鉋(カンナ)


最近木工をはじめた。興味のきっかけはガーデニングの本であった。
花や庭に関する分厚い本のおしまいのほうに庭周りの木工作品の作り方が載っていた。
簡単な花台や鉢カバー、木製アーチなどである。
面白そうだなぁ、ひとつやってみるかと乗り気になった。
その気になって庭に出てみるといろいろ直したり飾ったりしたらと思うところが目に付く。
塀際にラティスの設置。クーラーの室外機カバー。窓際の花台などである。
これらの製作はそれほど精密さを求められるわけではない。
ホームセンターで規格の材木を購入し、のこぎりと電動ドリルさえあればだいたいできる。

ところが人間の業の深さか、もっと精密なものに挑戦したくなる。
そうなるといろいろ道具が必要になってくる。今まで使ったことのない道具が欲しくなる。
そのひとつにカンナがある。

実を言うとカンナには子供のころから一種のあこがれを抱いていた。
小学生のとき、友達のひとりに建具屋の息子がいた。家も近かったのでよく仕事場へも遊びに
行った。
友達のお父さんがカンナをかけているのを見ていたことがある。
そのときまるで生き物のようにするすると鉋屑がのびてくるのが不思議だった。手にとって見ると
それは鰹節を連想させ、いかにも美味しそうで口に入れようかと思うほどだった。

家にあった古い錆びたカンナで真似をしてみた。
まるで駄目、削れもせずガタガタというだけだった。どうしたら友達のお父さんのようにするすると
生き物のようで美味しそうな鉋屑ができるのだろうかとずいぶん悩んだものである。
そうはいっても子供のことだから、その悩みもすぐに忘れ去って、いつしかカンナのことは記憶から
失われていた。

それから50年以上も経った先日のことである。
収納家具に挑戦した。棚だけでなく扉を付けた。そのときカンナをはじめて使うことになったのである。
ホームセンターで安物のカンナを買ってきた。
説明書を読んでいよいよ扉の板を削ることにした。安物でも新品の間は良く切れる。
思い切ってカンナを引っ張ったら、出てきたのだ。するすると鉋屑が丸く回りながら出てきた。
子供のころあんなに出来なかった鉋屑が丸まって出てきたのである。嬉しかった・・・。
この感動を味わうのに50年かかったことになる。
子供のときに出来なかったのは、単にカンナの刃が錆び付いていたからだということがやっと
わかった。馬鹿げた結論だが子供の知恵ではそんなものだろうと今ではおかしく思う。

鉋屑にはもうひとつ忘れられない話がある。
ある女性評論家が有力な政治家を「鉋屑のような人物」と痛烈に評したことがある。
「ペラペラとよく燃えるがすぐ燃え尽きるから」という落ちがついている。
人物批評でこれほど強烈なものは他にない。もし私がそう言われたらと思うだけでぞっとする。

いずれにしても鉋屑には子供のころのあこがれと、大人になってから知った激辛批評とが不思議な
思い出としてついてまわっているのである。(2003.2.8)


平凡


窓から差し込む春の陽射しを浴びながら、最近はじめた木彫りを楽しんでいる。
ようやく春めいて暖かくなってきた。石油ストーブの匂いもなく気持ちがいい。
かみさんはいつものようにスゥイミングスクールへ出かけていった。静かな昼下がりだ。
定年後3年目、こうして好きなことをやっていられる今の境遇に感謝せざるをえない。
かみさんが貸してくれたCDをかける。松山千春の高く透きとおった声が聞こえてきた。
なかなかいいではないかと自然に独り言がでる。
いくつかの曲が終わり、次に流れてきた音楽の歌詞に共感し思わず曲名を確かめた。
それには「平凡」という題がつけられていた。
今の自分にあまりにもぴったりの歌詞に驚いた。ことわってここに引用したい。

               「平凡」   作詞作曲 松山千春

           幸せだとか 不幸せとか 感じる暇などなかった
           ただ毎日を恥じることなく 自分なりに歩いてきた
           ほめられる様なことはないけど 馬鹿にされることもないさ
           守れるものはすべて守った まちがいとは思わないさ

