手作りの味


別に料理が好きだというわけではないが、こだわって手作りしているものが二つある。
一つは梅干でもう一つは蕎麦である。

梅干作りは南高梅で有名な和歌山の友人に教えてもらったのがきっかけだ。
この友人から手作りの梅干をもらって、何気なく口に入れたところ、ずっと忘れていた子供の頃の酸っぱさを
思い出した。思わず「懐かしい味だなぁ」とつぶやいたのを今でもはっきりと覚えている。
さすが梅干の本場、和歌山だ。昔どおりの梅干が家庭に根付いているのだ。よーし、この味に挑戦しようと友人に
教えを請うことにした。 かくして、生まれてはじめての梅干作りに挑戦することになった。もう7年位前のことだ。

ご多分に漏れず幾度かは失敗した。減塩ブームとかで塩を少なくしたためにカビが発生したり、重しに代用した
ステンレス製のボールが梅酢で溶けてしまったりとか、思わぬ失敗で大量の梅を捨てざるを得なかったこともあった。
しかし、今ではそんな失敗もなく順調に美味しい、つまり酸っぱい梅干が出来るようになった。

最近のスーパーに並ぶ梅干は蜂蜜入りとか、鰹節でまぶしたものなどが多い。確かに食べやすくて美味しいのだが、
思わず顔がひきつるようなあの酸っぱさがない。
年を取ると子供の頃に味わった懐かしい食べ物が妙に恋しくなるものだ。現代風の味付けが悪いわけではないが、
それ以上に郷愁を感じる酸っぱさがいい。和歌山の梅干はまさに求めていたそれであった。

梅干作りも四、五年経つと家族で食べているだけではなんとなく物足りなくて、かみさんの友達や私自身の友人に
味の評価を求めておすそ分けするようになる。
「美味しかった」とか「懐かしい味がした」とかの言葉をいただくとなんともいえない満足感がして嬉しくなる。
もちろんお世辞も含まれていることには違いないが、それを考慮に入れても嬉しいのだ。いくつになっても褒められる
ということは嬉しいものだ。
こんな満足感を味わえるのも和歌山の友達からもらったいくつかの梅干と出会ったからである。
今年も梅雨明けした先日、10キロの梅を三日間の天日干しを済ませて瓶に漬け込み一仕事終えたところだ。

もう一つの手作りは手打ち蕎麦である。
蕎麦は昔から好物の一つだった。仕事をしていた時は会社の隣が美味しい蕎麦屋だったのでいつも昼飯はここと
決めていた。三時過ぎにそっとざる蕎麦を食べに行くこともしばしばだった。

定年になって何気なく新聞を眺めていたら、サラリーマンのなかで手打ち蕎麦がブームとなっていて、東急ハンズで
道具一式が良く売れているとの記事が写真付きで紹介されていた。
これだとばかりに早速買いに行った。ついでにそば粉も買ってきた。

解説文を読みながらやってみた。かみさんも半信半疑で眺めていたが、いざ出来上がった蕎麦を食べて驚いた。
硬くて噛み切れないほどの代物だった。それまでの前宣伝が大げさだったこともあって、理想と現実のギャップは大きく、
すっかり信用を無くしてしまった。そして一回限りで蕎麦打ちの道具一式は物置小屋行きとなってしまった。

道具の存在さえ忘れかけていた先日、といっても三ヶ月ぐらい前のことである。
知り合いの人から、「松露さん、蕎麦を打ってみませんか。教えてくれる人が居るのですが・・・。」とお誘いを受けた。
待ってましたとばかりに二つ返事で飛びついた。物置小屋の道具も無駄ではなかったのだ。

そして、待望の蕎麦打ち講習会が始まった。先生もある自動車メーカーのOBで、私よりも数年先輩だった。
一通りの説明があって、実技の模範演習があり、今打ったばかりの蕎麦を手作りのそばつゆで食べさせてくれた。
うまい、実にうまい。思っていたよりは多少固めだったが、確かにうまかった。そして、かって信州の蓼科で食べた
ざる蕎麦を思い出した。あまりのうまさに躊躇無くもう一枚とお代わりをした忘れがたい味を・・・。

よーし、やるぞと決意を固めて、いよいよ自分で蕎麦を打つことになった。やってみると、ついさっき、見ていて何でもない
と思えたことが出来ない。半分以上先生の応援をもらいながらどうにか蕎麦が完成した。冷や汗ものだった。

この先生には二度も講習してもらった。そのおかげで、なんとか一人で蕎麦を打つことが出来るようになった。
かって失ったかみさんからの信用をかろうじて取り戻すことが出来た。

今では専門の製粉会社からそば粉を取り寄せて蕎麦を打つのが最近の楽しみの一つになっている。
蕎麦の世界は偏屈といえるほどのこだわりがものを言うようである。
そのこだわりを楽しむのも隠居の嗜みと信じて、蕎麦道を極めたいと願うこの頃である。(2004.7.23)

体調不良


まったく不思議なものである。

仕事を持っている時には押しつぶされそうなプレッシャーを感じながらも、なんとか気力で乗り越え、
それが原因で体調不良に落ち込むことはなかった。それが仕事を離れて「毎日が日曜日」となり、なんの
プレッシャーもないにもかかわらず、とんでもない体調不良に永い間悩まされることになった。
多分老化現象の一つだろうとは推測するのだが・・・。

