優柔不断

この決断を下すのに三年かかった。大腸の内視鏡検査である。

2000年6月に定年を迎えたのだが、その直後から待っていたかのようにいろんな病気にかかった。
一番は病気とは言えないかも知れないが、歯の治療である。その治療に失敗して副鼻腔炎つまり蓄膿症になった。
春になるとアレルギー性の目のかゆみに泣かされ、そして定年一年後には自然気胸で入院手術、三週間の病院生活を
味わった。
そして、2004年の大晦日にはパニック障害の発作(自己診断だが)に見舞われ、翌年の春には突然耳鳴りがして
耳鼻咽喉科に駆け込んだ。そのとき服用したステロイド剤の副作用で熱と鼻血に悩まされた。その後はなんとか
普通に生活していたのだが、実はひそかに悩んでいることがまだあったのである。

それはどうも大腸過敏症(これも自己診断)ではないかという不安であった。
働いている時はいつも決まって朝トイレに行く習慣がついており、規則正しい生活のリズムだった。
定年直前ごろから昼食後に急に腹が痛くなってトイレに駆け込むことが時々あったが別に気にはしていなかった。

それが、最近はトイレに二回、時々は三回も入るようになってきた。おかしいなぁと考えているうちにいつの間にか
出掛ける前にはトイレに行っておかないと不安になってきた。
インターネットで調べてみるとかなりの確率で大腸過敏症に該当するのではないかと思った。
ただし、大腸そのものに異常が無い場合という条件付であるが・・・。
仲間にその話をすると、みんなまともには相手にしてくれず、「大丈夫だよ、気にすることは無いよ」と素っ気無い。
もともと考え込むタイプだし、おまけに時間が有り余っているため、余計に気にすることになった。
診療所にも行った。血液検査や検便もした。いずれも異常が無い。先生はとりあえず薬を飲んで見ましょうと二種類の
薬をくれた。
薬を飲み始めて三ヶ月ぐらいは極めて効果的だった。しばらくは快適な毎日だった。ところが、半年ぐらい経過すると
どうも逆戻りしたようで、あまり調子が良くない。医者に言うと「耐性」といって簡単にいえば薬が効かなくなるように
人間の体は出来ているのだと言う。我慢するしかないようなことを言う。
その頃から、大腸そのものに病気があるのではないかと考えるようになった。そういえば、死んだ親父も腸の病気だった
と気が付いた。
ポリープが出来ているのではないか、潰瘍ができているのではないか、一番おそろしい大腸がんではないのかと不安は
一気に増大していった。しかし大腸の検査はとても苦しいと聞いている。苦しいのは嫌だ。だが気になる。
この繰り返しで大腸のことが心配になってから三年近く経ってしまった。

ついに、内視鏡検査を受けようと決めた。このままでは神経症になってしまう。効果の無い薬も死ぬまで飲み続けることに
なってしまう。くよくよするのにもう疲れたと言っても良い。こうして2006年9月27日、なんと66才の誕生日が検査日と
なってしまった。

検査日当日、朝から病院で二時間かけて腸の洗浄液を少しずつ飲み、午後一時すぎ検査室へ入った。
内視鏡を肛門から大腸に挿入してゆく。大腸の曲がり角で極めて苦しい。検査前にこの場に来るのに三年かかったと
医者に打ち明けて妙な感心をされた。ついでにとても怖がりだと白状しておいた。検査を慎重にして欲しいという下心だった。
だが、あまり効果は無かったようだ。痛い、痛い、と喚くのだが、遠慮なくぐいぐいと押し込む。
看護婦が腹を押して内視鏡が腸に上手く沿って進むよう手助けしてくれる。
かなりの時間が経って、ようやく大腸の最も奥まで届いた。これで終わりかと思ったら、今から徐々に
内視鏡をバックさせながら診察をするという。息苦しさは入れ込む時よりは楽だった。シュゥシュウと空気を入れて腸を
膨らませて診察してゆく。途中小さなポリープを発見、どうするかと問われて、間髪を入れずに切除を依頼する。
こんな検査を再び受けるのは真っ平と思ったからだ。痛くもなんとも無く切除。そしてようやく最後まで診察を終えた。
心配された癌や潰瘍などなく医者は若くてきれいな腸壁だと褒めてくれた。

三年間の悩みは跡形も無く消え、心はまさに秋晴れだった。長かった病院での検査を終えて外へ出るとまさしく秋晴れで
澄み切った太陽の光がとてもまぶしかった。帰りの車のハンドルを握りながら「案ずるより生むが易し」ということわざの
真実性をしみじみと噛み締めていた。それにしても今日に至るまでの三年間を思うと自らの優柔不断さに恥じ入るばかり
である。(2006.10.2)

師、逝く。


2006年11月22日、午後一時過ぎ、行きつけのラーメン屋で「夜鳴きラーメン」をひとりで啜っていた。
いつもはとても美味いと思っていたのに、今日はなんとも味気ない。空腹を満たしているだけで味は感じなかった。
実は、ほんの一時間前にかけがえのない人と永遠の別れをしてきたばかりなのである。
しかも六十六年の人生の中で唯一100パーセントの敬愛の念を抱いてきた人と・・・。まさに人生の師だった。

