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第1章 醤油の歴史




第2章 「醤油の原料」に進む

 第1章 醤油の歴史

日本の伝統的な発酵食品

日本の伝統的食文化(和食)を特徴づける食品や調味料はどれも微生物の力を借りて作られています。和食における調味料の特徴は、発酵調味料が非常に多く、大豆、麹、塩を発酵させて作る味噌や醤油、米や米焼酎を発酵させた酢、みりん、また、鰹節も黴付けして発酵させています。
日本の調味料の代表ともいえる醤油は、和食はもちろん、あらゆる料理に欠かせない調味料で、塩辛み、うま味、酸味、甘みが混じり合って、料理の味付けの主役といえます。醤油は味噌と共に、大豆を主原料とする日本独特のグルタミン酸などの「うま味」成分を多く含む発酵調味料です。
日本は、四季の変化に富み湿度が高いため、この気候を利用した、いろいろな植物性発酵食品(醤油や味噌、日本酒、漬け物、納豆など)が、日本の長い食文化の歴史の中で創意工夫されて発達し、私達の食生活に欠くことのできないものとなりました。蒸した大豆に炒った小麦を混ぜ、麹菌をつけて麹(こうじ)を造る。木桶に塩水と麹を入れ、混ぜ合わせて約1年、発酵熟成させて袋に入れて絞った液汁が醤油です。醤油の栄養分は、原料となる大豆や小麦の栄養分がそのまま含まれています。



<はじめに>

醤油の原料の大豆は、中国では5000年も昔から栽培されていました。日本に伝わった時期は定かではありませんが、縄文時代の竪穴遺跡から大豆の炭化物が出土していることから、大豆は縄文時代に中国から朝鮮半島を経て、伝来したと推定されています。

大豆は水稲とともに、弥生時代にはすでに栽培が行われていたといわれています。日本で大豆栽培が広く始まったのは鎌倉時代以降のようです。
また、小麦も朝鮮半島を経由して弥生時代中期頃に日本に伝えられ、水田稲作とともに麦類が栽培されていました。江戸時代には稲の裏作としての小麦栽培が全国的に広まりました。

日本でいつ頃から醤油が食されるようになったかと言うと、しょうゆのルーツ醤(ひしお)のたぐいが、縄文時代末頃からあったといわれ、縄文時代の遺跡からは、熟鮨(
魚醤)の原型と思われるものが出土しています。本格的に醤(ひしお)が作られるようになったのは、中国や朝鮮半島から製法が伝えられた大和朝廷時代頃のことでした。

奈良時代に醤(ひしお)が生産されていますが、これは調味料というより、そのまま、おかずとして食べる"なめもの"の一種として食されたものといわれています。

調味料として「しょうゆ」という言葉が最初に文献に現れたのは室町時代です。
室町時代末期(1530年代)に調味料として醤油が生産されるようになり、当時の文化の中心であった関西地方を中心に、醤油製造を家業とする人たちが現れます。この時代の醤油は現在のものに近いと思われ、その製法や品質についてはほとんど示されず、秘伝口授のようでした。そして、関西地方(湯浅、龍野、堺)で生まれた醤油はやがて関東(銚子、野田)へ、そして全国に広まっていきます。
江戸時代、醤油が普及するまでは膾(なます)や、さしみに欠かせない調味料として「煎り酒」が使用されました。醤油が広く庶民に普及したのは、関西では江戸時代初期、関東では江戸時代中期以降からです。この江戸時代中期に、醤油は日本独自の発酵食品の醤油として完成しました。

「たまりしょうゆ」はすでに室町時代の頃に流通しており、「こいくちしょうゆ(単にしょうゆと呼称)」と「うすくちしょうゆ(うすしょうゆと呼称)」は江戸時代中期頃にその基本が確立されました。「さいしこみしょうゆ」は江戸時代後期に、「しろしょうゆ」は江戸時代末期から明治時代初めに確立されたとされています。



<醤油の起源>

醤油の起源には諸説あります。
醤油の原型は、紀元前700年頃の中国・周王朝の古文書「周礼(しゅうらい)」に「醤」(ひしお)が記されており「ひしお」が、そのルーツではないかと言われています。中国の古文書による「醤(ひしお)」とは、動物・魚類の内臓や生肉、血、骨などを一緒にして、たたき潰して塩と酒とともに百日ほどかけて漬け込み、形も崩れてどろどろになった発酵したものを言い、多種多様なものがあったといいます。