それは突然に襲ってきた。というよりは自分で足を踏み外し、奈落のそこに落ち込んだような感じであった。
2004年の大晦日だった。久しぶりに次男夫婦が帰ってくるということで、かみさんがばたばた忙しそうに
走り回っている。料理を手伝おうと台所に立った。レシピを見ながらハンバーグを作るのを手伝っていた。
手でひき肉を練っている時に、突然塩を入れるのを忘れたと思い、あわてて塩をふった。ところが、すぐ
そのあとで肉を練る前に秤で計って相当分の塩をいれていたことに気が付いた。

その時は、「俺としたことがなんということだ、いよいよぼけてきたかな・・・。」と苦笑するのみだった。
かみさんに手伝ってもらってなんとか調整して仕上げた。「やれやれ、疲れた、疲れた。」とソファーに座って
一服していた。

その時である。おれもぼけてきたのかなぁ、と失敗した時のことを思い出していたのだが、だんだん、本当に
どうかなったんだろうかとか、脳の血管がきれるんではないかとか、頭がおかしくなるのだろうか、等々
極めて深刻なことを考えるようになり、そのうち気分が悪くなって、かみさんにちょっと寝てくると言って
ベッドに転がった。ところがますます不安感が増幅して、がたがた震えだした。もうすぐ死ぬのではないかと
思うようになっていた。

かみさんがただならぬ様子に驚いてベッドのそばに来た。がたがた震える私を見てどういうことかまったく
理解できずに大丈夫かと尋ねるばかりだった。

しばらく、ほんのしばらくの間、寝ていたように思う。でも頭の中ではどうやら大丈夫らしいと判断していた。
次男夫婦が来て医者へ行こうと勧めてくれたが、その時にはすっかり落ち着きを取り戻していたので、
大丈夫だ、心配はいらないと強がって返事した。
大晦日はテレビも見ず、年越し蕎麦だけ口にしてぼんやり寝て過ごした。遠くで除夜の鐘がなっていた。
うつらうつらとして2005年を迎えた。

その後、1月中は軽い頭痛やけだるさ、時々吐き気がするなどの体調不良が続いた。

友達はそれを知ると、男の更年期障害だと言う。あるいは、そんなに極端に考えることが理解できないと言う。
かみさんは不思議がって、「そんな失敗は毎日というほどしている」と慰めてくれる。
自分でもなぜそんな状態になったかわからない。

インターネットでいろいろ調べたら、唯一症状がぴったりの病気があった。それは「パニック障害」という
病気の発作だった。発作は繰り返すと書いてあったが、幸いにして私の場合は現在に至るまで二度目はない。
重症になると「うつ病」になると書いてあった。

何のストレスやプレッシャーもないのになぜこんな症状が出たのか今もってわからない。
それから五月ごろまでいろいろな異変に見舞われることになる。(続く)              (2005.7.13)


続・体調不良


自己診断による「パニック障害」の発作は一回きりで、2005年の1月中は、外出も減り、かといって家で
何かをするということもなく、鬱陶しい日々を過ごしていた。
テレビの気象情報では2月の初めに第一級の寒波が日本列島に襲来すると報じていた。

案の定、寒波の襲来と時を同じくしてインフルエンザにかかってしまった。強烈な鼻づまりで寝られない。
いつもなら三日も寝ていればなんとか持ち直すのだが、今回はもともと体調が悪かったためか十日ほど
かかった。私が直った頃にかみさんが風邪を引き寝込んでしまった。これも十日ぐらいかかってやっと
直った。

丁度二人が健康を取り戻した2月の終わりに、前から業者に依頼していた二階の和室を洋室に改造する
工事が始まった。工事は簡単なものだったが、来てくれた二人の職人さんが問題だった。
二人とも強烈な風邪を引いていたのだ。こちらとしては折角風邪が治ってほっとしていたところなのに
またもや風邪をうつされるのではないかと心配した。職人さんはゴホゴホ咳をしながらも頑張っている。

心配どおりにというか、当然というか、不幸にして今度はかみさん共々ふたたび寝込むはめになった。
そして、またまた十日ぐらい咳と頭痛と発熱に悩まされることになったのである。
やっとの思いでふたりが元気を取り戻した頃にはもう3月も終わろうとしていた。

絵画クラブの知り合いの人ががんで亡くなったのは3月の下旬だった。お葬式に参列したのだが、この頃
は腹具合が悪かった。以前から急に腹痛がしてトイレに駆け込むことがしばしばあった。どうもその頻度が
高まってきたように思われた。
悩んだ末に診療所へ行き、検査をしてもらった。結果は心配することは無く、薬を飲んだところ一週間ぐらいで
完全に良くなった。本当のところはかなり腸の具合を気にしていたので若いお医者さんの「心配ありませんよ」
と言う言葉はことのほか嬉しかった。

ところが、次に大ハプニングが待ち受けていたのである。

4月のはじめに突然左耳でズキンズキンという耳鳴りがするようになったのである。
同時に右耳も人のしゃべり声がビリビリとガラスが震えるときのような「びりつき」感を覚えるようになった。
そしてトンネルの中に入った時のツーンとした感じが取れないのだ。

続く不幸を恨みつつ、とりあえず耳鼻咽喉科へ急いだ。「突発性難聴」と診断された。
手遅れになると一生治らないと言われてまたもや不安感が増大する。

ステロイド剤というきつい薬を飲む。副作用があるので医者の言うとおり慎重に服用するよう注意される。
ラッキーなことに十日位で直ってお医者さんと一緒になって良かったよかったと喜んだ。
一生耳鳴りとおつき合いするのはかなわないとおもっていたからである。

ところがである。ステロイド剤の服用をやめた途端に、発熱と鼻血になやまされることになった。
一難去ってまた一難とはこのことかとまたも身の不幸を恨むことになってしまった。

