「遅い!」
息を切らしながら王城の中庭まで走ってきた少年にかけられた第一声が,それである.
「は,はい…….」
普段の運動不足がたたっている.
少年はぜいぜいとあえぎながら,声の主を見上げた.
「ヤヨイは泣きながら,故郷へと帰ったぞ!」
華やかな美貌の,カリーヌ伯爵である.
「なんてかわいそうなんだ,ヤヨイは.おぬしはなぜもっと早くに……,」
大仰に嘆く女主人の前で,少年は目に見えてうなだれた.
「もう二度と,……ヤヨイには逢えないのですね.」
少年を責めるカリーヌの横で,シン王子は何とも言えない顔になる.
少女はつい先ほど故郷へと帰ったが,別に悲しみに心濡らしながら別れたわけではないのに.
「そうだ! おぬしが悪い!」
きっぱりと断言するカリーヌに,さすがに王子は少年に同情した.
繊細そうな少年は,カリーヌの怒声に吹き飛ばされそうだ.
「サライ君,初めまして.私はシン・クローディアです.」
まずは自己紹介をし,少年を慰めようとすると,
「ヤヨイは,」
隣のカリーヌから,黙れとばかりに鋭い視線を送られた.
愛しい女性ににらまれて,王子は何も言えなくなる.
少年は不思議そうな顔で王子の言葉の続きを待ったが,王子が何も言わないことを悟ると無難な挨拶を返した.
「お目にかかれて光栄です,殿下.私は……,」
少年の心を,乾いた風が吹き抜ける.
静かに降り注いでいた光に,少年は失って初めて気づいたのだった.
図書館まで馬車で送ろうという王子の申し出を辞退して,少年はとぼとぼと王城から出ていった.
いつもと変わらない街中を歩き,図書館へと戻ると,重くため息を吐く.
館内は薄暗く,静かだった.
いや,この図書館は常に静寂に包まれていた.
少年が一人で働いていたときから,少女とともに働いていたときもずっと.
少女は決して,大声を出して騒ぐような人間では無かった.
けれど,今の静けさと昔の静けさでは種類が違う.
生きているものすべてが,息を潜めているような静かさだ.
少年を押しつぶし,息苦しくさせるような…….
「まったくなんて顔色だい!?」
夕方になり家に帰ると,母親が呆れた顔で少年を迎えた.
「我が息子ながら鈍いとは思っていたけど,ここまでとはね.」
やれやれ,と母親は首を振る.
確かに少年は今まで,そういった方面にはまったく興味が無かった.
本に囲まれて,自分だけの聖域の中で安穏としていた.
それを後悔する日が来るとは思わずに…….