瞼の母

私には、不幸にして母の記憶がない。5歳の時に死に別れたからである。
父は後妻を取らなかった。
母への愛情のためか、経済的な事情からか今は知る由もないが、
以後私は父と4人の姉と1人の兄に囲まれて可愛がられて育った。

貧乏に悩まされながらも、兄弟姉妹の家族愛に包まれて道を違えず今日まで来た。
家の経済は極端に苦しく、辛い毎日であった。
ささやかな夕餉の食卓を囲みながら家族は貧乏を嘆いた。
そして、最後にはお母さんがいないのだから、みんなで頑張らないといけないと
励まし合うのがいつものことだった。
「あなたは、お母さんを知らないから可哀想ね」と姉たちに慰められるのも
普通のことだった。

そう言われても、私にはピンとこなかった。母の記憶がまったくないからである。
懸命に思いだそうとしてようやくたどり着く一つの情景がある。
この情景がひょっとして母に関係しているのかも知れないと思ったのは、
随分あとになってからのことだ。

その情景とは次のようなシーンである。
どこかの和室である。中央に布団が引いてある。昼間だった。
白っぽい布団に誰かが寝ている。
周りに数人の人が座り、寝ている人を覗き込みながら泣いている。
大きな声ではなく、シクシクと泣いている。
私と思うのだが、一人の子供が寝ている人の布団のうえに這い登っていく。
それを見て周りの誰かが「可哀想になぁ」と言ったのをかすかに覚えている。
記憶が呼び戻されるのはここまでである。

残念なことに、本当に残念なことだが、寝ていた人の顔が浮かんでこない。
記憶を必死で辿っていっても、 顔の部分は灰色のベールで覆われたままである。
たった一枚の写真がある。母の結婚写真を複写したものである。
随分ピンぼけであるが唯一の母の写真である。
ときどきこの写真をじっと見る。「そうか、こんな人だったのか」と考える。
どんな声をしていたのだろうか、暖かい手だったのか、
それともひんやりとした手だったのか・・・。
思いは尽きない。
その写真は白い角隠しをして、きりっとした表情で椅子に座っている。
締まった口元がいい。私と同じように少々あごが張っている。
目元がすっきりしている。

この写真のおかげで、私の母はありがたいことに永遠に若くて美人である。(1999.8.29)
                               

       


お葬式

今のところ私は無神論者である。宗教行事といえばお葬式ぐらいのもので、
親戚縁者や親しくしている人にお葬式があると、半分以上義理に駆られて出席する。
お葬式に出ていつも思うことがある。

それは、当事者は亡き人を偲んでさめざめと泣いていることが多いが、
出席者のなかで、故人を思って泣いている人は案外に少ないということである。
あちらこちらで大きな声で「おひさしぶり」とか「お元気ですか」とかの会話を耳にする。
なかには、けたたましく笑い声も飛び出したりしている。お葬式なのに・・・・・。

親戚以外の出席者は、亡き人の友人関係が集まっており、
それぞれが友達同士でもあるのだから、お葬式はみんなが集う絶好の懇談会となるのだ。
焼香前やそのあとでは亡き人はそっちのけで、「帰りに一杯どうだ」とか
「次はいつ集まろうか」などと相談しあっている。
正直なところお葬式とはこんなものなのだ。
そして、一週間も経つと誰もがきれいに忘れ去って日常の世界に没頭している。
特に、亡き人が高齢だった場合ほどこの傾向が強い。

つまり、お葬式とはいっても、普通は出席者の殆どが悲しまないのである。
私自身も義理出席が多いので数多く参列しているのにかかわらず、
涙を流したことはほとんどない。
もちろん例外もある。

直接親しくしていた人が亡くなった時は、やはり目頭が熱くなる。
最近では、以前勤めていた会社の前社長のお葬式では、ごく自然に涙を流した。
私を快くこの会社に受け入れてくれた恩人でもあったし、なにかと可愛がってくれた。
私もその恩に報いようと仕事に励んだ。
病気を理由に任期を一年残して退社された前社長は、それからわずか3ヶ月で亡くなった。
信じられないぐらいの急逝だった。

前社長はやんちゃで、プライドの高い人だった。
そして非常に繊細な神経の持ち主でもあった。
好き嫌いのはっきりした人で、私には随分やさしかった。
永い人生の中でも数少ない好きな人だった。
 氏のお葬式は堂々たる立派なものだった。
このときは周りも気にせず追悼の涙を流した。

こんなお葬式には幸いにしてたびたび遭遇していない。
そのことに感謝しながらも、形式的、義理的お葬式に出ている。
なんか申し訳ないような気もするが、
それが当たり前のように執り行われ、繰り返されている。
だから、それはそれで由と言うしかないのだろう。(1999.8.29)


        


神の見えざる手

永い人生を生きていく上で、これだけは間違いないと思うことがある。

それは、人間は一人では生きてゆけないということである。

アダムとイブの時代から現代に至るまで、人間の最小単位は2なのである。
これは動物や植物の世界でも言える事だと思うが、人間の場合は種の維持のため
だけではない。生きていく過程のことだ。つまり社会生活を営む上での話である。
 
二人で一単位というとすぐに結婚を連想するが、 生きていく過程のことだとすると
個人の生活のこともあれば、組織でのこともある。

ここでは、組織の中での最小単位2について考えてみたい。

私の乏しい経験を言えば、永い間サラリーマンをやってきて「絶体絶命の危機」が何度かあった。
上司にも、同僚にも、家庭でも言えず、どん詰まりの境地に落ち込んで、どうしていいのか
途方にくれる真っ暗闇の時期があった。

それでも何とか切り抜けてきた。
今思うと、そのときの心の支えは「誰かがこの私を見守ってくれている」との
祈りにも似た信念であった。

もがき苦しんでいる自分を誰かがきっと理解してくれる筈だと信じていた。
それが最後のよりどころであった。それを「神」というならそれでもよいが、
とにかく「神の見えざる手」にすがるしかない時が何度かあった。

単なる神だのみではなく、あがき、もがきながら自分の理解者という存在を信じて
活路を求めていた。この場合、それが現実に存在する人でなかってもよかった。
架空の誰かであってもいいのだ。

大事なことは100パーセントの理解者がいると自分自身で信じ込めるかどうかであった。
これを宗教心と言うのかも知れない。
無神論者を標榜しながらこんなことを言うのもおかしいが、
そんな経験を幾度か味わったことがある。

こうして空想の誰かすなわち「神の見えざる手」とともに2人で生きてきたことは間違いがない。
もっとも、空想の誰かでなく、身の回りに理解者が存在すればそれに越したことはない。
しかも一人ではなくたくさんいればいるほど幸せである。

私自身の望みを言えば、「絶体絶命の危機」に陥った人から100パーセントの理解者として
その人の心の支えになれるとしたらそれに勝る幸せはないだろうということである。(1999.8.29)

        


名刺 


サラリーマンにとって、その存在を象徴するものは、名刺と椅子である。
特に、名刺に初めて何らかの肩書きがついたときは感激である。
一人前のビジネスマンとして認められたような気がするからである。私もご多分にもれず、
「係長」のついた名刺を見て、一人でニヤニヤしていたことを思い出す。