発熱と鼻血は二週間続いた。
耳鼻咽喉科の先生に見てもらうが、あのぐらいの少しのステロイド剤を飲んだための副作用とは思えない、
他に原因がないかどうか一度内科で診察を受けてくださいと振られてしまった。

あわてて診療所へ出掛けたが内科の検査ではどこも悪いところは無いとの事。
何度も診察を受けるが、これといった原因はついに分からず仕舞いだつた。

鼻血と熱が収まってからも、頭痛と背中の筋肉痛が続いた。診療所の先生も思案の挙句、手探りの判断で
不安感や筋肉の緊張を和らげる薬を飲んでみるかということになった。
ところが不思議なもので、これが極めて効果的で、三日ぐらいで頭痛や筋肉痛、吐き気などは完治したのである。
なんやかやと医者通いをしているうちに5月ももう終わろうとしていた。

6月以降、幸いにして体調は上々である。
昔飲んでいたニンニクのエキスを加工した「サプリメント」を再び服用し始めた。
いろんな薬も今のところは併用しているが案外これが効いているのではないかと思ったりしている。(2005.7.13)

(追記)

私が健康を取り戻した6月の初めに、友人から電話があった。「突発性難聴」になったというのである。
私の話を思い出して電話してきた様子。
ステロイド剤には注意するようアドバイスして早く医者に行くよう勧める。
あとで聞いた所、幸運にも完治したとのこと。ステロイド剤も服用したが、止めたあともなんとも無かったと
ケロッとしていた。
口ではそれは良かったと言いながらも、内心ではあの発熱と鼻血の苦しみを思い出してまたしても
己の不幸を恨まずには居れなかったのである。

別れの朝


2004年10月11日、早朝、18年間苦楽を共にしてきた愛犬「キョン」(ビーグル、雌)と永久の別れをした。
昨夜はずっと傍に居て、ただひたすら頭や痩せ細った背中を撫でていた。
今でもその時のゴツゴツした感触はこの手にはっきりと残っている。どうしても忘れられないのだ。

もう五ヶ月も歩けなかった。後ろ足、特に右足が弱って立てなかった。
古い衣装缶をベッドにしていたが、いつまでも歩こうと中でバタバタしていた。天気のいい日は這い回って落ちないよう
庭のウッドデッキに柵を作り、寝かせてやった。暑い日は合板で屋根を作り、日陰を作ってやった。

歩けなくなる一年ぐらい前からいろんな老化現象が現れていた。先ず視力が弱ってきた。そしていわゆる
「ぼけ」現象が出てきた。散歩からの帰りに自分の家へ帰るのに道を間違えるようになったり、今までは
なかった粗相をしたり、ちょっとしたことにひどく怯えるようになった。
どちらかというと身体的な老化より頭脳的な衰えの方が早かったように思う。
でも相変わらず食欲だけは旺盛で以前と少しも変わらなかった。

賢い犬だった。気位の高い犬だった。抱かれたり、触られたりすることもあまり喜ばなかった。
テレビなどで飼い主の膝の上で大人しく寝ている犬をよく見るが、「キョン」は決してそういうことは無かった。
むしろ、頭を撫でられたり体を触られたりされるのを嫌々我慢している感じがありありと顔に出ていた。

それでも、かみさんや私、そして息子達二人にとっても最愛の家族として互いに癒し、癒されてきた。
特に、かみさんにとっては3人目の子供と同じ扱いをしていただけに、日々衰えていく「キョン」を見るのが
辛かったと思う。

寝たきりになって五ヶ月、まったく鳴き声を聞かなくなっていたのに、その日の午後から急に吠え出した。
短い間隔をあけて鳴くのだ。もうその頃は餌も口にせず、かろうじて水を舐める程度に弱っていた。
「キョン」の鳴き声を久しぶりに聞いた。元気になったのかなとかみさんは思ったそうだ。

私はなんか変な感じがしていた。鳴く前に体を痙攣させるようなしぐさを見せ始めたからだ。
夕方になって、ウッドデッキから室内に移した頃には、痙攣がはっきり、強くなってきていた。
口には出さなかったが、もう二三日かなと思っていたので、危ないなと察知した。

息も荒く、おおきく胸を上下させていた。
出来ることは、やさしく体全体を撫でてやることしかなかった。私やかみさんの愛情を伝えるにはそれしか
方法は無かったのだ。

ひたすら撫でているうちに、鳴き声も間遠になり、声もか細くなってきた。
もう夜中の12時をまわっていた。
静かになってきたから今のうちに少し休もうと二階に上がりでベッドに横になった。

ふと、気が付くともう朝の5時を過ぎていた。耳を澄ますがキョンの声は聞こえない。そっと階段を下りて、
寝かせているキョンを廊下の端から覗いてみた。
いつも大きく波打っているいる胸の動きがない。おかしい、じっとその場で目を凝らすが動いていない。

あわてて、まだ寝ているかみさんを起こした。
二人で覗き込む「キョン」はピクリとも動かず、静かに息を引き取っていた。
結婚して40年、初めてかみさんの泣き声を聞いた。思わず私もうめき声をあげ、はらはらと涙がこぼれ落ちた。

昨夜、うつらうつらしながら、二三回「キョン」のか細い鳴き声を聞いた。それが私が聞いたキョンの最後の声
になってしまった。あれは永遠の別れの挨拶だったのだろうか・・・。
最後まで傍に居てやれなかったことを後悔した。だが、逆に、このほうが良かったような気もする。
静かな、厳かな朝の別れだった。