醤油の「醤」という字を使うこの言葉は、広く発酵調味料のことをさして使われています。「油」という字は、古くは“液汁”を意味してました。「醤」は、魚介・鳥獣の肉や内臓、野菜などを塩漬けにして、熟成させたもので固形に近いものと考えられています。

日本でも縄文時代には、魚を原料とした醤の類のものが利用されていたようですが、本格的につくられるようになったのは、大和朝廷が誕生してからです。醤(ひしお)とは、食品の保存のための塩蔵品の一種に当たる塩漬発酵品のことです。

日本古来からの醤(ひしお)としては、3種類があり、魚や肉を使った「魚醤(うおびしお)」や「肉醤(ししびしお)」、果実・野菜・海草等を原料にした「草醤(くさびしお)」が縄文時代末頃から並行して使われていました。
縄文時代につづく弥生時代の遺跡からは、醤(ひしお)と言われる塩漬けの保存食が出土しています。

奈良時代には、中国や朝鮮半島から穀物を原料とする「穀醤(こくびしお)」が伝わりましたが、中国からのものを「唐醤(からびしお)」、朝鮮半島から来たものを「高麗醤(こまびしお)」と呼んで他の醤と区別していました。これら穀物を材料にした穀醤(こくびしお)が、今日の醤油の元祖といわれています。

いろいろな説がありますが、奈良時代にはすでに、大豆を原料にした醤(ひしお)という発酵食品があって、醤(ひしお)は現在の味噌や醤油の原型と言われています。醤(ひしお)の呼び名は奈良時代の後の平安時代まで継承されたようです。

魚醤は今の塩辛や塩魚汁(しょっつる)です。草醤が今の漬物、肉醤は塩辛類に、穀物を原料とした
穀醤がのちの味噌、醤油に発展していったと考えられています。高麗醤は味噌の原形(未醤)とされ、今日の味噌は江戸時代に完成したと言われています。
唐醤には大豆が使用されていましたが、江戸時代の初期から中期にかけて
日本人の知恵で大麦、その後、小麦を炒って使用するようになりました。この大豆と小麦を組み合わせることによって、日本の醤油は独特の豊かな風味が醸し出されました。 現在の日本の紅く澄んで香り高い醤油は、日本人が長い時をかけて、これらの発酵食品を改良し発展させることで独自に作り上げたものなのです。
禅僧「覚心」
(法灯国師 ほっとうこくし)

もうひとつの説は、日本における醤油の発祥は、鎌倉時代といわれています。鎌倉時代の禅僧、覚心(かくしん:1254年)が、中国(宋)の浙江省にある禅宗五山の一つ、径山寺(径山興聖万寿禅寺)で6年間の修行を積み帰国後、紀州・由良(和歌山県湯浅町)に西方寺(後の興国寺)を開きます。

虚無僧(こむそう)の開祖でもある覚心は、精進料理として径山寺(きんざんじ)で学んだ醸造法で、大豆と大麦をあわせて作った麹に、下漬けをした茄子、瓜、胡瓜、生姜などの野菜を混ぜて桶にいれ、塩水を加えて発酵させた保存食の「なめ味噌」造りを広めました。

なめ味噌の製造過程で塩の浸透圧により野菜から出る水分は、コウジカビの腐る原因になるとして、それまで捨てられていましたが、捨てていた味噌の上澄み液で食物を煮ると、これまでにないうま味がついて煮物の味付けに良いことが発見されました。これが「溜」(たまり)と呼ばれる調味料(醤油の最初の形)の始まりです。それ以後、水分の多い径山寺味噌(きんざんじみそ)を造るようになり、味噌樽の底にたまった液汁(溜)を調理に用いるようになり、今の「たまりしょうゆ」に近いものが生産されるようになりました。



<醤油誕生・発展の歴史>

日本では、白鳳時代に国家統治の法典として、忍壁親王(おさかべしんのう)や藤原不比等(ふじわらのふひと)らによって編纂された大宝律令(701年制定、702年施行)に、大豆を原料とする「醤(ひしお)」に関する記述がみられます。大宝律令は、原始封建国家の職制を確立したもので、中国の「周礼(しゅらい)」に学んだものといわれています。
「大宝律令」によると、宮内省「大膳職(おおかしわでのつかさ)」に属し、「醤」を造る「醤院(ひしおつかさ)」という制度のもとに、各地から朝廷に米の代りに醤大豆や小豆類が租税の一部として納められていました。当時は塩蔵品のことを総称して醤(ひしお)と呼んでいたようです。醤は高級官僚の給料として用いられる上流階級の調味料とあります。

