泣き面に蜂

定年前によく耳にした言葉がある。
「今までの緊張がプッツリ切れたあと体調を崩す人が多いので、定年になってからも
規則正しい生活を心がけ、健康に留意してください。」
         
この言葉を聞くたびに、「あぁ、ありがとう。俺は大丈夫、大丈夫。どこも悪いところはないから」
と判で押したように答えていた。

そして、今月で退職して1年と4ヶ月が過ぎた。
この間を振り返ってみると、まさに冒頭の言葉どおり、体調を崩しっぱなしであった。
それも、原因はただ一つ、「歯」なのである。

定年2ヶ月前、第二の人生を楽しくすごしたいと、簡易インプラントによる歯の補強工事を
敢行した。わざわざ長崎の歯医者まで遠征したのである。
一週間程度の入院で完了するという友人の言葉に惹かれて決心したのであった。

それから3ヶ月間は流動食を義務付けられていた。
体重が3キロぐらい減った。そして、7,8月は柔らかいものなら口に出来るようになった。
しかしながら、喜びも束の間、9月に入ってアクシデントが発生。
インプラントした下の歯がぐらつきだしたのである。
またもや「おかゆ」生活に舞い戻ることになった。11月に入れ歯に変えるまで続いた。
この事故については、すでに「9月危機」として以前にエッセイを書いた。

下の歯を入れ替えてから10ヶ月。
今年の9月にまたもや最悪の危機が訪れた。
今度は、上の歯のインプラントが原因で「副鼻腔炎」、つまり「蓄膿症」にかかったのである。
耳鼻科の医者は、上の歯を撤去しないと根本的な解決にはならないという。

かくして、この9月29日、またもや歯の撤去作業をやるはめとなった。
そして今、無事に撤去を終え、めでたく上下とも着脱自在の総入れ歯に落ち着いたのである。

定年後、16ヶ月のうちの半分、8ヶ月は流動食を余儀なくされた。
それのみならず、歯痛や先行きの不安感など精神的苦痛は極限にまで達していた。
         
考えてみると、良かれと思って治療したにもかかわらず、その治療が原因で狂うほど
悩み、苦しんだことになる。
しかも、保険外治療のためにべらぼうもなく高い治療費をはらってのことなのである。

初めから総入れ歯にしておけば、こんな辛い思いをする事はなかったのにと後悔した。
まさに後の祭りである。随分高い授業料だった。

そんなおり、JTB(旅行代理店)から封書がきた。
10月8日からの北海道旅行をキャンセルしたため、申込金返却のお知らせとある。
なかにはボールペンで事務的にキャンセル料として52千円を頂きますと書いてあった。

「泣き面に蜂」とはこんなことを言うのだろう。

定年後我が財布の中身で増えたモノは、眼科、耳鼻科、歯科などの診察券ばかりである。
                                                     (2001.10.5)
「注記」
ここで言う簡易インプラントとは、一般的なインプラント治療とは異なり、顎の骨に
チタン製の留め金を打ち込み、人工歯を固定する治療のことをいう。
                    

  


「松露」あれこれ

        


親父が亡くなってから、今月の30日で37年になる。
私の結婚が決まって喜んでいたのだが、残念ながら式には出られなかった。
腹の調子が悪いと訴えてわずか一週間の入院で亡くなったのである。

兄弟姉妹で交代に付き添ったのであるが、その日は兄と私の二人で病室に泊まっていた。
親父はその日、気分がいいらしく、二人の息子をそばにおいてタバコをくゆらしていた。
「タバコがうまいなぁー」と呟きながら二本を立て続けに吸った。
石油ストーブで暖を取っていたのだが、空気が汚れてきたのか、兄が頭が痛いと言い出した。
ストーブを消そうと私が言うと、寝ていた親父が「消さないでくれ」と言った。
この言葉が、私の聞いた親父の最後の声だった。

夜半になって、兄が親父のベットを見ると、左手が布団から出ている。寒そうだからと
布団の中に入れようとした。
そのとき、兄が異常な声で私に叫んだ。

「医者を呼んで来いっ・・・」 
親父の手が冷たくなっていると感じたらしい。
何事かとベットから飛び降りて、私は部屋を飛び出した。
夜中のことでもあり、広い病院のどこに医者がいるのかわからない。
病室に戻って、兄に言うと、「よし、俺がさがしてくるっ」と代わりに部屋を出ていった。
その間、私は親父に向かって何かを叫びながら、看護婦を呼ぶボタンを押し続けた。
しばらくして、兄が医者を連れてきた。
さすが、長男、こんなときには本当に頼りになると嬉しかった。
医者は、親父の脈をとり、やがておもむろに手を合わせた。
そして、「ご臨終です。・・・・・」