           平凡だけど穏やかな この一日の終わりに
           「ありがとう」って心から
           「ありがとう」っていえるから

           寂しいだとか 悔しいだとか そんな時も もちろんある
           何にぶつける 誰にぶつける 投げ出さずに歩いてきた
           楽しいだけの人生ならば それはそれでいいのだろう
           人それぞれの生き方があり 素直に受けとめられたら

           平凡だけど穏やかな この一日の終わりに
           「ありがとう」って心から
           「ありがとう」っていえるから

           幸せだとか 不幸せだとか 感じる暇などなかった 
           ただ毎日を恥じることなく 自分なりに歩いてきた

繰り返し、繰り返し何度も何度も聞いた。いつのまにか彫刻刀を投げ出して、目を閉じたまま
聞き入った。
歌声に合わせて38年間のサラリーマン人生が走馬灯のように流れる。
そのおりおりの出来事を思い出して自然に目頭が熱くなった。涙がこぼれた。
泣くという感じではない。過去の自分がいとおしく思えた。よくやってきたなと同情しての
涙かも知れない。

ゆったりとしたメロディも大変美しいが、なにより歌詞があまりにも今の私に合いすぎる。
「共鳴」とはこういう感じを言うのだろうと実感した。
毎日を恥じることなく・・・、「ありがとう」っていえるから・・・。これらの言葉が胸を打つ。
何気なしに聴いたCDのおかげて久しぶりに心を洗われたような気がした。(2003.3.17)


悪い癖

「松露さんは多趣味でいいですね」とよく言われる。
そのたびに内心ドキッとする。
確かに好奇心が強いせいかいろんなことに手を出す。しかし長続きしないのである。
飽き性というか、へそまがりというか、さあこれからという時になって急速に熱が醒めてしまう。
周りの人が私の趣味を正しく認識してくれたころになるとなんだか嫌になってくるのだ。
特にその弊害を蒙るのが家族である。期待感を持たせておきながらそれを裏切ることが過去に
いくつもあった。
そしていつしか、また始まった、どうせそのうちに飽きるだろうと冷たく観察されるようになった。
どうやら「悪い癖」と断定されたらしい。

そうはいうものの、今は「水彩画」、「陶芸」、「木彫り」の三つを手がけている。
陶芸は3年目に入った。水彩画は2年目である。木彫りは今年からだ。
パソコンは5年になるがこれも趣味に入るのだろうか・・・。
珍しく続いているのは環境の変化のせいだ。
仕事を持っているときは、ストレス解消という意味での趣味だった。
定年になった今は、趣味は仕事なのである。もう飽き性とかへそまがりとか言って
居られない。ほかにすることが無いのだから・・・。
しかも楽しいのだから言うことはない。
ただ、難点は結構お金がかかるということである。乏しい財政をやりくりしてそれぞれの道具を
買う。
実は道具類を買うというまさにこの点が「悪い癖」に繋がっているのである。
私は道具を買うという行為がとても楽しい。なんともいえないドキドキ感があるのだ。

何かに興味を持つと、私の場合は本屋に通うことになる。そして、興味が湧いた事柄に
関する案内書を探す。このときも楽しい。数冊のガイドブック、大抵は「初めての・・・・」とか
「・・・・入門」とか「初心者向け・・・」とか「簡単・・・・」とかのタイトルが付いている本を買う。
すると買ってきた本をかみさんや息子どもに見つかる。するととたんに「また始まった・・・」と
糾弾されるのである。
なんとかかんとか言い訳して、次はいよいよ道具あさりとなる。
かって、もっとも厳しく非難されたのが「アウトドア」用品だ。
なんせその種類の多様なこと。まるで新婚所帯のごとく生活用品が要るのである。
テント、テーブル、イス、寝袋、ガスコンロ、なべ数種類、ランタン、ベンチ、ターフ、水タンク等々。
来る日も来る日も、小物類を買い求める。楽しいキャンプを夢見ながら・・・・。
そしてあらかた道具類も整って、さあ、出かけようとなるとなんとなく面倒になり、デイキャンプ
(日帰り)を琵琶湖や大台ケ原など数箇所行ったきりで熱が醒めてしまった。
たくさんの道具類はほとんど物置小屋を占領したまま現在に至っている。