藤原京(694−710)の遺跡から出土した木簡

馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤(ひしお)と末醤(高麗醤)を請求した文書

左:「謹啓今忽有用処故醤」(表)
右:「及末醤欲給恐々謹請 馬寮」(裏)


出典:奈良文化財研究所 飛鳥資料館
中国の都城制を模して造られたわが国最初の都、藤原京



奈良時代

奈良時代には、遣唐使によって多くの中国文化が伝えられ、漬け物(醤漬)や味噌(未醤または高麗醤)を始めとするさまざまな発酵食品がつくられるようになりました。

「醤」が急速に発展し、醤(ひしお)の種類も増え、その原料も大豆・米・麦・糯米(もちごめ)などが用いられました。それらの材料に塩と麹を混ぜて発酵させて、今の醤油と味噌の中間のような醤や未醤、中には天日干しにして堅味噌のようにした醤も現れました。当時、中国から「唐醤(からびしお)」が、朝鮮半島から「高麗醤(こまびしお)」が伝えられて種類も多くなり、これら穀類を材料にしたものが「醤」の中心となります。

醤(ひしお) 復元






奈良時代は、庶民の調味料は塩だけであり、塩漬け以外には味をつけて調味をするということはなかったようです。一方、醤(ひしお)は上流階級の調味料とされ、寺院や貴族だけが口に出来る贅沢な食べ物でした。
奈良時代の『万葉集』巻十六には酢、醤、蒜、鯛、水葱を詠める歌と題し「醤(ひしお)酢(す)に蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて鯛願ふ 吾にな見えそ水(な)葱(ぎ)の羹(あつもの)※」(長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が宮廷の宴席の食膳を詠んだ和歌)という記述があります。
※意味:醤と酢に蒜をつきこんであえたものと、鯛を食べたいと願っている私に、ナギの羹など見せてほしくない。


奈良時代の天平年間に仏教的な観点から鳥獣の殺生禁止令が出されましたが、日本人も奈良時代の後半には平城宮内の役人らが牛や豚の肉を食べていたことが人糞の調査で判明しています。また、イノシシを献上する木簡の出土などの最近の発掘資料からも肉食の習慣が確認されています。しかし、醤(ひしお)は仏教の殺生禁断の精進の根幹を守るために菜食の味付けとして使用されました。

天平宝字元年(757年)に施行され、古代日本の政治体制を規定した法令である『養老律令』の「大膳職」条には、「主醤(ひしおのつかさ)二人。掌。造雑醤鼓未醤等事。」という記述があります。すなわち、醤(ひしお)や鼓(くき)や未醤といった調味料が朝廷の大膳職という役所で、主醤という役職の役人によって作られていたという内容のことが記されています。
「大膳職下」の「造雑物法」には「供御醤料。大豆三石。米一斗五升。麹料(よねのもやし)糯米四升三合三勺二厘。小麦。酒各一斗五升。塩一石五斗。得一石五斗。」「末醤量。醤大豆一石。米五升四合。麹料小麦五升四合。酒八升。塩四斗。得一石。」という記述が認められます。醤の材料が大豆、米、もち米の麹、小麦、酒、塩で、末醤の材料が大豆、米、小麦麹、酒、塩であり、それぞれ異なるということが推察できます。


平城宮跡から発掘された木簡

764 年に起きた藤原仲麻呂の乱で、孝謙太上天皇がいた法華寺から、平城宮内の大膳職に、天皇の食事用として、小豆・醤・酢・末醤を請求する木簡。

表に「寺請 小豆一斗 醤一斗五升 大床所 酢 末醤等」
裏に「右四種物竹波命婦御所 三月六日」

とあり、「大床所」とは、清涼殿昼御座の御膳のことで、法華寺が竹波命婦(女官)の指示によって、御所の用料として小豆、醤、酢、未醤の支給を請求したものである。






平安時代
四種器(よぐさもの)
酢   酒
醤   塩


麹売り
『七十一番職人歌合』より

平安時代になると、醤(ひしお)の技術も進み、醤の形状が固形に近いものから、ドロドロの液状へと変化し、より醤油に近いものが作られるようになりました。この時代に編纂された日本最古の漢和辞典『和名抄類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(903年)には「四聲字苑云醤 即亮反和名比之保別有唐醤 豆醢也」という記述があり、『醤』の和名を『比之保(ひしお)』と記されています。