私は、何のことか理解できなかった。
親父が死ぬなんてことは夢にも思っていなかった。
「えっー、まさか、まさか、死んだなんて・・・」
「間違いじゃないか、死んだなんて、嘘だろう・・・、どうしよう・・・」と心の中で繰り返すばかり
であった。
兄も同じ気持ちだったと思う。しばらく二人とも床にしゃがみこんだままだった。

気を取りなおして、兄が言った。「とにかく、姉達に知らせて来い」
私は、暗闇の中を悲壮な気持ちで自転車を走らせた。
夜が空けきらないうちに、病院の車で親父のなきがらを自宅まで運んでもらった。
そのあとのことは、あんまり記憶に無い。
ただ、病院を出るとき、そばにある松の木からからすの鳴き声が聞こえた。
からすの鳴き声は不吉と聞いていたが、本当なのだなぁと瞬間的に思ったが、声には
ならなかった。

翌年の2月10日、私は結婚式を挙げた。
もっと先に延ばそうかとは考えたが、親父の誕生日に挙式するのも親孝行になるかもしれない
と決行した。兄弟姉妹には言わなかったが、誰も反対はしなかった。

それから、何十年も経ったある日、姉達から親父は若いころ俳句に凝っていた、「松露」という
俳号まで持っていたと聞いた。
「松」と「露」、二つの文字から受ける印象がとても奥ゆかしく感じた。
いいなぁと思って、後継ぎになろうと決心した。俳句はできないが、名前だけでも引き継げば
親父も喜ぶのではないかと思ったからである。

世間にはめったにこんな名前は無いだろうとたかをくくっていたのであるが、インターネットで
検索したら、なんと1400件を超える「松露」があった。
饅頭やら料亭、焼酎、ホテル、駄菓子、会館など、あるわあるわで驚いた。
本来、「松露」とは海辺の松林の根元に生える「きのこ」の一種らしい。
なんでも茎がなくて白くて丸い小さなきのこだそうだ。
松の樹にやどる「露」を思わせるところから名づけられたものらしい。
九州の唐津近辺では「松露饅頭」という銘菓があり、結構値段も高いようだ。

何年か前、大阪の地下街を歩いていて、とある和菓子店で「松露」という文字が目に入った。
「ほほぅ、松露という菓子か・・・。」
思わず、手にとって眺めた。子供のときにこんなお菓子を食べた気もするなぁと思い出した。
ところが、値段を聞いてがっかりした。ずいぶん安いのである。一袋300円ぐらいだった。
なんだか「松露」という名前を傷つけられた気がした。

以前に読んだエッセイを思い出した。「親父の値段」という題だった。
亡き親父が書いた本を古本屋で見つけた息子が、あまりに安い100円という値段に憤慨し、
わけのわからない店主から1000円で買い求めたという話である。

私は安い駄菓子の「松露」をなぜか5袋も買いもとめ、食べられそうにないので会社の同僚に
配って歩いた。

いつかは、佐賀県の唐津に行って、高価な銘菓「松露饅頭」を胸を張って買いたいと念じている。
                                            (2001.11.25)

世代交代


2001年12月、思いがけない病気にかかり、二度も手術して、正月を入院したまま迎えることとなった。
「自然気胸」といって、肺が突然破れて空気漏れを起こし、萎縮してしまう病気である。
いろいろ程度があって、自然に治る場合もあれば、簡単な手術で漏れた空気を吸い出して治す
ものもある。再発することの多い病気である。
また、特徴的なのは、若いほっそりした男性がよくかかる病気だそうだ。
還暦を過ぎた私が罹るとは医者も不思議らしく、はじめは盛んに首を傾げていた。

私の場合も、「気胸」そのものは簡単な手術で漏れた空気を吸出しながら、破れた肺が自然に
固まるのを待った。
そして一週間で空気漏れは収まった。やれやれと安心したのも束の間、医者が言うには、
右肺に大きな袋ができており、これを手術して取らないと必ず再発する。手術したほうがいい
と勧めるのである。

