シニア新人              

シニア」とは、「年上の人」という意味だ。
「ジュニア」いわゆる「年下の人、若い人」に相対する言葉なのである。

しかし、世間では明確な根拠なく、一般的に60才以上の定年退職者層を指す言葉のように
使われている。
日本人の平均寿命が延びるにつれ、昔は「年寄り」とか「老人」だったものが、近頃は「熟年」、
あるいは「シニア」と、呼び名がかっこよくなってきた。

しかし、何歳を区切りにしているのかは定かではない。
自己流に解釈すれば、今の「シニア」とは50才から70才ぐらいではないかと思う。
70才を越えると、昔からの「年寄り」・「老人」と言えるのではなかろうか。
こんな定義はたいして意味のないことであるが、おおまかにいって「シニア」と言う場合は、
60才になって仕事を離れた人々を指す言葉のような気がする。

誰かの詩に「青春とは心の持ちようである」とある。
若さと年齢は関係ないという励ましの言葉を連ねた詩である。
言われるまでもなく、等しく人間は何時までも若くありたいのである。
そのために、健康食品や美容外科、或いはスポーツクラブやカルチャー教室が商売として
成り立っている。
       
ご多分に漏れず、私も自分自身では「シニア」とは感じていない。
定年退職して、経済社会から身を引いたとはいえ、心の内ではまだまだ若い、精神年齢は
40才台かなと思っている。
これはあくまでも自己評価であり、自分勝手な「言い訳」なのかも知れない。
他人から見れば、年相応に白髪が目立ち、顔にはサラリーマン社会を生き抜いてきた「しわ」
が刻み込まれ、きれいすぎる歯並びを「入れ歯」と見抜かれているのかも知れない。

この間とんでもないことを経験した。
家の近所に、映画館がオープンした。ひとつの建物のなかに7つのスクリーンをもつ郊外型の
複合映画館である。
便利な物が出来たと喜んで、早速足を運んだ。
もちろんリタイア組の特権で平日の昼下がりである。
チラシには60才以上は特別割引があると書いてあった。しめしめと自動車免許証を左手に
もって、チケットを買おうと窓口に向かった。
うら若き女性が粋な制服を着て座っていた。私が映画の名前を言って免許証を出そうとした時
それを遮るようにきれいな声でこう言った。

「はい、シニアの方ですね。割引がありまして千円になります。シニアの会員証をお渡しします。
今後ともよろしくお願いします。」

私はあわてて、左手の免許証をズボンのポケットにねじ込んだ。
嬉しいような、寂しいような、そしてまた恥ずかしいような、誠に複雑な心境を引きずって
暗い座席に座ったのである。(2001.1.23)
       

      


愛煙家の嘆き

私は愛煙家である。しかしながら近頃はいささか肩身が狭い。
世間の愛煙家に対する冷たいまなざしはまるで「野蛮人め」と罵っているようでもあり、
まるで犯罪者のように糾弾されそうでもある。

かっての職場でも次第にタバコの煙が周りの人に迷惑をかけるということで、狭い「喫煙ルーム」
に押し込まれることになった。

駅のプラットフォームでははるかな端っこに「喫煙コーナー」が出来ている。
電車を気にしながら、寒風吹きすさぶなか、急いでスパスパやらねばならなくなった。

飛行機では、初めは喫煙可能であったが、今では絶対禁煙が当たり前である。
映画館も吸えない。レストランも駄目、最近は蕎麦屋でも駄目。

そして、ついに自宅リビングでも不可となった。

正月前に室内の改装をしたのが原因である。ついでだからと家具類の拭き掃除をしたのであるが、
タバコによる汚れが際だっていたからだ。

せっかく部屋がきれいになったのだからと以後タバコは厳禁となってしまったのである。
仕方なしに台所の換気扇の下に折り畳み椅子を置いて吸うことになった。
そこでならやむを得ないと配偶者の許可が出たのである。

今まではゆったりとソファにもたれながらタバコを手にしてテレビを楽しんでいたのに、部屋を
きれいにしたことが裏目となってしまった。
わずかに、こうして雑文を書いている我がパソコンルームだけが、自由に吸える場所となった。
       
タバコは身体によくないとはわかっている。周りの人にも迷惑をかけるのもよくわかっている。
それにしても止められない。肩身が狭い。
かってはここまで追い込まれなかったのに・・・・。