また、当時の宮中貴族の饗宴では高杯(たかつき)と呼ばれる置き台に皿をいくつか置いて食材を盛り付けました。料理は単品で鯛、鯉、鱒、蛸、雉などが皿に盛られました。手元には4種類の調味料「酢、塩、醤、酒」が小さな器に盛られて食膳に置かれ、各人が好みの味付けをして食しました。
これらの調味料は『四種器(よぐさもの)』と呼ばれる貴重なものでした。
しかし、『四種器』の調味料は高貴な人たちのものであり、少納言や弁官以下(延喜式の律令)そして庶民の調味料は、塩と酢であったといわれています。

平安時代の中期に編纂された格式『延喜式(えんぎしき)』には、大豆の栽培法や、大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されている。また平安京の東市で月に3回、『醤』を売る店が51軒あったこと、西市では味噌を売る店が数多くあったことも記述されています。「料理」という言葉が初めて登場するのは、宮中の儀式や制度を記録した平安時代の『延喜式』という書物で、そこからも日本料理が儀式、つまり饗≠フ概念と深く関わっていることがうかがい知れます。

平安時代の末期から室町時代にかけて、発酵食品を造る上で画期的な発明がありました。「種麹(たねこうじ)」です。
蒸した米に麹菌を繁殖させ、それを長く続けると麹菌は多数の胞子を着生します。それを絹製のふるいでふるって米粒と胞子とを分け、胞子だけを多量に集めて乾燥し、保存することを考え出しました。
こうすることにより、得られた胞子を蒸した米や大豆に撒くことによって、確実に多量の米麹や大豆麹を得ることが可能となり、麹を専門に製造・販売する「種麹屋」が生まれます。種麹屋は酒造家のみならず、醤油屋、みそ屋などにも純粋な麹を供給するようになり、醤油や味噌や酒の大量生産につながったのです。



鎌倉時代

鎌倉時代は、肥料の使用や農具の改良等によって日本の農業の生産性が向上し、西日本に偏っていた大豆栽培も鎌倉時代には国内で広く栽培されるようになりました。
また、鎌倉時代に始まったといわれる精進料理は、菜食を主にした料理で禅宗の僧が広めたのが始まりです。この時代、仏教や道教の教えの殺生禁断の広まりによって、動物性食材等が禁じられ植物性食材がを主となりました。従って、醤(ひしお)も肉醤・魚醤でなく穀醤が主となり、禅宗寺院で味噌などの大豆食品が大量に作られるようになりました。また、味噌汁は禅僧が考え出したと言われています。鎌倉時代に入ると味噌をすりつぶし溶かして汁状のものが飲まれるようになり、これが味噌汁の原型となったとされる。

鎌倉時代に、醤油の元になったと考えられる調味料「溜」(たまり)が現れます。1249年(建長元年)信州の禅僧、覚信が宋に渡って修行し、1254年(同6年)帰朝して、なめ味噌の製法を持ち帰り紀州でこの作り方を教えたのが金山寺味噌の起こりとされています。径山寺味噌(きんざんじみそ)をつくる過程で味噌桶の底に溜まった液体(たまり)を調味料として使用しました。



室町時代

室町時代は武家にも食礼式が発達しました。和食の原型といわれる魚鳥類を中心とする料理法「四条流包丁書」(1487年)が奥秘として四条・大草両家に伝わり、味噌からつくる溜醤油状の「たれ味噌」「薄垂れ(うすたれ)」など現代の醤油に近いと思われる調味料が記されており、「たれ味噌」は「味噌一升に水三升五合を混ぜ、煮詰めて三升とし袋に入れ、それを締めて垂らした液体」という記述が残っています。

