「落城」

「企業は生き物である」という格言を身にしみて感じることとなった。
まさかこの言葉が我が身に及ぶこととなるとは夢にも思わなかった。

単独では生き残れないという決断のもとに38年間勤めてきた銀行が慣れ親しんできた行名を変えることに
なったのである。(正確には9年前に自らの希望で関連会社に転職した。)

単に名前を変えただけならまだ救われるのであるが、もちろんそれだけではない。
大手銀行の支援を受けることになったため経営上の意志決定を単独ではできない状態になったのだ。
これは「落城」なのである。

戦国時代でいえば、城は残ったものの主君が追放され、今まで戦ってきた敵方の殿を迎えた心境
なのである。
マッカーサーのパイプ姿をかっての日本国民は、この先どうなることやらとの不安感をもって迎え入れた。
丁度そんな感情をもって落城の事実を噛み締めているところなのである。

企業には「大企業病」という恐ろしい病気がある。
この病にかかると企業は知らず知らずのあいだに朽ち果ててしまうという、実に恐ろしい病気なのである。
自覚症状がないだけに始末が悪い。さしずめ糖尿病のようなものだ。
ひどくなると目がつぶれ、痩せてゆき、そしてついには絶命してしまう。

広く世間に知られている大企業病の症状は次の言葉で表現される。
「内向き」・「上向き」・「後ろ向き」の三つのスタンスである。

「内向き」とは、社員の顔が外部に向かっていないということである。
つまりお客様のニーズを仕事に生かすことより社内事情を優先させていることを指す。
これは客離れを起こし業界シェアを落とすことに繋がり、業績不振に落ち込むことになる。

「上向き」とは、社員が本質的な仕事を忘れ、上司や役員の受けねらいの仕事をすることを指す。
従って、仕事に嘘・偽りが入り企業の収益に寄与しない見せかけの業績ばかりとなり、
企業の体力を衰退させてしまうことになる。

「後ろ向き」とは、媚び・へつらいの精神が充満し、社内交際ばかりが隆盛を極め、
本来勇気をもってやるべき仕事を回避して何もしないごますり人間ばかりが増殖することをいう。

このような病原菌に犯された企業は永い永い潜伏期間を経て次第に内部から腐食してゆき、
やがてはウドの大木そのままに脆くも倒れてしまうことになる。

会社の健康管理は経営者の仕事である。「健全な精神は健全な肉体に宿る」と言われるように、
肉体が病めば精神も不安定になる。
規律正しい日常生活を心がけ栄養のバランスに留意した食べ物を食し、適度の運動をして、
血液の流れを良くする。ごく当たり前の健康管理が企業にも、個人にも重要なのである。

経営者は、企業の社会的存在意義を社員に訴え、経済活動の中でのモラルを尊重して
高い理念やロマンを掲げるべきである。
また、社員の個性や自主性を重んじ、好みのタイプばかりを寵愛する偏向を排除しなければならない。
企業にとってどんな社員が大切なのかを見失ってはならないのだ。
血行をよくすることは、新陳代謝を図ることである。特に人事の停滞は危険である。
血液が淀みをつくり酸素不足の状態に陥るからである。
特にトップ人事が停滞すると組織の末端まで疲弊してくる。
長期独裁型のワンマン社長が君臨した企業は、何れも不幸な結果に終わっている。
そのような事例は枚挙にいとまがない。逆に、トップ人事がスムースに
流れている企業で立派な会社は多数存在する。これも事例は豊富である。

こう考えてくると「大企業病」の病原はトップまたは経営者層にあることがわかる。
なぜなら社員の会社における将来は彼らが握っており、その影響力は計り知れないほど大きいからである。
その力が病魔に汚染されているとしたら、社員にとっては防ぎようが無いといっても過言ではない。

社員がこの病気に勝手にかかり、それが伝染するわけではない。トップまたは経営者層に問題があるから
社員が病気にかかるのである。
ガン細胞のごとくこの病気が社内で蔓延すると、企業という肉体を蝕み、健全な心が歪んでゆき、
そして最後を迎えることになるのだ。

寂しいことだが、我が銀行もこの病魔に犯されたのだろうか。私が定年を迎える丁度その年の3月、
我が銀行はその名を消した。

新しい名前でスタートした新生銀行がこの病魔に二度と蝕まれる事の無いように祈ってやまない。
これからは一元社員として生まれ変わった新銀行を静かに見守っていきたいと思っている。(2000.5.24)

    


「じろ」

さしていうほどの愛犬家ではないが、犬とはかれこれ20数年前からつきあいがある。
我が家に初めて登場したのがダックスフントの「じろ」である。
生まれて一ヶ月の黒々とした雄であった。
ある友人がプレゼントしてくれたのである。

それまでの40年ちかく動物といえば小鳥(インコ)ぐらいしかつきあったことがなかったのであるから
家中大騒ぎになった。餌の与えすぎで狸のように腹がパンパンになり友人に叱られたりした。

これではいかんと、近くの本屋さんで「犬の飼い方としつけ方」なる書物を求め、
みんなで回し読みをした。
一ヶ月ほどたって落ち着いてくると自然に面倒を見るのはかみさんということになっていた。
ぶつぶついいながらも可愛いいらしくまめに世話をしている。よくしたもので先方も一家の中で、
誰が自分にとって大事な人か理解している。

尻尾の振り方で表現するのだ。かみさんが呼べばそれは扇風機のごとく回転する。
その他三人に対する振り方とは明らかに異なる。
私などには二・三回、いかにも義理で仕方なしに振ってみせる程度だ。

かくしてそれから約8年間、温度差はあるものの家族の一員として仲良く暮らした。
とても穏和で忠実な犬だった。だが、今考えると彼の一生はあまり幸せではなかったと思う。
なぜかというと、ダックスフント特有の胴長短足という体型から来る病気に悩まされていたたからである。
いわゆるぎっくり腰となって背骨の神経を痛め、好きな散歩もできず、最後には下半身麻痺の
状態であった。