サラリーマン生活のすべてをつぎ込んだ「我が家」でもこのていたらくだ。
愛煙家は孤独なのだと自分自身に言い聞かせている。

酒とタバコと比べてみると、圧倒的に酒の方が有利である。
酒は飲みようによっては薬となるが、タバコは「百害あって一利なし」と言われている。
果たして本当だろうか。

少なくとも私の身の回りで、酒で身体を壊した人はたくさんいるが、タバコで死んだというのは
聞いたことがない。
タバコで一番怖いのは肺ガンであるが、愛煙家が必ずしも肺ガンにかかるとは言い切れない。
タバコを吸わない人が肺ガンになった例が結構あるのである。

医学的にこういっているわけではない。あくまで私の周りで起こった体験を言っているにすぎない。
とにかく、若死にする人では、愛煙家より愛酒家?の方が多いような気がする。

この間、新聞を見ていたら、面白いニュースが載っていた。
嫌煙運動のもっとも激しいアメリカが、ロシアの喫煙を認めた航空機のアメリカ乗り入れを一度は
拒否したものの、航空機内はロシアの領土だから内政干渉であるとの強い抗議を受けて認めざるを
得なかったそうだ。
(アメリカでは喫煙できる飛行機の乗り入れは認めないということらしい)

内心では快哉を叫んだものの、目の前のうるさい配偶者の手前もあって、声には出さなかった。
ロシアに肩入れしているわけではないが、アメリカのヒステリックな嫌煙ぶりに一矢を報いたような
気分がして嬉しかった。

誰かが「平均寿命では、愛煙家は嫌煙家に比べて2、3年程度寿命が短いそうだ」と話していた。
聞いていた私は、「なんだ、その程度なら無理して止めなくてもいいか・・・」と納得したものだ。

ただし、話をしていた本人も愛煙家のヘビー級だったから真偽のほどは定かではない。(2001.2.21)
             

      


 老化現象

「老化」は足から来ると言われている。
退職してからは、当然のごとく運動不足に陥った。もともと「ものぐさ」に出来ているので不足どころか
「超」不足状態だ。

かみさんにやかましく言われて、近頃は天気のいい日に限って一時間ぐらい歩くようになった。
歩き始めてやっとわかったのであるが、意外と程良い疲れが気持ちいいのだ。
徐々に距離を伸ばして、何れは「なんとか古道」と名付けられた街道歩きをしたいと思うようになった。

楽しんで、老化が防げるならこんないいことはない。なんでもやってみなければわからないものだと
陰ながらかみさんに感謝している。

しかし、「老化現象」なんて今までは考えたこともなかった。
それが定年になってから、時間が有り余っているせいか「老化」を意識することがたびたびあるのだ。
原因不明の湿疹がすねにできた、右手の親指の関節が痛くなってきた、ずっと風邪をひいているような
気がする等々。
要するに時間が有りすぎるのだ。
現役の時もそういうことはあったと思うが、気がついて心配する前に治っていたのだろう。
他に神経を使うことが一杯あったからである。

ところで「老化現象」とはどういう形で現れるのだろうか。精神論は別として、肉体的にはどうだろうか。
代表的な事例を考えてみた。

先ずは「目」である。
近くのものが見えにくくなってくる。つまり「老眼」である。電車のなかで文庫本が読めなくなるのだ。
新聞も目からかなり遠くに持っていかないと読めない。通勤電車では不可能だ。
こうなると否応なく「老化」を意識することになる。

次は「歯」である。
歯茎が痛くて腹を減らしながらもビフテキをやめて「うどん」にするようになる。
会社の近くの歯医者を巡り歩いたりするようになる。一本、二本と歯が減ってゆく。
俺も年をとったなと感じることになる。
私の場合は、歯に集中的に老化現象が現れて早くも「総入れ歯」になってしまった。
年のせいばかりではなく、若いときからの歯医者恐怖症も原因となっているのだろう。

そして「頭髪」である。
この場合は二通りある。

一つは白髪である。初めのうちこそ「白髪」を見つけると、自分で引き抜いたり、かみさんに頼んで
切り取ってもらったりしていた。
しかし、だんだん本数が増えてくると抜いたり、切ったりする程度ではおっつかなくなり、白くても
無いよりましかとあきらめてしまう。
「ロマンスグレー」は渋いだろうと若い子に自慢してみたりするようになる。
しかし、内心では「老化」を意識せざるを得ないのである。