かみさんが物置小屋を開けるたびに「何とかしてよ、この道具」と叫んでいる。
しかしながら、道具を揃えながらずいぶん楽しませてもらったことも事実であり、いずれ大地震
でも起こればきっと役に立つぞとかみさんをなだめることにしている。

そのほかにも最近では木工道具を大分買った。
電動のこぎりやドリル、ジグソー、卓上電動糸鋸、はたがね、作業台、バイス等々。
これらはかみさんには評判が良かった。収納家具の如き棚をいくつも作り喜ばれた。
今は木工から木彫り工芸に興味が移ってきているが、道具類は現役で役立っている。

それにしても今までいろんなことに興味を寄せ、道具を買っては、また次のことに夢中に
なるという繰り返しだった。
家族の冷ややかな視線を気にしながらも「悪い癖」は直らなかった。
定年になって趣味が仕事のいま、ようやくかっての「悪い癖」は直りそうである。(2003.5.27)


「三日三月三年(みっかみつきさんねん)」


このところ定年退職の挨拶状が次から次に届く。そのたびに「そうか、彼ももう定年か」と考える。
そして次に「自分が定年の挨拶状を出してもう3年かぁ」と感慨にふけることになる。

思い起こせば、当初の一年間は環境変化と体調不良でいらいらばかりだった。
二年目に入ってかろうじて健康を取り戻した。三年目は新しい社会に入り込み、新しい仲間も
出来て今は快調な暮らしである。
「三日三月三年」とはよく言ったものだ。

初めてこの言葉を聞いたのは、社会人になりたてのころ、学生気分が抜けぬまま不平不満を漏らす
私に説教してくれたある先輩の口からだった。
「とにかく三日間辛抱しろ、それができたら三ケ月我慢しろ、そして次には三年間耐えるんだ、
そうしたら何かが見えてくると・・・。」
当時は「ふーん」と軽い気持ちで聞いていたと思う。ただ、「みっかみつきさんねん」という語呂が軽快で、
妙に心に残ったことを覚えている。

普段は特に思い出すことはなかったが、こうして静かな時間が持てるようになつた今、この言葉の意味を
あらためて噛み締めている。
38年間の勤めを無事に卒業出来たのは、すべてこの言葉のおかげだとは思えないが、
単に面白半分の語呂合わせではなく、案外真面目に受け取るだけの価値がある言葉かも知れない。

そういえばこの数字の「3」は格言やエピソードにもしばしば登場する。
「石の上にも三年」とか「光秀の三日天下」とか「三本の矢」、「三方一両損」、「二度あることは三度ある」
などなど・・・。
昔から覚えやすいというか、区切りのいい数字なのだろう。一度じっくり調べてみたい「3」である。

話は戻るが、とにかく無職の年金暮らしも3年が過ぎた。
現役の頃は、定年になったら初めの3年間は好きなことを思いっきり楽しんで、4年目からは大人しくしようと
計画していたのだが、現実はままならず、3年間は精神的、肉体的に右往左往の生活だった。
4年目に入った今、ようやく趣味を通じて新しい社会に馴染んできた。
「三日三月三年」が過ぎて「何かが見えてきたような」気がする。計画よりは3年遅れで夢見てきた
暮らしがスタートできそうである。

ところでこの文章を書きながら思い出したのだが、「三日三月三年」を教えてくれたこの先輩は、
他にも面白いことを言っていた。

いわく「男の出世は女から・・・」と。

ちょっと下品な言葉のように聞こえて、あまりいい感じはしなかったのだが、当時独身の私に
「いい奥さんをもらえよ」と諭してくれたのであろう。

果たして私の場合はどうだったのか、あまりにも恐れ多くてうちのかみさんに確認する勇気がない。
逆襲されるのが恐ろしいからである。(2003.7.29)