四年前に、事故で左足首を複雑骨折して手術したことがある。
そのときの痛みを思い出して、躊躇した。だが、またこの病気が再発したときの不安も恐ろしい。
「医者の言うことを聞くしかないか」と決断した。

12月20日、開胸手術をした。手術そのものは全身麻酔でなんにもわからないのだが、そのあとの
一週間は正直辛かった。還暦過ぎの体力では思うように回復せず、袋を取ったあとの肺の戻りが
遅いのである。ずいぶんイライラした。
それでも新年の8日になって、退院の許可が出た。

今回の入院騒ぎで特に感じたことがある。
それは、「世代交代」をことのほか意識したことである。
老妻はともかく、二人の息子の私に対する接し方が以前とはまるで違うように感じた。

今まで私から見て、二人の息子は独立しているとは言うものの、まだまだ人生の先輩として私が
面倒をみなければならない存在と思ってきた。
あくまで私が「親」であり、彼らは「子」であった。リーダーシップは私にあると思ってきた。

今度の病気でなんとなく、そうした関係に変化の兆しが現れてきたと感じたのである。
息子の存在が、以前は「面倒を見る対象」としか私には映らなかったのであるが、入院中に何度も
顔を見るたびに、息子に「世話になっている」と感じ始めたのである。

お互いの言葉のやり取りにもそれが現れてきた。
「息子に何かを頼む言葉」や「親父の様子を気遣う言葉」が会話のなかに入ってくる。
そうした会話をしながらも、一種の安堵感が私の心の中に広がるのがよくわかった。

こんなことは今まで無かった。親子の関係が新しい段階に入ってきていると思った。
「世代交代」とでも言おうか、いよいよそんな年代に私が突入しているのだと認めざるを得なかった。

「老いては子に従え」と昔の人はことわざを残している。
私の人生もこの言葉を身近に感じる領域にあるのだということを、今回の入院騒ぎははからずも
教えてくれたことになった。
寂しくもあり、嬉しくもある心境である。(2002.1.21)


只今禁煙中


我ながら「すごいことだ」と感心している。

昨年末に病気で入院したことを契機に始めた禁煙が、四ヶ月たった今も続いているのである。
タバコに縁の無い人からみると何でもないことのようだが、愛煙家を自負していた私のような者に
とっては、天と地がひっくりかえったような出来事なのである。

一日40本以上プカプカ煙を吹かせていたのに、病気(気胸)のおかげでぷっつりと煙断ち・・・。
この私に禁煙生活が始まるとは「瓢箪からこま」、「夢のまた夢」といったところか・・・。
うるさかったかみさんも「まさかお父さんが禁煙できるなんて、夢みたい・・・」と
高く評価してくれている。

禁煙の困難さ、辛さを容易に想像できるがゆえに、一種の言い訳として「禁煙」よりも「禁酒」の
ほうがもっと大切であるとエッセイを書いたこともある。

思い起こせば、今から四十年以上も前の夏だった。
故郷からはるか離れた大学に入学し、下宿住まいの開放感も手伝って、タバコに手を出した。
仲間との共同研究と称してとある田舎で合宿したときのことだった。

何の違和感も無く煙を吸って、なんだこんなものか、と特別な感情は抱かなかった。
当時は今ほどタバコは健康に悪いという社会通念は確立されていなかったのである。
タバコを吸うということは大人になった一種の証明のようなものだった。

いくぶんか格好をつけて、煙をくゆらすのが習慣として定着した。
それから実に四十数年、一回も止めようなんて気にはならず、モクモクと煙を吹かせていた。

それでも、近頃は内心「タバコは良くないなぁ、いずれ止めなきゃ」と考えていた。
しかし、なかなか口にしなかったし、実行できる自信も無かった。

今回はなんせ「肺」の事故というか病気である。「肺」即「タバコ」と関連付けて考えるのが普通だ。
当然、入院した2001.12.12からさすがにタバコは怖くて吸えなかった。

一週間で気胸は治った。
このとき退院していたらおそらくタバコは止められなかったと思う。

ところが、右肺に出来ている「巨大ブラ」と言う袋を除去するため、再び手術をすることになった。
そのため、幸か不幸か三週間入院生活を延長することになったのである。
当然、タバコは吸えない。かみさんがタバコが嫌いになるという「禁煙飴」を買ってきた。
仕方なくそれを舐めては我慢していた。