それでもかみさんは大事にしていた。世話はできないものの私も心を痛めていた。
何回か動物病院に駆け込んだこともあった。健康保険が利かないのでかなりの出費だったが
手術もしてもらった。それでも快復の兆しは見せずついには息を引き取った。
今から13年前の5月だった。

それまでずっと夜には屋内で寝ており、夕方になるとキュンキュンと鳴いて家の中に入れてくれと
せがむのだがその日は庭にある犬小屋から出てこなかった。
そっとしておいた方がいいだろうと、8年間で初めて彼は庭で夜をすごすこととなった。

そして翌日の朝、静かに短い一生を終えたのである。

滅多に職場に電話してこないかみさんが泣きながら私に彼の死を知らせてきた。
そんな予感を持ちながら出勤した私は、「もう二度と動物は飼うまい」と考えていた。
かみさんは、かかりつけの動物病院から犬の葬儀屋さんを紹介してもらって、
動物専用の霊柩車を呼び、しめやかにお見送りしたそうである。

「じろ」が死んで一年後、かっての葬儀屋さんから一枚の葉書が届いた。

そこには「一周忌のご案内」とあり、愛犬「じろ」号の一周忌を執り行いますのでご参列くださいと
記されていた。
どうしたものかとかみさんに相談すると、参列やむなしとの結論がでた。

式場に着くと、かなりの人が集まっている。同じ思いの人がたくさんいるもんだと少々驚いた。
入り口近くに大きな立て看板があり、一杯名札が貼り付けられている。そしてようやく見つけた。
そこには、「松露家愛犬じろ号」とおごそかにしたためられていた。
思わず合掌して冥福を祈らずにはおれなかった。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」。

それから、間もなくして「じろ」のいた犬小屋に二代目にあたるビーグルの子犬がいた。「きょん」である。
あれほど「二度と飼うまい」と誓ったはずなのに・・・・・・・・。(2000.6.3)
 


定年直前

あと二週間で定年となる。
定年前の心境はまことに複雑である。
嬉しいような、寂しいような、そして来るべき「毎日が日曜日」の生活が待ち遠しいようでもあり、
かつ不安でもある。

それにもまして複雑なのは定年前の人間関係だ。当方の心のあり方も確かに影響しているが、
周りの人たちの私に対する気配りも微妙なものがある。

まず、当方の事情であるが、38年間続いた緊張の糸がプッツンと切れてしまうと、何にもする気にならないのだ。考えることと言えば、「毎日が日曜日」の生活設計ばかりとなってしまう。

「最後の一日まで全力投球する」との誓いは、定年が自分の番となるといとも簡単に消え失せて
しまうのである。これではいけないと思うには思うのだが、
いったん切れた糸を再び結び直すことは容易にできるものではない。
朝出勤して机に座り、カレンダーを見る。そこで退職日まであと何日とつい数えてしまうのだ。

組織的には4月から新体制も組まれているし、仕事の引継も終わり、あとは慣れ親しんだ机の中を
整理するばかりとなる。

このころには出入りする得意先の営業マンも後継の担当者にご機嫌伺いをするようになる。
彼らにとって過去は必要ないのだ。これからの営業成績を上げるには後継者の方が大切なのである。
もっともなことと頭では理解しているつもりでも、やはり一抹の寂しさを感じることとなる。

一方、社内の人間も同じである。退職目前の人に相談を持ちかけるのも気の毒と思うのだろうが、
従来の担当範囲の事柄でも知らないことが増えてくるのだ。
今までなら当然連絡のありそうなことでも、その報告がない。後から人づてに知ることとなる。
後継者が急に忙しく動き回るのが目に付く。

かくしてゴム風船の空気が漏れたかのような状態に落ち込んでゆく。
長い間まじめにやってきたのだから休みをとってゆっくりしたらどうだと心の中で誰かがささやく。
カレンダーの消し込みが遅々として進まない。
「ええい、一週間ほど休もう」と意を決して休暇をとることにした。
特に用事があるわけでもないが、会社で留守番役よろしくうろうろしているのが面白くないからである。

家に三日もいると退屈極まりないので、庭にウッドデッキを作ろうと思い立った。
自分でできるものならばと期待してホームセンターを幾つか回ったが、店員に聴いたりパンフレットを
集めたりしたものの、結局本職の人に頼まざるを得ないとの結論に達した。

とても自分の能力では手に負えないとわかったからである。
サラリーマン一筋の私は、改めてなんにもできない自分であることを悟った。
前途多難な予感がする。さてこの先どうなることやら・・・・。

今月29日、午後1時30分からの株主総会で退任の挨拶をして「おしまい」となる。(2000.6.15)


通勤電車

「今日で最後か・・・」

定年退職日、いつものように通勤電車に乗り込んだ。

見慣れた景色を眺めながらつり革にぶら下がる。
大阪天王寺行きの快速電車はいつもの混雑を当然のように運んでいた。
きまった時間の決まった車両だし、前から3番目のドアから乗るので周りを見渡しても見たことのある顔が並んでいる。

ほとんどがサラリーマンである。運良く座席にありついた人は、新聞や雑誌、文庫本を手にしている。
そうでない人は居眠りだ。女子高生はおしゃべりに夢中である。
いつもの光景で特に新鮮さを感じもしない。

