私には、不幸にして母の記憶がない。5歳の時に死に別れたからである。 父は後妻を取らなかった。 母への愛情のためか、経済的な事情からか今は知る由もないが、 以後私は父と4人の姉と1人の兄に囲まれて可愛がられて育った。 貧乏に悩まされながらも、兄弟姉妹の家族愛に包まれて道を違えず今日まで来た。 家の経済は極端に苦しく、辛い毎日であった。 ささやかな夕餉の食卓を囲みながら家族は貧乏を嘆いた。 そして、最後にはお母さんがいないのだから、みんなで頑張らないといけないと 励まし合うのがいつものことだった。 「あなたは、お母さんを知らないから可哀想ね」と姉たちに慰められるのも 普通のことだった。 そう言われても、私にはピンとこなかった。母の記憶がまったくないからである。 懸命に思いだそうとしてようやくたどり着く一つの情景がある。 この情景がひょっとして母に関係しているのかも知れないと思ったのは、 随分あとになってからのことだ。 その情景とは次のようなシーンである。 どこかの和室である。中央に布団が引いてある。昼間だった。 白っぽい布団に誰かが寝ている。 周りに数人の人が座り、寝ている人を覗き込みながら泣いている。 大きな声ではなく、シクシクと泣いている。 私と思うのだが、一人の子供が寝ている人の布団のうえに這い登っていく。 それを見て周りの誰かが「可哀想になぁ」と言ったのをかすかに覚えている。 記憶が呼び戻されるのはここまでである。 残念なことに、本当に残念なことだが、寝ていた人の顔が浮かんでこない。 記憶を必死で辿っていっても、 顔の部分は灰色のベールで覆われたままである。 たった一枚の写真がある。母の結婚写真を複写したものである。 随分ピンぼけであるが唯一の母の写真である。 ときどきこの写真をじっと見る。「そうか、こんな人だったのか」と考える。 どんな声をしていたのだろうか、暖かい手だったのか、 それともひんやりとした手だったのか・・・。 思いは尽きない。 その写真は白い角隠しをして、きりっとした表情で椅子に座っている。 締まった口元がいい。私と同じように少々あごが張っている。 目元がすっきりしている。 この写真のおかげで、私の母はありがたいことに永遠に若くて美人である。(1999.8.29) |
今のところ私は無神論者である。宗教行事といえばお葬式ぐらいのもので、 親戚縁者や親しくしている人にお葬式があると、半分以上義理に駆られて出席する。 お葬式に出ていつも思うことがある。 それは、当事者は亡き人を偲んでさめざめと泣いていることが多いが、 出席者のなかで、故人を思って泣いている人は案外に少ないということである。 あちらこちらで大きな声で「おひさしぶり」とか「お元気ですか」とかの会話を耳にする。 なかには、けたたましく笑い声も飛び出したりしている。お葬式なのに・・・・・。 親戚以外の出席者は、亡き人の友人関係が集まっており、 それぞれが友達同士でもあるのだから、お葬式はみんなが集う絶好の懇談会となるのだ。 焼香前やそのあとでは亡き人はそっちのけで、「帰りに一杯どうだ」とか 「次はいつ集まろうか」などと相談しあっている。 正直なところお葬式とはこんなものなのだ。 そして、一週間も経つと誰もがきれいに忘れ去って日常の世界に没頭している。 特に、亡き人が高齢だった場合ほどこの傾向が強い。 つまり、お葬式とはいっても、普通は出席者の殆どが悲しまないのである。 私自身も義理出席が多いので数多く参列しているのにかかわらず、 涙を流したことはほとんどない。 もちろん例外もある。 直接親しくしていた人が亡くなった時は、やはり目頭が熱くなる。 最近では、以前勤めていた会社の前社長のお葬式では、ごく自然に涙を流した。 私を快くこの会社に受け入れてくれた恩人でもあったし、なにかと可愛がってくれた。 私もその恩に報いようと仕事に励んだ。 病気を理由に任期を一年残して退社された前社長は、それからわずか3ヶ月で亡くなった。 信じられないぐらいの急逝だった。 前社長はやんちゃで、プライドの高い人だった。 そして非常に繊細な神経の持ち主でもあった。 好き嫌いのはっきりした人で、私には随分やさしかった。 永い人生の中でも数少ない好きな人だった。 氏のお葬式は堂々たる立派なものだった。 このときは周りも気にせず追悼の涙を流した。 こんなお葬式には幸いにしてたびたび遭遇していない。 そのことに感謝しながらも、形式的、義理的お葬式に出ている。 なんか申し訳ないような気もするが、 それが当たり前のように執り行われ、繰り返されている。 だから、それはそれで由と言うしかないのだろう。(1999.8.29) |