二週間経ち、三週間経つとそれまでの禁煙時間が貴重に思えてきた。
吸いたくなると、せっかくの今までの禁煙時間がフイとなる。もったいないではないか。
そう思いながら我慢した。

そしてもう四ヶ月になる。

今では、レストランに入って、「煙草はお吸いになりますか?」と尋ねられると、
ひときわ大きな声で「禁煙席をお願いします」と言う。
言いながらも心のうちでは「ヘビースモーカーのこの俺が禁煙席か・・・」と苦笑する。
かみさんも「おとうさんが禁煙席とはねぇ・・・」と冷やかしながら笑う。

せっかくだからずっと続けるつもりである。だが、今でも無性に吸いたくなることがある。
と言うことはまだ完璧に止めたという段階ではない。
したがってあくまでも「只今禁煙中」なのである。(2002.4.9)

一人旅

このあいだ、四国一周の一人旅をした。5泊6日の旅だった。
出かけるときは、車中泊も考え、毛布や寝袋、非常食まで積みこんだ。

実際には、車中泊を予定していたパーキングエリアに着いてみると、狭かったり喧しかったりで、
とても落ち着いて寝られるとは思えず、実行できなかった。
「その年になって野宿か」とみんなにからかわれたせいもあるが、やはり度胸がなかったと
告白せざるを得ない。結局5泊ともホテルを利用した。

ところで、なぜ「一人旅」なのか・・・。

よく考えると、あてもなく一人で何日も旅をするなんて生まれて初めてのことだ。
独身時代もそしてかみさんと結婚して37年の間も、一人旅の経験は無い。
会社の仲間やかみさん、そして二人の息子達、常に誰かと一緒だった。
それが、定年退職して1年半、意を決しての一人旅である。
なぜ「一人旅」がしたくなったのだろうか。自問自答してみた。

まず第一に、定年退職したことである。
「38年間よく努めてきた、ご苦労さん」と自分を慰労したい気がしていた。
これからはすべての時間を自由に使える身分になったのだから、一人のんびり旅をすることも
許されるのではないかと考えた。

第二に、当然のことながら時間が有り余っていることである。
定年になったらやりたいことを思いっきり楽しむのだと意気込んでいたものの、さてとなると
何から手をつけて良いのやら・・・。
スケジュールはほとんど毎日が白紙である。楽しむより「100パーセントの自由」に
戸惑うことのほうが多かった。
そこで、とりあえず旅をしようと考えた。

第三に、昨年末に「自然気胸」となって入院、開胸手術をしたことである。
さすがに寄る年波、肉体的にも精神的にも参ってしまった。
もっと参ったのは入院患者のほとんどが高齢者で、そのやつれた姿を見ることだった。
まるで自分の行く末を見ているようで実に辛かった。
入院中のこの体験は、結果として健康を取り戻したら「元気なうちに好きなことをしておかねば・・」
という焦りに似た決意をもたらした。

第四に、いわゆる「濡れ落ち葉」にはならないぞ、という自尊心である。
定年後は何をするのも一人で出来ず、「濡れ落ち葉」みたいにかみさんに
へばりついている。そんなみっともないことだけは絶対にしないと現役中から思っていた。
したがって、退職前から定年後もかみさんにはいつも通りの生活スタイルを維持するように
話していた。

地域に密着しているかみさんは毎日が多忙である。
反面、私のほうは地域に何のつながりも無い、持つ気もない。
すると、だんだんイライラしてくる。寂しくもなる。でも「濡れ落ち葉」にはなりたくない。
この局面を切り抜けるためには何かを思いきって実行することだと考えた。
それが「一人旅」という結論になったのである。

結果として、四国の佐田岬を見に行こう、いっそのこと四国一周してみようということになった。
金は無いが時間はある。いつまでという期限もない。
その日の寝場所はガイドブックを見て電話する。
いざとなれば車中泊でもいいではないかと夢が膨らんだ。

旅の途中で話し相手が欲しいこともあったが、それ以上に自由気ままに走りまわった気楽さが
良かった。まさに「一人の個人」として束の間を楽しんだ。
帰ってからも気持ちが明るくなって、久しぶりに何かをやり遂げた充実感に満足していた。