椅子もサラリーマンの値打ちを表現するものである。
平社員のそれは、きわめて簡素である。
肘掛けもなく、小振りな作りで安食堂のパイプ椅子とたいして変わりはない。
それが課長ぐらいになると、やや大きめのものとなり、小さいながらも肘掛けがつく。
こうして出世とともに椅子は大きく、立派になっていく。

さて、名刺といえば、サラリーマンの身分証であり、欠かすことが出来ないツールなのだが、
その使われ方は様々である。

営業をしていると、どれだけ名刺を使うかが活動のバロメーターとなる。
銀行の得意先係は、それこそチラシのごとく名刺をばらまく。
店舗周辺の一軒一軒を毎日のように訪問しては、名刺を手渡す。それが仕事なのだ。
銀行名と自分の名前を覚えてもらう事からすべてが始まるからだ。
こうなると、象徴としての名刺も哀れなものである。
自分の名前が刷られた小さな紙切れと成り下がってしまうのだ。
そして悲劇が起こることになる。

私の友人、W君がこの間しみじみと話していた。彼も銀行の得意先係をしていたのであるが
ある雨降りの日である。
いつものように得意先回りをしていたら、一軒のお客さんの家の前で、水たまりのなかに
一枚の名刺が落ちていた。彼は日頃から名刺を大切に扱っていたので、
雨に打たれている名刺をみて思わず拾ったそうだ。

何気なく表を見ると、なんとそれは自分の名刺だった。
そのときは驚きはともかく何とも言いようがない侘びしさを味わったという。
名刺は自分の分身であり、サラリーマンとしての人格を象徴するものだから
彼の気持ちはよくわかる。
だが、お客さんからみれば、単なるチラシ程度にしか見てもらえないのだ。
寂しいけれどそれが現実なのだ。

彼の話を聞いて、私のもっているたくさんの名刺を思い浮かべた。
きれいにファイリングしているものもあれば整理出来ずに輪ゴムでとめて、引き出しに
放り込んであるものもある。古い名刺を見ても、意外とよく思い出すものだ。
私とは異なる人生を歩んでいる人との瞬間的な人生の交錯を証明しているのだ。
水たまりの中の名刺も、ファイリングされた名刺も、輪ゴムで無造作にくくられた名刺も、
そのどれもが人生を表現している。あだやおろそかにしてはならないのだ。(1999.8.29)

        


女房孝行 

結婚して数十年。かっての初々しい妻も、今では堂々として貫禄充分である。
私が働き盛りの30代、40代の頃は、さして気にもとめなかった女房の成長が、
定年を迎える時期になって妙に目につくのだ。
精神的な力関係は、男と女とでは年齢を重ねるにつれて接近し、そして逆転の時期がくる。
今では私の方が終始押され気味となっている。それが自然というものらしい。

言い訳ではなく、周囲を見渡しても何となくそう感じることが多いからである。
女房と映画に行ったとか、温泉につれていったとか、
中には格好良くオペラを一緒に楽しんだとかの話が一杯の席でよく出る。
酒の席で臆面もなくそういう話題を持ち出す心の底には、これからの先行きを案じて、
妙に奥さんにゴマを擦っているのではないかと勘ぐりたくなる。
今までの自らの行いを反省しての女房孝行といったところかも知れない。

ある友人は、昔から女房孝行に熱心である。
奥さんへのプレゼントはひっきりなしに行うし、休暇での旅行や芝居見物は勿論のこと、
最近はコンサートやライブハウスにもよくご一緒してるらしい。
不思議なのは、それでも「最近、女房の機嫌が良くなくて・・・」などとぼやきが聞こえてくることだ。

この友人のぼやきで最も驚いたのは、奥さんが、友人の実兄の奥さんと一緒に家出したと
聞いた時である。兄弟そろって嫁さんに家出されたというのである。
しかもこの友人の兄さんは有名な医者で、テレビや新聞によく登場する人なのだ。

とにかく、この時は一週間ぐらいで解決したらしいのだが、私にはあれだけ女房孝行しているのに、
どうしてなのか不思議でたまらない。

しかしながら、一つだけ思い当たることがある。それは彼が無類の酒好きであることだ。
これしか原因はないと思っている。本人もよくわかっているはずである。
「わかっちゃいるけどやめられない」と歌の文句にあるように、会社帰りの一杯がやめられない。
一杯入ると元気が出て、もう一軒もう一軒と続く。そしてご帰宅は深夜になる。
こんな日が続くと、ようやくここらで軌道修正とばかりに女房孝行を考える。
こんな繰り返しが数十年になる。

従って、彼の女房孝行は、マイナスの位置からプラスの位置へ戻す効果しかないのである。
正確には、「ご機嫌取り」なのである。だから問題は女房孝行を行う時のスタート位置にある。
これを解決するためには、会社から自宅へ直行で帰るしかないのだ。
女房との時間を大切にすること。こんな安上がりの女房孝行はほかにあるまい。
友達として必ず彼に進言しようと思っている。(1999.8.29)


茶室の空間    

いつの頃か茶道の世界に興味を寄せるようになった。
野上弥生子の「秀吉と利休」や井上靖の「本覚坊遺文」などの影響かも知れない。

これらの小説の所々に茶室のシーンが出てくる。それが妙に印象に残ってしまうのだ。
狭くて、薄暗い部屋。静寂の世界。質素な作りで、色もなく、全くのモノトーンのたたずまい。
その中で交わされる主人と客との濃縮された会話。まさに神秘的な精神世界である。

現実の生活と完全な対極にある茶室の空間には、引きずり込まれそうな魅力があふれている。
流儀も作法も知らないけれど、一度本物の茶室に入って静かなひとときを過ごしてみたい。
憧れと言っていいほどの欲求である。

戦国時代の武将たちもどうやら同じ願望を持っていたらしい。
利休に関する本を読んでいくうちにそれがわかってきた。
信長に始まり、秀吉や家康など多くの武将たちが茶道にあこがれ、領地や石高よりも
茶道具を欲しがったそうだ。戦の最中でも、陣地に茶室を作りお茶を楽しんだともいう。

なぜ、そこまでお茶の世界に彼らは惹かれたのか。私はそこに宗教に近いものを感じるのだ。
ヨーロッパ人は狩猟民族であり、動物を捕獲しては食料としていた。
しかも多民族ゆえの戦いも多かった。
流血の惨事が繰り返される毎に、贖罪の気持ちが増幅されて、強い宗教心が育まれていったと
言えないだろうか。

日本の戦国時代も、人間同士の悲惨な殺戮行為が繰り返されていたに違いない。
だが、ヨーロッパとは異なり、僧侶との争いが頻繁に発生していたのだから表立っての帰依は
少なかったのではなかろうか。

そこで、茶道が登場することになる。
つまり、宗教に求める心の安らぎを茶室の空間に見つけたのではなかろうか。
狭くて、薄暗い茶室は、教会の懺悔室に似ているように思うのだがどうだろうか。
そこでは、何のてらいもなく自分の本性をさらけ出す事が出来、心の安寧を得ることができる。
そのために殺戮に明け暮れる武将たちは、茶室に入ったのではなかろうか。
そこだけが日常を忘れ、自らの精神世界に没入出来る場所だったと思われる。
茶室はきっとそんな役割を果たしていたに違いない。