運転技術

昔から車の運転は好きだった。還暦を三年過ぎた今でも車の運転は苦にならない。
他人に載せてもらうより自分でハンドルを握るほうがいい。
ついこの間も一人で能登半島を一周してきたばかりである。もちろん無事故無違反。

振り返って考えてみると、四十年ぐらい前、免許取立ての頃に事故して以来、ずーっと無事故である。
はじめに事故の怖さを知ったのが良かったのか、それ以後安全運転を心がけ、慎重に車を運転してきた。

それでも、駐車違反や一旦停止の不十分、シートベルト絞め忘れなど人並みの違反は経験しており、
痛い罰金を支払った覚えはある。スピード違反も一回あった。
しかしながら相手のある交通事故とは奇跡的に今日まで出会っていない。幸運と言うべきであろう。
今後もこの幸運が続くよう心しなければと思う。

だが、このところ少しばかり不安に思うことがある。
肉体的、精神的衰えからくるうっかりミスやポカである。その前兆らしき出来事を先日経験した。

今は最近はじめたスケッチに夢中である。天気のいい日は仲間と一緒によく出かける。
もちろんひとりの時もある。
あちこちスケッチポイントを探しながら狭い道に入り込むこともしばしばである。
広い国道や高速道路を走るのと異なり、まさに運転技術を試されるような道ばかりだ。

この日は一人だった。
天気は良く、昨夜の風が淀んだ空気を吹き払い、透き通ったような初冬の陽射しだった。
絶好のスケッチ日和。気分が弾む。目的地は当麻寺周辺と決めていた。
幹線道路をはずれて、狭い道に入った。このあたりには以前に来たことがある。きょろきょろしていると、
左にカーブする小さな橋に差し掛かった。直進か左折か一瞬迷ったが左折して橋を渡ろうとした。
迷ったためにハンドルを切るのが一呼吸遅れた。
一旦バックして切り返せばなんともなかったのに、確認もせず強引に左折したため、コンクリートの低い
ブロックに乗り上げてしまった。まずいと思う間もなくタイヤがドシンと道に落ちた。
川に落ちなくて良かったと安堵してハンドルを戻した。だが異様に重い。
車を道路の端に止めて降りて見た。なんと、タイヤにたまご大の穴が開いており、無残にもぺしゃんこだ。
ぞっとした。こんなことは今まで経験したことがない。大変なことになったと青ざめたが後の祭りである。
落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせた。

通りがかりの工務店の人に助けてもらってなんとかスペアタイヤに交換出来た。
スケッチ気分もすっかり吹っ飛んでただ帰るしかなかった。新品のタイヤを1万4千円で買い替える羽目と
なってしまった。

帰る道すがら考えていた。
ついこの前は植木を剪定していて左手人差し指の先を切った。あわてて病院に駆け込んだ。
へまやポカが続く。これも老いの兆候かと不安になる。そういえば車の運転もカーブになると、なんとなく
ハンドルがスムーズに切れないような気分がする。気のせいだろうか・・・。
まだまだ老け込む積もりもないのだが、このごろちょっとしたアクシデントが続いている。
今まで以上に神経質になって丁度いいぐらいなのかもしれない。用心、用心。(2004.1.10)

褒め上手

町の絵画クラブに入って一年経った。とても楽しく、かってないほど熱心に参加している。
理由を考えてみるといろいろある。

先ず、絵を描くことはもちろん楽しいのだが、それ以上にクラブは私にとって新しい「社会」なのである。
人によって姿かたちは変わっても「社会参加」は必要欠くべからざるものだろう。
今まで苦手にしていた近所のおばさんたちとも気軽に話すことが出来るようになったし、私と同じような
定年組のご同輩とも気楽に付き合えるようになった。新しい社会にかかわっていくことが新鮮であり、かつ
楽しい。

だが絵画クラブにかくも熱心な理由は何と言っても「絵の先生」にある。
先生はどんな絵でも褒める。水彩絵の具を初めて使った私の下手な絵でも先生は褒めてくれた。
絵の中のほんの一部分でもいいところを見つけて「ここの色はきれいだ」とか褒めてくれるのである。
いわゆる「褒め上手」なのだ。