不思議なもので、どのあたりで電車が右に大きくゆれるとか、どのあたりでスピードが落ちるとか
身体が覚えており、自動的に対処している。習性とは恐ろしいものである。

「この俺だけが特別なのか・・・」
「明日から朝夕電車に乗らなくてもいいんだ。そう思うとやっぱり寂しいな・・・」
「いやいや、こんな通勤電車から解放されて嬉しいじゃないか」
「そう、うんざりするほど乗ってきたからなぁ。」
「だけど、電車の中は人生ドラマだなぁ。いろんなことがあったよ。」
「そうだな、どちらかといえば腹の立つことが多かったな。」
「マナーが悪すぎるよな。」
「君だって若い頃は酔っぱらって電車のなかを走り回ってたじゃないか」
「すまんすまん、若気の至りで。今思い出すと恥ずかしくて冷や汗が出るよ」
「それにしても、だんだん車内のマナーは悪くなってる気がするねぇ。」

そこで、車内迷惑のあれこれを数えてみた。

1.ウォークマン・・・・・若い人が多い。満員電車でこんな若い人の横に位置すると全く不愉快。
あの「シャカ、シャカ」は耳障りも甚だしい。
不思議と男でも女でも茶髪が多いのが特徴である。最近は少し減少傾向にある。

2.足組み・・・・・・・・これも若い人が多い。ただしウォークマンの年代よりやや上。大学生から
サラリーマンの新人クラスに目立つ。若いOLも少なくない。
混雑した車内での足組みは前に立つ人に迷惑である。
よく観察すると、若い女性の場合、化粧や服装が派手なタイプが多い。
男性の場合、やや崩れた不良ぽい若者が多いような気がする。
これと同類項が座席での大股開きである。威張っているのか、それとも
縄張り意識過剰なのかよくわからないが、どちらにしても人格卑しい人としか思えない。

3.ニンニク・・・・・中年以上の「おっさんタイプ」によく見受けられる。
ニンニクは金曜の夜とか土曜日に食べてほしい。
朝の満員電車でプンプン臭わすとは迷惑極まる。
対処法としては、無理矢理背を向け、風上の空気を吸うしかない。

4.携帯電話・・・・・・最近は車掌が車内放送でうるさく注意するので減少傾向にあるが、
女子高生には全く効き目がない。
どんな親か顔をみたいものだ。家庭教育に欠陥があるとしか思えない。

5.新聞・雑誌・・・・ 混雑した車内で立ちながらむりやり新聞を広げる迷惑な輩。
たいていはスポーツ新聞である。日経を読む者がたまにいるが、他人の迷惑に気づかない
鈍感な奴にたいした仕事が できるはずがない。
6.鼻をすする・・・・ 春先になると花粉症にかかる人が増えてくる。
気の毒ではあるが車内でのべつまくなしに鼻をズーズーすすられるとこちらの気分が悪くなる。
性別、年齢を問わない。 ハンカチかティッシュで始末してほしい。

7.リュックサック・・・4,5年前頃から急に増えてきた迷惑な背負いカバン。
後ろを大きくふくらませたカバンははなはだ迷惑な代物である。
本人は見えないところにあることで知ってか知らずか、
後ろに立つ人のことには無頓着。混雑した車内では肩から降ろして
手に持って体の前で抱えるべきである。愛用者は若者とおばさん。

8.雨傘・・・・・・・・・ 車内へはキッチリ巻き付けて乗り込むべきである。
当然のことだが他人に触れないよう気をつけて持つのがマナーである。
さすがに広げっぱなしの人は少ないが他人の衣服に触れているのに全く気がつかない
無神経な人間がいる。このケースも性別、年齢を問わない。

9.子供・・・・・・・・・ 帰りの車内でよく見る。よちよち歩きの子供を危険を顧みず車内で
遊ばせている愚かな夫婦。乗客がはらはらしているのに少しも気づかず、
ニコニコしている母親の鈍感さにあきれる。

10.酔っぱらい・・・・ 深夜の電車に多い。気持ちよく寝込んでいる酔っぱらいは愛らしい。
何が気に入らないのかぶつぶつ文句を言っている酔っぱらいは危険である。
電車の適度な揺れがそれを増幅し、いつ爆発するかわからないからである。
お酒は気分良く楽しむものである。自戒すべきは酒である。

まだまだ数え上げればきりがない。そろそろ天王寺駅につく。
今朝のところはこれで終わりにしよう。
これから地下鉄に乗り換えて15分で会社に着く。まだ早いのでいつもの店でコーヒーを飲もう。
この店のコーヒーも最後になる。マスターが寂しがるだろうな。(2000.6.30)
                                                                        


      


定年直後

2000年6月29日、ついに卒業した。小・中・高・大に続く人生第五回目の卒業式であった。
今日を迎えるのに実に38年かかったことになる。
それまでの卒業と比べると比較にならないほど遠い道のりであった。

「定年退職」と言う言葉はその間何度も耳にした。
「ああ、あの人も定年か・・」と何気なく受け止めていた。
翌日にはそのことを思い出すこともなかった。まるで自分には関係のないことのように。
「定年」と言う言葉の重みが理解出来なかったのである。自らの仕事に追いまくられていたこともあるかも
知れない。

だが、間違いなく「定年」は私にも訪れた。そのときになって初めて今まで受け取った定年退職の挨拶状の
送り主に対して失礼なことをしたと悔やむこととなった。ねぎらいの言葉一つかけられなかった自分が
情けなく感じたのである。
体験して初めて理解できることなのだろうか。それとも情が薄い人間なのだろうか。
自らが挨拶状を書きながら、過去の自分がその重みとは裏腹に冷ややかに問いかけるのである。

もう、退職して四週間になる。
退職直後は意外にも忙しかった。長崎の歯医者へ行ったり、ハローワークへ失業の報告、役所へ年金
変更の手続き、挨拶状づくり、図書館の視察などあっという間に過ぎていった。
それらが一段落して今、改めて定年後の生き方を考える余裕ができた。