現代のビジネス社会ではどうだろうか。
血で血を洗うと言うほどではないが、経済戦争と言えなくもない。
仕事に真剣になればなるほど、体力も神経もすり減らす。敵は外ばかりではない。
ややもすると、内なる敵に首を取られかねない昨今である。
大手銀行の役員が退任して出家したとの話もあった。
こう考えてくると、現代でも茶室の空間が必要なのだ。
戦を離れ、静寂の空間でより深く精神世界に心をゆだねる。
それが許されないほど忙しいのだろうか。(1999.8.29)

     


自慢くらぶ     

       
なんと言っても釣りの醍醐味は自慢話にある。

ご多分に漏れず、私の釣り仲間もそのあたりでは決してひけをとらない。
今日の釣果では、俺の鯛が一番だとそれぞれが主張して譲らない。実際はどれも同じようなものでも、
そこは贔屓目というやつで自分の釣った鯛が一番と信じている。

運悪く鯛を釣り損なった者は、君が釣った鯛ははじめに俺の竿にきて、俺が合わせ損なったので、
ついでに君の竿にかかったのだという。
真面目な顔でそう言われると、そうかも知れないと思ってしまうから不思議だ。

翌日は、会社の仲間に、実際の二倍ぐらいの話しをきかせる。
聞いている方も、いつものことだからその分割り引いて解釈しているので丁度よくなるというわけだ。

こんな釣り仲間であるから、釣りに出かけるとなると決死の覚悟で船に乗る。
頭には、今日こそ決定的な差をつけてやろうとの思いがある。当然神経も細かくなる。
よく問題となるのが釣り場所、つまり船のどの場所に陣取るかである。

何回も同じ船で釣りに行くのであるから、過去の実績が頭に入っている。そこから自然に
よく釣れる場所が決まってくる。いや、そんな気がしてくるのだ。

船頭に言わせると、40メートルもの深く餌を落とし込むのだから大差ないというのだが、
我々にはそう簡単に割り切れないのだ。何しろ後で自慢がしたくてたまらないからだ。

港を出て30分ぐらいで釣り場につく。すばやく糸をたらして全神経を集中させる。
ここからは当分一言も口にしない。なにしろ早く一匹釣り上げたいからである。
最初の一匹が非常に重要なのだ。精神的なゆとりが欲しいのだ。
丁度、ゴルフの朝一番のドライバーショットと同じ緊張感みたいだ。

早く釣れたら、冗談の一つも言える余裕が生まれるし、仲間を冷やかす事が出来る。
なかなか釣れないとイライラしてくるし、機嫌も悪くなる。
ましてや仲間が次々獲物を釣り上げているときは、だんだん絶望感さえ漂わせることになる。
あやうく切れそうになるときもある。

しかしながら、良くしたもので、結果的にはいつも大差がつくことはない。
だいたい釣り歴に応じた釣果になるものだ。だからこそ、どうしても決定的な自慢がしたくて、
いじましい戦いが今日まで続いているのである。(1999.8.29)


骨折事件   

平成9年9月9日の朝9時、私は薄い浴衣一枚で、冷たいベッドの上で震えていた。

別に寒くて震えているわけではない。
今から左足首の骨折箇所を手術するのである。怖くてたまらなかった。
周りでは、看護婦や外科医がなにやら忙しくバタバタしている。
声ははっきり聞き取れない。
くぐもった男の声に、はいと答える女の返事。
その程度にしかわからないが、目をつぶったまま
周囲の状況に全神経を尖らしていた。

すると、突然急に明るくなった。目を塞いでいてもよくわかった。
おそるおそる薄目を開けると、
真上には丸いレンズのかたまりが四つか五つヘッドライトのように輝いていた。
まさに、テレビでよく見る手術台だ。
思わず、「本物だ」と悟った。
そして、「もう、あかん。やられる。神様、仏様、南無阿弥陀仏。」と
心のなかで叫んでいた。

「松露さん、大丈夫ですよ。心配いりませんよ。」と看護婦が励ましてくれた。
「うん、うん。」と泣き出したい思いでうなずくのが精一杯だった。
と同時に、背中に麻酔を打たれ、顔にマスクをかぶせられて、
1.2.3.4.と5まで数え切れないうちに意識がなくなっていった。


「松露さん、松露さーん。」遠くから呼ばれる声で意識が戻ってきた。
周りの光景がだんだんはっきりしてきた。
かくして、二時間半の手術から無事生還したのである。

入院している六人部屋に戻ると、相部屋のみんなが
「よかった、よかった」と喜んでくれた。
すると、さっきまでの「もう、あかん。神様仏様、南無阿弥陀仏。」が
嘘のように消え去り、まるで勇猛果敢に戦いを終えて、
無事に帰還した戦士のような気分になっていた。
何でもなかったかのように、落ち着き払って「ありがとう、ありがとう」と答えるのだった。

骨折したとはいうものの、他に悪いところはないわけだし、とにかく元気なのだから、
手術が終われば後は 賑やかなものだ。
病院のなかでは、地位も身分もない水平社会なのだから、
みんな助け合いの精神で生活している。

街で、会社でこの外科病棟のように親切であれば、世の中もっと明るくなるのにと思うほどだ。
入院患者だけでなく、外来患者も見舞客も病院内ではみんな親切だ。

車椅子に乗っている人が通れば、さっと通路をあけてやりすごすのが当たり前だし、
松葉杖のひとがエレベーターを待っていると、無条件でボタンを押して先に乗せ、
降りるときも「開く」ボタンを押し続けて「どうぞ」と声をかける。
こんなことがごく自然に行われている。

人間はもともとやさしいのだ。
怪我をしたおかげで、現代社会の忘れ物を見つけたような気がしたのである。(1999.8.29)

       


鬼の目に涙   

「なにわ会」のメンバーになったのは、昭和46年の大晦日の晩であった。
なったとはいうものの、それはたまたまその時同じ場所にいた連中が、
後日になって勝手にメンバーの条件としてそのことを決めただけなのだが・・・。

       
その場所とは、ある銀行の二階事務室である。
そこには大晦日の業務を終えた行員のみんなが集まり、
支店長による12月度の業績結果を聞いていた。
30人足らずの行員は誰もが疲れ切った表情をしていた。
長いテーブルの上には、するめやあられなどとビールがささやかに並べられている。

実を言うと、この支店は業績不振に悩んでいた。
大阪の都心部にある名門の店舗でありながら、
競合する銀行の多さや不良債権の多発などで苦戦を強いられていたのである。
そのうえ、大型店舗であるがゆえに、本部から大きな目標を与えられ
支店長は名誉をかけた戦いを展開していた。そのことは、全員がよくわかっていた。

今、戦いの結果が支店長によって読み上げられている。
その報告は、予想以上に立派なものだった。
その途中である。支店長の声が聞き取れないぐらいに小さくなり、しかも声が震えだした。
そして、ついに聞こえなくなってしまった。みんなは支店長を凝視した。

支店長は泣いていた。

目頭を押さえながら小さなかすれるような声で
「こんな横着な私によくついてきてくれた、ありがとう」と言った。
後は言葉にならなかった。
しばらくの間沈黙の時間がその場を静かに流れていった。
それでよかった。みんなは充分理解し合っていた。
声でなくても、言葉でなくてもわかりすぎるぐらいみんなは納得していた。

すると、支店長の隣にいた次長が突然感極まったようにしゃべりだした。
その早口を聞きながら、わたしは「うるさいなぁ、黙っててくれよ」と叫びたくなった。
私もみんなも今の感動を壊されたくなかったのである。

