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近江の近世は安土城築城から 鎌倉幕府に軍功があった佐々木氏は近江守護職を賜り近江中央の観音寺山に築城した。これが日本100名城で ある観音寺城である。佐々木氏及び系流は400年間近江に君臨した。戦国の乱世、武田信玄が「瀬田唐橋にわが風 林火山の旗を立てよ」と遺言したことが知られている。天下を目指し上洛するにも、この橋を制することが第一で ある。これは正に近江の重要性を表している。天下布武を目指す織田信長は浅井氏や佐々木氏から分家した六角氏 と京極氏も滅ぼし近江を制し、新たな拠点として三年がかりで日本最初の五層七重の天守閣を持つ城を築城した。 その豪華さにより「安土」の名前は遠く欧州まで伝え広まった。この城も信長の悲運な最期と共に消失したが、次代 を担った秀吉は八幡城を、家康は彦根に築城を許し筆頭家臣の井伊家を移封するなど戦略的価値を認めた。
近江は諸侯や旗本の米倉 徳川政権になると政治の中心は江戸に移るが、都の移動・遷都までは行わなかった。このようななか、江戸と京都 間には東海道や東山道が整備され伝馬制度を基に宿場町が整備された。当初天領であった水口には将軍家上洛時の 宿館が築かれ城下町となった。諸大名は大坂には蔵屋敷を、京には禁裏守護等のため大名屋敷などを置いたが、多 くの藩や幕府機関に勤める旗本達の扶持米が確保されたのも近江である。まさに近江は米倉である。近江には、井 伊家彦根藩、本多家膳所藩、分部家大溝藩、加藤家水口藩、市橋家西大路藩、稲垣家山上藩などがある。古来より の朝廷官位である「近江守」は継続される。江戸時代になると50人近くの大名が任官しているが、近江を領国とし ているものは数名である。実を伴わなくなった制度になったと言える。
近江は忍者と商人を生む 武術の一つに忍術がある。日常は農耕や林業に従事しているものや山岳修行を基本とする修験道が独自の武術を体系 化したものと言える。近江南部の甲賀は山や谷に囲まれ忍者を育てた。己が領地を守るため一族の結束と連携を一段 と重視したのも忍者の特長である。この忍者が世に出たのは、足利将軍と近江守護六角氏との戦いである。また関が 原の戦いで巧を上げたことにより将軍家の「お庭番」として取立てられた。 商都大坂と言ってもその中核を占めるのが近江出身者である。その多くが近江東部の五個荘、能登川、八日市や日野 地域からである。俗に天秤棒一本を担いで全国を行商し、江戸や大坂を中心に北海道まで出店をつくり多角経営を基 本としていた。多くの商家が大名貸しをするまでに成長し各地の藩財政をも支えた。これこそ「近江商人」である。
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