亡くなられた晩に友人から電話連絡があった。三年にわたる壮絶な闘病生活の後、八十三歳で天国に召されたという。
定年後六年になるがお会いしたのは一度だけだった。長い間お元気だと信じていた。一年ほど前に体調を崩されて
入院したが奇跡的な回復力で退院したと聞いていた。やはり寄る年波には勝てなかったと言うことだろうか。

いつかはこんな日が来るとおぼろげながら想像していたが、友人からの電話を受けてしばらくはただ茫然としていた。
師との出会いから今日に至るまでのさまざまな思いが、映画フィルムの流れるがごとく頭の中で浮かんでは消えた。

長いサラリーマン生活の中でこの人と同じ職場にいたのはわずか一年半程度だった。
しかも当時直接言葉をかけてもらったのはほんの数回だったと思う。それほど師と私の間には距離があった。
いや、師というよりとてつもなく厳しく恐ろしい存在であった。顔を合わすだけで冷や汗が出るほどだった。
それが後に生涯の師と仰ぐ出会いとなったのだから人生とは不思議なものだ。

師との関係はその後職場が離れ離れになってからの方が、一緒だった頃よりはるかに大切なものになっていった思う。
後年、師とともに苦労してきた仲間達が集まり、師を中心に折に触れゴルフや忘年会をした。そして必ず当時の思い出話
をして懐かしがっていた。その時は十年経っても、二十年経っても当時の肩書きで呼び合うのが常だった。全く違和感が
ないのも不思議だった。
そんな時、師はただ機嫌よく話を聴いていることのほうが多かった。時々我々が羽目を外すと「馬鹿者奴が・・・」と叱り
つけた。でも目は笑っていた。師は我々が集まることを口には出さないがとても喜んでいたように思う。
いつかの集まりの時、「俺が死ぬまでこの集まりは続けたいものだ」とつぶやいたのを私は確かに耳にしたからである。

師の言葉どおり、お別れの式には一人残らず当時の仲間が集まった。私だけでなくみんな師を尊敬し、敬愛し、受けた
薫陶を誇りに思う者ばかりだった。
今まで何度となく告別式に出てきたが、いつもは早く終わるとやれやれとほっとしたものだが、今日は出来るだけ長くと
念じるほど特別だった。こんな気持ちは生まれて初めてだった。

それほどまでに人を魅了させる要素は何なのか。
恐れ多いが思いつく言葉を並べてみたい。

○師には計り知れない包容力がある。
○師は天性の教育者である。
○師は人を愛する。
○師には極めて長期的、広角的視野を伴う決断力がある。(先見性がある)
○師は一流を求める。(顧客・交際相手など)
○師は部下に自由に仕事をさせるが、本質的な間違いには烈火のごとく怒る。
○師はやんちゃな部下を愛する。
○師は元気な部下には厳しく、落ち込んでいる部下には優しい。
○師は権力者にも臆せず主張して譲らない。
○師の性格を愛する人と敬遠する人が極端に別れる。
○師は酒好きであるが酒癖が悪い。
○師は金遣いが豪快でかつ荒い。
○師はビジネスで借りを作るな、貸しを作れという。
○師は口数が少ないが、言葉には重みがある。
○師はゴルフを愛し、かつ教え魔である。
○師は必ず名前を名乗って電話する。(我々に対しても「○○です。」と丁寧に名乗る)

ちょっと考えたぐらいでは表現できないスケールの人なので、今はこれぐらいしか書けない。
実は私には宝物がある。師との三十五年のおつき合いのなかで頂いた一枚の葉書である。私が定年退職した時に
出した挨拶状に返事を下さったのである。叱られるかも知れないがここに転書したいと思う。


 あつい毎日が続きます
   お元気ですか
 ながいおつとめほんとうにご苦労でした

  春たつや 愚の上にまた愚にかえる    一茶

 一茶の句です 長い道を歩いて
 私も自分の無力がわかってきました
 愚にかえって かたひじ張らずに歩いて
 いきたいと思っています

この葉書をもらったときは、たいして深くは考えず、ぼんやりと眺めていただけだった。だが、人生の師から初めて
頂いたお言葉だったので大切に保管しておいたのである。

告別式から帰って再びこの葉書を読んでみた。そこで初めて気が付いた。表面的には師は自分のことのように述べて
おられますが、良く考えるとこれは師の私への愛情あふれるご指導だということに・・・。
とかく権力に反抗的で、自己主張が強く、いたずらに問題を起こす私に、もうこれからはのんびり生きなさいと諭されて
いるのだということに、今になって気が付いた。私はなんという愚か者だろうとあらためて情けなく思った。

できることならあの世でもぜひともご指導いただきたいものだと願わずにはいられない。(2006.11.23)