なにしろ支店長は怖かった。いつもは滅多に口を聞かないし、突然怒鳴り散らすことも
たびたびだった。
支店長が後ろに座っていると思うだけで、背中に冷や汗をかく課長もいた。
時間中はなにをしているのかさっぱりわからない。

だけど、どこかに暖かいものがあるような気もする。
要するに我々では理解出来ない人間だった。
その鬼のような人が、みんなの前で恥ずかしげも無く泣いているではないか。
信じられない。鬼が泣いている。
私は感激した。涙で支店長の顔が滲んでみえた。

涙顔を見られるのが恥ずかしくてトイレに行った。顔を洗って涙を落としていると、
そこへもう一人の次長が駆け込んできた。

「涙を洗いに来たのですか」と冷やかすと、
「いや、眠気を覚ましにきただけさ」と強がったのが可笑しかった。(1999.9.15)


小悟と大悟    
 

永い間生きているといろんな悩みに遭遇する。
時代によってその中身も変わるわけだが、今こうして無事に生活しているということは、
なんとかときどきの悩みを克服してきたのだろう。
自然に悩みを乗り越えて来たこともあるが、大抵は気を許せる先輩や同僚との会話を通して
気持ちの整理をしたり、宗教書を眺めてみたりしながら、問題と対峙してきた。

いつも思うのだが、「よし、これでいい。」とわかったつもりでいても、
また同じ課題に突き当たってしまう。結局、その時はなにもわかっていなかったのだ。

ある時、禅の解説書を読んでいたら、こういう「わかった」というのは
「小悟」というのだと書いてあった。小さな悟りとは、「わかったつもり」と言うことらしい。
本質的には何もわかっていないのだが、
ごく低い次元でのわずかな理解を「小悟」と言うのかも知れない。

そう言えば、我々のゴルフ談義てもよくこういうことがある。
グリップはこう握るとか、スタンスの取り方、
バックスウィングやフォロースウィングの形とか、
「よし、わかった」と何度と無く言ってきた。
しかしながら、今もってスコアの改善にはほど遠い。
変化があるとすれば飛距離の低下ぐらいのものだ。
結局サラリーマンゴルフの域を出ず、
何もわかっていないのだ。

考えてみると、我が人生は、積み木崩しの如く「小悟」の繰り返しであった。
「わかったつもり」を積みあげては何かの拍子にガラガラと崩れ落ち、
また「わかったつもり」を積み上げる。こうして生きてきた。

これに対して「大悟」の境地とはどんなものだろうか。
これがなかなかよくわからない。
本には、禅宗の修行僧が「大悟」の境地に達した瞬間の話が出ているが、
読んでいても全く理解出来ない。

山寺で境内を掃除していた修行僧が、落ちていた小石を捨てた。
捨てた石ころが竹にあたり「かーん」と鳴った。
その音を聞いた瞬間に「大悟」を得たとある。

また、達磨大師が洞窟の壁に向かって9年座り続けて修行し、悟りを得た。
その大師に弟子が問うた。「どんな悟りを得られたのか教えてください」
すると大師は「何も無い」と答えた。「何もないことがわかった」と言うことらしい。

我々凡人には、思わず吹き出しそうなことが真面目に書いてある。
軽薄な私でも、これらの話にはもつと奥深い何かがあるように思われるのだが、
残念ながらそれが推察出来ないのである。

「大悟」を得ると、私のように積み木崩しにはならないとみえる。
いったんその境地に達すると、どんな事が起ころうと悩むことはないのだ。
神や仏になったわけでもなく、人間として不動の心境にあり、 
いささかの迷いもない心の安定を得る。
どうも「大悟」とはそんなところらしい。
そのために禅僧は難行苦行を重ねるのだ。

苦しい修行の末に得られる境地だからこそ、私のような怠惰な人間には
ほど遠い次元の存在であり、到底望めぬ境地なのだろう。

苦しい修行をしない代わりに、明日からもはかない積み木崩しに精を出すしかあるまい。
考えようによってはこれも俗人の修行と言えるような気もするのだが・・・・。(1999.9.15)


管理職

サラリーマン社会は一般的に上司と部下の関係で成り立っている。

入社間もない新人時代から能力を試され、
めでたく長のつく名刺をいただくことで管理職の端くれとなる。
長のつく肩書きをもらったからと言っても、直ちに管理職になったとは言えない。
近頃はやたらと役職名を増やしているからである。
部下頭みたいなもので、ノルマが新人の2倍割り当てられる程度の長もある。

管理職とは、数人の部下をコントロールする権限を持つものである。
数が多くなるほど偉いというわけだ。
サラリーマンなら誰もが管理職になりたいと思っているはずだ。
人をコントロール出来る立場は言いようのない 魅力がある。「支配力」の魅力だ。


だが、最近は責任の伴う管理職は嫌だという新人が増えているそうである。
また指示がなければ何をしていいのかわからないサラリーマンも結構多いそうだ。
そんな人種はともかくとして、数々の試練を経てようやく管理職についた人は、
さらなる難関に立ち向かうことになる。

「支配の難しさ」と「責任の重さ」である。

今までは、指示を聞き、自分のみの責任を取ればいいのだから気が楽だが、
今度は指示を出し、部下全員の責任を負わなければならない。
これがなかなか大変なのである。

私が管理職の端くれとなったのは、32歳の時だった。銀行の得意先担当だったので、
部下の失敗の尻拭いや、部下の手に負えない交渉の助っ人としての出番が多かった。
最初はどうしてこんな失敗をするのか、この程度の交渉がどうして一人で出来ないのかと
腹ただしく思うことがたびたびだった。

一年を過ぎる頃から、部下の失敗は自分の失敗と素直に思えるようになってきた。
そして、日頃の指導が大事だということや、自分が楽になるためには
教育が一番大切だと悟ったのである。
部下をリードしてゆくためには、自分自身を一層訓練しなければならないと思った。

仕事のレベルを常に部下を越えるところに維持し、
課長の仕事にはかなわないと部下に見せつける必要を感じたからである。
このころは緊張の毎日だった。だがそれなりに一番充実していた時期だった。

ところで、管理職には二通りのタイプがあるように思う。
部下に対するスタンスの違いから分けられる。
一つは、教育者的管理者であり、もう一つは軍人的管理者である。

教育者的管理者とは、常に自分を磨き、部下に自分を越える人材となることを
望むタイプである。

軍人的管理者とは、部下に自分の手足になることを要求し、自分に役立つ人材となることを
望むタイプである。

それぞれ好みはあろうが、部下としては従わざるをえない。
従っているあいだに部下は理想的な管理者像を心の中で作っていく。
どちらのタイプであろうが、部下に対する人間的影響力は計り知れないのである。

かくしてこの二つのタイプは単に部下だけに影響を及ぼすばかりではなく、
企業風土にも浸透してゆく。
管理職の重要性は企業の盛衰にかかわるのである。

ただし、この二つのタイプのどちらが正解なのかは未だ定かではない。(1999.9.15)

     


ビギナーズラック

今から4,5年前、釣り好きの友人に誘われて初めて船釣りに出かけた。
丁度その頃、何となく新しい刺激を求めていた時期であった。
新しい仕事にも慣れてきたところであったし、それまでやっていた写真も壁に
ぶち当たっていたために一休みしていた頃でもあったからだ。