退職前にはあれもしたいこれもしたいと楽しみにしていたことが、今自由に出来る筈なのに、なぜか
何も出来ない。一種の真空状態にふわふわと漂っている有様なのだ。
自由になるということは、何もしなくても別に問題とならないのである。
強制が伴わない生活、こんな生活は何時以来だろうか。すべてが自由意志で生活するということに
戸惑っているのが正直なところである。

はやく態勢を立て直して、退職以前に考えていたことに自らの自由意志で歩き始めなければならないと、
焦りに似た気持ちでいるこの頃である。(2000.7.26)
                               

   


ウッドデッキ

退職してから一番にとりかかったのは、「ウッドデッキ」の制作である。
定年になれば自ずと庭にでる機会も増えるだろうし、植え込みの手入れも楽しみの一つとなるだろう。
そんな目でつらつら狭い庭を眺めていたとき、フッと「ウッドデッキ」が頭に浮かんだ。
そうだ、ここにデッキを作れば、花や木を眺めながらおいしいコーヒーを飲める。洒落ているではないかと
妙案に満足した。

早速ホームセンターをあちこち回った。パンフレットを集めたり、本屋の趣味コーナーや園芸コーナーを
見て歩いた。
ウッドデッキの制作を紹介する幾つかの雑誌を立ち読みした。
その結果、結論はとても自分では無理だということだった。なにしろ、基礎が難しい。水平をとることが
出来ないのではないかという不安があった。

諦めかけていたときに、あるデッキメーカーのホームページをみた。
いろいろ自社製品の自慢めいたことが書いてあったが、そのなかの一つのキャッチコピーに驚いた。

「当社のウッドデッキを購入された人で、今まで自作出来なかった人はいません。」と誇らしげに
書いてあるではないか。

世の中には、器用、不器用様々な人がいると思うが、私がその中でもっとも不器用ということもあるまい。
ひょっとして、可能かもしれないと期待を持たすに充分なコピーであった。
幸い、そのメーカーが車で40分ぐらいのところであったので、急いで出かけた。
その会社の展示場についた。現物をみて、また落胆した。
置かれていたデッキは、とても頑丈で立派なものだった。工作でこんな大きなものを作ったことがない。
せいぜい腰をかけたらふらふらするベンチ位のものしか経験がなかったのである。

しかるに、出てきた若い担当者は、こちらの思いに頓着なくこう言ったのである。

「この間、70過ぎのお爺さんが2日で出来たと喜んでいましたよ。」

「うーん・・・・・・」本当の話かと絶句した。

「それなら、10才も若い私に出来ないはずはないですね」
「出来ますよ。見た目よりはやさしいのですよ」こう言われて、引き下がれなくなってしまったのである。
    
こうして「70過ぎのお爺さん」の話を心の支えにしてウッドデッキの制作いや正確に言えば「組み立て」を
始めることになった。
一日目は、基礎工事である。
非常によく考えられており、素人でも簡単に水平がとれるようになっていた。
二日目はもっと簡単であった。板を並べ釘で止める作業だった。あとは防虫防腐塗料を布で塗り完成と
なった。ついでにベンチとテーブルも自作した。
出来映えは上々で、うちの奥さんに改めて私の器用さを認めさせることになった。
元はと言えば出来て当たり前で、素人でもうまく出来るように設計されているのだが、いざ目の前に
完成するとうちの奥さんから見ると驚異的なものに映るのである。
    
それよりなにより、このメーカーのキャッチコピー「当社のウッドデッキを自作できなかった人はいません」を
私が使えなくしなくて良かったというのが本音のところである。(2000.7.28)
        

   


番付    

「相撲」が好きでよくテレビの前で大声をだす。
かみさんから「うるさいから静かに見てよ」とよく言われる。つい興奮してしまうのだ。
      
相撲社会は番付社会だ。年齢とか経験とかは一切関係ない。じつに明確な実力社会なのだ。
横綱でも大関でもそこに到達するには厳しい基準をクリアしなければならない。
しかしながら、その基準は過去の経験から割り出されたもので、余程のことがない限り無視
されることはない。

一方、横綱は大関に落ちるということはない。
その代わり成績不振が続くと責任をとってやめなければならない。
大関は二場所連続して負け越すとその地位を明け渡さなくてはならない。ただし次の場所で
10勝以上勝ってカムバックできる。
その下は勝ち越すか、負け越すかで「番付」は否応なく上下する。
      
専門家ではないので詳しいことはわからないが、「番付」はいつも実力に応じて変わるように
なっている。
勝負の世界は厳しいものだ。その厳しさがあるからこそ、過酷な稽古に耐えられるのだろう。
実力さえ付けば番付があがり、相応の待遇を受けられるからだ。

ひるがえって、私が過ごしてきたサラリーマン社会ではどうだろうか。
結論から言えば、どう考えても相撲の「番付表」の方が優れていると言わざるを得ない。
      
サラリーマン社会も「番付社会」であることには変わりがない。
平社員から係長、課長、部長、そして役員があり、常務、専務、そして究極のトップ、社長となる。
これが一般的な階層と言えるだろう。
      
問題は、人間の方である。
企業ではそれなりの昇進基準が決められている。しかし実際の運用では、相撲番付のように
過去の経験の積み重ねとか、明快な星取り表に基づいて決められるものではない。
いろんな要素が入ってくる。
「地位に応じた企業への貢献度」は複雑多岐な要素が絡み合っており、白星・黒星の数を
数えるようにはいかないのである。
      
こうした曖昧さ、複雑さが不幸を呼ぶことになるのである。
時としてその地位にふさわしい実力を持たなくして昇進することがある。
相撲社会ならもしこういうことがあっても、翌場所には実力相応の番付に戻るようになっている。
したがって、本人も周囲も迷惑を被ることがない。
ところが、サラリーマン社会ではそうならないのである。もともと間違ってはいるのだが
曖昧で複雑な要素、時には不純といえる要素がその間違いを覆い隠してしまう。
      