他人様から見ると他愛も無い自己分析ということになろうが、これがなぜ「一人旅なのか」という
問いに対して出した自分の答えなのである。(2002.4.25)


同窓会    


4月の下旬、突然小学校6年生のときのクラス会があると電話が入った。

声に全く覚えが無い。それは当然のこと、電話をくれた幼馴染のH君とは50年ぶり
だったからである。

でも名前を聞いてすぐに同級生だったことを思い出した。
H君の名前を口にしながら、案外昔のことを覚えているもんだなぁと自分でも驚いていた。

いままで同窓会の話なんてまったく無かったのに、人生も還暦を過ぎると急に子供の頃が
懐かしくなってくるのだろうか。

そう言えば昨年は中学校のクラス会のお誘いがあった。
これも卒業以来初めてのことだった。
このときは「歯」の治療中だった為、やむなく欠席をした。

今回は体調も良く、懐かしさも手伝って喜んで出席の返事をした。
電話を切ってからもしばらくの間、幼かりしころの思い出を頭の中で探しつづけていた。

「小学校に入学したのが終戦間もない昭和21年、卒業が昭和27年(西暦1952年)だ。
貧しかった、汚らしい子だった、女の先生が怖かった、算数が苦手で国語が得意だった、
帰り道のお喋りが楽しかった、道草が得意でまっすぐ家には帰らなかった、手製のピストルで
西部劇ごっこ、竹製の刀でチャンバラごっこ、給食のコッペパン、転入してきた都会の女の子、
学芸会に運動会、などなど。思い出は次ぎから次ぎへと頭の中を駆け巡る。
いつのまにか自然と顔がほころんでくる・・・。懐かしいなぁあの頃が・・・。」

特に親しくしていたT君やI君と会えるのがことのほか楽しみだった。
私達は、小学校から中学校、高等学校とずいぶん長い間一緒だった。

T君はクラスで成績が一番で、リーダーだった。やさしくて、気さくで、みんなから好かれていた。
彼とは学校からの帰り道がいつも一緒で、西部劇の話に夢中だった。
木切れで作った手製のピストルをガンマンよろしく指先でクルクル回しては得意になっていた。
互いの家に行き来しては、西部劇のまねをして遊んだものだ。

クラス会当日、久しぶりの再会を果たし、懐かしい思い出話に時の経つのを忘れた。
わたしが秀才のT君に、「よくおもちゃのピストルをクルクル回して遊んだなぁ」というと、
T君いわく、「今でも回しているよ、モデルガンだけど・・・」と思いがけない返事。
「えっー、今でも・・・、今でもやってるのーー・・・」
わたしは唖然として口がふさがらなかった。

いくら子供のときに夢中だったとはいえ、還暦を過ぎた秀才の熟年男が今もおもちゃの
ピストルをクルクル回しているなんて、とても信じられなかった。

だがこんなにも純粋?なT君を「いい奴だなぁ」と、幼馴染としてあらためて誇りに思ったのは
言うまでも無い。(2002.5.17)


散歩道


仕事を持っているときは、余程のことが無い限り散歩することは無かった。
朝はちょっとでもながく布団の中にいたかったし、夜ははやく布団の中に入りたかった。
「散歩」というイメージは学者か芸術家のような、時間に余裕のある人達のものであって、
あくせく働くサラリーマンには不似合いだと思っていた。
精神的にも余裕が無かったのかもしれない。

ところが定年退職した今、健康の為にせっせと朝の散歩を楽しんでいる。
別に学者や芸術家になったわけではない、単に暇になっただけのことである。
定年退職者と散歩とは必然的に離れがたい結びつきがあるようだ。

ところで毎朝の散歩はどこを歩けばいいか、これがなかなかむつかしい。
お気に入りの散歩道を決めるには距離と風景が大切なポイントとなる。
自分の体力と相談しながら出来るだけ好きな風景に出会えるコースを選ばねばならない。

今、私が毎日歩いている散歩道がある。
距離は往復4キロ、風景は雑木林のなかにつづく山道で、標高273メートルの頂上には
水の神様を祭る小さな社がある。
頂上からの眺めが良く、奈良盆地を一望できるし、大阪、神戸、淡路島、天気の良い日には
明石大橋まで見える。