その日は早春の快晴で素晴らしい天気であった。
和歌山市の雑賀崎から貸し切りの漁船で紀淡海峡へ乗り出した。
早朝6時すぎだつた。
釣り場へ向かう船上から、昇ってくる朝日の美しさに見とれていた。
およそ40分ぐらいたって船が止まり、ポイントに着いた。

      
船頭の声に合わせて、夢中で竿を出す。
竿先の微妙な動きに注目しながらも、海面の青さや
時折みせる白い波に魅せられる。
低く力強いエンジンの響きを聞きながら魚信を待つ。

潮の香りを満喫しながらのどかな時間が経過してゆく。
「釣り」てこんなものかと考えていると、竿を握っている手に明らかな手応えがある。
どうしたのかなと半信半疑でリールを巻く。
友人が竿先を見て「ゆっくり、ゆっくり」と声をかけてくれた。

この時釣れたのが26センチぐらいの平目だつた。

竿を出してから20分ぐらい経ったころだったと思う。
同行した4人のなかで一番最初の釣果であった。
それをみたみんなは一様に驚きの声をあげ、初めての私を不思議そうに眺めていた。
私も照れくさそうな顔を作りながらも、内心では満更でもない気分だったが、
そこは初心者としての自覚から謙虚な態度を失わなかった。

こんなハプニングがあったためか、その日は魚信が乏しく
みんなのぼやきが聞こえてくる。そのあと私もさっぱり釣れなかった。
船頭さんも船をあちらこちら盛んに移動させて、
なんとか魚影を見つけだそうと必死の努力を重ねるのだが効果はなかった。

私にとっては、初めてのことであるし、とりわけ「欲」がないのだから、
海上から見る風景のどれも新鮮で釣れる釣れないはどうでも良かった。
船が止まって、船頭さんの声に合わせて機械的に竿を
出していただけである。

同行者の3人は、必死の形相で魚に挑んでいたことは間違いがない。
きっと、先ほど私が釣った平目を頭に浮かべながら・・・。

結局、この日は6時間ほど海上にいたものの、私の平目以上の釣果はなく、
あきらめようということで帰ることになった。

この日から4,5年になるというのに、26センチの平目にはお目にかかったことはない。
ビギナーズラックとは良く言ったものだ。(1999.9.15)

      


好き嫌い

一口に好き嫌いといってもいろいろある。
男と女のこともあれば、食べ物や趣味などにもあてはまる。

ビジネスの世界でも、この「好き嫌い」がおおいに幅をきかせている。
サラリーマンの人生を左右する重要な要素となっているのだ。
このことは普通の感覚ではあまりピンとこないのであるが、
実は想像以上に影響度が高いのである。

私自身、企業というのはもっとドライで、
組織にたいする貢献度がすべてという解釈をしていたのだが、
そうではなく、非常にウェットで人情とか交際関係とかのどろどろした感情に
支配されている世界なのである。

組織といえども人間の集合体なのだから当然といえばそのとおりなのだが、
共通の目的意識のもとに集まっているのだから、その目的のためには
ウェットな感情は抑制されて然るべきだと私は考えていたのである。

具体的な例をあげよう。

例えば、上司と部下の関係をみると大抵の場合それは人事異動で決まるわけだが、
あてがわれて巡り会うことになるのであって、あらかじめどちらかが選んだものではない。
運良く知り合いの好きな人と出会うことになれば、こんなにラッキーなことはない。
次の異動でどちらかが転勤にならない限り、快適な職場環境で頑張ることが出来る。

しかしながら人生はそんなに甘いものではない。
こういうラッキーは滅多にないのが普通である。
この反対のケースが多いのだ。そうなると悲劇の始まりとなる。
双方ともに忍耐力とか世渡り能力が試されることになる。

私は残念なことに、忍耐力も世渡り能力もゼロに近い。
逆にいうと、わがままで、横柄で、好き勝手なことを平気で言ってしまう
馬鹿な人間なのだ。特に、相手が目上で権力を持っている場合は
無性に挑戦的言動が出て、嫌な奴だ、扱いにくい奴だとと思わせてしまう。

ある先輩に「三種の神器」説を聞かされた。
それは「根回し」・「ゴマ擦り」・「揉み手」の効用である。
これを称して出世の、つまり上役に好かれるための三種の神器と言う説であった。

しかしながら、時すでに遅くこの忠告を聞かされたときには、私は挫折していた。
もっと早く聞いていたとしても私はこの教えを守っていたかどうか、
はなはだ疑問なのだが・・・。

そもそも私の信念として、ビジネスマンは仕事で会社に貢献するものだと考え、
少々の社内での軋轢は当然と思っていたのである。
つまり仕事を中心にまったくドライな感覚を是としていたのである。

この考えはサラリーマンとしての一定の段階までは正解だった。
しかしある段階以上に達すると、間違いとなるのである。
この時期を私は見失っていた。
いつまでたってもこの考えから抜け出せなかったことが
私の不覚の極みであった。

世の中には私と正反対に上司に可愛がられるタイプがいっぱいいる。
愛想が良く、接待上手で、贈り物は欠かさず、箸のころんだようなことまで
丁寧に報告し、厭なことは口にせず、気持ちのいいことばかりを話す。
このように器用な人間はたくさんいるし、それを能力と是認する風潮まである。

「好き嫌い」で会社という組織が動いているというと、
そんな馬鹿なと思うかも知れないが、
案外本当のことではないかと私は思っている。

「好き嫌い」は決して子供や男女のなかのことだけではないのである。(1999.10.17)

      


滅びの美学

私が興味をよせる歴史上の人物に千利休や勝海舟がいる。
この二人に共通しているのは「滅びの美学」ではないかと思っている。
   
私の乏しい知識からみても、二人はその強烈な個性からくる人生哲学を
周囲のどんな圧力にも屈せず、最後まで変えようとはしなかった。

その結果どうであったか。
権力者や上位者との軋轢が絶えず、つねに「滅び」を意識しながらの生き様を
強いられたわけである。
しかしながら、このような生き方は一面では痛快極まりない奔放な活躍を生み出した。
権力者におもねることなく遠慮会釈のない直言を行うことは「滅び」の自覚なしに
可能なものではない。そこが魅力的なのである。

現代社会ではどうだろうか。

特に、サラリーマン社会ではこのような人物に巡り会えることはきわめて難しい。
今までの私の人生を振り返ってもわずか一人をおいて他にはいない。
組織が大きくなればなるほどこういう人物が生き残ることは困難なのではないかと思う。

1998年、今やバブルの崩壊現象からくる金融不安で、日本中の金融機関が
断末魔の悲鳴をあげている。
銀行のみならず、ゼネコンやメーカーなど企業のほとんどが生き残りをかけた
リストラ対策に必死である。
経済学的には様々の要因があるのだろうが、私は一サラリーマンとしての世界から
この苦境に至った原因を考えてみたい。

結論からいうと、ビジネス社会のモラルの退廃に尽きるように思われる。

ノルマ至上主義とか成績至上主義といわれるものがある。
結果がすべてという考え方である。
バブルの時には、結果を出せなければ口も利けないという風潮がはびこり、
結果を出すためには手段を選ばないとの考えが黙認されていた。
そこには企業の社会的責任という考え方のかけらもなく、
単に目標必達のマネーゲームに過ぎない競争が繰り広げられていたのである。