永い人生を生きていく上で、これだけは間違いないと思うことがある。 それは、人間は一人では生きてゆけないということである。 アダムとイブの時代から現代に至るまで、人間の最小単位は2なのである。 これは動物や植物の世界でも言える事だと思うが、人間の場合は種の維持のため だけではない。生きていく過程のことだ。つまり社会生活を営む上での話である。 二人で一単位というとすぐに結婚を連想するが、 生きていく過程のことだとすると 個人の生活のこともあれば、組織でのこともある。 ここでは、組織の中での最小単位2について考えてみたい。 私の乏しい経験を言えば、永い間サラリーマンをやってきて「絶体絶命の危機」が何度かあった。 上司にも、同僚にも、家庭でも言えず、どん詰まりの境地に落ち込んで、どうしていいのか 途方にくれる真っ暗闇の時期があった。 それでも何とか切り抜けてきた。 今思うと、そのときの心の支えは「誰かがこの私を見守ってくれている」との 祈りにも似た信念であった。 もがき苦しんでいる自分を誰かがきっと理解してくれる筈だと信じていた。 それが最後のよりどころであった。それを「神」というならそれでもよいが、 とにかく「神の見えざる手」にすがるしかない時が何度かあった。 単なる神だのみではなく、あがき、もがきながら自分の理解者という存在を信じて 活路を求めていた。この場合、それが現実に存在する人でなかってもよかった。 架空の誰かであってもいいのだ。 大事なことは100パーセントの理解者がいると自分自身で信じ込めるかどうかであった。 これを宗教心と言うのかも知れない。 無神論者を標榜しながらこんなことを言うのもおかしいが、 そんな経験を幾度か味わったことがある。 こうして空想の誰かすなわち「神の見えざる手」とともに2人で生きてきたことは間違いがない。 もっとも、空想の誰かでなく、身の回りに理解者が存在すればそれに越したことはない。 しかも一人ではなくたくさんいればいるほど幸せである。 私自身の望みを言えば、「絶体絶命の危機」に陥った人から100パーセントの理解者として その人の心の支えになれるとしたらそれに勝る幸せはないだろうということである。(1999.8.29) |
サラリーマンにとって、その存在を象徴するものは、名刺と椅子である。 特に、名刺に初めて何らかの肩書きがついたときは感激である。 一人前のビジネスマンとして認められたような気がするからである。私もご多分にもれず、 「係長」のついた名刺を見て、一人でニヤニヤしていたことを思い出す。 椅子もサラリーマンの値打ちを表現するものである。 平社員のそれは、きわめて簡素である。 肘掛けもなく、小振りな作りで安食堂のパイプ椅子とたいして変わりはない。 それが課長ぐらいになると、やや大きめのものとなり、小さいながらも肘掛けがつく。 こうして出世とともに椅子は大きく、立派になっていく。 さて、名刺といえば、サラリーマンの身分証であり、欠かすことが出来ないツールなのだが、 その使われ方は様々である。 営業をしていると、どれだけ名刺を使うかが活動のバロメーターとなる。 銀行の得意先係は、それこそチラシのごとく名刺をばらまく。 店舗周辺の一軒一軒を毎日のように訪問しては、名刺を手渡す。それが仕事なのだ。 銀行名と自分の名前を覚えてもらう事からすべてが始まるからだ。 こうなると、象徴としての名刺も哀れなものである。 自分の名前が刷られた小さな紙切れと成り下がってしまうのだ。 そして悲劇が起こることになる。 私の友人、W君がこの間しみじみと話していた。彼も銀行の得意先係をしていたのであるが ある雨降りの日である。 いつものように得意先回りをしていたら、一軒のお客さんの家の前で、水たまりのなかに 一枚の名刺が落ちていた。彼は日頃から名刺を大切に扱っていたので、 雨に打たれている名刺をみて思わず拾ったそうだ。 