに,まだ半月しか登校していない.
うまくクラスになじめるか,授業だってついていけなかったらどうしよう.

けれど今はそのような心配ごとよりも,
「サライさん,」
大きな本を何冊も抱え,静かな微笑をたたえる少年.
今日はずっとぎこちなくて,表情は触れられないほどに硬かった.
「さようなら.」
それは告げることのできなかった言葉のうちのひとつ.

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