あの朝からもう半年以上になる。追悼の言葉を何度書き始めたことか。いつも途中で投げ出してしまう。
「キョン」と暮らした永い間の思い出が次から次へと頭の中を駆け巡り、書くより前に目の前が涙で見えなくなって
しまうのだ。

ようやくこうして別れの言葉を並べられるようになった。少しは落ち着いてきたのだろう。
しかしながら、未だに胸に込み上げてくる熱いものはどうしようもなく、いつになってもこの気持ちは止められそうに無い。

                                                                (2005.7.14)

オーディオ


このところオーディオを楽しむ時間が増えた。

なんと今年の「父の日」に新品のスピーカーを息子がプレゼントしてくれたからである。子供からのこんな大掛かりな
プレゼントは初めてのことでもあり、とても驚いた。

今までどちらかというと「母の日」とか「父の日」とか「バレンタインデー」などは専ら商売上のテクニック程度に軽く
見ていたのだが、今年からはちょっと見方を変えなければと反省している。

今まで使っていたスピーカーはイギリス製で日本の電機メーカーが輸入していたものだった。買ってからなんと
三十年以上になる。二年ぐらい前から左側のスピーカーのツィーター( 高音を出す部品)が鳴らなくなってしまった。
右側のツィーターは異常なかった。なんとかならないかと随分思案した。
輸入していた電機メーカーに問い合わせたところ、担当者は昔そのスピーカーを扱っていたことは知っているが、
今は扱っていません。申し訳ないがお役に立てませんという返事だった。

そのあと、個人的な意見ですがといって、「その機種は製作していたイギリスのメーカーもつぶれてどこかに吸収され
たはずです。骨董品的な価値がありますので大事にしてください」と言った。
「へぇー、骨董品ですか・・・」。予想外の言葉に喜んでいいのか、怒るべきなのか、複雑な心境だった。

永年聴き続けてきた「骨董品」的スピーカーがなんとも愛しくなった。おとなしい音で中音域がきれいだった。
クラッシク音楽や女性ボーカルが特に良かった。
しかし、片側だけのツィーターではなんとも物足りない。ついついアメリカ製のラジオでCDを聴くことが多くなっていった。

そんなとき、息子が大きな荷物を持ってやってきたのである。
スェーデン製の縦長のスピーカーであった。愛用してきたスピーカーは寂しくその場をはずされ、一旦別の部屋に
仕舞われた。

早速聴いてみた。なかなかいい音がする。やはりクラシック向きのクリアな音だ。低音がやや弱い感じがした。
それも配置上の工夫でよくなった。レコードをかけてみた。レコードの音を拾うカートリッジが傷んだ居るようだ。
すぐに新品に変えてみた。するととてもいい。大いに満足することとなった。

実は、随分前にかみさんに無断でクラシックレコードの100枚セットを買ったことがある。
あとでさんざん文句を言われたが今は「無駄にならなくて良かった」と喜んでくれる。内心、ホッとした。

スピーカーを変えて驚いたことが在る。

何度聴き比べてもCDよりレコードのほうが耳に馴染むのだ。たしかにCDは雑音もなくクリアな音がする。音質としては
断然CDがいいと思う。
だが、私にはやはりレコードがいい。時々傷の音が入る時もあるが全体として暖かで、伸びやかな、やさしい感じがする。
音楽を聴いているという和やかな気分になれる。そしてなによりも臨場感があるのだ。

この間、レコードクリーナー(レコードの埃や汚れをふき取るスプレー)を買いに行ったら、若い女の子の店員さんが
レコードの・・・という私の言葉に顔を傾げて「あぁ、アナログのことですか」と返事されて驚いた。
最近ではレコードという言葉はもう死語になっているのか・・・。
世はまさにデジタル時代なのだと改めて実感した。

最後に、今までの愛用してきたスピーカーの処理に悩んだ。
どうしても捨てる気になれない。恋人と別れるが如きやるせなさを感じるのである。どうしても捨てられない。
だが邪魔にはなる。そこで知恵を絞った。

スピーカーの中身を分解して外箱だけを残した。内部にビニールシートを敷き、二段重ねの飾り棚風に工作した。
その中に自作の陶芸品を並べ、本物の茶棚の横に並べてみた。案外違和感が無い。これでいいと決断した。

こうして万事めでたく落着して、毎日レコードを楽しんでいる。
朝食後のコーヒータイムにカシュナッツをかじりながら「アナログ」の音楽を楽しむ。
ささやかな幸せを感じるひとときである。ひそかに息子に感謝しながら・・・。          (2005.8.25)

露天風呂


日本人は風呂好きだ。私もごく普通の日本人なので風呂、とりわけ温泉が好きである。
仕事をしている頃も、夏と冬には都合が付く限り一泊二日の温泉旅行を楽しんでいた。大いに気分転換になったし、
女房孝行にもなっていた。

定年後は今までよりはるかに何回も出掛けられると喜んでいたのだが、運の悪いことに病気の連続で
ずっと悔しい思いをしてきた。
この頃は健康を取り戻したし、愛犬「キョン」も昨年の秋に永久の別れをして心理的な拘束要因はまったくなくなった。
いよいよこれから永年の思いが実現できそうである。

現にこのところあちこちでかけているのだが、温泉の楽しみはやはり露天風呂に浸かることだろう。
先日も、定年族の特権で平日の格安料金で赤穂御崎のこじんまりとした旅館へ行った。二回目である。
昨年初めて泊まったのだが案外印象が良かった。
先日私の誕生月ということで案内はがきが来たのでかみさんと相談して行くことにした。