そうなると本人も辛いのは当然のこと、周囲の人とくに下の人には迷惑極まりないことになる。
何故なら、間違った指示で右往左往することになるからである。
こうなると人間関係が悪化して、チームとしての総合力が発揮できなくなる。
当の本人の自覚が伴わないともっと悲惨な事態になる。

かって、こういう人がいた。
平社員のときから成績抜群でいつもノルマを大幅に上回って達成していた人が、その行動力や
使命感を買われて30人ぐらいの部下を有する支店長となった。
しかし、彼は人をうまく使うという能力は乏しかった。彼は悩んでいつしか酒浸りとなった。
ついにはアルコール中毒になり、入院先の病院で死亡したのである。自殺したとの風評だった。
      
間違って「番付」の上がりすぎた人も不幸であり、その下につく人も不幸になる。
相撲社会ではこういうことはない。
なんとかサラリーマン社会でも「地位に応じた企業への貢献度」を純粋に計る方策がないもの
だろうか。38年間勤めてきて定年となった今でもそのことが気にかかるのである。(2000.8.28)
                          


音楽を友として

「音楽」に興味を持ったのは、中学生になったころである。
学校で音楽の時間によく行進曲のレコードを聴かせてもらった。ブラスバンドの響きがとても
心地よかった。歯切れの良いテンポと吹奏楽器の音色に心躍り、興奮したものだった。
       
当時、ラジオでは江利チエミの「テネシーワルツ」がしょっちゅう流れていた。
英語の歌詞がハイカラで妙に新鮮だったが、歌い方は小節を利かせた演歌調であった。
       
そんな頃、SP盤のレコードを兄がどこからかどっさりと借りてきた。
グレンミラーやペニーグッドマンだった。いわゆるスゥイングジャズと呼ばれる軽快で踊りたくなるような音楽だった。
音質は極めて悪かったが、そのウキウキするようなリズム感が素晴らしかったのを今でも
はっきりと思い出す。

高校の頃には、フランク永井の「有楽町であいましょう」が印象深い。しびれるような低音が
魅力だった。
3年生の時、クラス対抗の合唱コンクールで歌った黒人霊歌「深き河」も良い歌だった。
練習はあまり好きではなく、同級生の熱意に引っ張られてしぶしぶ参加していたのだが、
不思議なもので今でも時々口ずさむことがある。
同じ頃、ハリーベラフォンテのレコードを良く聴いた。例のデー・オーと叫ぶ「バナナボート」が
大ヒットしていたころである。ハスキーながらも艶のある良い声だった。
中学・高校時代のこれら音楽との出会いが私の「音楽好き」の原点になっているように思う。
ブルースやジャズを今でも愛しているからである。
       
その後、地方大学に進んだか゛、そのころはクラシックやデキシーランドジャズに夢中だった。
「名曲喫茶」とか「ジャズバー」全盛期だった。下宿住まいの侘びしさを紛らわすにはもってこいの
場所だった。「コーヒー」や「ハイボール」を飲みながらよく通ったものである。
ラジオの深夜放送もよく聞いた。水原弘の「黒い花びら」とかザ・ピーナッツの「小さい花」などを
覚えている。

映画もよく見たが、当時は映画音楽も楽しみの一つだった。
中でも衝撃的な出会いは「死刑台のエレベーター」の映画音楽であった。

マイルス・ディビスの心の底からうめくようなトランペットが胸の奥に深く刻み込まれた。
ミュート(弱音器)を多用した細く鋭いトランペットの音色は、人間の心の奥底に潜む悩みや苦痛を
絞り出す、まさに悲鳴そのものだった。
「宗教性」をも秘めているような音楽に圧倒され、傾倒し、信者になった。
このころからにぎやかなデキシーランドジャズからはなれて、「静かでクールなジャズ」へと好みが
変わっていったように思う。

「モダンジャズカルテット」いわゆる「MJQ」とともに「マイルス・ディビス」のジャズは私をとらえて
はなさない。
       
「宗教性」と言えば、この時期になって「黒人霊歌」や「ゴスペル」、「ブルース」へと集中していった。
マイルス・ディビスに触発されてジャズの原点へとさかのぼっていったのである。

黒人にとって歌は「宗教」であると思う。かっての悲劇的な境遇を生き延びるためのたった一つの
「救い」が歌、音楽だったのではなかろうか。
したがって彼らの音楽には「深い精神性」が込められている。「魂の叫び」が音楽なのである。

一年ほど前、ライブハウスで「ゴスペル」を聴いた。途中、女性のソロが入った。ところがその女性は
受け持ち部分が終わっても、いつまでも歌い続けるのだ。無我の境地に没入してしまったのである。
あわてて指揮者が彼女を抱きかかえ、肩をやさしくたたきながら列に戻した。
私は感動した。「歌」がかくも「精神」とふかく拘わるものなのかと驚いたのである。
まさしく「宗教」そのものだった。

「ブルース」はジャズの原点である。あの単調でシンプルな音楽もなぜか私は飽きない。
ギターとかハーモニカとかありふれた楽器で「魂」を、そして「生活」を語る素朴な音楽。
見栄やキザっぽさのない自然体のリズム。理屈抜きにとけ込める良さがある。

ときどき、自分には黒人の血が流れているのではないかと思うときがある。
嬉しいときも、辛いときも、情けないブルーな気分の時も、いつでも「ブルース」を聴くと、なじめる。
それが不思議なのだ。特に誰がいいとか言うのではなく、ブルース自体が性に合うのである。
一方で、近頃はクラシックをジャズ風に編曲したものを好むようになってきた。
ヨーロッパのジャズとか軽いタッチのものもいい。
       