     関連するエッセイ・・・・随想集 (9) 鬼の目に涙、 (16) 心のグラス

思い出(1)・師との出会い


師に初めてお目にかかったのは確か昭和46年の秋だったと思う。私が30才の時だ。
銀行本部から大阪ミナミの大型店に転勤の辞令が出て、同じく本部から転勤した先輩のKさんと一緒に
その支店へ着任の挨拶に行ったときだった。
その店の支店長だった師は応接室で行員の誰かと面談中であったが、「入れ」とのこと。
噂はかねがね聞いていたが、どちらかというとずいぶん怖い人だという話だったので少なからず緊張していた。
5年年上のKさんも同じだった。

応接セットの椅子に座ると同時に「君が松露君か・・・」と聞き取りにくい小さな声で話しかけられた。
「はい、松露です。よろしくお願いします。」と返事した。Kさんはすでに顔見知りだったらしい。
「そうか、ところで君は何が出来るのか」と次の質問が飛んできた。
銀行営業店の仕事は大きく分けて営業部門と内部事務部門の二つに分かれる。
「ひととおりのことは出来ます」と私が返事すると、すかさず、
「何がしたいのか」とたたみこまれた。この支店の営業次長からすでに電話をもらっていたので、
「営業担当だと思っていました。」と応えると、
「そうか、そうか、・・・・。」と大きくうなずきながら笑った。ここまでのやりとりでもう冷や汗一杯だった。
何が出来るか、何をしたいかという矢継ぎ早の質問はまったく想定していなかった。
普通は、これこれの仕事をしてもらうと一方的に指示されるのが一般的だったからである。

続いて、Kさんを見て、「君はどっちだ?」と質問した。
Kさんはあわてながらも、「融資業務を勉強させていただきたいと思います」と真面目な態度で答えていた。
ところが間髪をいれず師はこう言った。
「違う、違う。ゴルフかマージャンかどちらがいいのかと訊いたのだ。」

「えっー、あっ、そうですか・・・。」
この時のKさんのあわてぶりは横にいて面白かった。しばらく考えてKさんは
「それでは、ゴルフにさせてもらいます。」とまた真面目な態度で言った。
師は、それを聞いてただ「そうか」と応えただけだった。

ふたりで応接室を出て、驚いたなぁと顔を見合わせた。
この時の印象は今でも鮮明に覚えている。

このとき、私はすでにゴルフをやりかけていたが、Kさんはまったくやったことがなく、後日私がゴルフを指導
した。(数年で腕前は逆転した。)

また、しばらくして同僚にこの時の話をしたら、「松露さんは恵まれている。私が支店長席の前に立って着任の
挨拶をしたときは、黙って顔を見て、うむ。と頷いただけだった。なんのお言葉もなかったよ。」と寂しそうに
つぶやいたのを昨日のことのように覚えている。(2006.12.12)

思い出(2)・冷や汗の数々

とにもかくにも、大阪のど真ん中で私の営業活動はこうして始まった。
仕事の中味はともかくとして、一番困ったのは体調管理だった。
それまでのデスクワークとはことなり、雨の日も風の日も大阪市内を走りまわるのだから、都会の空気に
毒されて、よく発熱しダウンした。
上司にはそれがやる気の無さとみえたのか、しばしば注意された。あまりたびたびなのでこちらが逆に
どういう意味かと開き直ることもあった。
そんなある日の朝、得意先訪問に出掛けようとしたとき、支店長だった師に呼び止められた。
ちょっと来いと支店のすぐ近くにある地下街に入った。師はさっさとコーヒースタンドに入り、コーヒーを
注文した。あわてて私は師の隣に座った。まずい安物のコーヒーを前にして師は言った。

「リズムだ。生活も仕事もリズムが大切だ。今の君はリズムが狂っている。リズムを大切にしろ。」
「えー、はぁ、はい。」とどういう意味かわからないまま私は返事をした。

師は、それだけ言ってコーヒーを一気に飲んだ。
私もあわててカップを口にした。私が一口飲み終わる前に師は席を立ってお金を払い、さっさと戻って行った。
残された私はばつが悪く、残りの生ぬるいコーヒーをあわてて飲んで席をたった。
冷や汗をかいた第一号である。
言葉の意味ははっきりわからなかったが、新米の私を見守ってくれていたことを感じて嬉しかった。
ほろ苦い思い出としていつになってもこの時の光景は忘れられない。

こうして何ヶ月が経ち、リズムが整ってきたのか発熱に悩まされることも無く、仕事にも慣れてきた。
ある月末のことだった。私を可愛がってくれる大手商社の経理課長とのやりとりの中でひょっとしたら不要に
なるかも知れないが万一のこともあるので資金を手当てしておきたいとの要望があった。
当時としてはかなりの金額だった。わかりましたと答え、月末に融資の手はずを整えていた。月末直前になって
経理課長は、やはり資金は不要になったと連絡があった。私はせっかく手当てしたのだから融資させてほしいと
強引に要望した。課長は困っていたが、一週間だけ借りましょうと折れてきた。
その返事をもらった私はやったとばかりに喜んだ。それだけ私の成績が上がるからである。
上司もそれは良かったと二人で喜んでいたのだが、その時だった。