この旅館は海岸沿いにあり、目の前が瀬戸内海である。正面に小豆島がはっきり見える。
その奥はるか遠くに四国山脈まで見通せる。

夕食後、海際の露天風呂に行った。中間決算月の月半ば、平日の夜である。
誰もいない。たった一人でぼんやりと露天風呂に寝そべる。

「こんな贅沢をしていていいのかなぁ。みんなはたらいているのになぁ。」
「俺も長い間働いてきたのだからまぁいいか。これも順番だからなぁ。」
妙な言い訳じみた一人会話をしながら真っ暗な海面を見ていた。

丁度珍しく月が煌々と明るい。その光がダイヤモンドの輝きのようにさざなみの立つ海面にキラキラと光る。
その神秘的な美しさにしばらくうっとりと見とれていた。
はるか遠くに停泊中の貨物船が独特の間の在る光の点滅を繰り返している。
あくまで静かである。聞こえるのは潮騒だけだ。
誰もいない露天風呂。私一人の贅沢な時間。もったいないほどの光景だった。

この旅館に限らず、平日の温泉旅行の露天風呂では不思議と一人が多い。
たまに出入り口で誰かとすれ違うこともあるが、大体一人でゆっくり出来る。
どういうわけかいつもそんな時同じような満足感というか、幸福感というか、はたまた贅沢感(?)というか、
妙に素直な感覚を覚えるのである。

そして、同時に「俺も年をとったのだなぁ」と気弱な気持ちになることもある。
平日にたった一人で、遠くはなれた温泉地の露天風呂に入っていると単に旅情を通り越して、今までの人生を振り返り、
センチメンタルな気分になる。それを感じられるのは今現在がきっと幸せだからだろうと思う。

かみさんにはそんなことは口にせず、今度の安上がりな温泉地はどこがいいかと帰りの車の中で相談するのが
いつの間にか決まりごとになっている。いつまでもこうして旅に出られるよう元気でいたいものだ。                                                                                 (2005.9.23)

439才


2005年11月30日、久しぶりに兄弟姉妹が四日市市の実家に集まった。
親父の四十何年目かの命日だったからである。
みんなそろって健在で、奇跡的と言ってもいいぐらいと思うのだが、なんと六人併せて439才になる。

八十歳の姉を筆頭に、七十八歳、七十六歳の姉達、七十二歳の兄、当日残念ながら欠席した六十八歳の
姉、そしてしんがりに六十五歳の私。
足が痛いだの、入れ歯になっただの、ひとり住まいで寂しいだの、散々ぼやきながらも意外に元気な声を出して
遠慮の無い会話が弾んだ。

私だけが遠く離れた奈良に住んでいるため、初めのうちはお参りに行っていたのだが、いつの間にかご無沙汰状態と
なっていた。あいつは遠いところにいるから勘弁してやろうということだったらしい。こっちも親不孝ものだから
つい忘れていることも多かった。

最近この年になって、静かな時間がもてるようになり、かつての姉達やたった一人の兄になにかと援助してもらった
ことを懐かしく思いだすことが多くなってきた。

受験勉強中に静かな応援をしてくれたり、学生時代になにかと小遣いをくれたり、下宿先まで手紙をくれて、必ずなかに
小遣いを忍ばせてくれた姉達。そして貧しい中から学費を送ってくれた兄など。
家族みんなの支援で今の私がある。今になってようやく「有難う」と言いたくなった。

今年こそ親父の命日には実家へ帰ると二ヶ月ほど前から決心していた。なんだか無性にみんなに会いたいと思った。
同時に兄弟姉妹が多いことを嬉しく思った。何と言っても家族の絆は固く、心の底から遠慮のない会話が出来る。

いいことばかりでもない。早くして夫を亡くした姉達の寂しさや、健康のこと、子供達の悩み事などいろいろある。
でも、集まって話しているとなんとなく心が軽くなるような気がするのは私ばかりではなさそうだ。

日頃、体調不良を気にしている私にとっては、年上の姉妹が喧しいほど元気に話しているのを聞いているだけで
とても励みに感じる。もっと元気にならねばと内心で恥ずかしい気分になった。

それにしても、亡き母は良く頑張ったものだ。私達六人の他に、生まれて間もなく亡くなった子が二人いたそうだ。
最後の私を生んで五年後に母は肋膜炎で亡くなった。今の時代と医学なら死ぬことは無かったろうに・・・。
八人も生んだ母は実に偉大な仕事をしたものだ。

私以外の兄と姉達は、それぞれが母との直接の思い出をたくさん持っている。私だけが運悪く幼かったために母との
思い出が一つも無い。顔さえ思い出せない。無性に寂しくもあり、腹立だしくもある。

その代わりと言えばおかしいが、父親とはいろんな思い出がある。
終戦後だったので貧乏の思い出しかないが、それでもなんとなく父親の愛は感ずることが出来た。甘やかされていた
のかもしれない。母親の居ない末っ子を不憫に思ったのだろう。

439才のかけがえの無い仲間がいることをいまさらながら有難いことだと思う。亡き両親に感謝しなければと思うこの頃で
ある。(2005.12.12)

モーツァルトが好き


これだというはっきりした理由は判らないがモーツァルトが好きだ。
クラシックに限らずジャズや演歌などでもいいなぁと思う曲はたくさんある。でも最近はモーツァルトばかりだ。
曲の由来やエピソードなどを良く知っているからその曲が好きというわけではない。
音楽評論家や研究家ではないので、ただ自分の感覚だけで気に入った曲を聴いているだけである。
たくさんのレコードの中からいつのまにかモーツァルトのレコードを選んで聴いている。