何気なく表を見ると、なんとそれは自分の名刺だった。 そのときは驚きはともかく何とも言いようがない侘びしさを味わったという。 名刺は自分の分身であり、サラリーマンとしての人格を象徴するものだから 彼の気持ちはよくわかる。 だが、お客さんからみれば、単なるチラシ程度にしか見てもらえないのだ。 寂しいけれどそれが現実なのだ。 彼の話を聞いて、私のもっているたくさんの名刺を思い浮かべた。 きれいにファイリングしているものもあれば整理出来ずに輪ゴムでとめて、引き出しに 放り込んであるものもある。古い名刺を見ても、意外とよく思い出すものだ。 私とは異なる人生を歩んでいる人との瞬間的な人生の交錯を証明しているのだ。 水たまりの中の名刺も、ファイリングされた名刺も、輪ゴムで無造作にくくられた名刺も、 そのどれもが人生を表現している。あだやおろそかにしてはならないのだ。(1999.8.29) |
結婚して数十年。かっての初々しい妻も、今では堂々として貫禄充分である。 |
いつの頃か茶道の世界に興味を寄せるようになった。 |
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平成9年9月9日の朝9時、私は薄い浴衣一枚で、冷たいベッドの上で震えていた。 |
「なにわ会」のメンバーになったのは、昭和46年の大晦日の晩であった。 |
永い間生きているといろんな悩みに遭遇する。 |
サラリーマン社会は一般的に上司と部下の関係で成り立っている。 入社間もない新人時代から能力を試され、 めでたく長のつく名刺をいただくことで管理職の端くれとなる。 長のつく肩書きをもらったからと言っても、直ちに管理職になったとは言えない。 近頃はやたらと役職名を増やしているからである。 部下頭みたいなもので、ノルマが新人の2倍割り当てられる程度の長もある。 管理職とは、数人の部下をコントロールする権限を持つものである。 数が多くなるほど偉いというわけだ。 サラリーマンなら誰もが管理職になりたいと思っているはずだ。 人をコントロール出来る立場は言いようのない 魅力がある。「支配力」の魅力だ。 だが、最近は責任の伴う管理職は嫌だという新人が増えているそうである。 また指示がなければ何をしていいのかわからないサラリーマンも結構多いそうだ。 そんな人種はともかくとして、数々の試練を経てようやく管理職についた人は、 さらなる難関に立ち向かうことになる。 「支配の難しさ」と「責任の重さ」である。 今までは、指示を聞き、自分のみの責任を取ればいいのだから気が楽だが、 今度は指示を出し、部下全員の責任を負わなければならない。 これがなかなか大変なのである。 私が管理職の端くれとなったのは、32歳の時だった。銀行の得意先担当だったので、 部下の失敗の尻拭いや、部下の手に負えない交渉の助っ人としての出番が多かった。 最初はどうしてこんな失敗をするのか、この程度の交渉がどうして一人で出来ないのかと 腹ただしく思うことがたびたびだった。 一年を過ぎる頃から、部下の失敗は自分の失敗と素直に思えるようになってきた。 そして、日頃の指導が大事だということや、自分が楽になるためには 教育が一番大切だと悟ったのである。 部下をリードしてゆくためには、自分自身を一層訓練しなければならないと思った。 仕事のレベルを常に部下を越えるところに維持し、 課長の仕事にはかなわないと部下に見せつける必要を感じたからである。 このころは緊張の毎日だった。だがそれなりに一番充実していた時期だった。 ところで、管理職には二通りのタイプがあるように思う。 部下に対するスタンスの違いから分けられる。 一つは、教育者的管理者であり、もう一つは軍人的管理者である。 教育者的管理者とは、常に自分を磨き、部下に自分を越える人材となることを 望むタイプである。 軍人的管理者とは、部下に自分の手足になることを要求し、自分に役立つ人材となることを 望むタイプである。 それぞれ好みはあろうが、部下としては従わざるをえない。 従っているあいだに部下は理想的な管理者像を心の中で作っていく。 どちらのタイプであろうが、部下に対する人間的影響力は計り知れないのである。 かくしてこの二つのタイプは単に部下だけに影響を及ぼすばかりではなく、 企業風土にも浸透してゆく。 管理職の重要性は企業の盛衰にかかわるのである。 ただし、この二つのタイプのどちらが正解なのかは未だ定かではない。(1999.9.15) |