もう一つは頭髪の「量」の問題である。
私の場合は少なくなったとはいえ頭の地肌までは見えない程度には残っている。
友人には、量の不足に悩んでいるものが多数居る。
頭頂部に不足しているひとや、前頭部に不足している人が多い。なかには頭部全般が壊滅状態の
人もいる。

私のように、量的な不足のない者は、不足がちの人を見てもなんとも感じないのであるが、当人達は
そのことにかなり神経を使っているらしいのだ。

その切実な思いを知らされたのは意外な場所であった。

この間、現役時代の仲間三人で久しぶりに居酒屋でひとときを楽しんだ。
そのとき、私が歯の治療で苦労したとの話しをしていると、そのうちの一人が「松露君が羨ましい」と
言うのである。変なことを言うなと理由を聞くと、
「入れ歯は外から見ても「入れ歯」だとわからない、俺の頭は丸見えだもんな。俺は損だよ」という。
なるほど、彼の頭には数本の弱々しい髪の毛が頭部にしがみついているだけだった。

彼の嘆きを聞きながら老化現象にも運不運があるんだと初めて知った。
みんなそれなりに苦労しているのだと自らを励ましながら飲み屋を出たのである。(2001.3.10)


「黒ちゃん」

今、私は何とも言えぬ寂寥感に包まれている。まるで鉛のかたまりを飲み込んだように心が重い。
こんなかたちで親友、「黒ちゃん」と永久の別れを迎えることになろうとは・・・・。
つい二週間前、二人でカメラを担いで葛城山に登り一日楽しく歩き回ったばかりなのに。

ある朝電話が鳴った。黒ちゃんの娘さんだった。

「父が他界しました。昨日の午後3時半頃でした。失礼だとは思ったのですが、
生前松露さまのお名前をよく口にしていましたので連絡をさせていただきました。」

「えっー、本当ですか!。いったいどうしたのですか?」
「脳内出血で倒れまして、救急車で病院に運んだのですが、意識不明のまま二日後に
亡くなったんです。本当に突然のことでした・・・・」

頭が真っ白になった。
まさか、まさかとうろたえながらも早くみんなに知らせなければと友人のあちこちにダイヤルを
回し続けた。

お通夜の晩、祭壇の前で彼の遺影を見つめていると、奥さんが涙ながらに語ってくれた。
葛城山から帰った夜、主人は「本当に今日は楽しかった」と嬉しそうに話していました・・・・。
思わず熱いものが胸の奥底から込み上げてきた。
そして、ただただ身体を震わせるばかりであった。

彼とは30数年前からのつき合いだった。互いに性格的にはかけ離れた存在だった。
初めはお互い違和感を覚えていたのであるが、ある時、彼と上司との間の誤解を私が
中に入って解いたことから親しくつきあうようになった。

黒ちゃんはとっても一途で、こうと思ったらとことん突き進む猪突猛進型だった。
仕事でも遊びでも徹底的に熱中するタイプだった。その行動力は抜群であった。
私は、どちらかというと何事でも短期集中型で、黒ちゃんのように徹底は出来ず、
すぐ飽きてしまうところがあった。

二度目に同じ職場になったとき、二人の関係はさらに深くなった。
仕事のこと、遊びのこと、そして私生活上の悩みなどなんでも相談しあえる仲となった。

年は私のほうが二歳下だったが、どちらかと言えば、、聞き役に回ることが多かった。
黒ちゃんは私に対してその年齢差を意識せず、全く対等につき合ってくれた。
私も年の差を意識しなかった。

黒ちゃんは酒好きだった。洋酒が好きで写真を撮りに出かけても、いつも携帯用の
金属製のケースを手放さなかった。
弁当を広げて、ケースのキャップをまわしグィーとかっこよく飲み干すのが常だった。
酒が苦手な私はそれを見て「ちょっとは減らせよ」と言うのもいつものことだった。

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葛城山の山頂で次男の結婚が決まったと言って喜んでいたのになぁ。喜びの日ももうすぐ
だったのに。

「来年行こうな」と言っていた北海道旅行はどうするんだよ。
いくら猪突猛進型でも、そんなにせっかちにあの世に行くことはなかったのに・・・・。

しかし君は僕の何倍か好きなことをしていたなぁ。インドや中国、ミャンマーまで何度も撮影に
出かけていたよなぁ。
数々の写真コンクールで賞ももらっていた。いい腕前だったよ。