突然「この馬鹿者が・・・」と大声がした。

「えっ」とばかり振り向くとそこに師が立っていた。一部始終を聞いていたらしい。
上司と私は何のことかわからなかった。私の成績が上がることは支店の成績も上がることであり、ひいては
師のためになるのである。怒られる筈がないと信じていたからである。
ところが、師は怖い顔をして怒っている。
沈黙の時間がしばらく流れた。すると、師は静かに言った。
「もっと大事な時の協力が得られなくなるぞ。」
それでも私はピンと来なかった。怒られるわけがない、むしろ褒めて欲しいのにと思っていた。

何年か経って、私が管理職となり経験を積み重ねてから「なるほど、こういうことだったのか」とあのときの師の
叱責の意味がわかるようになった。つまりこういうことだ。
「目先の小さな利益に満足していると、もっと大きくて大切な利益を失うことになる、大局的な視野を持て」という
意味だったのである。
このことは単に仕事上のことだけでなく、あらゆる人間関係にも通ずる大切な教えとして私の心の奥深くに
刻み込まれることになった。(2007.2.6)

思い出(3)・さらに冷や汗

どういうわけか、師が転出したあとも私は長い間この大阪ミナミの支店に居続けた。
といっても私の希望で居たわけでなく、単に人事部から転出の命令が無かっただけであった。
その間、支店長は3人も入れ替わり、師と一緒に仕事をした同僚や先輩はすべて転出していた。ただ、私だけが
居残り当番のごとく心ならずも居座り続けていた。
いつのまにか、肩書きも平社員から支店ナンバー2 にまで上がっていた。
得意先にも知り合いが多くなり、思うが侭仕事が出来るようになっていた。部下もこの店の生き字引のような
存在である私に一目置き、よく動いてくれた。今思うとこの頃が私の自信満々たる絶頂期だったと思う。
しかし、好事魔多しのたとえどおり、三人目の支店長とコミュニケーションがうまくいかなくなり、未経験の苦しみを
味わうことになった。
この支店長は大変な自信家であった。自分の意思を徹底しなければ気がすまないタイプだった。
この支店長にとっての私はいつのまにか邪魔な存在となっていったのである。
私もこの支店では内外ともに影響力は大きいと自信満々だった。だが、私はナンバー1ではなかった。
まず、ことごとく意見を否定された。得意先との交渉事も覆された。部下への指示も変更された。
こうして、心身ともに疲れ、次第にやる気を失っていった。部下もそういう状況を察知してよそよそしくなっていった。
でも、私は誰にもこういう状況について口外しなかった。支店の恥になると思ったからだ。
しかし、わたしのこういう思いは無残にも引き裂かれた。支店長自身が本部役員に私との関係について話していた
のである。
ある有力な役員の支店訪問があり支店長が面談していた。私は同席していなかった。しかし、役員から呼ばれた
ので仕方なく応接室に入った。支店長は入れ替わりに部屋を出て行った。
椅子に座るとその有力役員はわたしにこう言った。
「いろんなタイプの支店長がいるからな。まあ、がんばれよ」
そのときはピンこなかったが、あとで役員の発言を考えていると、支店長が私のことに関して何か話題にしたのだ
ということに気が付いた。

それからしばらくたった頃、突然、師から電話があった。今晩一緒に飯でも食おうと誘われたのである。
それまで一対一で会うことはほとんど無かったので、多少緊張しながらも約束をした。
その晩、私はある西洋料理の店で師と向かい合っていた。もともと師は無口なので、私も何を話していいものか
わからなかった。黙ったまま、二人は食事していた。重苦しい沈黙が続いた。すると、師は小さい声でつぶやくように
言った。

「馬鹿者めが・・・・」
「はぁー」とわけもわからずに私が相鎚を打つと、
「お前のことだ、馬鹿者めが・・・」
「えっ、私ですか・・・」
「少しばかり仕事ができるからと言って・・・。やりたいことは支店長になってからやれ、馬鹿者が・・・。」

頭が真っ白になって今でもその時どんな返事をしたのか覚えが無い。
その時わかったのは、私のよくない評判が師の耳に入り、今夜は叱られるために呼ばれたのだということだけだった。
勿論、料理の味など何も記憶に無い。ただ、背中に一筋の冷や汗をかいたことは良く覚えている。(2007.2.9)

思い出(4)・あれこれ

師との思い出はなにも私が「馬鹿者めが・・・」と怒鳴られていることばかりではない。いろんな場面で印象に残ったことが
いくつもある。それは一対一で話している時のこともあるが、当時の仲間と一緒に遊んでいるときのこともある。
断片的にしか覚えていないのでエピソードとして記しておきたい。

当時のナンバー2で私もずいぶんお世話になったYさんの話。
ある得意先 のパーティに師とYさんは出席した。もともと酒好きで酒乱気味の師のこと、二次会の席で、ビールをYさんの
頭からぶっかけてしまった。いくらなんでもひどすぎるとYさんは烈火のごとく怒ったもののなんとかその場は我慢して、
翌朝に抗議することにした。
師の出勤を待って、Yさんが昨夜の件について苦情を述べたところ、師は全部を聞かず、こう言い放ったそうだ。
「Y君、酒の上のことだ、文句を言うとは君もまだまだ(人間の器が)小さいぞ、小さいぞ・・・」
そう言われて、Yさんはあとの言葉が出なくなったとぼやいていました。