出典:安田女子大学図書館

室町時代初期の『庭訓往来(ていきんおうらい)』の往復書簡の中で“不審千万之処、玉章忽到来。更無貽余欝。(御無沙汰のため、あなたの御様子を心配しておりましたら早速お手紙を頂戴いたしましたので、気持ちが晴れ晴れ致しました。)…(上略)…能米・大豆・秣・糠・藁・味噌・醤・酢・酒・塩梅、并、初献料、海月・熨斗鮑・梅干。…(中略)…或買之、或乞索之、令進候。猶以、不足事候者、可給使者也。(これらを購入したり、探して、貴殿にお届け致しましょう。このほかに必要なものがあれば、遠慮なく使者を遣わして下さい)…(下略)…”とあります。室町時代初期は、まだ「塩」の時代であり、「醤(ひしお)」の時代であったと考えられています。

「醤油」という言葉が初めて出てくる文献は、室町時代中期から後期にかけての古辞書「文明本節用集」に、「漿醤あるいは醤漿」という記載があり、京都相国寺鹿苑院の歴代僧録の日記「鹿苑日録(1536年)」(ろくおんにちろく)には「漿油(シヤウユ)」が、中流貴族の権大納言 山科言継(やましなことつぐ)の日記である「言継卿記(1559年)」(ときつぐきょうき)には「シヤウユウ小桶、遣之」(シヤウユウを小桶に入れて贈り物とした)といった表記が、「多聞院日記」(奈良興福寺の一院である多聞院の記録)では、「醤油」「正ユウ」の名が出てきます。このように「醤」から「醤油」への変化がこの時代に見てとれます。
そして、安土桃山時代、慶長二年(1597)には「易林本 節用集」(えきりんぼん せつようしゅう)に「醤油」という名称が見られ、調味料としての液状「醤油」が定着したようです。

金沢の本膳料理(復元)


室町時代は、武家が公家社会のしきたりを次第に吸収し、礼法が確立していきます。
禅宗を中心に起こった武家文化は、室町時代になると茶道や本膳料理(ほんぜんりょうり)が武家社会の礼法(主従関係の確認の場)として生まれた。

この時代、四種器(よぐさもの)の調味料の他に味噌や醤油、味醂、酢といった現代のものに近い調味料なども使われるようになり、今で言う「たまりしょうゆ」の原型が出来上がったとされています。当時は貴族階級や武家社会でしか使われない高級な調味料でした。









安土・桃山時代

安土桃山時代は商工業の発達によって、東は下総の野田や市川、西は播磨竜野(1587年)や紀州湯浅(1580年頃)などで醤油醸造業が興りました。慶長2年(1597年)に刊行された日常用語辞典である『易林本節用集』(えきりんぼんせつようしゅう)の中に初めて「醤油」という名称が見られ、調味料としての液状の「醤油」が定着してきたと考えられています。

菱垣廻船画を見る

復元した千石船
全長29.4m、船幅7.4m、深さ2.4m、帆柱の長さ約27m、帆の大きさ18mX20m、
荷物の積載可能量は千石積で150Ton

安土桃山時代は町人を中心とする貨幣経済が発達し、物資の流通も活発化して醤油も徐々に庶民に普及するようになりました。
また、江戸の消費需要が盛り上がるにつれ、日本全国から多種多様な物産が水運で運び込まれるようになります。1619年(江戸時代初期:元和5年)には、泉州堺の商人が紀州富田浦の250石積廻船を雇い、大坂より江戸への日常物資の木綿、油、酒、酢、そして醤油などを積み入れて、江戸まで海上輸送したことが菱垣(ひがき)廻船の始まりと言われています。
1627年には、大坂に海上輸送の菱垣廻船問屋が成立し、紀州や大坂周辺の廻船を雇って菱垣廻船にしたて、幕府御城米や商人荷物を江戸に輸送するようになりました。



江戸時代初期
江戸時代の醤油 製造風景

江戸時代には醤油の工業的生産が始まりました。
江戸時代初期は、醤油の原料に大豆と大麦が使われていましたが、江戸時代中期(享保17年)には大麦に変わって小麦が使われるようになり、今日の濃口醤油に近い風味の優れたものが量産されるようになりました。

江戸時代初期は、醤油の産地や食文化を含めた文化は上方(関西)が中心で、温暖な気候風土と良質の小麦や塩などの原料を産出するなど、醤油醸造に最適な環境にあった播磨の龍野(1587年)や紀州の湯浅(1580年)、讃岐の小豆島(1592年)などの地域で発達しました。この後に、紀州湯浅で始まった醤油醸造が房総半島経由で関東に伝えられました。関東地方の醤油は、銚子では1616(元和2)年、野田では1624(寛永元)年に醤油醸造が始まりました。
【天明元年(1781年)には山口県で甘露醤油というものが作られました。「再仕込み醤油」「さしみ醤油」ともいわれているものです】