ほとんどが還暦前後の正真正銘の熟年生徒たちである。年相応の人生経験を積んだ人ばかりを相手に
絵の指導は大変困難なことと想像に難くない。
そんな海千山千のつわもの(?)どもの唯一の泣き所が「褒められる」ことなのだ。もう少しくだけていえば
「おだてられる」ことなのである。
どんなに頑固な熟年男性でも、どんなに片意地な熟年女性でも、描いた絵を先生に褒められると
たちまちにして頬が緩み恥らうような嬉しい表情になり、生まれたての赤ちゃんのような素直さを取り戻す。

うるさ型の私自身もすっかり先生の術中にはまり、褒めてもらう快感を胸に一生懸命絵に集中する。
そして予想通りホンの少しいいところを褒めてもらって満足するのである。
こうして一年経った。
今では、そんな先生の指導方法を念頭に置いて、ちりばめられた褒め言葉の中から、本音と建前の区分を
心の中でするようになった。
どれが本音の褒め言葉で、どれが建前の褒め言葉かクイズを解くように自分で考える。それが結構楽しい。

今年はクラブに入って二年目になる。
なんとか本音で褒める先生の言葉をもらえるよう頑張るつもりでいるこの頃である。

それにしても、現役の頃にこの先生なみの「褒め上手」さを持ち合わせていたら、もう少し出世していたかな
と思うとともに、私の怒声ばかりを受け止めてくれたかっての仲間に申し訳ない気がしてならないのである。
                                                          (2004.1.18)

古いもの

この頃以前にも増して「古いもの」に引き付けられるようになった。
それは「絵」を習いだしたことに関係がありそうだ。
どんなに風景がきれいでも、そこに古い民家や白壁の土蔵がないと描こうという気にならないのだ。
逆に言うと、風景に何の特徴がなくても、壊れかけた作業小屋とか古い瓦の民家とかがあれば描いてみよう
という気になる。つまりそこに「古いもの」がないといいなぁとは感じられなくなってきたのである。

若いときから「侘び,寂び」なんて結構興味はあったのだが、今のように「古いもの」がいいと実感することは
なかったように思う。

古都と呼ばれる奈良に住んで三十年、あらゆる「古いもの」に囲まれて生きてきた。にもかかわらず、
今に至るまでそれを「観光資源」としかとらまえていなかった。仕事の延長線上にある感覚、つまり
経済的側面から眺めてきたような気がする。正直に言って、「古いもの」を「文化遺産」として純粋に尊重し、
美しいと感じたことはなかった。

定年4年生になった今、少しは心のゆとりが出来たのだろうか。「古いもの」を見つけるたびに嘘偽りなく
「いいなぁ」と思うようになった。
「古いもの」は時間というか歴史というかお金では買えない衣装を纏っている。お金を山ほど積んでも
手に入らない衣装なのである。しかも一度破壊されると二度と同じ衣装を纏うことは出来ない。
代替品のない財産なのだ。

絵に興味を持ったおかげで、今まで見えていなかった「古いもの」の良さに敏感になった。
幸いなことに奈良には古いものが数限りなく残っている。これからは幾多の風雪を耐えて生き延びてきた
古きものの美しさを少しでも深く愛でることにしたい。(2004.3.11)

計算違い

早いもので今年の六月が来ると定年後まる四年になる。
定年になったらあれもしたい、これもしたいと期待に夢をふくらませていた。

今この四年間を振り返ってみると、はじめの一年半ほどは歯医者、耳鼻科、眼科などを巡り歩いたすえ、
ついには自然気胸になって県立病院へ入院手術とあいなった。まったくさんざんの闘病期間だつた。

二年目の後半からはなんとか平穏無事に過ごし、三年目になってようやく落ち着いて時間を楽しめるように
なった。今はすこぶる快調である。

こうして元気になると毎日じっとしておれない。旅に出たくなる。かみさんとも定年になったらいつでもどこへでも
旅にでられる。日本中を旅しようと常々話していた。もともとお出かけ大好きなかみさんは随分それを楽しみに
していたのである。ところが前述のとおり歯が痛いだの、目が痒いだの、声が出なくなっただの医者通いばかり
している。しまいには通うばかりでなく入院手術となってしまった。
かみさんにとっては楽しい旅行は夢と消え、心配ばかりの定年生活となったわけである。
私にとってもかみさんにとっても大きな「計算違い」だった。