学生時代にクラシック音楽を時々は聴いていたが、その頃は特別モーツァルトがいいと思ったことは無かった。
むしろもっと勢いの在る力強い音楽のほうが好きだった。
ベートーヴェンやチャイコフスキーなどの交響曲をよく聴いたものだ。

だが、年齢とともに食べ物の好みが変わるように、音楽も好きな傾向が変わってくるのだろう。
最近の新聞の広告を見ていたら、モーツァルトの音楽を「癒しの音楽」とタイトルをつけているのが目に付いた。
確かに、もっともだと思った。ぼんやりとモーツァルトのレコードを聴きながら考えていた。
なるほど、「癒しの音楽」か・・・。
難しいことはわからないが、考えてみればいろいろある。

どの曲を聴いても、妙な力みがない。押し付けがましいところが無い。無理が無い。
メロディーが素直で、きれいでシンプルだ。そして、どことなく哀調があり、ウェットだ。
要するに、聴いていると心が穏やかになり、やさしくなれる音楽だ。
総じて日本人好みといえると思う。まさに「癒しの音楽」と言えよう。

もともと私は外見とは裏腹に趣向としては非常に内向的なものを好む。
映画はヨーロッパの暗くて、重苦しいのが好きである。ジャズも好きなのはブルースで、息が詰まるほどの
苦しそうな黒人の歌声を好む。モダンジャズではマイルス・ディビスのうめくようなトランペットがいい。

しかしながらモーツアルトの音楽には、そんな暗さ、重さを感じない。
それよりも極めて自然で無理のない美しい旋律だ。天才と称せられる所以だろう。

映画やジャズの好みと共通するのは、あえて言うなら「騒々しく感じない」というところだろうか。
この年になると何といっても静かな雰囲気が一番いい。
人工的でなく、原野を流れる川のようなすがすがしい自然さがモーツァルトの良さだと思っている。
わずか三十五歳で亡くなったらしいが、短い間によくもこれだけたくさんの宝物を残してくれたものだ。
来年、つまり2006年は生誕250年にあたるらしい。きっと日本中がモーツァルトであふれかえるだろう。
嬉しいような、心配なような複雑な気分である。最後に、特によく聴く曲を記録しておきます。(2005.12.24)

○交響曲・・・35番「ハフナー」、36番「リンツ」、38番「プラーハ」、40番、41番「ジュピター」
○協奏曲・・・ピアノ協奏曲第21番(この曲の第二楽章が一番好きだ)、同20番。
○室内楽・・・弦楽五重奏曲K515、516。弦楽四重奏曲第17番。
○その他・・・聖職者のためのヴェスペレ ハ長調K339、アヴェ・ヴェルム・コルプスK618。(この二曲はこの頃
        毎晩聴いてから寝ることにしている)

モーツァルト以外でよく聴く曲。

○ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」
○ロドリーゴのアランフェス協奏曲
○シューベルトの歌曲集「冬の旅」
○ヴィヴァルディの協奏曲「四季」
○ベルリオーズの「幻想交響曲」

文明の利器

このところ散歩を日課としている。健康を維持するには適度の運動が必要不可欠と実感したからだ。

もともとぐうたらな性格なので、夏は暑くて動くのが嫌だとか、冬は寒いから外に出たくないとか、ことある毎に
何かと言い訳して運動をしない。昨年体調を崩してからはその傾向が一段と激しくなった。
かみさんも諦めたのか最近はあれこれ言わなくなった。

今年(2006年)に入ってしばらくたったある好天の日、何かのはずみで近くの公園を歩いてみた。
四十分ほどぶらぶらしたのだが、うっすら汗を掻くほどいい天気だった。
家に帰って汗ばんだ下着を替え、さっぱりした気分でくつろいでいた。久しぶりだったので新鮮な感じが
とても爽快だった。

歩くのがいい運動になって体調も心なしか良いように思い、この日から歩くことを意識し始めた。
無理せずに少しずつ距離を増やしていこうと考えている。

そんな時、新聞の折込広告を見ていたらふと目に付いたものがある。それは「携帯オーディオプレーヤー」の
特集だった。
技術の進歩には驚かされるが、小さなカードに音楽を録音して何時間も聞けるという。
大きさもライター位で重さも48グラムしかない。これなら首からぶら下げても抵抗は無さそうだ。
アメリカ製のものが圧倒的に強いらしいが、最近では国内メーカーも負けずに追撃しているらしい。

「これだ!」とひらめいた。
散歩の時に好きなモーツァルトを聴きながら歩ける。素晴らしいではないか。早速贔屓の電気量販店へ出掛けた。
いろいろのメーカーがさまざまな商品を売り出している。しかし、私はもうあるメーカーの商品に決めていた。
息子がM電器に勤めているからである。幸い試聴してみたら思っていたよりもいい音がイヤホンから聞こえてくる。
店員の説明も上の空で、「これください」というだけだった。

家に帰って、お気に入りのモーツァルトのCDを三枚パソコンに取り込み、それをSDカードに転送して出来上がった。
機能も簡単ですぐに慣れた。これで散歩も一段と楽しくなるし、健康維持のための運動が出来る。
まさしく「文明の利器」だ。その恩恵にあずかれることに素直に感謝したい。

翌日の昼過ぎにいよいよ「文明の利器」とともに散歩に出た。
イヤホンをセットしてボタンを押す。すると家のステレオに負けないほどの音色が頭の中で鳴り響いた。
「いいぞ、いいなぁ」と思わず独り言。そしてなんとなく笑ってしまった。他人が見ていたら気味悪がったことだろう。
いつもより長い間歩いた。不思議なことにあまり疲れなかった。もっとも新鮮に感じるうちだけだろうが・・・。
それでも満足感は充分だった。