そこでは、どんな考えで、どういうプロセスを経て、顧客に
どういう評価をしてもらっているのか、
社会にどう役立ったのか。そしてその仕事には偽りがないのか、
自分のためだけではなく、企業に価値観を置いた仕事なのかなどといった
観点からの評価は全くなかったのである。

このように、銀行をはじめとして日本中の企業がそれいけやれいけと
浮かれていたあげくに、現在の苦境に陥ったのである。
企業内のモラルの崩壊が原因となって社会が混乱したのである。

勿論、企業内のすべての人が倫理観を失っていたわけではない。
心ある人物はたくさんいたのだ。
どこかがまちがっていると感じて警告を発していた人は間違いなくいた。
しかしながら当時のいけいけどんどんの成績至上主義の中では、
これらの声は「消極的」とか「弱気」とかひどいときには
「負け犬の遠吠え」とか言われて、良識ある意見は一顧だにされなかったのである。

それでも頑強に主張した見識ある人々は、時の権力者に疎まれ、嫌われ、排除された。

命をかけて秀吉と対峙し、許される道がありながらもそれを拒否した
利休のような現代の気骨者も居たし、幕府の老中を前にして、
何の策もない無能者と放言した海舟のような人物も居たであろう。
多くの気骨ある人物が時の権力者によってビジネスの表舞台から
排斥されたのである。
その結果イエスマンが企業にはびこり、
企業は内部から腐食していったのである。

イエスマンは自己の損得勘定で動くものである。
自己の損失を極端に嫌うものである。

これに対して利休や海舟は自己の損得を計算しない人物と思う。
そこが私を惹きつけるのだ。
利休は茶道者としての気位から秀吉に命乞いをしなかった。
海舟は何度となく左遷されてもそれを甘受しつつ幕府の無策を戒めた。
彼らのこの高貴な精神こそ称えられるべきではないか。

バブル崩壊後の経済的混乱のなかで、暗いニュースを見聞きするたびに
「滅びの美学」の欠如を嘆かざるを得ないのである。(1999.10.17)

     


座右の銘

私には、大学の二年先輩でFさんという親友がいる。
かっては同じ職場にいたこともあるが、今では離ればなれとなって久しい。
しかしながら何故か気が合ってちょっと一杯の関係が続いている。

今から二十年も前のことだが、二人して慎もうと約束したことがある。
それは全くの偶然をきっかけとしている。
 ある日、二人の共通の友人を訪ねた帰り道のことだった。
車を走らせていると小さなお寺にさしかかった。
土塀の向こうから満開の桜の枝がせり出しており、素晴らしくきれいだった。

「ちょっと見ていこう」とどちらともなく声がでて、車を降りた。
さびれた門をくぐり、境内に入った。
誰もいない。シーンとしていた。門を入って右側の奥に本堂があった。
人影はみえず、大きな扉は開け放たれている。
黒く光る木の階段を四,五段上がると、ひんやりとした静かな
広間が続いていた。太い柱が等間隔に並んでいる。
その一本に白い半紙が無造作に張り付けられていた。
そこには墨で黒々とこう書かれていた。

人をそしらず、自慢せず、身のいたらぬを恥じて念仏

一瞬ドキッとした。心当たりが多いにあったからである。
先輩も「ふーん」と言ったままだ。
察するところ思い当たるところがあるらしい。
ところが、先輩は腕組みしながらこう言った。
「君、良く覚えておけよ。」

確かに、「人をそしる」ことが私に当てはまることを認めるけれど、
「自慢せず」は先輩以外に当てはまる人はいなかった。
日頃先輩の一人自慢には辟易としていたからである。
「お互い様ですね。」と言葉を返して苦笑せざるを得なかった。

この時以来、折に触れ「そしるな」とか「自慢せず」とかお互いに
戒め合っているのだが、人間の悲しい性か一向に改善の兆しはなく、
一杯飲んでは自慢話を聞かされ続け、
彼奴は怪しからんとそしり倒して溜飲を下げている。
だが、近頃は飲み屋を出る頃になると、
二人で声を合わせて唱えることにしている。

「人をそしらず、自慢せず、身のいたらぬを恥じて念仏。」

不思議なもので、この言葉を口にすると、それまでの一人自慢や悪口雑言が
きれいに洗い流されるような気分になるのである。
特に、終わりの「身のいたらぬを恥じて念仏」の語句が、
何とも言えず謙虚でいいと納得して飲み屋を出るのである。

かくして、二十数年間、今持ってこの言葉の新鮮さに心を打たれ続けている。
少しも心がきれいになっていない証拠とも言え、情けない限りだが、
このごろはややあきらめに似た心境となっている。(1999.10.17)


心のグラス

あなたには、心の師と呼べる人物がいますか。
永い人生を生きてきて、そんな人が存在するとしたらそれは幸せなことです。
実は、私はその幸せを得た一人なのです。

私が36歳のころのお話です。

大阪の本町にある喫茶店で、私はある人と向かい合って黙ったままうつむいていました。
はらはらとこぼれる涙を拭うわけでもなく、ただその人の言葉にうなずくばかりでした。
そのときの心は涙とは裏腹に極めて穏やかで幸せなものだったのです。

元来が意地っ張りで、自己主張の強い私なのですが、このときの心境は全くの空白で、
その人の言葉の全てが何の抵抗もなく心にしみ込んでくるのでした。
まるであたかも空っぽのグラスに注ぎ込まれるワインのように。


この頃、私は上司である支店長とうまくいかずに鬱々とした毎日を過ごしていました。
面白くない日々が続き投げやりな気分になっていました。
どういうわけかそれがこの人の耳に入り呼び出されてしまったのです。

この人の前ではいつもそうなのですが言葉は要らないのです。
もともとこの人は言葉が少ないのです。
そのかわり、一言一言が重いのです。ずしーんと重いのです。そして、心を打つのです。
言葉の端々には「愛」が感じられるのです。ですから私に言葉は要らないのです。
聞いているだけで幸せなのです。

心の師と呼んではばからないこの人のおかげでわたしは今日まで生きてきました。
そうかといっていつも顔を合わせているかというと、
じつは滅多にお会いすることはないのです。まして悩みをうち明けたこともありません。

不思議なことに、私がピンチに陥ったとき、
このときのようにお会いすることになってしまうのです。

この人は決して聖人君子ではありません。むしろその逆をいくタイプのひとです。
酒癖もよくありません。サラリーマンとしても異端をゆくひとです。
時の権力者にも平気で挑戦的態度もとりますし、
大声で部下を叱りとばしたりします。金使いも荒いです。
だけど、いちどこの人の心に触れると心酔してしまうのです。
この人には「愛」があるのです。
この人の持つ「人間愛」が私や幾多の人々の心をとらえて離さないのです。
なぜこの人にそれがあるのかわかりません。
また、真似してもできるものではないでしょう。

いずれにしろ、私にとっては「心のグラス」になみなみと「愛」を注いでくれる貴重な人なのです。
永い人生を通して、こういう人と出会えた私は本当に幸せ者と感謝しております。(2000.1.1)


「大発見」

子供の時から、頭の片隅に引っ付いてどうしても離れないものがある。

それは、なぜか「スクリュー」なのである。
私が子供のころは、現代と違ってテレビもファミコンもなく遊び道具は自ら工作したものだった。
ゴムを巻いて飛ばす模型飛行機や船作りに夢中になっていた。
いつしか、少年雑誌の飛行機や軍艦を眺めるのが布団に入ってからの習慣となっていたのである。
そんな時、「スクリュー」の偉大さに気がついたのである。

