曖昧な僕ら06


香月さんの思考回路は僕には理解不能だ.
そして曖昧な僕たちの関係.

「一樹,間違えているぞ.」
部屋の机に向かって化学の宿題をしていると,香月さんが僕のノートを覗き込んでくる.
香月さんは化学の専門家だ,白衣は3着も持っているらしい.
「ここの反応経路は……,」
僕と机の間にひょっこりと割り込んできて,教科書の化学式を指でなぞる.
ご教授を受ける僕はというと,化学式よりもシャンプーの匂いに気を取られる.

「移動するのは電子対ではなく孤立電子だ,それに矢印の先が,」
華奢な背中,無防備な肩.
あなたには警戒心というものが無いのですか…….
「……一樹,聞いているのか?」
「聞いていません.」
手の届く位置に居る好きな女性,化学反応よりも僕の悩みを分かってください.

あの体育館の一件以来,香月さんは妙に僕にまとわりついてくる.
いや,観察されていると言った方が正しい.
「不熱心だな.」
僕はあなたの実験対象ですか? まったく…….
「はい,僕が一生懸命にやるのはバスケットだけですから.」
しかも大学ももう決まっているなら,勉強なんてかったるいだけだ.
僕は手に持っていたシャーペンを机の上に放り投げた.

「香月さん,静江さんに何か言いましたか?」
静江さんは僕の義母で,物静かで品のいい女性だ.
「何を?」
……というのが最初の印象で,静江さんは実はおしゃべりだし,それに何もかもを分かって,影でほくそえんでいるような気がする.
「静江さんに,香月さんと姉弟を,」
辞めたくなったら,遠慮なく言ってねと言われたのですが,どう思いますか?

「何だ?」
香月さんは怪訝な顔で僕を見つめる.
曖昧さを許さない,まっすぐな視線.
この女性はきっと,何もかもを数式の答えのように数値で表したいに違いない.
「……なんでもありません.」
いいや,曖昧なままにしておこう.

このうぬぼれを許してくれる微妙な距離感を僕は保ちたい.
「香月さん,」
背中からそっと抱きしめる,香月さんがすぐに逃げられるように弱く.
香月さんはただ黙って俯いた,耳たぶが赤くなっている…….
「こっちを向いてくれませんか?」
僕のことを憎からず思っていますよね?

香月さんが身動きした瞬間,無粋な電子音のメロディが鳴る.
「すまん,電話だ!」
香月さんは慌てて僕の腕の中から抜け出す,ったく,誰だよ,こんなタイミングで電話をかけやがって…….
「おぉ,加藤ではないか!」
携帯電話に出た香月さんの第一声に僕はぎょっとする.

『彼女が香月(こうげつ),俺の彼女.』
初めて香月さんに会ったのは,加藤先輩の紹介だった.
香月さんは偽名を名乗っていて,加藤先輩の恋人だという嘘の身分で……?

香月さんは電話口でしゃべりながら,手をひらひらと振って,僕の部屋から出てゆく.
楽しげな香月さんの喋り声が遠ざかってゆく.
まさか,本当に恋人じゃないですよね…….
僕はどんどんと自分の体温が下がってゆくのを自覚した.
香月さんから,加藤先輩の話など聞いたことはない.
でも……,

結局その日の夜は,香月さんは部屋でずっと電話をしていた.
曖昧なままでいい? そんなの嘘に決まっている.
僕は一人,もんもんとして眠れない…….

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