それにしても世の中次から次へと便利なものが出来るものだ。
CDが出来て、レコードの針が要らなくなったのも驚いたし、S社の携帯CDプレーヤーに感心しているうちに、今度は
それを上回る携帯オーディオプレーヤーだ。カセットテープや録画テープも今や時代遅れとなってしまった。
それにフィルムカメラもデジタルカメラに圧倒されて無くなりそうだ。
世界的に有名なN社がフィルムカメラの生産を中止するらしい。また有力なフィルムメーカーも生産を縮小して国内、
海外ともに大規模なリストラを実施するようだ。

企業もちょっとした見込み違いで優良会社が四苦八苦することになるのだ。本当に恐ろしい技術革新だと思う。
自分がそんな社会に居たらとてもついていけそうにない。

定年後、散歩の楽しみが増えたといって喜んでいていいのだろうかとなんとなく申し訳ないような気分もする。
明日も天気は晴れの予想だ。昼過ぎには散歩に出よう。(2006.2.4)

「こおなご」の卵とじ

先日、久方ぶりに懐かしい味を堪能した。

子供の頃の大好物、「こおなご」の卵とじである。「こおなご」は漢字で書くと「小女子」となる。いわしの稚魚と
思われていることが多いが、本当は釘煮で有名な「いかなご」の小さいやつで、採れたての生の魚のことである。
私が子供の頃は結構たやすく手に入ったらしくて良く食べた。
今はなかなか生の「こうなご」は手に入らない。三月の初め頃でなければ食べられない。時期を過ぎると
大きくなってまさに「いかなご」になってしまうからだ。ごく限られた時期にしかたべられない貴重な食べ物
なのである。

普通漁師は「こうなご」をすぐに茹で上げてしまう。生で置いておくと溶けてしまうのだと聞いたことがある。
それほど小さい魚なのだ。したがって生で卵とじにして食べるためには、漁師の船が港に戻って来るのを
待って、直接わけてもらわないと駄目ということになる。
余程の暇な人か、余程の幸運な人でないと手に入れることは難しい。

ある朝、私のすぐ上の姉から突然電話がかかってきた。姉は車でも二時間はかかる遠方にいる。
なんだか興奮気味に言うには、今朝「余程の幸運」にめぐり合って、生の「こうなご」が手に入ったと電話口で
叫んでいる。今からあなたの好物の卵とじにして持って言ってあげると言う。

突然「こうなご」と言われて、時計の針を昔に戻すのにしばらく時間がかかった。
畳み掛けるように姉は言う。あなたが「こうなご」の卵とじが食べてみたいと前から言っていたので、いつかは
食べさせてあげようと心がけていたと言う。
ようやく、時計が昔に戻り、「それは有難い、どこにも行かずに待っている」ととりあえず返答した。
出掛けたいところがあったのだが、姉の好意と卵とじの味を思うとそれどころではないと瞬時に判断した。

そして、午後二時過ぎ「こおなご」の卵とじと晴れて対面できた。余程あわててきたのか平たい鍋ごと大事に
抱え、満面の笑みを浮かべた姉の顔があった。そういえば姉と会うのも「こおなご」と同じぐらい久しぶりだった。

早速、かみさんにケーキを切るごとく丁寧に少しだけ三角に切り取ってもらって口に運んだ。
まぎれもなく、子供の頃の味だった。早春の香りもあった。今の時期でないと食べられない春の香りだった。
「うまい!」と思わず声に出た。義兄と姉は上機嫌で大きな笑い声を上げた。
いつもは静かな我が家だけに屈託のない大きな声は家を揺るがすかのごとく派手だった。

二時間ほどして帰ったが、車に乗り込むまで大きな声は止まらなかった。
車にはナビゲーターを付けており、姉は指差しながら「これさえあればどこでも行ける」とまた大声で笑った。

こういう客は毎年来てほしいなぁと厚かましい願望を込めて、「気をつけてね」と別れの言葉をかけた。
あとで、かみさんとあんなに楽天的な夫婦は珍しいなぁと話しながら、思わず二人で小さく笑いあった。
                                                     ( 2006.3.20)

よこ社会

毎年六月は企業の株主総会が集中して開催される。
私も六年前の六月末に小さな会社のかたちばかりの株主総会をもって定年退職した。

自由になって初めの間は戸惑ったり、時間を持て余したり、病気になって入院したりと散々だったが、月日の経過と共に
なんとなく新しい生活に慣れて、今は趣味三昧の楽しい毎日である。

会社という組織はいうまでもなく「たて社会」である。いい意味でも、悪い意味でも上下の関係に振り回される。
個々の人間はたいして違いは無いのだが、肩書きがものを言う社会である。そうしなければ機能しない側面は
認めるのだが、自己犠牲を強いられることも多い。いわば窮屈な「たて社会」である。ましてや私のように自己主張の
強い人間にとっては順応しきれない社会だった。

そんな社会で四十年近く過ごしてきたのであるが、よく勤まったものだと我ながら感心する。
悲しいことに今でも会社時代の夢をたびたび見る。たいがいは楽しい夢ではなく、苦しんだり、困惑したり、悩んだりして
いる嫌な夢である。もう六年も経っているのに・・・。
あるとき、退職後に出来た趣味の仲間にそんな話をしたら、定年後に会社の夢はほとんど見ないと言っていた。
其れを聴いて私は彼の会社生活はとても充実していたのだろうと解釈した。
私はその反対に不満だらけで消化不良になっており、それがいつまでも夢に現れてくる原因なのだろうと思った。
おそらく間違いないと思う。

