「企業は生き物である」という格言を身にしみて感じることとなった。 まさかこの言葉が我が身に及ぶこととなるとは夢にも思わなかった。 単独では生き残れないという決断のもとに38年間勤めてきた銀行が慣れ親しんできた行名を変えることに なったのである。(正確には9年前に自らの希望で関連会社に転職した。) 単に名前を変えただけならまだ救われるのであるが、もちろんそれだけではない。 大手銀行の支援を受けることになったため経営上の意志決定を単独ではできない状態になったのだ。 これは「落城」なのである。 戦国時代でいえば、城は残ったものの主君が追放され、今まで戦ってきた敵方の殿を迎えた心境 なのである。 マッカーサーのパイプ姿をかっての日本国民は、この先どうなることやらとの不安感をもって迎え入れた。 丁度そんな感情をもって落城の事実を噛み締めているところなのである。 企業には「大企業病」という恐ろしい病気がある。 この病にかかると企業は知らず知らずのあいだに朽ち果ててしまうという、実に恐ろしい病気なのである。 自覚症状がないだけに始末が悪い。さしずめ糖尿病のようなものだ。 ひどくなると目がつぶれ、痩せてゆき、そしてついには絶命してしまう。 広く世間に知られている大企業病の症状は次の言葉で表現される。 「内向き」・「上向き」・「後ろ向き」の三つのスタンスである。 「内向き」とは、社員の顔が外部に向かっていないということである。 つまりお客様のニーズを仕事に生かすことより社内事情を優先させていることを指す。 これは客離れを起こし業界シェアを落とすことに繋がり、業績不振に落ち込むことになる。 「上向き」とは、社員が本質的な仕事を忘れ、上司や役員の受けねらいの仕事をすることを指す。 従って、仕事に嘘・偽りが入り企業の収益に寄与しない見せかけの業績ばかりとなり、 企業の体力を衰退させてしまうことになる。 「後ろ向き」とは、媚び・へつらいの精神が充満し、社内交際ばかりが隆盛を極め、 本来勇気をもってやるべき仕事を回避して何もしないごますり人間ばかりが増殖することをいう。 このような病原菌に犯された企業は永い永い潜伏期間を経て次第に内部から腐食してゆき、 やがてはウドの大木そのままに脆くも倒れてしまうことになる。 会社の健康管理は経営者の仕事である。「健全な精神は健全な肉体に宿る」と言われるように、 肉体が病めば精神も不安定になる。 規律正しい日常生活を心がけ栄養のバランスに留意した食べ物を食し、適度の運動をして、 血液の流れを良くする。ごく当たり前の健康管理が企業にも、個人にも重要なのである。 経営者は、企業の社会的存在意義を社員に訴え、経済活動の中でのモラルを尊重して 高い理念やロマンを掲げるべきである。 また、社員の個性や自主性を重んじ、好みのタイプばかりを寵愛する偏向を排除しなければならない。 企業にとってどんな社員が大切なのかを見失ってはならないのだ。 血行をよくすることは、新陳代謝を図ることである。特に人事の停滞は危険である。 血液が淀みをつくり酸素不足の状態に陥るからである。 特にトップ人事が停滞すると組織の末端まで疲弊してくる。 長期独裁型のワンマン社長が君臨した企業は、何れも不幸な結果に終わっている。 そのような事例は枚挙にいとまがない。逆に、トップ人事がスムースに 流れている企業で立派な会社は多数存在する。これも事例は豊富である。 こう考えてくると「大企業病」の病原はトップまたは経営者層にあることがわかる。 なぜなら社員の会社における将来は彼らが握っており、その影響力は計り知れないほど大きいからである。 その力が病魔に汚染されているとしたら、社員にとっては防ぎようが無いといっても過言ではない。 社員がこの病気に勝手にかかり、それが伝染するわけではない。トップまたは経営者層に問題があるから 社員が病気にかかるのである。 ガン細胞のごとくこの病気が社内で蔓延すると、企業という肉体を蝕み、健全な心が歪んでゆき、 そして最後を迎えることになるのだ。 寂しいことだが、我が銀行もこの病魔に犯されたのだろうか。私が定年を迎える丁度その年の3月、 我が銀行はその名を消した。 新しい名前でスタートした新生銀行がこの病魔に二度と蝕まれる事の無いように祈ってやまない。 これからは一元社員として生まれ変わった新銀行を静かに見守っていきたいと思っている。(2000.5.24) |