ゴルフ場でスタート前、師と私とあと忘れたが誰かとティーグランドでクラブを振り回しながら雑談していたときのこと。
食べ物の話になり、私が魚はいわしとかさんまとか安物の方が好きだと言っていた。
話題が変わって、また私が、先日、帰りの電車の中で酔いが回り突然倒れてしまったと話していたら、師が言うには
「安物の魚ばかりでは倒れても当然だな、もっといいものを食べなさい」とからかわれた。
聞いていたみんなは爆笑。私の朝一番のショットはみじめなゴロがチョロチョロと。

これもゴルフ場での話し。
その日は生憎の天気で雨や風が強かった。みんなでやろうか、止めようかと相談していたらなんとか天気が回復してきた。
それっとばかりにスタートした。お昼前にハーフが終わり、クラブハウスで食事した。
その日は私は調子がよくて実力以上の成績だった。ハーフの時点で14、5名のなかでトップだった。
午後から頑張ればひょっとして優勝かもと取らぬ狸の皮算用をしていた。そして午後からスタートした。
しばらくするとまた雨、風が強くなってきた。大丈夫かなぁと思いながらコースを進んでいると、前方からみんなが戻ってくる。
どうしたのかなと思って声をかけると、集団の中から怖い声がした。
師が「こんな雨、風のなかでゴルフができるかっ」と叫んでいる。
途端に、ゴルフは中止となった。問題はそのあとだった。前半だけでは私がトップで優勝となる。
だが、半分では優勝といえないとの意見もあった。私は当然半分でも優勝はありうると主張した。
結局、私の意見がとおり晴れて優勝カップを手にすることになった。
その時は満足だったが、半分で優勝がいつのまにか半人前と同義語となって、長い間、師から半人前と呼ばれることに
なってしまった。ことあるごとに半分で優勝したやつとか半人前とか呼ばれて悔しい思いをすることになったのである。

もう一つゴルフ場での話し。
あるゴルフ場でいつもの仲間とコンペをしていた。
ハーフを終わって、食事を済ませ、午後のスタートとなった。師は最後にクラブハウスを出てきた。
みんなは午後一番のティーグランドで師を待っていた。
その時、師が遠くで怒っている。どうやら「傘が無い」と言っているようだ。日よけの傘が無いらしい。
それを見ていた、ナンバー2のYさんが、親切にも「ゴルフ場の備え付きの傘はたくさんそこにありますよ」とお知らせした。
その途端、師が一際大きな声で「俺の持ってきた傘が無いのだっ」と怒鳴った。
誰かが間違えたのか持って行ってしまったらしい。
それを聞いて、Yさんは「しまった」とばかりみんなの後ろに引き下がってしまった。
一同は何も知らないとばかりにあらぬ方を見ながら雑談する真似をしていた。とばっちりを恐れていたのである。

まだあるゴルフ場での話。
いつものグループで伊勢志摩方面に一泊で遠征した。
無事にプレーを終えて、表彰式をクラブハウスで行った。師はとても機嫌が良くニコニコしながら賞品を手渡していた。
第何位かの飛び賞に師が入った。
みんな一際大きな拍手でそれを祝ったのであるが、そのあととんでもないことが起こってしまった。
幹事のk君は資金難のために、賞品を用意するのに苦労していたのだが、飛び賞になんと得意先の「香典返し」の品を
当てていたのである。うかつにも白黒の熨斗紙(のしがみ)を剥がしたものの左右の端に少し残っていたのだった。
しかも、悪いことにその賞品が師に当たったのだ。
「こらー、こんなものを賞品にするやつがあるかー」と大声。
k君は師に呼ばれて、照れ隠しに、「おかしいなぁー」ととぼけていた。
どうなることかとみんなは体を硬直させていた。
ところが、師は「この馬鹿者がー」と言いながら顔は笑っていた。師はこういうやんちゃが大好きなのだ。
一同、ほっとして大笑いになり、k君は命拾いしたかのような笑顔でひたすら頭を掻いていた。
「香典返しのk」もかなり長い間仲間の中では語り継がれていたのは言うまでも無い。