部分的にちょっと辛い登り道もあるが、概して歩きやすい。
左右は雑木林でほとんど人の手は加えられていない。自然のままである。
道はもともとは地道だったが、近時コンクリートで舗装された。
その分情緒は失われたが、歩きやすくなったことも事実である。
ということで、今回は私のお気に入りの散歩道をご紹介いたしましょう。(2002.7.8)

錯覚

定年退職してから2年が経った。ずっと無職である。

初めのうちは、なんか仕事はないものかと焦りに似た気持ちもあった。
しかしながら、それ以上に体調不良に悩まされ、いまいましい思いの連続であった。
ようやく2年目に入って、病気にも解放され今のところ気分は上々である。

何も定職が無くぶらぶらしているだけであるが、それでも定年直後の妙な焦りも
なくなった。川の流れに掉さすこともなく、流れに乗ってふわふわと浮かぶ枯葉のような
心境に到達したのだろうか。

それにつけても一日が早い。まさか時間の早さが変わったわけではないと思うが、
サラリーマン時代、学生時代、高校や中学、そして少年の頃・・・。
遠い思い出になればなるほど一日が長かったように思われる。
今が一番時間の経つのが早い。

子供の時の一日はずいぶん長かった。学校までの歩き時間、そして学校での勉強や
放課後の時間、道草しながら友達と一緒に家まで帰る時間・・・・。
今の時間とはくらべものにならないほど長かったように思う。
昔も今も一時間は変わらないはずなのに。

そういえば、距離感についても時間と同じような錯覚を感じたことがある。
私は高校までは親元にいたが、地方の大学に入学してからはずっと故郷を離れていた。
たまに実家に帰ることがあっても、外出はほとんどしなかった。

それがあるとき、実家から中学校まで歩いたことがあった。といっても遠くはない。
歩いても5分ぐらいの距離である。
そのとき、「えっー、こんなに近かったかなぁ」と驚いた。記憶の中ではもっと遠くに感じて
いたからである。
子供の時の距離感が頭の中に残っているために、大人になってからの距離感と大きな
誤差が生じたのだ。
これも時間感覚と同じように不思議な錯覚の一つかも知れない。

いずれにしても時間といい、距離感といい、子供のときは随分長かった。
今は、両方とも非常に短く感じる。不思議な錯覚にとまどうこのごろである。

これが「老いる」ということなのだろうか・・・。(2002.8.8)


わがまま 

近頃、随分「わがままになったなぁ」と感じる。
誰にも束縛されず、気の向くままの生活を続けているせいだろうか。
それとも世間によくある頑固爺に仲間入りしたのだろうか。

もともとサラリーマンの時から我侭というか、意地っ張りというか、自己主張が強いタイプだった。
そのためよく上司から注意されたものである。
本来、素地があるところに、自由気ままな生活環境という肥料を得て、見事な菊の大輪の如く
「わがまま」の花を咲かせたというところか・・・。

テレビはニュースぐらいしか見ないのだが、アナウンサーのしゃべり方にも文句をつけている
自分に気がついて、我ながらあきれることがある。
働いている頃は同じサラリーマンとしてのよしみか、ちょくちょく言い間違えるアナウンサーで
あっても、そんなに気にすることはなかった。
この頃は、よく言い間違えるアナウンサーに対してはつい失礼な暴言を吐いてしまう。
まことにもって心が狭いと恥じ入る次第である。

お気に入りの散歩道を歩くときにも自分の「わがまま」に呆れることがある。
そこは雑木林のなかに続くゆるやかな山道なのだが、たいていは前後に人影はない。
まったく一人で歩く静かな山道だ。せいぜい4,5人の人とすれ違う程度である。
いつも出会う人達だ。かるく会釈を交わして挨拶をする。
なかには、挨拶しない人もいる。そんな人とすれ違ったときは気分が良くない。
次からはこちらも当然のように無視する。心が狭いなぁと反省する。

また、たいてい一人で静かに歩いているのだが、たまにおばさんのグループが近くを歩いて
いることがある。
普通に歩いているとたいして速さは変わらないから、山頂までずっとそのおしゃべりを聞くこと
になる。話の内容まではわからない。ただ、けたたましく飛び交う元気な声が気に障る。

この散歩道は不幸なことにまっすぐに続く一本道で、脇道もなく休憩するベンチもない。
したがって、無理して早足で歩き、ふうふう言いながら距離をあけるしか方法はない。
結局は、喋り声ぐらいでそんなに無理することもないかと今日の不幸を悔やむことにする。
自分だけの道ではないので、腹を立てるほうが間違いなのだが、静かに自然の中を歩く
楽しみをなんだか削がれたような気分になる。これも勝手な理屈だと反省しております。
こんなことぐらいで気分を悪くすること自体、すでに気難しい頑固爺になっている証かもしれない。