今から4,5年前、釣り好きの友人に誘われて初めて船釣りに出かけた。 丁度その頃、何となく新しい刺激を求めていた時期であった。 新しい仕事にも慣れてきたところであったし、それまでやっていた写真も壁に ぶち当たっていたために一休みしていた頃でもあったからだ。 その日は早春の快晴で素晴らしい天気であった。 和歌山市の雑賀崎から貸し切りの漁船で紀淡海峡へ乗り出した。 早朝6時すぎだつた。 釣り場へ向かう船上から、昇ってくる朝日の美しさに見とれていた。 およそ40分ぐらいたって船が止まり、ポイントに着いた。 船頭の声に合わせて、夢中で竿を出す。 竿先の微妙な動きに注目しながらも、海面の青さや 時折みせる白い波に魅せられる。 低く力強いエンジンの響きを聞きながら魚信を待つ。 潮の香りを満喫しながらのどかな時間が経過してゆく。 「釣り」てこんなものかと考えていると、竿を握っている手に明らかな手応えがある。 どうしたのかなと半信半疑でリールを巻く。 友人が竿先を見て「ゆっくり、ゆっくり」と声をかけてくれた。 この時釣れたのが26センチぐらいの平目だつた。 竿を出してから20分ぐらい経ったころだったと思う。 同行した4人のなかで一番最初の釣果であった。 それをみたみんなは一様に驚きの声をあげ、初めての私を不思議そうに眺めていた。 私も照れくさそうな顔を作りながらも、内心では満更でもない気分だったが、 そこは初心者としての自覚から謙虚な態度を失わなかった。 こんなハプニングがあったためか、その日は魚信が乏しく みんなのぼやきが聞こえてくる。そのあと私もさっぱり釣れなかった。 船頭さんも船をあちらこちら盛んに移動させて、 なんとか魚影を見つけだそうと必死の努力を重ねるのだが効果はなかった。 私にとっては、初めてのことであるし、とりわけ「欲」がないのだから、 海上から見る風景のどれも新鮮で釣れる釣れないはどうでも良かった。 船が止まって、船頭さんの声に合わせて機械的に竿を 出していただけである。 同行者の3人は、必死の形相で魚に挑んでいたことは間違いがない。 きっと、先ほど私が釣った平目を頭に浮かべながら・・・。 結局、この日は6時間ほど海上にいたものの、私の平目以上の釣果はなく、 あきらめようということで帰ることになった。 この日から4,5年になるというのに、26センチの平目にはお目にかかったことはない。 ビギナーズラックとは良く言ったものだ。(1999.9.15) |
一口に好き嫌いといってもいろいろある。 男と女のこともあれば、食べ物や趣味などにもあてはまる。 ビジネスの世界でも、この「好き嫌い」がおおいに幅をきかせている。 サラリーマンの人生を左右する重要な要素となっているのだ。 このことは普通の感覚ではあまりピンとこないのであるが、 実は想像以上に影響度が高いのである。 私自身、企業というのはもっとドライで、 組織にたいする貢献度がすべてという解釈をしていたのだが、 そうではなく、非常にウェットで人情とか交際関係とかのどろどろした感情に 支配されている世界なのである。 組織といえども人間の集合体なのだから当然といえばそのとおりなのだが、 共通の目的意識のもとに集まっているのだから、その目的のためには ウェットな感情は抑制されて然るべきだと私は考えていたのである。 具体的な例をあげよう。 例えば、上司と部下の関係をみると大抵の場合それは人事異動で決まるわけだが、 あてがわれて巡り会うことになるのであって、あらかじめどちらかが選んだものではない。 運良く知り合いの好きな人と出会うことになれば、こんなにラッキーなことはない。 次の異動でどちらかが転勤にならない限り、快適な職場環境で頑張ることが出来る。 しかしながら人生はそんなに甘いものではない。 こういうラッキーは滅多にないのが普通である。 この反対のケースが多いのだ。そうなると悲劇の始まりとなる。 双方ともに忍耐力とか世渡り能力が試されることになる。 