傘はいらない


「かわどうさん! かわどうさん!」
雨の中を,少年が駆けてくる.
黄色の傘は,お母さんに買ってもらったばかりのもの.
「どうしたの? こんなところに居るなんて.」
少年は,背の高い彼の顔を見上げた.
そしてちょっとだけ,ランドセルを背負い直す.
少年の背中はまだまだ小さくて,夢ばかりが大きいのだから.

「やぁ,健介くん.」
彼は水を滴らせて,微笑んだ.
「僕もたまには街まで出るよ.」
穏やかな微笑を湛える口元にも,雨水が流れ込む.
少年が一緒に入ろうと傘を差し出すと,彼は軽く首を振って断った.

雨に濡れて,彼の緑色の服がぬるぬると輝いている.
背中の大きなリュックも,水を大いに含んでいた.

「そうなんだ! でも,よかった,かわどうさんに会えて!」
アスファルトの地面を,雨粒がリズミカルに叩く.
少年は満面の笑みを見せて,笑った.
「今日はお母さんが河原に行っちゃ駄目って言うから,会えないと思っていたよ.」
学校帰りの通い慣れた通学路に,かわどうさんが居る.
なんだか楽しくなって,少年はくるくるっと傘を回した.

「お母さんの言うとおりだよ,健介くん.」
彼は,できるだけ怖い顔を作って,口をすぼめる.
「こんな雨の日は,僕に会いに来てはいけないからね.」
ランドセルにリコーダーをさした少年が,不満そうな声を上げた.
片手にひょうたんをぶら下げている彼は苦笑して,肩を竦める.
「その代わり,夏休みになったら,毎日一緒に遊んであげるよ.」
べったりと額に張り付いた前髪を,彼は三本の指でかきあげる.
「本当!? 約束だよ!」
実は彼はほんの少し,後頭部を気にしているのだ.

「泳ぎを教えてあげるよ,健介くんに.」
すると少年は,ぱちぱちと瞬きをして,
「かわどうさんって,泳げるの!?」
と,物知らずなことを聞いた.
彼は,心から愉快そうに笑い出す.
「僕よりも泳ぎのうまい人間は居ないよ.」

そう,人間など目ではない.
「約束だからね!」と念を押す少年に手を振って,この世で一番泳ぎの上手な妖怪は,傘をささずに河原へと帰っていった.

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