さしていうほどの愛犬家ではないが、犬とはかれこれ20数年前からつきあいがある。 |
あと二週間で定年となる。 |
「今日で最後か・・・」 |
2000年6月29日、ついに卒業した。小・中・高・大に続く人生第五回目の卒業式であった。 |
退職してから一番にとりかかったのは、「ウッドデッキ」の制作である。 定年になれば自ずと庭にでる機会も増えるだろうし、植え込みの手入れも楽しみの一つとなるだろう。 そんな目でつらつら狭い庭を眺めていたとき、フッと「ウッドデッキ」が頭に浮かんだ。 そうだ、ここにデッキを作れば、花や木を眺めながらおいしいコーヒーを飲める。洒落ているではないかと 妙案に満足した。 早速ホームセンターをあちこち回った。パンフレットを集めたり、本屋の趣味コーナーや園芸コーナーを 見て歩いた。 ウッドデッキの制作を紹介する幾つかの雑誌を立ち読みした。 その結果、結論はとても自分では無理だということだった。なにしろ、基礎が難しい。水平をとることが 出来ないのではないかという不安があった。 諦めかけていたときに、あるデッキメーカーのホームページをみた。 いろいろ自社製品の自慢めいたことが書いてあったが、そのなかの一つのキャッチコピーに驚いた。 「当社のウッドデッキを購入された人で、今まで自作出来なかった人はいません。」と誇らしげに 書いてあるではないか。 世の中には、器用、不器用様々な人がいると思うが、私がその中でもっとも不器用ということもあるまい。 ひょっとして、可能かもしれないと期待を持たすに充分なコピーであった。 幸い、そのメーカーが車で40分ぐらいのところであったので、急いで出かけた。 その会社の展示場についた。現物をみて、また落胆した。 置かれていたデッキは、とても頑丈で立派なものだった。工作でこんな大きなものを作ったことがない。 せいぜい腰をかけたらふらふらするベンチ位のものしか経験がなかったのである。 しかるに、出てきた若い担当者は、こちらの思いに頓着なくこう言ったのである。 「この間、70過ぎのお爺さんが2日で出来たと喜んでいましたよ。」 「うーん・・・・・・」本当の話かと絶句した。 「それなら、10才も若い私に出来ないはずはないですね」 「出来ますよ。見た目よりはやさしいのですよ」こう言われて、引き下がれなくなってしまったのである。 こうして「70過ぎのお爺さん」の話を心の支えにしてウッドデッキの制作いや正確に言えば「組み立て」を 始めることになった。 一日目は、基礎工事である。 非常によく考えられており、素人でも簡単に水平がとれるようになっていた。 二日目はもっと簡単であった。板を並べ釘で止める作業だった。あとは防虫防腐塗料を布で塗り完成と なった。ついでにベンチとテーブルも自作した。 出来映えは上々で、うちの奥さんに改めて私の器用さを認めさせることになった。 元はと言えば出来て当たり前で、素人でもうまく出来るように設計されているのだが、いざ目の前に 完成するとうちの奥さんから見ると驚異的なものに映るのである。 それよりなにより、このメーカーのキャッチコピー「当社のウッドデッキを自作できなかった人はいません」を 私が使えなくしなくて良かったというのが本音のところである。(2000.7.28) |
「相撲」が好きでよくテレビの前で大声をだす。 |