私は残念なことに、忍耐力も世渡り能力もゼロに近い。 逆にいうと、わがままで、横柄で、好き勝手なことを平気で言ってしまう 馬鹿な人間なのだ。特に、相手が目上で権力を持っている場合は 無性に挑戦的言動が出て、嫌な奴だ、扱いにくい奴だとと思わせてしまう。 ある先輩に「三種の神器」説を聞かされた。 それは「根回し」・「ゴマ擦り」・「揉み手」の効用である。 これを称して出世の、つまり上役に好かれるための三種の神器と言う説であった。 しかしながら、時すでに遅くこの忠告を聞かされたときには、私は挫折していた。 もっと早く聞いていたとしても私はこの教えを守っていたかどうか、 はなはだ疑問なのだが・・・。 そもそも私の信念として、ビジネスマンは仕事で会社に貢献するものだと考え、 少々の社内での軋轢は当然と思っていたのである。 つまり仕事を中心にまったくドライな感覚を是としていたのである。 この考えはサラリーマンとしての一定の段階までは正解だった。 しかしある段階以上に達すると、間違いとなるのである。 この時期を私は見失っていた。 いつまでたってもこの考えから抜け出せなかったことが 私の不覚の極みであった。 世の中には私と正反対に上司に可愛がられるタイプがいっぱいいる。 愛想が良く、接待上手で、贈り物は欠かさず、箸のころんだようなことまで 丁寧に報告し、厭なことは口にせず、気持ちのいいことばかりを話す。 このように器用な人間はたくさんいるし、それを能力と是認する風潮まである。 「好き嫌い」で会社という組織が動いているというと、 そんな馬鹿なと思うかも知れないが、 案外本当のことではないかと私は思っている。 「好き嫌い」は決して子供や男女のなかのことだけではないのである。(1999.10.17) |
私が興味をよせる歴史上の人物に千利休や勝海舟がいる。 この二人に共通しているのは「滅びの美学」ではないかと思っている。 私の乏しい知識からみても、二人はその強烈な個性からくる人生哲学を 周囲のどんな圧力にも屈せず、最後まで変えようとはしなかった。 その結果どうであったか。 権力者や上位者との軋轢が絶えず、つねに「滅び」を意識しながらの生き様を 強いられたわけである。 しかしながら、このような生き方は一面では痛快極まりない奔放な活躍を生み出した。 権力者におもねることなく遠慮会釈のない直言を行うことは「滅び」の自覚なしに 可能なものではない。そこが魅力的なのである。 現代社会ではどうだろうか。 特に、サラリーマン社会ではこのような人物に巡り会えることはきわめて難しい。 今までの私の人生を振り返ってもわずか一人をおいて他にはいない。 組織が大きくなればなるほどこういう人物が生き残ることは困難なのではないかと思う。 1998年、今やバブルの崩壊現象からくる金融不安で、日本中の金融機関が 断末魔の悲鳴をあげている。 銀行のみならず、ゼネコンやメーカーなど企業のほとんどが生き残りをかけた リストラ対策に必死である。 経済学的には様々の要因があるのだろうが、私は一サラリーマンとしての世界から この苦境に至った原因を考えてみたい。 結論からいうと、ビジネス社会のモラルの退廃に尽きるように思われる。 ノルマ至上主義とか成績至上主義といわれるものがある。 結果がすべてという考え方である。 バブルの時には、結果を出せなければ口も利けないという風潮がはびこり、 結果を出すためには手段を選ばないとの考えが黙認されていた。 そこには企業の社会的責任という考え方のかけらもなく、 単に目標必達のマネーゲームに過ぎない競争が繰り広げられていたのである。 そこでは、どんな考えで、どういうプロセスを経て、顧客に どういう評価をしてもらっているのか、 社会にどう役立ったのか。そしてその仕事には偽りがないのか、 自分のためだけではなく、企業に価値観を置いた仕事なのかなどといった 観点からの評価は全くなかったのである。 このように、銀行をはじめとして日本中の企業がそれいけやれいけと 浮かれていたあげくに、現在の苦境に陥ったのである。 企業内のモラルの崩壊が原因となって社会が混乱したのである。 勿論、企業内のすべての人が倫理観を失っていたわけではない。 心ある人物はたくさんいたのだ。 