ある年末、営業室で。
あわただしい年の瀬、ようやく当日の業務を終えて、ほっとした時間である。営業マンが集まって雑談を交わしているところへ
師が飄々と現れた。もう帰り支度を整え、紺色のオーバーコートを手にされていた。そのままの格好でしばらくは他愛も無い
話を黙って聞いていた師は、突然居合わせた年配の用務員さんに「○○さん、ちょっとこれを着てみて・・・」とコートを手渡した。
用務員さんはそうですかと遠慮もせずひょいと羽織った。そして、「丈もちょうどですわ」とおどけて言った。皆はその大胆さに
負けて一斉に笑い声をあげた。すると師はなにを思ったのか、
「良かったら、そのまま着て帰りなさい」と言った。
思いがけない師の言葉に一同はあっけにとられていた。師は服装には常日頃とても気を使っていたのを皆は良く知っていた。
そのコートも安物ではないのは遠くから見てもよくわかった。
一瞬、用務員さんはきょとんとしていたが、すぐ、「いいのですか、貰っても・・・。そうですか、ありがとうございます」と丁寧に
礼を言ってニコニコしていた。師は、なにもいわず、ただ微笑んでいた。
私は、用務員さんも大胆だが、着ていたコートを惜しげもなくプレゼントする師の胸中を計りかねて茫然としたことを昨日のように
はっきりと覚えている。(2007.2.11)

思い出(5)・ゴルフ場で

滋賀県のゴルフ場であった本当の話である。

師は大阪ミナミの支店で苦楽をともにした我々のグループをとても気に入っていたので、会合にはたいてい出席された。
今日も師はいつものように笑顔でみんなを冷やかしていた。
ロッカーで着替えながらわいわいしゃべっている時、師はどこかに電話していた。
私たちは気にも留めずスタート前のコーヒーを楽しむべく、それぞれ食堂に向かった。
そして、ゴルフが始まった。ハーフを終わって、クラブハウスに入ると師はまた電話をしていた。
別にめずらしいことでもないので、みんなは食事を済ませて午後のスタートホールに向かった。
無事にゴルフを終わり、会食もすんでいよいよ楽しい表彰式がはじまった。結果発表の前にいつも師から一言いただくのが
通例となっていたので、みんなは拍手でお言葉を聞こうとしていた。
もともと声は低く、小さいので聞き取りにくいのであるが、今日は特別声が小さく、はっきりしない。どこかおかしいなと
みんなが気が付いたとき、先輩のKさんが「そういえば朝からたびたび電話されていましたが、なにかあったのですか」と
尋ねた。その時の師の返事に一同は驚愕した。

「信州の山で遭難したらしいのだ。出来の悪い息子を持つと苦労するよ・・・。」
「えーーーー。それは大変です。ゴルフどころじゃありませんよーーー。」
声をそろえて、「はやく、はやく、信州へいかなければ・・・・。」と叫んだ。
「朝からの電話はそのことだったのですかーーー。」kさんの声。
「ゴルフなんかしてる場合ですか」と怒る声も聞こえた。
とにかく、すぐに山へ行かねば、とメンバーの一人が私の車で信州へすぐ走りましょうと名乗り出た。師は「すまんなぁ」と
言いながらもほっとしていた。
「頼むよ、頼むよ」とみんながそのメンバーに声をかけた。
会食も表彰式もすっ飛んでしまい、みんなあわてて帰り支度をして、そうそうに自宅へ戻った。

私も帰りの車を運転しながら、考えることは一点だった。
なぜ師は朝から遭難の知らせがあったにもかかわらず、すぐにゴルフをやめて信州に行かなかったのか。
もし、私が同じ状況にあったとしたら、直ちにゴルフをやめて息子の元へ走っただろう。100パーセントの確率である。
にもかかわらず、師は最後までみんなと付き合っていた。なぜだろうと不思議な気分だった。

翌日、仲間から電話があり、師の息子さんは救助されて無事であったとの知らせがあった。それは良かったと胸を
なでおろしたのであるが、心に残る「何故」は解決しなかった。誰もそのことを師に尋ねた者もいなかった。
正直にいえば、今もって師の心中は不明である。

私なりに師の胸中を推察するとこのようになる。つまり、
師は、折角みんなが楽しみにして集まっているのに、私事の事情を言えばおそらく今日のゴルフは中止となるだろう。
中止にならなくともみんなの気分を削ぐことになる。それでは申し訳ない。終わるまで黙っていよう。
換言すれば、師はそれほどこのグループの存在を大切に思っていたのではないか。ということであり、師は公私の区別を
極めて厳格に解釈していたのではないか。ということになる。
私にはとても出来ないが、師はそういうところがあったように思われるのである。
残念ながら亡くなられた今では師の本心を聞くことはできない。永久に不明のままである。(2007.2.12)

思い出(6)・宴会

酒席での師は数々の印象的な思い出を我々に残してくれました。そのいくつかをあらためて思い出してみた。

ある年の暮れのことである。いつもの仲間が集まり忘年会が開かれた。師と共に大阪ミナミの激戦地区で戦った
仲間もほとんどが関西のあちこちの支店で働いていた。そのためそろって顔を会わすことも滅多に無く、今日の
忘年会をみんなが楽しみにしていた。もちろん、師も参加されるとの話であった。

その日の夕刻、あちらこちらから一人、また一人と集まり、料理屋の一室で気心の通じた仲間達の弾んだ会話が
はじまっていた。全員が集まった頃、師も悠然と姿を現し、機嫌よく笑顔を見せていた。
師の挨拶も終わり、乾杯してこれからが楽しいひと時とみんな信じて疑わなかった。
しかしながら、その直後、とんでもないハプニングに見舞われたのである。