しかし、定年3年目ぐらいからようやく健康を取り戻し、すこぶる元気になった。私もかみさんもいよいよこれで
念願の自由気ままな旅を楽しめると喜んだ。しかしながらここで大きな問題があることがわかった。

我が家にはもう一人、いやもう一匹の家族がいたのだ。老犬の「キョン」(ビーグル・メス)である。
当年とって17才で今は18年目に突入している。人間で言えば100才近くになる。
これが問題なのである。

老夫婦二人にとっては誠に愛すべき存在であり、しかも人間で言えばおぎゃーと生まれてから成人にいたるまで
一緒に居たことになるのだからまさしく「家族」なのだ。
鳴き声はもちろんのこと目の表情でも彼女の意思が汲み取れる、まさに「あうん」の呼吸を心得た存在なので
ある。
その彼女は今は衰え、食欲はあるものの、耳は遠く、目は白内障でよく見えず、筋肉は痩せてとても臆病に
なった。特に後ろ足は弱って、歩くのもやっとの状態である。それでもひょろひょろと庭を歩いている。
ちょっとした坂にも立ち止まって一休みし、そろりそろりと這うように歩く。
排泄もコントロールできず、垂れ流しの状態だ。その始末に翻弄される毎日である。
こんな可哀相な家族をおいて家を留守には出来ないではないかと思案に暮れている。
大変な「計算違い」だ。

この犬を買い求めた当時、何年ぐらい生きるか調べたことがある。平均寿命は14年とあった。その時の計算では
丁度私が60才、定年になる頃だと計算した覚えがある。これなら定年後には自由に家を開けられると納得して
いたものだ。
しかし18年とは思いもよらなかった。もちろんそのこと自体はまことに持って喜ばしい限りである。
情愛の深さは私もかみさんも決して他人に負けないと自負している。
だが、憧れていた自由気ままな旅に出られないのもつらい。こう老いぼれてしまった愛犬をペットホテルに預ける
勇気もない。
老犬「キョン」は今日もよろよろと庭を歩いている。餌は喜んで食べる。
このまえ、以前に預けたペットホテルに餌を買いに行った。そこのオーナーは我が愛犬を良く知っていて、いわく、
「食べている間は大丈夫です。あの犬なら20年は生きますよ。」と・・・。
嬉しいやら、辛いやら、何と言うべきか・・・。

この分では当分憧れの気ままな旅は無理だろう。
晴れて堂々と旅に出られるまで、私自身の健康管理に一層努力するしか術は無さそうである。(2004.5.4)

終の棲家(ついのすみか)

2004年5月、一生で二度と買わない買物をした。松露「終焉の地」を自ら決めたのである。
そう、私は自分が永久に眠るであろう場所、つまり墓地を購入したのである。

次男である私は自分で「終の棲家」を決めなければならない運命だった。
この年になるまでおぼろげながら意識しつつも、緊急性があるわけでなし、まだまだ楽しみたいことが
山ほどあるため、ついついないがしろにしてきた。いや正直に言えば、死ぬことに対してまともに向かい合って
考えること自体が出来なかった。かっては冗談で「俺の葬式はこんな具合に・・・」とかかみさんに話して縁起でも
ないとよく叱られたものである。
その頃は「死」なんて自分には関係がないと思えるほど遠い存在だった。

ところが、定年になって体調を崩し、短いながらも入院生活を体験したり、自分で年を取ったと感じることが多く
なってくると、出来るだけ「死」という重い事実から目をそむけたくなる。真面目に考えるべき時なのに、恐ろしくて
そのことから逃げだしてしまうのだ。だが、常に頭の隅に引っかかっていることも間違いがない。

