君に降る06


どうしてだろう,少年にだけは言えなかった.
さようならと,もう一つの言葉.

うまくタイミングが掴めなかった,なんて言い訳だ.
話を切り出せなかった,勇気が出せなかった.
ほんの少しの勇気が足りなかったために,もう二度と少年には逢えないのかもしれない.

通常通りの仕事を終えると,少女はいつもどおりの時間に邸に帰ってきた.
短い間だったが,親しくなった人々が少女を迎えてくれた.
メイドのマイカは少女をぎゅっと抱きしめてくれたし,厨房のバンリは賄いに少女の好物ばかりを用意してくれた.
「さびしくなるよ.」
「ヤヨイがこの邸を出るときは,お嫁にいくときだと思っていたのに.」
暖かな人々に囲まれて,少女は涙を流す.
一人で見知らぬ世界に飛ばされてきたとばかり思っていたのに,少女はこの優しい人たちにずっと見守られていたのだ.

そして夜になると,邸の女主人であるカリーヌが少女を呼び出した.
「明日は必ず,見送りに行くよ.」
カリーヌの言葉に,少女は慌てて恐縮する.
「そんな,もったいないです! 私なんかのために……,」
カリーヌは大変優秀な女性で,図書館の運営のほかにさまざまな仕事を持っているからだ.
「見送らせておくれ.短い間だったが,ヤヨイは私の被保護者だ.」
大輪の薔薇のような微笑に,少女は顔を赤くする.
歳はおそらく20代後半だろうと少女は考えているのだが,この麗しい女主人の年齢についての話題は,もちろん邸内ではタブーである.
「明日はサライも来るのだろう? サライと会うのは久々だな.」
館長の少年は,めったことでは図書館内から出てこない.
普段そばにいるから分からなかったが,少年はこの王国内ではかなり特殊な存在らしい.

「いえ,サライさんは明日は仕事なので……,」
少女の言葉に,美貌の女主人は意外そうに瞬きした.
「なんだ,薄情な奴だな.」
「ま,真面目なんです! サライさんは.」
おとなしいはずの少女が,軽くむきになって少年のことをフォローする.
カリーヌは,そんな少女の様子が微笑ましくてたまらないと声を立てて笑った.
柄にもなく,純真な少女だった頃を思い出してしまう.

「今まで,ありがとうございました.」
話がひと段落したところで,少女はぺこりとお辞儀をした.
腰を曲げて頭を下げるという動作が礼をあらわすことを,カリーヌはすでに分かっている.
それほどまでに,少女の存在はこの邸に溶け込んでいた…….

今夜は眠れないだろう.
自室に帰ってベッドにもぐりこんでも,少女は寝返りを打つばかりだった.
明日,地球に帰る.
母に会える,姉に会える.
家族や友人たちの姿が,少女の脳裏に浮かび上がる.
異世界での滞在は,覚悟していたような永続的なものにはならなかった.
たったの2ヶ月半,けれど母や姉は心から少女の身を案じていることだろう.
早く家族に会いたい,それに一生懸命に受験勉強をして入った高校なのに,少女はまだ半月しか登校していない.
上手くクラスに馴染めるだろうか,授業だってついていけなかったらどうしよう…….

けれど今はそのような心配事よりも,
「サライさん……,」
大きな本を何冊も抱え,静かな微笑を湛える少年.
今日はずっとぎこちなくて,表情は触れられないほどに硬かった.
「……さようなら.」
それは告げることの出来なかった言葉のうちの一つ…….

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