どこかがまちがっていると感じて警告を発していた人は間違いなくいた。 しかしながら当時のいけいけどんどんの成績至上主義の中では、 これらの声は「消極的」とか「弱気」とかひどいときには 「負け犬の遠吠え」とか言われて、良識ある意見は一顧だにされなかったのである。 それでも頑強に主張した見識ある人々は、時の権力者に疎まれ、嫌われ、排除された。 命をかけて秀吉と対峙し、許される道がありながらもそれを拒否した 利休のような現代の気骨者も居たし、幕府の老中を前にして、 何の策もない無能者と放言した海舟のような人物も居たであろう。 多くの気骨ある人物が時の権力者によってビジネスの表舞台から 排斥されたのである。 その結果イエスマンが企業にはびこり、 企業は内部から腐食していったのである。 イエスマンは自己の損得勘定で動くものである。 自己の損失を極端に嫌うものである。 これに対して利休や海舟は自己の損得を計算しない人物と思う。 そこが私を惹きつけるのだ。 利休は茶道者としての気位から秀吉に命乞いをしなかった。 海舟は何度となく左遷されてもそれを甘受しつつ幕府の無策を戒めた。 彼らのこの高貴な精神こそ称えられるべきではないか。 バブル崩壊後の経済的混乱のなかで、暗いニュースを見聞きするたびに 「滅びの美学」の欠如を嘆かざるを得ないのである。(1999.10.17) |
私には、大学の二年先輩でFさんという親友がいる。 |
あなたには、心の師と呼べる人物がいますか。 |
子供の時から、頭の片隅に引っ付いてどうしても離れないものがある。 |
この間、ボーとテレビを見ていたら、山内丸山遺跡の発掘現場からの中継が放送されていた。 縄文時代の食生活が解説されている。 要は現代人とたいして変わらぬものであったらしいということだ。 なるほどそうかも知れないと思った。 考えてみれば、古代から現代に至るまで、この地球上にある自然物が人間の食材として 利用されてきただけのことなのだ。 その間、進んだことと言えば何がまずくて、何が美味しいかという選別がなされてきたにすぎない。 毒のあるものを食べて犠牲になった人もたくさんいただろう。 その犠牲が教訓になり食材の適否が体験的に決められてきた。 私が感銘を受けるのは、初めて何かを口にした人の勇気である。 想像してもその度胸のよさがわかる。例えば「たこ」である。 あのグロテスクな生き物をどんな気持ちで食べようとしたのだろうか。 現代でも欧米人は「たこ」を口にしないそうだ。 たぶんあの姿が影響しているのだろう。 まだある。「なまこ」である。これは「たこ」よりはるかに気味が悪い。 茶色の縞模様で形も石ころみたいである。 こんなものを食べてみようと思いついた人にその事情を聞いてみたい気がする。 なにはともあれ、人間はこうして体験的に食材を選別してきた。 変わったことといえば、調理方法とか味付け方法ぐらいではなかろうか。 食材そのものは縄文時代から現代にいたるまでたいして変わっていないように思われる。 従って、山内丸山遺跡でみつかる縄文人の食べかすを分析しても我々現代人と 極端に異なるものなど出てくる筈はないのだ。 縄文時代と聞くだけで、原始人は我々と全く違う食材を食べていたと推測しがちであるが、 縄文人がそれを聞いたら「馬鹿にしなさんな、あなたとおなじものを食べていましたよ」と 叱られるかも知れない。 いまや、月までロケットで行ける時代である。 文明のおかげで現代人の日常生活はすこぶる便利で快適である。 しかしながら、こと「食べる」ということに関しては、縄文時代と極めて近い関係にあるような気がする。 「日進月歩」とは、毎日毎日一時もとまらず進歩しているという意味だとおもうが、 原始の時代から脈々と続く「食」の世界は案外昔と同じレベルかも知れない。 そんなものがあってもいいではないかと思うのだが、あなたはどうでしょうか。(2000.2.13) |
六人兄姉の末っ子である私が還暦を迎える年になると、親戚縁者での法事も |
