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  近江の歴史

 

    近江の歴史

    


 

    近江の歴史 

    参照1)

 

    国名「近江」の誕生

    太古より近淡海周辺は定住地として注目されてきた。瓢箪山古墳や雪野山古墳などからの出土品から立証される。

    特に、この地は東方への戦略的見地から、その価値は十分に見て取られる。韓半島における戦の結果、扶余、高

    句麗、渤海などから先進文化を運んではたのは渡来人である。大和政権は安定すると服従したこれまでの旧国主

    を国造としてそれぞれの地に配置し統治した。国名も一文字(粟、総、倭)、二文字(伊勢、相模)、三文字

    (遠淡海、牟邪志)でまちまちであったのをさらなる政権強化のため国名を二文字(阿波、上総、下総、大和、

    遠江、武蔵)に統一し中央より国司を派遣してきた。

 

    大津京遷都

    近江が歴史の表舞台に出るのは大津京遷都からである。この遷都の要因については課題を残すが、韓半島新羅と

    の戦で日本・百済連合軍は敗北した。その後の防御策として各地に砦の構築と都の遷都が行われたと思える。しか

    し、この美しき都も皇位継承の壬申の乱(672年)までのわずか6年であったが、近江令の編集や庚午年籍

    (戸籍)の制定で法治国家の礎を築いた。また日本最初の漏刻(水時計)の使用は行政施行において、また民の規

    則正しい生活様式をも刷新した。

 

    国家鎮護寺の創建

    桓武天皇は山城への遷都をおこなうにあたり比叡山に国家鎮護寺を創建することを学僧最澄に認めた。最澄は伝

    教大師号を下辞され延暦寺は日本仏教の聖地となった。滋覚大師円仁、智証大師円珍、滋恵大師良源らにより天

    台宗の法灯は継がれ近江全域に天台宗系の寺院や比叡山で学んだ後の法然の浄土宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞

    宗系の寺院が数多く建立された。特に、武家社会になると臨済宗や曹洞宗など禅宗は剣術や居合抜刀術など武術

    発展に大きく関わりをもってくる。

 

    式内神社の創建と役割

    近江には、多賀大社、日吉大社、建部大社が創建ざれた。多賀大社の祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊で伊勢の内宮祭

    神天照大神の親御である。日吉大社は東本宮が山の樹木や田畑の五穀を育てる大山咋神、西本宮は平安京鎮護を

    するため奈良三輪山(大神神社)から分霊した社で大己貴神を祭神としている。建部大社は日本武尊が祭神であ

    る。式内とは延喜式にて選定された社である。神社創建は帝の位置付けと民の序列など社会の秩序化を図る統治

    思考であると同時に民へ平安をもたらすものである。特に戦乱の世へとなると戦勝祈願や安全祈願などを求める

    対象となった。そのため各国には一の宮から五の宮までを設置し、新たに着任する国司には順次参拝を義務付け

    た。