こうして「行進曲」からマイルス・ディビスやMJQ、そしてブルースやゴスペルへと「音楽を友として」
生きてきた。
今ではジャンルを問わず、音楽との出会いを楽しんでいる。
高橋真梨子や美空ひばりもいい。「襟裳岬」も好きだ。「名残り雪」も良い歌である。
「音楽」はいつまでも私を若くしていてくれる。
耳から飛び込むこの心地よい刺激は私には無くてはならない「人生の友」なのである。(2000.8.30)
       

      


続・息子の彼女

今、私はとても安堵している。
長男がやっとのことで婚約したからである。

今年で34才になる長男は、3年前、弟に先を越され親をやきもきさせていた。
本人は至極冷静で、弟に対して「どうしてそんなに急ぐの?」と冷やかしたりしていた。
兄弟でも性格は極めて異なり、弟がおしゃべりで社交的なのに対して兄は寡黙で職人タイプというか、
芸術家のように気むずかしいタイプである。
当然、好き嫌いも激しく、良い伴侶となる対象範囲も極めて狭いのではないかと心配していた。
      
2年ほど前から誰かとつき合っているらしいことは、かみさんから聞いていた。
しかしながら、腫れ物にさわるようにそっとしていた。いろいろ尋ねても寡黙な性格ゆえに
本人がぺらぺらしゃべるとは思えなかったからである。

半年ぐらい前に一度だけ「彼女がいるのか?」と聞いたことがある。
珍しく私の勤め先に電話してきて、喫茶店で会ったときのことである。
外で話すことなんて滅多にないことだし、「母さんも心配しているから、早く独立しろよ」と言った。
「つき合っている女性はいる。まだ正式に申し込んでいない」とのことだった。
      
それから2ヶ月ぐらい経って、彼女を紹介するからと自宅に連れてきた。
      
待望の彼女が来てくれるというのに、二、三日前から流感にかかり私の体調は最悪だった。
それでも無理をして、居間で彼女を待った。
熱で頭がボーとして頭痛と寒気に閉口していた。

「大丈夫ですかぁ」の声とともに彼女が現れた。
にっこり笑みを浮かべながらのやさしい声だった。
まるで十年前からの知り合いのようなうち解けた態度だった。

「あぁ、いらっしゃい。大丈夫、大丈夫。」と言いながら、ほっとした。
私も彼女の笑顔に引きずり込まれて思わずほほえんだ。
そして、素晴らしい子だなぁと心が躍ったのである。

それ以後のことは、今となってははっきり覚えていない。
「大丈夫ですかぁ」の一言があまりにも鮮烈な印象だったからである。
      
来年の5月に二人は結婚する。
幸せになってほしいと願わずにはいられない。

それにもまして、長男と次男の素晴らしい伴侶とそれぞれのご両親に対する責任の重さを
痛感するこの頃である。(2000.9.7)     

     


条件反射   

「梅干し」を見たり、想像したりするだけで唾液がでる。注射の針を見せられると、腕がこわばる。
こういうのを「条件反射」というらしい。 これとよく似たことが私にはある。

私はある言葉を聞いたり、何かを見たりするたびに一定の事柄を決まって思い出すことがある。
どうでしょうか、あなたにも心当たりがありませんか。
       
近頃は少なくなったが、夏の夜「蛙の合唱」が聞こえてくると、私は決まって「空襲」、「戦争」という
イメージが頭に浮かぶのである。

昭和20年の夏ごろ、私は三重県の四日市市に居た。5才ぐらいだった。
四日市市の海岸には海軍の燃料廠(石油基地)があった。
これが米軍の格好の攻撃目標となり、何度も空襲を受けた。そのたびに家から飛び出して、
前に広がる田圃のあぜ道に身を伏せた。

5才の幼児でも言いしれぬ恐怖を感じていたのだろう。
そのときに耳に飛び込んできた蛙の鳴き声が頭の脳味噌に焼き付けられたのであろうか。
今でも、夕方薄暗いときに蛙の鳴き声を耳にすると、当時の経験が「条件反射」となって
脳裏に浮かぶのである。

普段はちらっと頭を掠めるだけなのだが、時にはそこから次々とスライドフィルムをみるように
関連する情景を辿ることがある。

ある晩、いつもの「空襲サイレン」で田圃に飛び込んだ時のことである。
怖くて頭を抱えながらも一種の「怖い物見たさ」から、そーと顔を上げたことがある。
すると、真っ暗の空にいくつかの探照灯(サーチライト)の赤い光が、細く、長く、まるで生き物のように
うごめいているのが見えた。
その光景は、夢のなかの美術館で、漆黒のキャンバスに描かれた光の絵画を眺めているかのように
私の脳裏深く染みついている。

「蛙の合唱」は「空襲」・「戦争」を思い出させ、次に必ず頭に浮かぶ情景として、このシーンが現れる。
連鎖的な「条件反射」とでも言えばよいのだろうか。
       
条件反射と似た遠い情景がもう一つある。
それは「こうもり傘」である。

今でこそ「こうもり傘」は使い捨ての消耗品のように扱われているが、私は実に長い間この傘に
憧れていたのである。
確か、高校生の時でも持っていたのは「番傘」であった。
貧しくてこうもり傘を買う余裕がなかったのである。いつかは自分の傘を持ちたいと念じていた。

そして今、「こうもり傘」を手にするとき、いつも思い出すことがある。

小学校5年生の頃である。
下校時にひどい雨が降っていた。傘を持っていなかった私の目の前には、何人かのお母さんが
傘を持って子供を迎えに来ていた。
       
二人、三人と迎えに来てくれたお母さんと友達が帰っていく。
とうとう私一人が残された。
私は母を亡くしていたので、当然誰も迎えに来てくれる筈がない。
それはわかっていた。
       