参勤交代の行われた江戸は消費都市として巨大化しつつあり、江戸では塩・木綿・酒・味噌・醤油・菜種油・紙などの日用品も一級品が求められました。醤油が生業として本格的に始まったのは上方(関西)が早く、江戸へ送られた関西の醤油は、下総などの関東醤油に比べて品質が優れており、江戸に「下る」品物は上等なものといわれ、多くの「下りもの」が江戸へ運ばれました。
「醤油」や灘の「酒」のように上方(関西)ものが品質がよく高級品であり、上方から江戸へ、極上の「醤油」や「酒」が樽に入れられて廻船で送られてきたことから「下り醤油」「下り酒」と呼ばれました。



江戸時代中期

江戸時代中期からは、醤油が庶民のあいだにも幅広く使われるようになり、醤油醸造が本格的に手工業化されます。醤油の原料は大豆と小麦です。これに、塩・糀・仕込みの水、燃料の薪炭や樽の材料などが必要です。これらの原料を買い集め、醤油を江戸に送るために、河川水運は不可欠でした。
行徳の塩,銚子・野田の醤油,佐原の酒,流山の味醂など有名な産業はすべて下総で、しかも、ほとんどが利根川流域でした。関東平野の穀倉地帯から原料の大豆・小麦が、江戸湾に面する行徳からは塩が江戸川から運ばれるなど、江戸に近く江戸川・利根川などの水運の便など地理的条件に恵まれた下総国(千葉県)の野田(1661年 寛文元年)・銚子(1616年 元和2年)などで醤油醸造が始まり、醤油生産の中心地として発展し、大消費地であった江戸に中心的に供給されました。

当時、関東に広まった醤油は、大豆を原料とする「溜まり醤油」でしたが、元禄時代から享保時代(1688〜1736年)になると、江戸の人口が増えると共に生産量も増大するにつれて江戸商人が台頭し、関東の「地廻り醤油」(濃口醤油)の需要が増えました。
関西から来る「下り醤油」に対抗して、江戸庶民の嗜好に合わせて工夫を凝らし、“大豆”と“小麦”を多用した香り高い「地廻り醤油」は、新鮮な江戸前の魚介類と相性が良く、「江戸前の味」に欠かせないものとなりました。また、独自の江戸食文化(寿司・蕎麦・うなぎの蒲焼きなど)が形成しつつあった元禄時代頃には、濃い口の地廻り醤油が江戸市場を独占するようになりました。

商品経済の発達につれて幕府も年貢米を財政基盤とする体制から、商品流通に財源を求めます。元和年間(1615〜1623年)には、既に問屋と仲買の明確な区別ができていました。
一般に、市売り・入札売り・相対売りの3つの方法で仲買に販売するものを問屋と呼びました。そして問屋から品物を購入して,地方や市中に転売するものを仲買といいました。江戸商業の中心をなす問屋商人の営業形態が、荷受(にうけ)問屋から仕入(しいれ)問屋へと変化していきました。

野田や銚子の醸造家は関西からの「下り醤油」に対抗するため造醤油仲間を結成し、江戸の問屋との交渉や、原料の塩の購入などを共同で行いました。また、酒・味噌・醤油問屋などの特定の商品を取り扱う専業問屋も増加し、業種ごとに問屋株仲間も結成され、商売の独占を認めるように変化し、幕府は問屋株仲間を公認して独占を許すとともに、その対価として冥加金、運上といった「間接税」の徴収を行いました。


醤油問屋行事が江戸町年寄りに提出した上申書によると、享保11年(1726)に上方から江戸に入った下り醤油は全体の76%を占めていたが、安政3年(1856年)に江戸に入荷した156万5,000樽の内、下り醤油は9万樽、わずか6%以下となっていた。このように下り醤油が減少し、江戸の醤油は上総・下総その他関東域からの地回り醤油となった。それでも下り物を高級品として尊重する気風は、江戸時代を通じて保たれた。

江戸の醤油の消費量の変化(1樽は約9リットル入り)
 1726年(享保11年) 13万樽(内下り醤油76%)
 1730年(享保15年) 21万樽(内下り醤油78%)
 1821年(文政4年)  125万樽(内下り醤油 2%)
 1856年(安政3年)  156万樽(内下り醤油 6%)