「音楽」に興味を持ったのは、中学生になったころである。 学校で音楽の時間によく行進曲のレコードを聴かせてもらった。ブラスバンドの響きがとても 心地よかった。歯切れの良いテンポと吹奏楽器の音色に心躍り、興奮したものだった。 当時、ラジオでは江利チエミの「テネシーワルツ」がしょっちゅう流れていた。 英語の歌詞がハイカラで妙に新鮮だったが、歌い方は小節を利かせた演歌調であった。 そんな頃、SP盤のレコードを兄がどこからかどっさりと借りてきた。 グレンミラーやペニーグッドマンだった。いわゆるスゥイングジャズと呼ばれる軽快で踊りたくなるような音楽だった。 音質は極めて悪かったが、そのウキウキするようなリズム感が素晴らしかったのを今でも はっきりと思い出す。 高校の頃には、フランク永井の「有楽町であいましょう」が印象深い。しびれるような低音が 魅力だった。 3年生の時、クラス対抗の合唱コンクールで歌った黒人霊歌「深き河」も良い歌だった。 練習はあまり好きではなく、同級生の熱意に引っ張られてしぶしぶ参加していたのだが、 不思議なもので今でも時々口ずさむことがある。 同じ頃、ハリーベラフォンテのレコードを良く聴いた。例のデー・オーと叫ぶ「バナナボート」が 大ヒットしていたころである。ハスキーながらも艶のある良い声だった。 中学・高校時代のこれら音楽との出会いが私の「音楽好き」の原点になっているように思う。 ブルースやジャズを今でも愛しているからである。 その後、地方大学に進んだか゛、そのころはクラシックやデキシーランドジャズに夢中だった。 「名曲喫茶」とか「ジャズバー」全盛期だった。下宿住まいの侘びしさを紛らわすにはもってこいの 場所だった。「コーヒー」や「ハイボール」を飲みながらよく通ったものである。 ラジオの深夜放送もよく聞いた。水原弘の「黒い花びら」とかザ・ピーナッツの「小さい花」などを 覚えている。 映画もよく見たが、当時は映画音楽も楽しみの一つだった。 中でも衝撃的な出会いは「死刑台のエレベーター」の映画音楽であった。 マイルス・ディビスの心の底からうめくようなトランペットが胸の奥に深く刻み込まれた。 ミュート(弱音器)を多用した細く鋭いトランペットの音色は、人間の心の奥底に潜む悩みや苦痛を 絞り出す、まさに悲鳴そのものだった。 「宗教性」をも秘めているような音楽に圧倒され、傾倒し、信者になった。 このころからにぎやかなデキシーランドジャズからはなれて、「静かでクールなジャズ」へと好みが 変わっていったように思う。 「モダンジャズカルテット」いわゆる「MJQ」とともに「マイルス・ディビス」のジャズは私をとらえて はなさない。 「宗教性」と言えば、この時期になって「黒人霊歌」や「ゴスペル」、「ブルース」へと集中していった。 マイルス・ディビスに触発されてジャズの原点へとさかのぼっていったのである。 黒人にとって歌は「宗教」であると思う。かっての悲劇的な境遇を生き延びるためのたった一つの 「救い」が歌、音楽だったのではなかろうか。 したがって彼らの音楽には「深い精神性」が込められている。「魂の叫び」が音楽なのである。 一年ほど前、ライブハウスで「ゴスペル」を聴いた。途中、女性のソロが入った。ところがその女性は 受け持ち部分が終わっても、いつまでも歌い続けるのだ。無我の境地に没入してしまったのである。 あわてて指揮者が彼女を抱きかかえ、肩をやさしくたたきながら列に戻した。 私は感動した。「歌」がかくも「精神」とふかく拘わるものなのかと驚いたのである。 まさしく「宗教」そのものだった。 「ブルース」はジャズの原点である。あの単調でシンプルな音楽もなぜか私は飽きない。 ギターとかハーモニカとかありふれた楽器で「魂」を、そして「生活」を語る素朴な音楽。 見栄やキザっぽさのない自然体のリズム。理屈抜きにとけ込める良さがある。 ときどき、自分には黒人の血が流れているのではないかと思うときがある。 