みんなの姿が校庭から消えた頃、私は一目散に飛び出した。広い校庭を走り抜け、道路にでて
民家の軒先づたいに道の右側、左側と軒先を見つけながら帰った思い出がある。
       
悲しかったとの思いはよみがえらないが、今でもこうもり傘を手にするときに思い出す情景が、
決まってこのシーンなのは、余程子供心に辛かったのだろうと思う。

「条件反射」とは、「心の傷あと」なのかも知れない。
普段は忘れ去っていることでも、それを刺激する何かが現れると、かっての「心の傷」が
よみがえる、そして一生その傷は消えることがない。
       
今の私にとって、これらの「心の傷跡」は懐かしくもあり、ほろ苦くもあり、快感でもある。
そう思えるほど現在は幸せなのだろう。きっと。(2000.9.11)
                                                                      


  怠惰の楽しみ  

サラリーマン時代に憧れていた「毎日が日曜日」の生活がはじまって3ヶ月経った。
今、とても満足している。

蓄えは乏しいが贅沢を望まねば、命に別状はない。
初めのうちこそ「今日は何をしよう」「何かすることはないか」と焦りに似た気持ちにもなったが、
それも三週間ぐらいできれいさっぱりと忘れ去った。

まことに怠惰な生活である。だが、一向に苦痛を感じないなのだから不思議だ。
どうしてだろうと思うこともある。心当たりがあるといえば、38年間つとめた職業が影響している
かも知れないということである。

小さな銀行に入り、その大半を営業畑ですごした。支店をいくつも任されたこともある。
毎日、毎日人と会い、商談をまとめたり、行員の尻を叩いたり、銀行本部との調整や会議に出席した。
その間、語り尽くせないほどの出来事を経験した。

そうした日常生活のなかで、潜在的に「人間嫌い」の感情が芽生え、育まれていったような気がする。
「金」にまつわる人間の醜い執着心や出世エゴイズムに飽き飽きし、次第に人と接することが疎ましく
思うようになっていた。
もちろん、イヤなことばかりでなく、嬉しかったこと、「ヤッター」とみんなで喜びを共にした素晴らしい
思い出も多々ある。
        
何はともあれこうした経験が積み重なって、何時しか「一人」に憧れるようになったのかも知れない。
        
もう一つ心当たりがある。
それはもともと怠惰な性格なのかも知れないと言うことである。

小・中学校時代は自宅で勉強した記憶がない。
宿題をせずに学校へ行って、よく先生に叱られた。なんせ勉強机も無かったのだから。

高校受験は家で一週間ほどした記憶がある。参考書の半分ぐらい進んだところで試験日がきた。

大学受験の時は、高校二年の夏休みから始めた。幾つかの参考書に取り組んだが、最後まで
やり通した本は一冊もなかった。
しかしながら、今思えばこの頃が一番真剣に勉強したと言えるかも知れない。

大学を卒業するのに必要な単位は72単位だった。
4年生の最後の試験で74単位になった。友達のみんなは100単位以上とっていたのに。
もともと怠惰なのである。

就職してからも変わらなかった。短期集中型で、短い期間は全力を傾注するのだが、長くは続かなかった。
コツコツ型ではなく、たまにどでかい花火をあげることが得意だった。
誰もが出来るようなことには関心がなく、新しい仕事を第一号で成し遂げることに意欲を燃やした。
「新物食い」なのである。一度やったことには興味が薄れた。

自分で興味のあることには、必死で立ち向かうが、押しつけられる仕事は出来なかった。いや、
本当のところは何かと口実を付けてやろうとはしなかったのである。

管理職の端くれになってからは、部下の指導・教育に力を注いだ。
部下が成長してくれれば、自分が楽になるからである。
そのために時々、部下に見せつける仕事をしなければならない。そうしないと言うことを聞かない
からである。
結果として、チーム力があがれば私は楽になる。

怠惰な性格から出来上がったモットーは「最小の労力で最大の効果を上げる」だった。
        
波乱に満ちた現役生活を終えた今、私はあらゆる「義務」から開放されて一日24時間の全てを  
自分のものとしている。
嫌々人に会うこともない。義理に駆られてのつき合いもない。
好きな時に、好きな人間と話しをしておればいいのだ。こんな幸せなことが他にあろうか。
        
一面「怠惰な生活」と言えなくもないが、私にとってこれ以上の「贅沢な楽しみ」はないのである。
                                                       (2000.10.5)
              

                


9月危機    

9月といえば、未だ残暑は厳しいものの、来るべきさわやかな秋の到来が嬉しい時期である。
しかも、私の誕生月でもあり、本来は縁起のいい月だと長い間信じていた。

ところが、近頃はどうも縁起のいい月だとは思えないハプニングが続くのである。
「9」が「苦」に通ずるということだろうか。

今から3年前のことである。

9月5日の夕刻、私は明日の魚釣りをたのしみに帰宅の途中であった。
鯛や鯵を釣り上げて喜ぶ自分を想像しながら一人悦に入っていた。
最寄り駅に降り、自分の車が止めてある駐車場へ向かった。
そのときである。
全く突然に高校生の二人乗り自転車に追突されたのである。運の悪いことにそこは
狭い地下道であった。
私は転倒し、左足首を複雑骨折してしまったのである。
そして、ポーカーでいえば「9」のフォーカードとなる平成9年9月9日、午前9時、
外科病院で手術を受けた。以降、3ヶ月の寝たきりとなったのである。

それから、3年経った。

平成12年のまたもや「9」月3日、私は夕食を食べようと食卓に向かっていた。
5ヶ月前に歯の治療として簡易インプラントの手術を受けていた。
経過もよく、順調に快復していた。少なくともこの時点ではそう思っていた。
ところがである。ここから最悪の9月が始まろうとは夢にも思わなかった。