人類が木をくり抜いて丸木船を作り、櫂で漕ぎ出して船を進めてから果たして何年目から
「スクリュー」に変わったのだろうかという疑問なのであった。

櫂は水平運動である。「スクリュー」は回転運動である。
この転換がとてつもなく私には偉大な出来事に思えるのである。
今でも詳しく知りたいと願っている。
他人からみれば、なんだそんなことと笑われそうなのだが、
今もってその発想の転換を成し遂げた人に対する尊敬の念を禁じ得ない。

これによく似たことが、もっと偉大なことと言えるのだが、
「天動説」から「地動説」への転換がある。

これは、またすばらしい発見であるのだが、私には「スクリュー」のほうが実感がある。
コペルニクスの地動説はなるほど世紀の大発見なのだが「理論」の世界であり、
残念ながら目に入らない。
「スクリュー」は現実にこの目で確かめられるし、実際船が動いている。考えてもみよう。
水平運動からこの回転運動への転換まで人類は何千年もの年月を費やしたのである。

現代文明のなかでも、我々が当たり前に利用していることで、
この例のように画期的発見につながることがあるかも知れない。いや、きっとあるだろう。

これは、逆にいえば、「既成概念」からの脱却が人間にとっていかに困難かということになる。

日常生活のなかでも、ビジネス社会でも、学問の世界でもどんな分野であろうと
われわれは「既成概念」に縛られているのだ。
そんななかでも、素晴らしい才能にあふれた人がいて、この呪縛から解放してくれる。
当然、他人からは「変人」、「奇人」と色眼鏡で中傷されることであろうが、
やがて賞賛の声に変わってゆく。

こんな繰り返しが人類の進歩につながっていくのだ。
素晴らしき先人の業績に感動し、感謝してやまない。(2000.2.5)
              

                                                 


「日進月歩」   

この間、ボーとテレビを見ていたら、山内丸山遺跡の発掘現場からの中継が放送されていた。

縄文時代の食生活が解説されている。
要は現代人とたいして変わらぬものであったらしいということだ。
なるほどそうかも知れないと思った。
考えてみれば、古代から現代に至るまで、この地球上にある自然物が人間の食材として
利用されてきただけのことなのだ。
      
その間、進んだことと言えば何がまずくて、何が美味しいかという選別がなされてきたにすぎない。
毒のあるものを食べて犠牲になった人もたくさんいただろう。
その犠牲が教訓になり食材の適否が体験的に決められてきた。

私が感銘を受けるのは、初めて何かを口にした人の勇気である。

想像してもその度胸のよさがわかる。例えば「たこ」である。
あのグロテスクな生き物をどんな気持ちで食べようとしたのだろうか。
現代でも欧米人は「たこ」を口にしないそうだ。
たぶんあの姿が影響しているのだろう。

まだある。「なまこ」である。これは「たこ」よりはるかに気味が悪い。
茶色の縞模様で形も石ころみたいである。
こんなものを食べてみようと思いついた人にその事情を聞いてみたい気がする。

なにはともあれ、人間はこうして体験的に食材を選別してきた。
変わったことといえば、調理方法とか味付け方法ぐらいではなかろうか。
食材そのものは縄文時代から現代にいたるまでたいして変わっていないように思われる。
従って、山内丸山遺跡でみつかる縄文人の食べかすを分析しても我々現代人と
極端に異なるものなど出てくる筈はないのだ。

縄文時代と聞くだけで、原始人は我々と全く違う食材を食べていたと推測しがちであるが、
縄文人がそれを聞いたら「馬鹿にしなさんな、あなたとおなじものを食べていましたよ」と
叱られるかも知れない。

いまや、月までロケットで行ける時代である。
文明のおかげで現代人の日常生活はすこぶる便利で快適である。

しかしながら、こと「食べる」ということに関しては、縄文時代と極めて近い関係にあるような気がする。

「日進月歩」とは、毎日毎日一時もとまらず進歩しているという意味だとおもうが、
原始の時代から脈々と続く「食」の世界は案外昔と同じレベルかも知れない。
そんなものがあってもいいではないかと思うのだが、あなたはどうでしょうか。(2000.2.13)

      


「法事」

六人兄姉の末っ子である私が還暦を迎える年になると、親戚縁者での法事も
随分頻度が高まってくる。

一ヶ月に二度、三度となるとお坊さんのお経もありがたいどころか、
座っている時間が苦痛で仕方がない。
近頃のお坊さんは、わりあい短時間で終わることが多いのであるが、
たまに几帳面な人にあたると延々二時間以上も「ありがたい」お経を
あげてくれることがある。

そんな度に、不遜極まりない私は「これでいいのだろうか」と考える。
長いお経は故人の成仏を祈願するものかも知れないが、
故人ははたして満足しているのだろうかということである。

そもそも法事とは、残った子孫や親類の者が集まり、
故人を偲ぶためにあるのではないかと思う。

生前の思い出をみんなが懐かしく語り合い、いい人だったとか、随分お世話になったとか、
或いは迷惑ばかりをかけてすまなかったとかの話が出て、その人のかっての存在を
確かめ合うことが法事の真意と考える。

この観点から見ると、あまりにもお経の時間が長すぎると感じるのだ。
この二時間を「偲ぶ」時間にできないかと思う。
特に、遠方の法事の場合、帰る時間を気にしながらお経を聞いていると
お坊さんには悪いけれどイライラする。第一、お経の意味が全くわからない。
延々と続く呪文であって、配られる小冊子を見ても漢字ばかりで訳文がない。
したがって何のことかわからないのだ。
単調な節回しをわずかな救いにして、まだか、まだかとひたすら終わるのを
待っているだけなのである。

その間、この傲慢不遜な私は、私自身の葬式のことを考え、
お経を一切取りやめたさわやかな「お別れ会」の構成を夢見ることにしている。

所要時間は二時間までとする。わずかな身内だけで行う。
そして、生前の私が好きだった音楽を聴いてもらう。
この前新聞広告で買った「BOSE」製のラジオとCDプレーヤーを使って
ジム・ホール(ギター)のアランフェス協奏曲を聴いてもらうのだ。
約20分である。
クラシックをジャズ風に編曲したもので、静かな憂いに満ちた曲である。
   
こういう場面にピッタリの音楽だ。会場では、おいしいコーヒーとケーキを食べてもらう。
そして、配られる小冊子はこの「随想集」だ。
書かれたエッセイを話のネタにして私の噂話をしてほしい。
いいこと、悪いことなんでもいい。こんな人間がいたということを語り合ってほしい。
会場には色とりどりの花を飾り、華やかで上品な雰囲気を作ってほしい。
白い菊だけでは寂しすぎる。

「呪文」をかすかに耳の遠くでつかまえながらこんな空想に耽ってしまうのだ。

長いお経がやっと終わって、今度は「お説教」が始まる。誰もがありがたく承っているが、
この不埒な私は、故人の思いはどうなんだろうかと考える。
せっかく皆が集まってくれたのだから、
もっと私のことを懐かしく語っておくれと嘆いているのではなかろうかと心配する。

私の思いをよそにお坊さんの「お説教」は続く。もっともなお話が続く・・・・・。

法事が終わっての帰り道、老妻に私の構想をうちあけると、
「何を馬鹿なことを言っているのですか」と一蹴されてしまい、
なんだか損したような気分になったのである。(2000.3.29)