つい先刻、あれほど機嫌よく挨拶をしていた師が顔を真っ赤にして怒っている。みんなあっけにとられていた。
何があったのかまったくわからない。ようやくトイレがどうのこうのと言っている師の言葉が聞こえた。
そして、「こんなところで酒が飲めるか、俺は帰る。」と宣言すると、
あっけにとられているみんなを尻目に側近のKさんをついて来いとばかり誘って帰ってしまったのである。

この時はさすがにみんな怒った。忙しい時にこうして集まって、さあこれからという頃になって何が気に入らないのか
親分が怒って帰ってしまうなんて、なんということだ。まったく馬鹿らしいとあちこちで声が交わされた。
私は、師がトイレがどうこうと言っていたのを聞いたので、ちょっとトイレを見てくると廊下に出てトイレに向かった。
トイレに入ってすぐ師の怒りが理解できた。タイル張りの床が水浸しで、ところどころに水が溜まっていた。
なるほど、師はこれからの宴会を楽しむべく、先にトイレに入ったらしい。
ところが床が水溜りで汚いのを見つけ、この店は駄目だと見切りをつけたのだということがわかった。

原因はわかったが、みんなの気持ちはすっかりしらけたものになっていた。宴会は盛り上がるはずも無く、早々に
切り上げざるを得なかった。私もはやばやと帰りの電車に乗って寒々しい気持ちで家に帰った。
後になって水商売で一番大切なのは「トイレが清潔で美しいことだ」と師から聞いたことがある。だが、あの時は
十四、五人のメンバーの気持ちもよくわかるので、師の行動にはちょっと賛同出来なかったのを覚えている。
                                                               (2007.2.27)

思い出(7)・小切手払い

定かには思い出せないが、今から二十年ぐらい前の話である。

確か、師と二人だった。大阪ミナミの宗右衛門町にある師のなじみの料亭に連れて行かれたことがある。
そこは超一流とまではいかないが高級料亭であることはまちがいない。しがないサラリーマンのポケット
マネーでは遊べないところだった。
私は初めてではなかった。師と何度かご一緒したことがあった。もちろん、私は勘定を自分でしたことはない。
私ごときの分際で支払えるような金額ではなかったと想像している。

この料亭では必ずある仲居さんが師に付くことになっていたようである。何度かご一緒する度にいつも仲居さんが
同じであることに気がついた。仲居さんの方も師と時々現れる私にお馴染みさんのように親しげに挨拶をしてくれる
ようになった。
なるほど、大物はこんなふうに料亭と付き合うものなのかと感心していたものである。

話しを元に戻すと、
師と二人でその料亭に行ったのは確か年末だった。。師はなじみの仲居さんに料理や酒を運ばせてご機嫌だった。
もともと酒があまり飲めない私は生暖かくなったビールを舐めながら師の話、いや話というよりつぶやきを
聞いていた。

師はあまり長い間一箇所に腰を落ち着けて飲むタイプではなかった。どちらかというハシゴタイプで、ちょっと
飲むとすぐ場所を変えるということもたびたびだった。
この日は特に機嫌が良かったせいか、かなり長い間座っていたように思う。そして帰りがけに驚いたのである。
お気に入りの仲居さんに師はこう言った。

「年の暮れだから、金を入れておこうか・・・。」

そして、内ポケットから小切手を取り出した。銀行が信用度の高い人にしか発行しない個人用の小切手である。
サインだけで印鑑も要らないものだった。当時、「パーソナルチェック」と呼ばれていた。
師はその一枚にさらさらと署名した。ここまでは特に驚くことも無い。私もいくらか酔ってはいたが、ぼんやりと
ただ眺めていただけだった。
次に、師は小切手に金額を書くのだろうと私は手元を見ていたのだが、師はサインだけして、金額を書かずに
そのまま、仲居さんに手渡したのである。

私は、びっくりした。金額が書いてない小切手を渡すということは、そこにいくら書き込まれようが、払いますという
ことになる。少しばかりの酔いが吹き飛んだ。あっけに取られている間に仲居さんは自然な態度でそれを受け取り、
うやうやしく頭を下げた。
最初は「えー、大丈夫かなぁ・・・」と驚いたが、それは時間と共に「すごいなぁ、何てかっこいいんだ」と感嘆する
気持ちに変わっていった。

師はこんな高級料亭でも、いわゆる盆、暮れの年二回払いだったらしいのである。自分専用の仲居さんがいて
金額未記入の小切手を渡す。店と客との有り得ないほどの信頼関係。どこをとっても私には出来ないことばかりだ。

びっくり仰天の年が明けて、またその料亭に行くことがあった。その時は師は居なかった。誰かと行ったのだが
相手の名前は忘れてしまった。
例の仲居さんが来てくれた。師の知り合いということで顔を出してくれたのだろう。
私は早速、あの小切手のことを尋ねた。「金額は誰が書いたの?」と聞くと、その仲居さんはこう言った。