「いわしのフライ」を噛んだとき、手術した左下の歯が「ピチッ」と音がして激痛が走った。
顎の骨に打ち込んだ金属とそれを包み込む骨とが剥離したのである。
「しまった・・・」と思ったが、幸いなことにしばらくしてその痛みは治まった。
最悪の事態は避けられた。そう信じたかった。
しかしながら、そう甘くはなかった。歯がぐらつきだしたのである。
医者に何度も診てもらったが、「そのうち落ち着くでしょう」というばかりである。
しかし、落ち着くどころか次第に下の歯が全体にガタガタしてきて痛みはひどくなるばかりだ。
        
食事といえば流動食以外は無理だった。隣で老妻がポリポリと音をたてて沢庵を噛む。
全く無神経以外の何物でもない。
テレビの料理番組や温泉巡りの番組でおいしそうにご馳走を食べるのを見ると、羨ましいやら
情けないやら。
もうあんな楽しみは私には縁遠いものとなったのかと深い絶望感すら覚えた。

それにしても飽食の時代なのか、テレビでの食べる番組の多いこと。
今までは何ともなかったのに、自分が食べられない事態になって急に神経に障るようになった。
「もうすぐ直る」「もうしばらくで良くなる」そう言い聞かせながら辛抱していた。
        
結局、2ヶ月間耐えに耐えたものの、精神的限界に達し、他の歯医者に駆け込む羽目になった。
そして、結局は総入れ歯に落ち着いてしまったのである。
        
幸いにして、総入れ歯は口の中でごそごそ動くもののかろうじて食べ物を噛むことができる。
やっとの思いで流動食の世界から抜け出せそうである。
これからも根気よく歯医者通いを怠らなければ、今よりは入れ歯の具合も良くなるだろう。
わずかながらも光明が見えてきたような気がする。
 
それにしても9月は良くない。私にとっては「9」は「苦」なのである。

「9月危機」はもうたくさんだ。
どうか、来年の9月こそ何事もなく平穏であってほしい。今から祈るばかりである。(2000.11.27)
         
                                                        

裸のつきあい

現役を退いた今でも親しくしている友がいる。

初めて顔を合わせてからもう34,5年のつき合いだ。うちのかみさんについで永い関係なのである。
無愛想な私にとってこんなに長い間おつき合いが続くことは誠に珍しい。
先方のつき合い上手に乗せられたまま今日まで来たと言うのが本当のところだろう。

今ではまさに心を許す親友であり、何のためらいもなく自分をさらけ出すことの出来る貴重な人物と
なっている。
こういう関係を「裸のつきあい」と言うのだろうか。

「裸のつきあい」と言えば、この人とは変なところで偶然出会うことがしばしばある。
        
今から15,6年も前になる。
職場の同僚二人と私は日頃のストレスを遠くで発散しようと北陸の加賀温泉郷へ旅に出た。
温泉に浸かって美味しいものを食べ、翌日は好きなゴルフをしようとの計画だった。

旅館に着くと急いで浴衣に着替え、露天風呂へ直行した。
脱衣所で裸になっている私の目の前に突然現れたのが、この友であった。
丁度風呂から上がってきたところであろう。彼は素っ裸で、頭から湯気を出していた。
しばらくはお互いに唖然として声も出なかった。

「あれぇー、なんで、なんでこんなところにいるの・・・・・」と私が叫ぶと、先方も
「あれぇー、どうしたの、なんでここに・・・・・・・」

大阪の喧噪から逃げ出してきて、ひとときの安らぎを求めて来たのに、まさか。
それも日頃仕事のことでああでもない、こうでもないと口角泡をとばせてきた人物に会うとは。
この温泉地には何百という旅館があるのに・・・・・。

それまでの旅行気分が吹っ飛んでしまった。
いきなり襟首を捕まれて現実に引き戻されたような気がした。

このときから数年後、また変な場所でこの友に出会ったことがある。

私はある得意先の社長と接待ゴルフに出かけた。
大阪でも指折りの名門ゴルフ場であった。

プレイが終わり、会食のあと「さぁ、帰ろう」と車に向かって歩き出したが、
長い間車に乗るからお手洗いに行っておこうとトイレに向かった。

誰もいなかった。私が用を足していると、そこへひどく酔っぱらった紳士が入ってきた。
正面の壁に片手をついて、一言「ふぅー」と呻きながら気持ちよさそうに放尿している。

こんな名門ゴルフ場でもいろんな客がいるもんだと、ふと顔を見ると、見覚えのあるこの友だった。
「おいおい、大丈夫か」と声をかけると、「へぇー、なんであんたここに・・・・」と素っ頓狂な声で
返事をした。
「変なところでよく会うなぁー」と両方で不思議がった。
        
それから何年か経った。
何の用事か忘れたが、自宅へ電話したことがある。
この友人はいわゆる「電話魔」で、まめにあちこち電話をかけまくることでも有名なのだが、
このときも私は2,3回話し中を待ってかけ直した覚えがある。
そして、ついに彼が電話に出た。

「ハーイ、松露君か・・・・・。」
「もしもし・・・・」
「はっ、はっ、はっ。いまどこにいるかわかるかい」
「えっ、えーーと」
「今ね、ここはトイレなんだ。ちょっと待ってね。水流すから。・・・・・」
その瞬間にざぁーーという水の流れる音がした。

なんだか臭いまで電話口から伝わってくるような気がして早々に用件を済ませた。
受話器を置いて手を洗いに行こうかと思うほどリアルな音だったのである。

そして、先日のことである。
私がトイレに入った直後電話が鳴った。しばらくしてかみさんがトイレのまえにきて、
この友人から電話だと告げた。
妙なときに掛けてくるなぁと思いながらも、用をすませてかけ直した。
すると開口一番彼はこう言った。
        
「おまえ、臭かったぞ・・・・・・。はっ、はっ、はっ。」(2001.1.12)