僕が使っているカメラは君から払い下げてもらったものだ。今では君の遺品となってしまった。

こんなに早く、たった62年の人生を終えた黒ちゃん。もう一緒に撮影にも出かけられない。
寂しい、寂しい・・・・・・・・・ほんとうに寂しいよ。

さようなら、黒ちゃん。(2001.5.27)


       


避暑    

はやくも定年退職して2回目の夏がきた。
家でゴロゴロしていると我慢できずにクーラーのスイッチをつい入れる。
清貧の人生を標榜しているせいか電気代が気になる。

現役時代は夏が来てもオフィスはクーラーが効いて快適だった。
夜家に帰る頃は暑さもやわらぎ、猛暑に苦しむという実感はあまりなかった。

怠け癖が定着した今、暑いなかどこかへ出かけるというのも億劫だ。
かといって電気代は気になるし、出かけるのも面倒だ。困ったものだと考えていたが、
「よし、山奥の涼しいところへ避暑にいこう」と思いついた。

避暑といっても別荘があるわけでもない。単に、山奥まで逃げ込もうと言うだけだ。
大台ヶ原まで車で2時間半。さわやかな山の空気はふやけた精神にも
きっと良いはずだと信じて愛車に飛び乗った。

市街地を走り抜け、山道にさしかかった。山の緑と抜けるような青空。
谷川の流れも青く、白い水しぶきも実に涼しげである。
出かけてきて良かったと満足していた。

ところが、いよいよ大台ヶ原に近づいた時、道路脇の看板が目に入った。
よく見ると、大台ヶ原に向かう道路が落石のため通行止めとある。
仕方がない、それならこの先の下北山村にいい温泉がある。
そこで温泉に入って、ビールを飲もうと考え、行き先を変更した。

それにしても暑い、車を止めてちょっと休憩と思って外に出ると、強烈な照り返しで
顔が熱くなる。日陰に逃げ込んでも足下から熱気が這い上がってくる。
思っていた避暑にはほど遠い暑さだ。
この山奥でこれほど暑いのだから、家ではもっと厳しい暑さなのだろうと思った。

やっとの思いで上北山村を越えて下北山村に入った。
目指す温泉に着いた。
人影もまばらで静かだ。この温泉には今まで何度も来ている。駐車場にせり出している
木々には野生の猿が姿を見せる。
今日の暑さでは猿たちも山奥に籠もったままだろうか。

予定通り、露天風呂に浸かり、湯上がりの缶ビールも味わった。定年組の恩恵というべきか
平日の昼下がり、くつろぎのひとときである。
現役では味わえないリラックスタイム。畳敷きの休憩室で寝転がってウトウトする。
これが思っていた避暑だと納得していた。
        
強烈な日差しが幾分和らいだ頃、帰途についた。
汗を落としたさっぱり感が気持ちいい。
2時間半の運転も苦にならない。自宅に帰り着いた頃は日も落ち、昼間の猛暑も
その勢いを完全に衰えさせていた。
        
翌日、寝ぼけ眼で朝刊を眺めていると、地方版のある記事に驚いた。
それによると昨日は大変な猛暑であった。奈良県で一番の気温は上北山村の38.3度で、
同村での観測がはじまった1979年1月以来、もっとも高い記録だったとある。
奈良市では35.4度だったとのこと。
        
なんのことはない、私の「避暑」はわざわざ奈良県でもっとも暑いところに出かけていたのだ。
山奥が涼しいということは必ずしも当てはまらないと言うことをこの年になって初めて知った。
人生死ぬまで勉強、勉強・・・。(2001.7.5)
        



        


巣立ち           
                

昨日までの賑やかさが嘘のように静まりかえっている。

庭のヤマボウシの木に作られたヒヨドリの巣を眺めながら、私は空虚な気分だった。
およそ二ヶ月の子育てが終わり、四羽の雛鳥が昨日の夕方巣立ちしたのである。

この木にヒヨドリが巣を作ったのは今年が二回目だ。
居間から目と鼻の先にあるこんな近くの木に巣を作るなんて
余程気の強い鳥なんだと感心する。

お世辞にも綺麗な鳥とは言い難く、鳴き声も人を慰めるような軽やかさはない。
色はくすんだ茶色で、声は鋭い叫び声でキーキーと鳴く。しかも身体の割には大きい声だ。
可愛いと言うより野性味にあふれたたくましい感じのする鳥である。