「出入口」

還暦を迎える年になるが、至って健康である。
毎年の健康診断でも特に治療を要する指摘はない。
だが、なにもかもと云うわけでもない。若いときから気になることが二つあった。

我が肉体の入口と出口である。

2000年4月、その入口つまり「歯」の治療のため長崎の病院に入院した。
この歯医者さんはいわゆる「集中治療」をしてくれる。一週間で退院できるのである。
「歯」の状態にもよるが、大抵はOKだ。
その代わり一日中口を開けたり、閉めたりしているのだから、結構疲れる。
終いには、集中力が途切れ「開けて」と言われて、慌てて口を「閉じる」とかの間違いをして
叱られたりする。

それでも忙しい、または忙しいと錯覚しているサラリーマンには
ダラダラと一年、二年と通わされるより重宝である。
わずか10分や15分の治療を、完璧にかよい通す方が至難の技と言えよう。
大抵は行きそびれて歯医者と顔を会わすのがばつが悪くなり、他の歯医者を探す羽目になる。
中には、通えそうな歯医者を順番に回って、どこも中途半端にしてしまい、ついには治療を
あきらめてしまう人も出る。もちろんこの松露もその一人なのだが・・・・。

その点、この病院は思い切って決断すれば、いやでも最後まで治療を終えることができる。
実をいうと今回で二回目なのだ。約 十年前にもここでお世話になった。
今回でお金はかかるが徹底的に直そうと決心したのである。

物が食べられない、噛めないという辛さは歯の悪い人しか理解できないだろう。
まして、年をとって楽しみが少なくなると「食べる」意義はますます大切となる。
それが噛めないとなれば、その悲哀は計り知れないほど大きくなる。

なんとか普通に物が食べたい、この一念で奈良から出てきたのである。
一つの課題は多分これで解決するだろう。入口の問題はこれで終わりにしたい。

もう一方の課題、「出口」の方は、解決して久しい。
今から三十数年前、大阪の「痔」の専門医の先生に解決してもらった。
言葉も治療も随分荒っぽかったが「名医」だったとみえて、
現在に至るまで「出口」に関して悩みはない。
この先生に出会うまでは、本当に苦労した。
通勤途上でも、ゴルフをしていても絶えず「出口」を気にしていた。

手術後、先生の許可を得て久しぶりにゴルフに出かけたときの晴れ晴れとした爽快感は
今でもはっきりと記憶に残っている。心からありがたく思った。

後年、我が家に入った放水による「出口」の洗浄ができる便器を使ったとき、
昔からこれさえあれば長い間苦しむこともなかっただろうと
悔しい思いをしたことも忘れられない。

とにかく、こうして宿願ともいえる「出入口」の修繕を終えようとしている。
思えば、出入口の重要性はいろん場面で語られている。

一つは、オーディオ装置である。

どこにお金を掛けるべきかとの答えとして、出入口だとの話をきいたことがある。
すなわち、レコードから音を拾う針先とカートリッジが「入口」であり、
音を鳴らすスピーカーが「出口」に該当する。
この部分にお金を掛けるべしとのアドバイスであった。
このことを何故か忘れられないでいる。

もう一つは、テレビの番組からのお話である。

防犯に関する番組であったと思う。そこでは、警察関係者が、泥棒は、
ある家に侵入するときは、入口と出口を入念に検討してから実行するものだと語っていた。
日頃出たとこ勝負で失敗を重ねている我が身にとっては、妙に説得力のある話であった。

また、我がサラリーマン人生を考えてみると、もう出口のすぐそばに立っていることになる。
38年まえに青雲の志をもって入口をくぐって以来いろんなことがあったが、
ようやく出口に至るまでとなった。
「終わり良ければ、凡て良し」の言葉通り、
我がサラリーマン人生の出口は満足すべきものとなった。

特に、最後の二年間は悔いのないものだった。
自ら選んだ転職が無駄ではなかったと言うことと、
よき理解者に恵まれたことなどを理由としてあげることができる。

しかし、もっと大きな理由としては、私なりの出口を作れたという
自己満足が伴っていることであろう。

第一線を離れたとたんに悲劇的な出口に遭遇して、
それまでの権勢に未練たらたらの不幸な人が一杯いる。
そんな人達が向かう寂しい出口より、私の出口は質素だが小綺麗で、
なにより「満足」という花輪で飾られている。

私が作ったこの出口をくぐって、また新しい人生に向かうのだ。
さらに輝かしい出口を創造するために・・・。
                                                 2000.4.12 長崎にて

     


息子の彼女

今から三年前のことである。
普段の日曜日と違って、その日は老夫婦ともにそわそわしていた。

一日中パジャマでごろついている私が、朝早くから着替えをすまして、
顔を洗い、念入りに髭をそり、髪の手入れも怠らなかった。
老妻もいつもはそこそこにすます掃除を馬鹿丁寧に時間をかけている。

今日は、下の息子(26才)が彼女を連れて来るというのだ。
なんせ、我が家はかみさんを除いて無愛想な男3人の男所帯である。
ただ一人の女性も男3人に囲まれて男言葉に染まっている。
そんな中にうら若き女性が訪れるというのだからまさに一大事件なのである。

もちろん、女房よりもこの私の方がうろたえ方が激しいのはいうまでもない。
予定ではお昼過ぎということであったが数時間まえから準備は完了し
、待機の姿勢でいた。この待つ時間というのは心の準備とは反比例するもので、
時間があればあるほどあれやこれやと雑念が入り不安になってくる。

気分を静めるためにクラシックのCDをかけ、窓ガラスの汚れを落としていると、
玄関のチャイムがなった。
あわてて玄関に出ようと思ったが、「いや待て。ここは一家の大黒柱として部屋で待ち、
出迎えはかみさんにまかせよう」と考え直した。

部屋の外から、妙にやさしい女房の「いらっしゃい」の声が聞こえる。
二言三言なにやら会話を交わしている若い女性の声が聞こえてきた。
「こんにちは、お邪魔します。」とニコニコ顔で挨拶しながら若き女性と息子が現れた。
息子は最寄りの駅まで出迎えに行っていたのである。
「いらっしゃい。どうぞ」と招き入れながらわずかに声がかすれた。
こちらの慌て方とは反対に、女性はすこぶる落ち着いた態度だった。
息子が彼女を紹介した。
「いい名前ですね」と調子を合わせて答えながら彼女の飾り気のない人柄に
好感を持った。

予想していたとおり、若い女性の華やかなムードはひとときの間我が家の
雰囲気を一変させた。
二十数年間の暗がりにぱっと明かりが灯ったような感じであった。

明るい笑い声と楽しい会話の二時間ばかりがすぎて彼女は別れの挨拶をして
我が家から消えた。それでも、しばらくの間は若い女性の甘い香りが漂い、
さすがは我が息子、なかなかやるではないかと私は満足していた。

老妻があとかたずけをしながらあれこれと彼女の印象をしゃべるのを聴きながら
私は思いだしていた。

このかみさんと知り合い、つきあいだした頃を。
今の息子の彼女のように初々しく輝いていた頃を。
これが人生というものかと考えながらも言葉にはならなかった。

それから一年後、二人は結婚した。残念ながら孫の顔はまだ見ていない。 (2000.5.4)