私的アジア文明論U

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1.東アジア諸民族の南下  2001年8月7日

 

2.東アジア諸民族の移動  2001年8月11日

 

3.東西交渉史三題  2001年8月15日

 

 


3.東西交渉史三題 2001年8月15日  TOP HOME    

 

1.東西文明の接触、5000年前から?=「エジプト王と同種のつえ」中国で発見(時事通信)

 以下青字、ヤフーニュースより全文紹介

 【北京13日時事】古代エジプトの王が権威の象徴として使ったものとそっくりのつえの頭部が中国西北部で相次いで発見され、その推定製造年代から「東西文明の接触が始まったのは従来考えられていた時期よりはるかに早く、3000年前から5000年前にさかのぼる」との説が中国の専門家の間で浮上している。
 13日付の中国紙チャイナ・デーリーによると、古代の東西交通路に当たる新疆ウイグル自治区、甘粛省、陝西省で、石や玉、青銅で作られたつえの頭部が出土した。頭部は球形、へん平型、星型などで、羊と牛の頭を模したものもあり、「古代エジプトのつえと驚くほど似ている」という。

 

 このような「エジプト王と同種のつえ」が、どのような経緯で中国西北部にもたらされたのか興味は尽きないが、時代は下がって2000年前になるが以下のような話もある。 

 

2.クラッスス麾下のローマ軍団、 漢に帰順 今なお甘粛省に残る古代ローマ人の末裔

 クラッススと言えば、ローマ共和制末期の執政官であり、カエサル、ポンペイウスと共に第一回三頭政治を行ったことで有名であるが、その後、イランのパルティア(安息国)を攻めた際、カルエラの戦い(前53年)で敗死。その際、ローマ側資料によると、6000人の兵士が包囲を突破したものの、行方不明となっていた。

 しかし、中国側資料(「漢書・陳湯伝」)によると、前漢王朝の陳湯将軍が甘延寿とともに、現在のカザフスタンにあったタラスという町を攻めた際、彼らはそこでローマ軍と推測される部隊と遭遇した。これらの部隊こそ、上のクラッススの残軍であり、パルティアに退路を断たれた彼らは東へ進み、防御が比較的手薄だったパルティア東部の防御線を突破して中央アジアに流れ込み、後に陳湯に攻撃されて捕虜となり、中国に連れていかれたと中国の学者たちは分析している。

なお、漢の元帝は詔を発して彼らを番木県(甘粛省永昌県)の南に定住させ、別に驪(けん)県を設置した。その後592年には、驪県人と漢民族との混血が進んだことをかんがみ、当時の隋の文帝はまた詔を発して驪県を番木県に編入した。それまで、驪県は612年間存在していたことになる。ちなみに、古代中国ではローマを「驪」と呼ぶこともあったという。

また調査員が現地(永昌県者来塞村周辺)で調査を行うと、高い鼻、くぼんだ目、天然パーマの髪、ブロンドの頭髪、ひげ、体毛という地中海人種の外見的特徴を持っている人が100人近くいることを発見した。ちなみに、その中の一人、宋国栄氏は身長182センチ、肩までの長髪はブロンドでカールしている。また、彼の一族の長老は宋さんよりも背が高く、青い目をしている。子供が何人かいるが、皆ヨーロッパの子供と全く同じで、肌は白くてブロンドのヘアーである。

 また、ここには他に見られない牛を崇拝する風習があり、村人が最も楽しみにしている「抵牛(角突き)」という行事は、専門家によると、まさしく古代ローマ人の闘牛の遺風を受け継ぐものであるという。

『北京週報』1998年11月17日第46号より)

 

3.中国に定住したユダヤ人

 1948年、イスラエルが出来たとき、中国の開封からユダヤ人が大量に移住していったという。しかし、彼らの顔立ちも服装も全く漢族である。ただ、彼らは自分たちの宗教を「一賜楽業(イスライエ)教」と呼んでいた。つまり、「イスラエル教」ということで、ユダヤ教の一種の形を保存していたのである。(橋本萬太郎編『漢民族と中国社会』(山川出版社 1983年)終章「座談会 現代の漢族」での歴史学者・岡田英弘氏の発言より)

 まあ、開封が北宋の都であったこと等を考えて、彼らが西方から中国へ移住したユダヤ教徒の子孫であることは間違いないだろう。ちなみに、今でも中国には一部、ユダヤ人がいるという話も小耳に挟んだことはあるが、ご存じの方がおられれば、御教授を願いたい。

 