そんなある日、いつものようにホームセンターへ買物に行き、その帰り道いつも通る大きな霊園の前にさしかかった。
その時、突然ハンドルを霊園の入り口に向かってまわした。どんなところか見てみようと思ったのである。実は昨夜も
四方山話からいつの間にか墓の話になって、「嫌な話をするな」とかみさんに注文を付けた事を思い出したのである。

隣に座っていたかみさんが「どこへ行くの」と声をあげた。「ちょっと見ていこう」と言いながら霊園の真ん中を通る道を
登っていった。
想像していたよりもはるかに広い霊園だった。
それに手入れが全体に良く出来ており、整然としてさわやかな感じがした。
きれいなところだなぁと妙な感心をしているうちに霊園事務所についた。
「何の予備知識も無いのですが」と尋ねると、「空いている墓地に案内しましょう」と係りの人が出できてくれた。

その途中でいろいろ尋ねた。話を聞いているうちになんとなく落ち着いた気分になった。いくつかの空き墓地を見て、
次に一段と小高いところにある区域を見て回った。はるかに信貴山を見渡せる景色のいいところだった。
もしここを買えば、死んでからもこのいい景色を眺めていられるわけかと思いを巡らせた。
そこに立っていると不思議に自分の死をそんなに重く感じることもなかった。ただここが「俺の終の棲家に・・・」と
ため息の出るような感慨に酔いしれていた。

おぎゃーと生まれて六十数年、いろんな人生経験を積んでそれなりに頑張ってきた一人の男は、この地を見つける
ために今日まで戦ってきたのだろうか・・・。
「終の棲家」の予定地に佇んでいると相手の声もうわの空でほとんど聞こえなかった。

「よし、買おう。ここに決めた。」、かみさんも気に入っている様子だし、家からも近い。子供たちもここなら
よく知っているので、ちょくちょく顔を出してくれるだろう。そういえば、今住んでいる家も買物帰りの衝動買いだった。
しかも結構気に入っている。この墓地も買物帰りの思いつきだが、案外いいかもしれないと一人合点していた。

家に帰っても老夫婦はなんか穏やかな気分になっている。あんなに嫌だった自分の墓の話だったのに、私は胸の
つかえが取れたようなさっぱりした気分だった。
もともと自分の墓は故郷に建てたかったのだが、よく考えれば、この奈良の地で故郷以上の年数を過ごしているのだ。
ここに「終の棲家」を決めておかしいことは何もない。
この町が私の第二の故郷であり、この地が私の「終の棲家」になるのだ。
そう思うと、今までよそ者気分で住んでいたわが町に、親戚に感じるような親愛感が芽生えてきた。 現金なものだ。
                                                                (2004.5.11)

迷惑な巣立ち

私は今とても満足している。
というのも、以前にヒヨドリの巣立ちを熱心に観察していたことが大変役に立ったからである。

ヒヨドリの場合は、庭のヤマボウシの木に巣を作ったので鳴き声が多少うるさかったものの、出来るだけ
驚かさないよう気を使ったぐらいで済んだのだが、今回の巣立ちは大変だった。

5月8日の夕方、夕食中になにやら天井裏でゴソゴソしている。耳を澄ますとどうやら鳥の足音らしい。
「面倒なことになったなぁ」と嫌な感じがした。しばらくあちらこちら天井裏を歩いていたが、やがて静かに
なった。入ってきたところから出で行ってくれることを期待しながらその夜は床に就いた。

翌朝はやく、かみさんに起こされた。夕べの鳥がピーピー鳴いている。どうやらすずめの雛らしい。
一階と二階の間の天井裏、しかも台所の配電盤のすぐ近くにいるらしい。移動はしていない。

困り果てて、近所の電器屋さんに来てもらった。
いわく、「確かにここに居ますが、天井のボードを一部外してみないとよくわかりません」という。
やむなく同意する。天井のボードを苦労して剥がしたものの、雛は捕まらない。しかたなく、今度は
配電盤横の壁に、手が入るだけの穴を開けざるを得なくなった。やっとのことで雛を保護したのだが、もう
かなり弱っている。とりあえず、庭に洗面器を置いて入れておいた。
可哀相なことに翌朝力尽きて死んでしまった。