嬉しいときも、辛いときも、情けないブルーな気分の時も、いつでも「ブルース」を聴くと、なじめる。 それが不思議なのだ。特に誰がいいとか言うのではなく、ブルース自体が性に合うのである。 一方で、近頃はクラシックをジャズ風に編曲したものを好むようになってきた。 ヨーロッパのジャズとか軽いタッチのものもいい。 こうして「行進曲」からマイルス・ディビスやMJQ、そしてブルースやゴスペルへと「音楽を友として」 生きてきた。 今ではジャンルを問わず、音楽との出会いを楽しんでいる。 高橋真梨子や美空ひばりもいい。「襟裳岬」も好きだ。「名残り雪」も良い歌である。 「音楽」はいつまでも私を若くしていてくれる。 耳から飛び込むこの心地よい刺激は私には無くてはならない「人生の友」なのである。(2000.8.30) |
今、私はとても安堵している。 |
「梅干し」を見たり、想像したりするだけで唾液がでる。注射の針を見せられると、腕がこわばる。 |
サラリーマン時代に憧れていた「毎日が日曜日」の生活がはじまって3ヶ月経った。 今、とても満足している。 蓄えは乏しいが贅沢を望まねば、命に別状はない。 初めのうちこそ「今日は何をしよう」「何かすることはないか」と焦りに似た気持ちにもなったが、 それも三週間ぐらいできれいさっぱりと忘れ去った。 まことに怠惰な生活である。だが、一向に苦痛を感じないなのだから不思議だ。 どうしてだろうと思うこともある。心当たりがあるといえば、38年間つとめた職業が影響している かも知れないということである。 小さな銀行に入り、その大半を営業畑ですごした。支店をいくつも任されたこともある。 毎日、毎日人と会い、商談をまとめたり、行員の尻を叩いたり、銀行本部との調整や会議に出席した。 その間、語り尽くせないほどの出来事を経験した。 そうした日常生活のなかで、潜在的に「人間嫌い」の感情が芽生え、育まれていったような気がする。 「金」にまつわる人間の醜い執着心や出世エゴイズムに飽き飽きし、次第に人と接することが疎ましく 思うようになっていた。 もちろん、イヤなことばかりでなく、嬉しかったこと、「ヤッター」とみんなで喜びを共にした素晴らしい 思い出も多々ある。 何はともあれこうした経験が積み重なって、何時しか「一人」に憧れるようになったのかも知れない。 もう一つ心当たりがある。 それはもともと怠惰な性格なのかも知れないと言うことである。 小・中学校時代は自宅で勉強した記憶がない。 宿題をせずに学校へ行って、よく先生に叱られた。なんせ勉強机も無かったのだから。 高校受験は家で一週間ほどした記憶がある。参考書の半分ぐらい進んだところで試験日がきた。 大学受験の時は、高校二年の夏休みから始めた。幾つかの参考書に取り組んだが、最後まで やり通した本は一冊もなかった。 しかしながら、今思えばこの頃が一番真剣に勉強したと言えるかも知れない。 大学を卒業するのに必要な単位は72単位だった。 4年生の最後の試験で74単位になった。友達のみんなは100単位以上とっていたのに。 もともと怠惰なのである。 就職してからも変わらなかった。短期集中型で、短い期間は全力を傾注するのだが、長くは続かなかった。 コツコツ型ではなく、たまにどでかい花火をあげることが得意だった。 誰もが出来るようなことには関心がなく、新しい仕事を第一号で成し遂げることに意欲を燃やした。 「新物食い」なのである。一度やったことには興味が薄れた。 自分で興味のあることには、必死で立ち向かうが、押しつけられる仕事は出来なかった。いや、 本当のところは何かと口実を付けてやろうとはしなかったのである。 管理職の端くれになってからは、部下の指導・教育に力を注いだ。 部下が成長してくれれば、自分が楽になるからである。 そのために時々、部下に見せつける仕事をしなければならない。そうしないと言うことを聞かない からである。 