「本当にあれは困りますよ、金額を書き間違えたら大変ですからね。漢数字ですから何度も他の紙に書いて
練習してからでないと小切手に書けないのです。本当に苦労しますよ。」と苦笑混じりに話してくれた。

私は、「そうでしょうねぇ、間違ったら大変ですものねぇ。」と真面目な顔で返事したものである。(2007.7.8)


思い出(8)・暴発

続いてこの料亭での思い出を書こう。思い出してもぞっとする今から三十年以上前の話である。

師と師を尊敬する仲間三・四人で大阪ミナミの串かつ店のカウンターに並んで一杯やっていた時のことである。
もちろん私は一番年下で、サラリーマンの階級でも集まった中では一番下だった。
その頃私は職場での上司と関係が良くなくて、鬱々とした毎日を過ごしていた。
私は知らなかったが、ひょっとしたら励ましてやろうと言う意味合いがあって集まっていたのかもしれない。
師を中心に気心の知れた者たちだから、和気あいあいと楽しんでいたように思う。

その時、どういうわけか私が悩まされていた当の上司が一人でこの店に現れたのである。
この人は、酒好きで飲まずに帰ることは先ず無いと噂されていたほどである。夜の食事は家では取らないと聞いた。
この夜も、一人で同じ串かつ店で一杯飲んで、食事して帰るつもりであったのだろう。

顔を合わせた途端に、私たちの雰囲気も一瞬に変化した。師をはじめその場の仲間達はみんな私がこの上司と
ギスギスした関係にあることは知っていたからである。
しかしながら、現れた本人はまったくそのことに思いが及ばず、ニコニコしていた。愛想よく師や仲間に話しかけ、
声をあげて笑ったりしていた。勿論、師の立場は私の上司よりも上であり、上司から見ればご機嫌をとったつもり
かも知れない。師の表情も厳しくなっていた。なんとなく気まずい雰囲気が私達を取り巻いた。

しばらくすると、師は立ち上がり、場所を変えようと言った。それを待っていたかのように私達も直ちに腰を浮かせた。
すると、例の上司はそれでは私もお供させてくださいと言って一緒に立ち上がったのである。どういう思惑で
言ったのかわからない。おそらく酒のことばかり考えていたのだろうとしか推察しようが無い。
師は無言だった。そして、馴染みの宗右衛門町の料亭に向かったのだった。

タイミングの悪いことに、師のお気に入りの仲居さんは休みだった。あの仲居さんが居ない時は師は機嫌が悪いと
仲間に聞いていたので、まずいなぁと私は心配した。師は酒癖が良くないほうだからだ。のんきな私の上司は
師のことをほとんど知らないらしく楽しそうな表情だった。
部屋に案内され、料理が出て、ビールや酒を飲みはじめた。普段でも無口な師はずっと黙ったまま日本酒を猪口で
口にしていた。なんとなくやばいなぁと師を良く知る仲間達も感じていたらしい。賑やかな会話が無くなっていた。

その時である。
師は口に運んでいた猪口を突然テーブルに叩きつけたのである。ガチャーンと音をたてて猪口が飛び散った。
師は二度も三度も手に持った猪口をぶつけた。仲間の一人が、「危ないっ」と言って師の腕をつかんで止めた。
なおも師は腕を振り下ろそうとしたが、仲間が必死でそれを防いだ。師は一言も発しなかった。無言なのが余計に
怖かった。私達は唖然としていた。
止せばいいのについて来た私の上司も驚愕して、真っ青な顔をしていた。震えているようにも見えた。

仲間達は師に今日はもう終わりにしましょうとなだめて、タクシーを呼んだ。
するとリーダー格の仲間が「松露君、君は師と方角が同じだから師を送って行きなさい。」と言って、嫌がる私を
タクシーに押し込んでしまった。本当は奈良は奈良でもぜんぜん方角違いなのである。
こんなご機嫌の悪い師はかつて見た事が無いのに、よりにもよって狭いタクシーの後部座席に押し込まれるとは・・・。
私はまるでライオンの前のシマウマみたいなものだった。
師は大股を開いて、ぶつぶつなんか言っている。それは鼻歌を歌っているようでもあった。私はドアにしがみついて
座っていた。座席の五分の三は師が占有し、私にはわずかな隙間しか与えられていなかった。そんな姿勢で一時間
以上も緊張し続けた。私は頭がガンガンしていた。吐きそうなぐらいの頭痛だった。

ようやく師の家の近くに来た。
深夜のことでもあり師の家がわからない。タクシーの運転手は何処に止めますかと私に尋ねるが、師の家がわからない
私は答えようが無く、横で鼻歌を歌っている師に恐る恐る尋ねるがはっきりとした返事をしてくれない。
あっちに行ったり、こっちへ戻ったりうろうろしていると突然師は運転手に「ここでいい。」と言った。私はほっとした。

師は車を降りながら運転手にこう話しかけた。
「頼りない奴が道案内していると運転手さんも苦労するなぁ・・・・。はっはっはっ」

それを聞いて私はますます頭がガンガンと痛くなった。それから自分の家までどう帰ったかまったく覚えていない。
                                                                 (2007.7.10)