あの日の僕へ


忌まわしいからこそ――.

闇に浮かぶ提灯は,女の白い顔に似ている.
陽気な屋台の男たちの客寄せの声も,家族連れの子供たちのはしゃぐ声も,そこにわだかまった暗闇を消せやしない.
人ごみの中で,はぐれてはいけないからと,女の手が私の腕に絡まった.

「せっかくだから,お参りに行きますか?」
上目遣いの女の声は,語尾が尻上がりに上がる.
「そうだね.」
ブランドものの浴衣を着た女は,ふふふと笑った.
「意外に似合いますね,りんご飴.」
計算された角度で,紅を塗った唇が動く.
「進藤さんって,もっとクールだと思っていました.」
先ほど屋台で買ったりんご飴は,甘ったるい匂いを私の鼻に届かせている.
「実は甘党だったりするんですかぁ?」
いや,これは隣の女の香水の匂いか.

「実は,」
人間味のある笑顔を演出して,
「甘党だったりするんだな.」
私は,歪まないようにしゃべった.
「やだ!」
きゃははと,女は笑い声を上げる.
「総務や庶務の女の子たちが,びっくりしますよぉ.」
赤い鳥居をくぐって,女がさらに体を密着させてきた.
――進藤さんと縁日に行ったなんて知れたら,靴に画鋲を入れられちゃう.
その囁き声に,隠し切れない優越感が篭っている.

「私こそ,受付の内田さんと一緒に縁日に行ったなんて知れたら,」
隙の無いフェイスメークに,男にこびた仕草.
「嫉妬されるな,社内中の男どもに.」
私が選ぶのは,いつもこのタイプの女性だ.
「そんなこと無いですよー.」
うれしそうに,ころころと笑う.
数ヶ月後には,彼女を家に連れてゆくつもりだった.

忌まわしいからこそ,そばに置く.
彼女を私の人生のパートナーとして,父に見せるのだ.
石の階段を上がりながら,慣れない浴衣姿の彼女を気遣う.
階段を上がる人も下がる人も,皆一様に笑みを浮かべている.
後でおもちゃを買ってと,子供が甲高い声で親にねだる.
10円玉ある? 5円でいいじゃん,と高校生の群れが騒ぐ.
ふと喧騒の先に,黒いランドセルを見つけた.

交通安全のお守りをつけた,黒いランドセル.
背負っているのは,痩せた少年.
何かロゴの入った,――おそらく学習塾の,手提げ鞄を持っている.

珍しいな,
私は特に気にかけることもなく,少年から視線をはずした.
お守りをつけているなんて,――いまどきの小学生は皆,防犯ブザーをつけていると思っていた.
けれど次の瞬間,私は立ちすくむ.
突然,立ち止まった私に女が怪訝な顔を寄越した.

少年は,学習塾からの帰り道だ.
「どうしたんですか,進藤さん?」
そう,まっすぐに家に帰らずに,光に集まる虫のように祭りの喧騒の中に飛び込んだ.
皆笑顔で笑っている,おやつを買ってもらえなくて大声を上げて泣く子供の声でさえ楽しそうだ.
単純に,少年の心は浮き立った.
だから,
だから,母を……,
「何でもないよ,内田さん.」
私は,にっこりと微笑んで見せた.

家の中は暗かった.
少年は,部屋の灯りをつけながら母を呼ぶ.
一緒に祭りへ行ってほしいと.
お母さん,僕のきれいなお母さん.
残された置手紙に,少年は気づけない.

人の流れをさえぎらぬところまで女を連れて行って,私は付き合って欲しいと言った.
頬を染めながら,女が頷くその目.
底の浅い思考が見え透いて,私には見苦しい.
いつかタイミングを図って,彼女には教えよう.
君は,夏祭りの夜に居なくなった母親にそっくりだと.

何が楽しいのだ,何が楽しいのだ.
なぜ,皆は笑っている.
祭りの闇は,僕の闇.
巾着から小さな小銭入れを取り出し,女が笑う.
お賽銭を投げよう,お参りをしよう,
――二人の未来をお祈りしよう.

君もいつか私を裏切るのだ.
子供を作りながら,捨てるのだ.
そうするような女を選んだ.
私は愛しげに女の頬を撫でた.
来年も再来年も,私と共に居て欲しいと.

闇に浮かぶ提灯は,母の影.
陽気な屋台の男たちの客寄せの声も,家族連れの子供たちのはしゃぐ声も.
何が楽しいのだ,なぜ皆は笑っている!?
僕はこんなにも不幸なのに,なぜ祭りなんかするのだ!?
あの日の僕の願いは,私の進むべき道は,

笑う,私は笑う.
女と寄り添って,たわいの無い話をしながら.
少年を追い詰める群集の一人になる.
大声で泣いても,誰も気づかない.
さざめくような笑い声が,少年の声を消すのだから.

――どうしてお母さんは居なくなったの?
あの日の僕が今,目の前に立つ.
ブランドもののリュックを背負い,防犯ブザーを首からかけた.
真新しいマンションの広い玄関口で,私にすがるように問いかける.
あぁ,あのとき父は何と私に言っただろうか.
「お父さん,教えてよ! どうしてお母さんは居なくなっちゃったの!?」
涙を浮かべる我が子に,あの日の僕に伝えたいことは一つだけ.

忌まわしいから,――呪わしいから,祭るのだ.


NNR夏のお題100企画』参加作品
使用お題『浴衣』『縁日』『故郷の夏祭り』『遠い日の約束』『初めての夏デート』


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