結果として、チーム力があがれば私は楽になる。 怠惰な性格から出来上がったモットーは「最小の労力で最大の効果を上げる」だった。 波乱に満ちた現役生活を終えた今、私はあらゆる「義務」から開放されて一日24時間の全てを 自分のものとしている。 嫌々人に会うこともない。義理に駆られてのつき合いもない。 好きな時に、好きな人間と話しをしておればいいのだ。こんな幸せなことが他にあろうか。 一面「怠惰な生活」と言えなくもないが、私にとってこれ以上の「贅沢な楽しみ」はないのである。 (2000.10.5) |
9月といえば、未だ残暑は厳しいものの、来るべきさわやかな秋の到来が嬉しい時期である。 しかも、私の誕生月でもあり、本来は縁起のいい月だと長い間信じていた。 ところが、近頃はどうも縁起のいい月だとは思えないハプニングが続くのである。 「9」が「苦」に通ずるということだろうか。 今から3年前のことである。 9月5日の夕刻、私は明日の魚釣りをたのしみに帰宅の途中であった。 鯛や鯵を釣り上げて喜ぶ自分を想像しながら一人悦に入っていた。 最寄り駅に降り、自分の車が止めてある駐車場へ向かった。 そのときである。 全く突然に高校生の二人乗り自転車に追突されたのである。運の悪いことにそこは 狭い地下道であった。 私は転倒し、左足首を複雑骨折してしまったのである。 そして、ポーカーでいえば「9」のフォーカードとなる平成9年9月9日、午前9時、 外科病院で手術を受けた。以降、3ヶ月の寝たきりとなったのである。 それから、3年経った。 平成12年のまたもや「9」月3日、私は夕食を食べようと食卓に向かっていた。 5ヶ月前に歯の治療として簡易インプラントの手術を受けていた。 経過もよく、順調に快復していた。少なくともこの時点ではそう思っていた。 ところがである。ここから最悪の9月が始まろうとは夢にも思わなかった。 「いわしのフライ」を噛んだとき、手術した左下の歯が「ピチッ」と音がして激痛が走った。 顎の骨に打ち込んだ金属とそれを包み込む骨とが剥離したのである。 「しまった・・・」と思ったが、幸いなことにしばらくしてその痛みは治まった。 最悪の事態は避けられた。そう信じたかった。 しかしながら、そう甘くはなかった。歯がぐらつきだしたのである。 医者に何度も診てもらったが、「そのうち落ち着くでしょう」というばかりである。 しかし、落ち着くどころか次第に下の歯が全体にガタガタしてきて痛みはひどくなるばかりだ。 食事といえば流動食以外は無理だった。隣で老妻がポリポリと音をたてて沢庵を噛む。 全く無神経以外の何物でもない。 テレビの料理番組や温泉巡りの番組でおいしそうにご馳走を食べるのを見ると、羨ましいやら 情けないやら。 もうあんな楽しみは私には縁遠いものとなったのかと深い絶望感すら覚えた。 それにしても飽食の時代なのか、テレビでの食べる番組の多いこと。 今までは何ともなかったのに、自分が食べられない事態になって急に神経に障るようになった。 「もうすぐ直る」「もうしばらくで良くなる」そう言い聞かせながら辛抱していた。 結局、2ヶ月間耐えに耐えたものの、精神的限界に達し、他の歯医者に駆け込む羽目になった。 そして、結局は総入れ歯に落ち着いてしまったのである。 幸いにして、総入れ歯は口の中でごそごそ動くもののかろうじて食べ物を噛むことができる。 やっとの思いで流動食の世界から抜け出せそうである。 これからも根気よく歯医者通いを怠らなければ、今よりは入れ歯の具合も良くなるだろう。 わずかながらも光明が見えてきたような気がする。 それにしても9月は良くない。私にとっては「9」は「苦」なのである。 「9月危機」はもうたくさんだ。 どうか、来年の9月こそ何事もなく平穏であってほしい。今から祈るばかりである。(2000.11.27) |
現役を退いた今でも親しくしている友がいる。 |