還暦を迎える年になるが、至って健康である。 毎年の健康診断でも特に治療を要する指摘はない。 だが、なにもかもと云うわけでもない。若いときから気になることが二つあった。 我が肉体の入口と出口である。 2000年4月、その入口つまり「歯」の治療のため長崎の病院に入院した。 この歯医者さんはいわゆる「集中治療」をしてくれる。一週間で退院できるのである。 「歯」の状態にもよるが、大抵はOKだ。 その代わり一日中口を開けたり、閉めたりしているのだから、結構疲れる。 終いには、集中力が途切れ「開けて」と言われて、慌てて口を「閉じる」とかの間違いをして 叱られたりする。 それでも忙しい、または忙しいと錯覚しているサラリーマンには ダラダラと一年、二年と通わされるより重宝である。 わずか10分や15分の治療を、完璧にかよい通す方が至難の技と言えよう。 大抵は行きそびれて歯医者と顔を会わすのがばつが悪くなり、他の歯医者を探す羽目になる。 中には、通えそうな歯医者を順番に回って、どこも中途半端にしてしまい、ついには治療を あきらめてしまう人も出る。もちろんこの松露もその一人なのだが・・・・。 その点、この病院は思い切って決断すれば、いやでも最後まで治療を終えることができる。 実をいうと今回で二回目なのだ。約 十年前にもここでお世話になった。 今回でお金はかかるが徹底的に直そうと決心したのである。 物が食べられない、噛めないという辛さは歯の悪い人しか理解できないだろう。 まして、年をとって楽しみが少なくなると「食べる」意義はますます大切となる。 それが噛めないとなれば、その悲哀は計り知れないほど大きくなる。 なんとか普通に物が食べたい、この一念で奈良から出てきたのである。 一つの課題は多分これで解決するだろう。入口の問題はこれで終わりにしたい。 もう一方の課題、「出口」の方は、解決して久しい。 今から三十数年前、大阪の「痔」の専門医の先生に解決してもらった。 言葉も治療も随分荒っぽかったが「名医」だったとみえて、 現在に至るまで「出口」に関して悩みはない。 この先生に出会うまでは、本当に苦労した。 通勤途上でも、ゴルフをしていても絶えず「出口」を気にしていた。 手術後、先生の許可を得て久しぶりにゴルフに出かけたときの晴れ晴れとした爽快感は 今でもはっきりと記憶に残っている。心からありがたく思った。 後年、我が家に入った放水による「出口」の洗浄ができる便器を使ったとき、 昔からこれさえあれば長い間苦しむこともなかっただろうと 悔しい思いをしたことも忘れられない。 とにかく、こうして宿願ともいえる「出入口」の修繕を終えようとしている。 思えば、出入口の重要性はいろん場面で語られている。 一つは、オーディオ装置である。 どこにお金を掛けるべきかとの答えとして、出入口だとの話をきいたことがある。 すなわち、レコードから音を拾う針先とカートリッジが「入口」であり、 音を鳴らすスピーカーが「出口」に該当する。 この部分にお金を掛けるべしとのアドバイスであった。 このことを何故か忘れられないでいる。 もう一つは、テレビの番組からのお話である。 防犯に関する番組であったと思う。そこでは、警察関係者が、泥棒は、 ある家に侵入するときは、入口と出口を入念に検討してから実行するものだと語っていた。 日頃出たとこ勝負で失敗を重ねている我が身にとっては、妙に説得力のある話であった。 また、我がサラリーマン人生を考えてみると、もう出口のすぐそばに立っていることになる。 38年まえに青雲の志をもって入口をくぐって以来いろんなことがあったが、 ようやく出口に至るまでとなった。 「終わり良ければ、凡て良し」の言葉通り、 我がサラリーマン人生の出口は満足すべきものとなった。 特に、最後の二年間は悔いのないものだった。 自ら選んだ転職が無駄ではなかったと言うことと、 よき理解者に恵まれたことなどを理由としてあげることができる。 しかし、もっと大きな理由としては、私なりの出口を作れたという 自己満足が伴っていることであろう。 第一線を離れたとたんに悲劇的な出口に遭遇して、 それまでの権勢に未練たらたらの不幸な人が一杯いる。 そんな人達が向かう寂しい出口より、私の出口は質素だが小綺麗で、 なにより「満足」という花輪で飾られている。 私が作ったこの出口をくぐって、また新しい人生に向かうのだ。 さらに輝かしい出口を創造するために・・・。 2000.4.12 長崎にて |
今から三年前のことである。 |