今は幸いなことにまったくの「よこ社会」にいる。地域内での絵の仲間や、カルチャー教室の仲間、それに年寄り向けの
ゴルフ(ターゲットバードゴルフというスポーツ)仲間。
みんな横並びで上下関係はない。あってもかたちだけのまとめ役がいる程度だ。年齢はさまざまだが元気に遊び、
楽しんでいる。過去を言う人は少ない。常識ある人たちばかりだ。そんな付き合いは実に気楽でいいものだ。

先日、二泊三日のスケジュールを組み、絵仲間四人でスケッチ旅行をした。行き先は信州の安曇野・白馬方面で、
狙いは残雪の白馬連山だった。天候にも恵まれてスケッチや美術館めぐりなど、考えていたことはすべて順調に進んだ。
誰が偉いというわけでもなく、費用も公平に分担して満足できる旅だった。

会社時代にも何度となく旅行はしたが、その目的は常に業績向上に繋がっており、宴会は無礼講とはいうものの、
それをまともに受け取るものは誰もいなくて、たまに馬鹿な奴が羽目を外してあとで睨まれたりするのが精々だった。
定年前ごろには、そんな旅行も参加者が減ってきて、食事券に変わったりした。

退職後、会社関係の付き合いはほとんど無くなった。もともと酒が飲めないので飲み友達はなく、どちらかというと
毒舌家で敬遠されるタイプなのでお誘いも無い。当方もそんな関係を望んでいないので自然と新しい「よこ社会」へ
移行して行った。

「たて」であろうが「よこ」であろうが人間には変わりは無いので、いろんなタイプの人がいる。でも「よこ社会」では
抵抗感も無くそんな人たちを受け入れられるのだ。きっと利害関係が薄い社会だからこそそうなるのだろう。
とにかく、私にとってはこの上も無く居心地の良い社会だ。

いまいましいのは、以前の職場の夢をよく見ることだ。心の奥底ではなかなかふっきれない自分がいる。
四十年近くも身を置いていたのだから仕方の無いことかもしれないが、それが今のところ唯一の悩みである。
夢を見なくなったときこそ本当の「よこ社会」の一員になれたということだろうか・・・。(2006.6.4)

盆と正月

予想もできない大きな喜びがあると「盆と正月が一度にやってきた」と表現するのが昔からの慣わしである。
その「盆と正月」が我が家にもやってきた。

永年待ち望んだ孫が出来ると次男から電話があったのが昨年の11月、そして半年後に長男からまたも
嬉しい電話があったのが今年の5月だった。

最初の次男からの電話には勿論かみさん共々驚喜したのだが、喜びながらもまだ子供のいない長男のことが
ちらっと頭に浮かんだ。それでも初孫の出来たことがこんなに嬉しいこととは想像できなかった。
しばらくは長男のほうにも孫が出来たらすべてめでたし、めでたしとなるのだがと祈るのみであった。
そして、半年後ついに待ち望んでいた嬉しい知らせが長男からあった。来年早々に生まれる予定とのこと。
この時はことさら嬉しかった。二人の息子に平等におめでたをもたらしてくれたことを神様に心から感謝した。
まさに「盆と正月」が一遍に来たのである。

次男からの電話があってからあっという間に予定日が来た。三日ほど予定日を過ぎて今か今かと案じていた
ところ、7月6日の夜、ついに我々にとってはまさに初孫の女の子が元気に産声をあげた。
翌日早速神戸の病院へかみさんと一緒に駆けつけた。
幸い母子ともに健やかで小さなベッドに生まれたばかりの赤ちゃんがいた。初顔合わせの感激は言いようもない。
写真を撮りまくって帰った。
孫が出来るまでは滅多に次男宅を訪問することは無かったのに、孫が出来てからは毎週のように通うことに
なった。自宅のある奈良から神戸まで車で行ったり来たり、目的はひたすら孫を見ることだけである。

そしてはや三ヶ月になろうとしている。「お宮参り」を済ませ、来月には「お食い初め」なる行事をする。
もともとこういうしきたりに関してはまったくの無知であったが、知り合いの経験談やインターネットで勉強した。
それもこれも人並みのことはしてやりたいという一心であった。

パソコンや携帯電話のおかげで離れていても毎日のように孫の成長振りがわかる。便利な時代だ。
アルバムや写真集も楽しみながらパソコンで作れるし、それをプリントして届けることも出来る。
生活に張り合いが出来て少しばかりのストレスも孫の写メールで癒されて元気になる。孫の癒し効果は抜群
である。

長男の方も順調で安定期に入り今七ヶ月に入ったところである。診察で男の子だとわかったとのこと。
いわゆる跡取りが出来て、松露宅もお家断絶を避けることが出来た。あとは無事に産まれてくれる事を祈る
ばかりである。

一人半の孫を持ってしんみり考えることがある。自分の人生そのものである。
結婚して家庭を持ち、子供を二人育て、二人の息子が結婚し、定年まで働き、年金生活でつつましく老後を楽しみ、
加齢とともに病院通いが増え、まったく無かった町内の友人が増えて、趣味が仕事になり、贅沢は出来ないが
たまにはかみさんと旅行も出来る。そして、孫にも会えた。もう一人の孫にももうすぐ会える。

今私には何の不満もない。
いろいろあったが、ごく平凡で、ありふれた平均的な人生を歩んできたと思う。
孫を持って一人の人間として人並みの経験が大体出来たような気がする。これ以上何を望むべきか。
あと私に残された人生のスケジュール表には何が書かれているのだろうか。(2006.9.30)