7月のはじめだった。
一羽のヒヨドリがしきりにヤマボウシの木にやってくる。
二年前にも同じようなことがあったので、ひょっとするとまた巣作りかなと思った。
一週間ほど経つといつの間にか大きな巣が出来ていた。

前回はまだ現役中だったが、今回は隠居の身、じっくり観察できた。
テレビ番組でも鳥の子育てはよく見るが、本物はやはり映像と違って迫力がある。

本能とはいえ、親鳥の情愛の深さは見ていて人間が恥ずかしくなる程のものだ。
母鳥は10日あまりも卵を抱き続ける。時々は餌を求めて巣を空けるが、15分ほどで
戻ってくる。身じろぎもせずじっと座り続ける。

巣のなかでごそごそ動き出した。どうやら卵がかえって雛鳥が生まれたらしい。
すると、今まで姿を見せなかった父鳥が突然近くの枝に止まった。
母鳥が飛び立つと、すぐ巣に近づき中を覗いて飛び去った。

それからが忙しい。変わる変わる餌を運んでくる。
8月のはじめ、巣のなかから4つの小さなくちばしが餌をねだってパクパク動くのが見えた。
子育ては母鳥に優先権があるらしい。
小振りの父鳥は、母鳥が餌をやっているときは、傍らの枝に止まってしばし待つ。
母鳥が飛び去るとすぐ交代に雛に餌を与える。

父鳥が餌を与えているときに母鳥が戻ってくるとあわてて席をゆずり、母鳥の給餌が終わる
のを待つ。それが終わるとまた巣に帰って残りの餌を与える。

こうしたあわただしさが10日ほど続いた。
そして、8月8日。
この日は朝から親鳥の様子がいつもと違った。
えさをくちばしにくわえたまま、巣の近くの枝に止まりしばし動かない。
今までは、巣に戻ると素早くひなどりに餌を与えていたのに・・・。

夕方になって、ついに一羽の雛鳥が巣を飛び出て、そばの枝に止まった。
そして親から餌をもらった。
とうとう巣立ちの時が来たのである。
親鳥が盛んに雛鳥を誘導する。隣の屋根へ、そしてもう少し遠くの塀から呼ぶ。
意を決して雛鳥が飛ぶと、親鳥はまるで支えるかのように並んで飛ぶ。
感動のシーンである。子も親も必死の様子がうかがえる。

続いて二番目の雛鳥が羽ばたいた。
隣のキンモクセイのてっぺんに落ちた。
親がその頭上を飛ぶ。

三番目はなんと我が家の窓に向かって飛んだ。
そして網戸に絡まってしまった。
親が近づくが爪が網戸に引っかかってはずれない。
私はこのままでは疲れて死ぬのではないかと思った。
そっとガラス戸を開け、網戸に絡んだ爪をはずして、二番目のひなどりがいる
キンモクセイのてっぺんにならべて置いた。
ふわふわに柔らかくて、ほのかに暖かい体温が今でも忘れられない。

四番目はなかなか巣から飛び出せない。
親が必死で鳴きながら誘う。
しばらくして、やっと最後の雛鳥が親の誘う方向とは反対のエゴノキの枝に飛び出た。
親は並んで飛び、こっちへ来いとばかりにUターンしてみせる。

こうした騒動が一時間ほど続いた。

あちらこちらに居た子鳥は一羽、また一羽と時間とともに姿を消していった。
ピーピーと鳴く声がどこからか聞こえてくる。
時々親が周りを飛ぶのが見える。

感動の巣立ちは無事に終わったらしい。かみさんと二人で胸をなで下ろしていた。
命の大切さ、親子の情愛、厳しい巣立ちの試練、下手なテレビドラマをはるかに
上回るドキュメントだった。

そして今、空っぽの巣を見ながら、この二ヶ月を思い返していた。
急な夕立が来たとき、親鳥は慌てて巣に戻って、羽を広げて雛を守っていたこと。
カラスが巣に近づいてきたとき、親鳥は必死の鳴き声で威嚇し追い払ったこと。
初めて父親が巣をのぞきに来たときのシーンなど。

不思議なことに一度巣立ちすると親も子も二度と巣に近づくことはない。
網戸に引っかかった雛鳥は無事に大きくなっているだろうか。

二人の息子達が独立して、家から居なくなったあとの心境になんだか似ているなと
思いながら、空っぽの巣を眺めていた。 (2001.8.9)