5月12日朝、またもやかみさんが騒がしい。何事かと思えば、また小鳥が天井裏で鳴いているという。
この前は一階と二階の間だったが、今度は二階の天井裏だ。またまた嫌な感じがした。
押入れの天井には屋根裏に上っていくための出入り口がある。そこをよじ登って懐中電灯をかざしてみると
仰天した。なんと目の前に大量の藁くずを積んだ鳥の巣があるではないか。見えないが確かに何羽かの
雛がぴーぴーと鳴いている。
大屋根の軒下に通風孔がある。そこに張ってある金網をかいくぐって天井裏に巣を作ったらしい。

またまた近くの業者に電話した。今度は電器屋さんでは無理だと思って、時々見かけるチラシの業者に
連絡した。
意外とあっさり「わかりました、伺います」との返事。少しだけ安堵した。
しばらくして、若い人が様子を見に来て、「職人さんを連れて夕方に参ります」という。突然のことなので、
すぐには来てくれないのも当然と思い、了承した。
そして、夕方四時過ぎから、雛の捕獲と巣の除去、屋根の通風孔に金網を張り直す作業がはじまった。

なんでもそう上手く事は運ばないもので、巣の除去と金網張りはスムースに済んだのだが、肝心の雛が逃げて
しまった。二羽いることはわかったのだが、真っ暗な天井裏のことだ、断熱材の下に潜り込んで動かない。
最悪の事態だ。もう金網は張りなおしたので、親鳥は入れない。このままではほどなく死んでしまうだろう。
可哀相だし、こちらも迷惑だ。どうしたものかと業者ともども思案にくれた。

もう仕方がない。天井裏への出入り口を開けたまま、雛たちが自力で出てくるのを待とうと決断した。
以前にヒヨドリの巣立ちを見ていたときの親鳥の行動を思い出した。餌をくわえたまま雛を巧みに誘導する習性
を利用しようと思ったのである。

翌朝、5時ごろ目が醒めた。雛はピーピー鳴いている。そっと部屋に入り、窓をすべて開け放した。親鳥が餌を
与えに入れるようにしたのだ。雛が弱ってはどうしようもない。そして、また布団に潜り込んだ。
一時間ぐらい経って、部屋をそーと覗いた。すると突然天井裏から親鳥が飛び出てきた。びっくりしたが、同時に
しめたと思った。雛に餌を与えているのだ。雛はいずれ親が誘い出すに違いないと確信した。
そして、半時間後に、部屋に入ると、一羽の雛が飛び出てきた。私に驚いたはずみに飛んだのだ。
やったーと思って見ていると、南側の窓から外へ出た。天井裏は静かである。もう一羽もひょっとしたらすでに
出ているのかも知れない。天井裏を覗いてみた。しばらく懐中電灯で探していると、ガサガサと音がする。
がっかりした。やはりまだいたのかと双六の振り出しに戻ったような気分である。
そして、また一時間後、かみさんが用があると言って部屋に入った。そのとたんに大声をあげた。
あわてて部屋に入ると一羽の雛が畳の上を走っている。それを見た途端に何ともいえぬ喜びを感じた。
雛は小さくて可愛かった。そっーと近づいて捕らえようとしたが、結構すばしこい。もう大丈夫だよと声をかけながら
追うと今度は東側の窓から飛び出て行った。

かみさんと二人で大喜びした。
最初の一羽は救えなかったが、あとの二羽は無事に巣立って行った。
何より嬉しかったのは、一度は捕まえるのに失敗したものの、自力での巣立ちを待った作戦が完璧に成功した
ことだった。
数年前のヒヨドリの観察は無駄ではなかった。いや大いに役立ったと言える。ヒヨドリに比べて今回の雀の
巣立ちは迷惑千万だったが、小さい命を救えたことがなんとなく自分を和やかな気分にさせてくれた。
雛たちの無事な成長を祈るとともに、願わくは、一言お礼を言えるものなら言って欲しいと思うのである。
                                                        (2004.5.15)