関東周辺から江戸へ入る回送品のことを「地廻り物」と呼び、醤油も「地廻り醤油」と呼ばれました。そして、1700年代に入って地廻り醤油の生産が飛躍的に増大し、地廻り醤油の品質が向上しました。それまで大坂から江戸へ菱垣廻船や樽回船(約1,700石積み=約250Ton)によって大量に運び込まれていた高価な「下り醤油」が減少し「地廻り醤油」が江戸市中の需要を賄うようになりました。

「下り醤油」が減少したのは、寛永年間(1624〜44)に江戸川(利根川から分流し、野田・流山・行徳を経て東京湾につながる)開削工事が完成して野田から江戸へ、1隻の高瀬船で1000樽もの醤油が約一日で出荷され、また、帰り船で利根川沿岸の関東平野で生産された大豆・小麦などの原料が、野田や銚子の醤油生産地に輸送できたことも大坂から来る高価な「下り醤油」が激減した理由のひとつでした。

現在の「薄口醤油」に近いものが誕生したのは、龍野醤油の醸造の始まり天正15年(1587年)から後の寛文年間(1670年)に、当時醸造業者の発案により醤油もろみに、米を糖化した甘酒を混入して搾った、色がうすく香りの良い「うすくち醤油」が発明され、独自の風味が、京・大坂の上方の嗜好に合い素材を生かす上方の食文化を作り出しました。
上方の味(関西)と江戸の味(関東)の分化は江戸中期頃であり、その嗜好の違い(濃味の関東、薄味の関西)は、江戸時代から今日まで続いています。



江戸時代後期

江戸時代後期の文政年間(1819-1829年)になると、江戸に持ち込まれた醤油は年間約125万樽と10倍となり、その内120万樽は安房、下総、常陸、武蔵、下野、相模などの関東物醤油、残り2万樽が上方醤油という状態になり、関東醤油が江戸に根付くことになりました。

江戸の人口100万人が超えたといわれ、町人の人口は60万〜65万人と考えられています。この人口を養うためには膨大な食料が必要とされ、そこから寿司・天ぷら・蕎麦・蒲焼などの日本的な食文化が形成されました。これに欠かせないものが醤油でした。
(参考:この時代の大坂の人口は、30万人から40 万人台、京都で約40 万人であった)

     握りずし屋台               天ぷら屋台               そば屋台
    

江戸に根付いた関東醤油は、江戸食文化特有の料理が発達して、江戸前寿司そば・天ぷらに、そして、江戸名物の第一とされた鰻の蒲焼き等に地回り醤油を使った外食産業が出揃い、味も江戸の人々の嗜好に合わせて、今日の濃口醤油に近い関東風の醤油になりました。江戸時代の幕末には醤油は煮物・吸物・焼物などの各料理に、また付け汁や掛け汁としても使われる庶民の調味料として定着しました。




明治時代
明治時代には醤油は庶民の生活必需品として定着し、消費量が増えていきました。醤油産業もまだ手工業的要素が強く、明治中期までは江戸時代の延長で醤油醸造が行なわれており醤油醸造の近代化が進んでいませんでした。
日本の醤油産業は明治15年以降に西欧の科学知識が導入され、味噌・醤油の旨み成分の微生物学的、化学成分的研究が進みました。その結果、明治時代以前は醤油の製造に種麹を使用することがほとんどなく、蒸した穀物に自然に発生したカビや前回製造した麹の残りを混合して麹を造っていましたが、明治中期以降には醤油製造に種麹が使用されるようになり、醤油製造設備も原料処理、製麹、仕込み、製成・火入れ、詰め、輸送などすべての工程で近代化が進みました。明治の末期には、全面的に諸味の加温を採用して醤油を市場に提供する企業が現れますが品質に問題があり販売を中止しました。諸味の加温など現在に繋がる各種速醸法の研究が歩みだしました。




大正時代
第一次世界大戦後(1918年)の好景気で醤油が一気に増産され、家庭へ普及しました。大正期以降には家業的醤油生産から会社化され、醤油製造の機械化などの近代化や醤油醸造業の合併や企業合同による近代企業の設立によって大量生産体制に移行していきました。醤油工場の設立は、大正9年(1920)以降生産過剰をもたらして過当競争時代を迎えることになりました。