働いていた時の煩わしい人間関係から解放されて、自由を謳歌できるのも幸せなことだが、
一面それに慣れきってすべての人間関係がうまく出来なくなってははなはだ困る。
隠居の身とはいえ、そこそこの「社会性」も必要である。趣味を通じた新たな人間関係もある。
心しなければと思う。

家族でさえ手を焼くような、どうしようもない頑固爺にはなりたくない。
出来ることならものわかりのいい、正直者の花咲か爺さんになりたいものだ。(2002.10.22)


文化祭

年を取ると子供に返るというが、ついこのあいだ久しぶりに少年時代の感覚を味わった。
それは、照れくさいというか、面映いというか、晴れがましいというか、とにかく新鮮な感覚だった。

実は、自治体主催の「文化祭」につたない水彩画を出品したのである。

といっても、別に厳格な審査を経ての参加ではない。
自治体の運営する絵画教室に参加している人すべてが出展させられるのである。
役所の人が言うには、ただで一年間教えてもらうのだから、せめて自治体主催の文化祭には
参加してくれということだった。おそらく先生への月謝は自治体の予算に組まれているのだろう。
担当部署の役人さんにとって、教室の参加者の出品が仕事の成果ということになるのかもしれない。

そういうわけで、5月から数えて、月一回、3時間、6ヶ月分の成果を無理やり出さざるを得なかった。
当初教室の参加者は11名であったが、文化祭への出品を約束させられたせいか、途中2人が
消えてしまった。私自身も出品できるような作品が描けるとはとても思えなかった。
辞めようかと思った。

ただ、先生がとても感じが良かった。73歳と大先輩ながら、非常に若若しく、指導も熱心だった。
言葉は随分厳しかったが、かえってそれがすがすがしく感じられた。あくまでも絵が好きで、純粋
な人だと思った。絵に対する熱意から厳しい言葉を発しているのは明らかだった。
そんな先生に出会えたのだからなんとか頑張ろうと耐えることにした。

教室で静物画(かぼちゃとくり)を描いた。形はともかく栗の葉っぱの色が違うと先生の批評だ。
翌日、近くの山間にある栗の葉っぱを剪定バサミを車に積んで取りに出かけた。
文化祭の前に自宅で描きなおした絵を先生に見てもらうことにした。

文化祭まであと2週間。今日の教室で出品作品を完成させねばならない。
教室のメンバーすべてが不安感を隠せない。スケッチブックを片手にウロウロしているばかりだった。

そんな生徒の不安をよそに先生はみんなの作品を並べてしばし眺めていた。そしてやおら筆を取った。
一枚づつ恐るべきスピードで筆を入れていく。みるみるうちに見違えるほどの作品に生まれ変ってゆく。

こんなに良くなるものかと信じられないほど絵が変る。不思議で仕様が無かった。
私の絵も淡々と修理され、命が吹き込まれたような気がした。
そして、めでたく立派な額に納まり作品が出来あがった。

みんなも一様にほっとした表情で、なごやかな雰囲気である。さっきまでの焦燥感は跡形もなく消えて、
どんな風に展示されるのかという方に関心が移ったように思えた。

そして、文化祭当日が来た。
教室参加者の作品は会場の正面入り口に近いコーナーに一列に展示されている。
ひやひやものの作品が、その過程を隠して立派な額に納まり、平然とそして堂々と並んでいる。
私はそのコーナーの当番として一日中そばのパイプ椅子に座っていた。会場は盛況だった。

しかしながら、我々初心者のコーナーにはあまり足を止める人はいなかったように思えた。
新参者のひがみかも知れないがなんとなくそう感じた。
だが、たまににぎやかな一団が訪れることがある。当番としては嬉しいのだが、会話をよく聞いて見ると
出品者の家族らしい。しばらくして静かになり、また騒がしく一団が現れる。これも家族だ。

かくして、結局は身内ばかりがやけに目立つ初めての文化祭は無事に終了した。
この記念すべき作品は、今は晴れがましく我が家のリビングルームに堂々と飾られている。(2002.12.6)