昭和時代
昭和になるまでは、多くの醤油は江戸時代後期に確立した醤油醸造法とほぼ変わらない製法で作られてきました。しかし、現在では一部の「手づくり醤油」を除いては自動化された大量生産の工場で造られています。昭和の初め頃には、原料が丸大豆から脱脂加工大豆が使われるようになります。さらに、戦後の原料不足により、本物の天然醸造(本醸造)醤油が次々と姿を消していきました。
昭和30年(1955)になると著しい技術革新が行われて製麹技術が人力から全工程にわたり設備が刷新され機械化が進みました。その後、もろみ管理技術の著しい進歩によって従来は一年ないし一年半の期間を要した醤油醸造が3ヶ月から半年足らずの期間に短縮されるという早醸技術まで進歩しました。




現在
平成の現在では消費者の本物志向・自然志向により、日本の伝統製法で大豆・小麦・塩水だけを使い天然熟成させてつくる無添加の“本物”の醤油「天然醸造(本醸造)醤油」が再び見直されてきました。昔ながらの醸造方法で作られる天然醸造醤油には、他に調味料を加えなくても、十分なコクと旨みがあります。
同じ本醸造醤油といっても、加温し発酵熟成を早め、約半年の短期間で大量生産する醤油大手メーカの本醸造醤油と昔ながらの長い年月をかけて日本伝統製法で造られる「天然醸造(本醸造)醤油」とは全く醸造(熟成)方式が違う醤油です。

醤油製造業の全国事業所数は、平成15年度で1600社あまり。醤油製造業は大手メーカーの寡占化が進み、上位5メーカーで全国の総出荷額の50%を占めています。
しかし、同じ「濃口醤油」と言っても、製造メーカーや地方特有の食文化から、味はかなり異なっています。
例えば九州の醤油では、こいくちでも関東のものに比べ甘みが多く、こいくちでも「うまくち醤油」と呼称して区別する場合があります。醤油は、冷や奴や刺身に用いると醤油の味の違いがわかります。製造メーカによって醤油の味に“特色”が出るのです。
各地で長い歴史と環境のもとに育まれた各地方独自の食文化に応じた地方色豊かな醤油が、自分の好みにあった醤油を探す多様な消費者に求められる時代になったといえます。




日本から世界へ

日本の濃口醤油は、江戸時代後期には鎖国状態だったにもかかわらず、日蘭貿易の最盛期・1650年頃から明治末期頃まで、欧州に向けて長崎の出島からオランダ商人らによって、醤油を伊万里焼の瓶に詰め、「金富良(こんぷら)醤油」の名で輸出されていました。その量はコンプラ瓶の1年間の生産量から推測すると年間40万本(約200KL)にまで達していたようです。
しかも、諸外国に輸出された醤油の品質はまったく劣らなかったそうです。宮廷や王室専用の調味料として貴重品に扱われていたようで、フランスのルイ14世が宮廷料理に、肉料理の隠し味に醤油が用いられました。ヨーロッパ人が醤油を知ったのは、18世紀フランスのディドロによる『百科全書』の記述が最初でした。日本の伝統的な発酵食品しょうゆの輸出は「日本食文化」の輸出と言えるでしょう。

醤油は大豆と小麦粉を原材料とし、その汎用性の高さから万能調味料とも呼ばれる日本の食卓には欠かせない調味料の一つです。醤油の全国需要は年間約80万キロリットルにもなります。昨今の健康食・日本食ブームからその利用は国内に留まらず、世界各国へも多く輸出されており、その国々で広く受け入れられています。
海外での醤油需要は健康志向による日本食ブームを要因として醤油の輸出量が年々増加しています。現在、醤油はアメリカ、中国、オーストラリア、英国、韓国、香港、フランスなど、世界各国100カ国以上に輸出されています。東欧やロシアを含めた欧州でも、醤油の市場は急速に成長しているようです。さらに、南米やアフリカなどでも、肉との相性がいい醤油は市場拡大の可能性があります。醤油の全世界への輸出実績は、平成20年の22,281トン(41.1億円)から平成29年には38,693トン(71.5億円)へと増加(資料:財務省「貿易統計」平成30年)しています。
日本の醤油はアメリカ、中国等を中心に万能調味料として認知されており、和・洋・中の様々な料理に使用されて、醤油は日本ばかりでなく世界の調味料「ソイ・ソース (Soy Sauce) 」として定着し、世界の食文化との融合を果たしつつあると言えるでしょう。



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