 なお、筆者は上の例から鑑みても、世界にユダヤ教徒というものは存在するが、ユダヤ民族などというものは存在しないものと考える。上も、意図するところ、事実関係の紹介であり、イスラエル建国の正当性やユダヤ人のパレスチナ移住の正当性を決して認めているわけではない。

 

2.東アジア諸民族の移動 2001年8月11日  TOP HOME    

 

 中国大陸から、東南アジア大陸部、島嶼部、太平洋諸島への民族の玉突きは、知られているだけでも、何回もの波があったようだ。主要な流れは、下に紹介した中国文明形成期の波だが、その前の中国黄河・長江流域での農耕の開始・発展期にも、玉突きは起こったようである。当然のことながら、農耕の発展による農耕民族の人口増は、周辺民族への圧になったようで、約1万年前にはそれまでオーストラロイド系住民が居住していた東南アジア大陸部にも中石器文化を持ったモンゴロイド系住民が押し出され、ついでオーストラロイド系住民を島嶼部に押し出したようである。そして、次の約7000年前の段階では、おそらくマレー・ポリネシア系の住民が中石器文化人を島嶼部に押し出して、東南アジア大陸部を占めるとともに、東南アジア島嶼部にもモンゴロイドは進出したようである。

 ちなみに、今から約1万年前以前は、インドから東南アジア大陸部、島嶼部、ニューギニア、オーストラリアにかけてはオーストラロイド系住民が広がっていたようだが、上のモンゴロイドの進出によって、東南アジアがモンゴロイドの居住地となり、従前のオーストラロイド居住地は分断されたようである。今でも、マレー半島、インドネシア等には、非モンゴロイド系の未開状態の住民が点在しているという。

 なお、北方への移動についても、決して北方民族の一方的な南下ではなく、上の農耕発展による玉突きは、案外、新大陸にも及んでいる可能性がある。いわゆる北方民族の「南下侵入」にしても、見方を変えれば、「文明」の範囲が拡大した結果、従来「未知」であった北方民族が「文明」の周辺に入った結果とも言えるだろう。

 有名な匈奴にしても、春秋時代には中原にいたという説もある。実際、春秋以前は黄河流域も森林が豊かであり、そこには「未開」の狩猟民が居住していたのだが。そして、後に匈奴は南北に分かれ、漢と連合した南匈奴に追われた北匈奴は大西遷を行い、フン族となってヨーロッパに現れたとも言う。

 

1.東アジア諸民族の南下 2001年8月7日  TOP HOME    

 

最近、『山の郵便配達』という中国映画が話題になり、筆者も見に行ったが、中に少数民族(トン族)の村祭りのシーンがあり、その時、トン族達が着ていた民族衣装は、非常に「東南アジア」的な感じがした。それもそのはず、実は東南アジアの住民というのは、中国本部に住んでいたものが南下したのであり、中国領内に残留した南方少数民族が「東南アジア」的なのは、むしろ当然なのである。

もっとも、その後、東南アジアに南下した諸族はインド文明の影響を受けて、現在のような文化を形成するが、中国領内の少数民族は、それを受けず、案外、古代中国の古俗を残しているものもいるのかもしれない。

陶淵明の『桃花源記』ではないが、兵乱を避けて、中心部から辺境に去ったものなどの服装は、その後の中心部での変化を受けず、「外人のごとく」見えるだろうが、それが中心部の古俗なのかもしれない。

 

ちなみに、今から約3500年前には、南アジア語族に属するクメール人がカンボジアに南下してきたため、マレー系の人々が、マレー半島を経由して、インドネシア、フィリピンなどの島嶼部に押し出され、その結果、玉突きされたポリネシア人が、太平洋に広がったようだ。そのポリネシア人も、約5000年前には、中国大陸南部や東南アジアにいたという。

 この約5000年前から3500年前というのは、中国文明の形成期に当たり、そういった変動が民族の玉突きを引き起こしたのだろう。

 南アジア語族の南下も、民族の玉突きの結果であり、タイ語諸族→ミャオ(苗)・ヤオ語諸族→南アジア語諸族→マレー・ポリネシア諸語族のような南北関係があるのかもしれない。

 初期中国文明の担い手はタイ語諸族であった可能性があり、彼らは長江流域や更に南方だけでなく黄河流域にも広がっていたようだ。もっとも、その後の中国文明の展開にあたっては、だいぶ北方諸族の関与があったようで、従来の南方語系諸族と北方語系諸族が黄河流域で融合して、周代から春秋時代にかけて、「華夏族」と言われる原漢族のようなものが出来、それが長江流域の住民をも混合して、漢族が初歩的に形成されたのは、春秋から戦国にかけてのことである。

 もっとも、これ以前、約4000〜3000年間には、タイ語諸族は稲作をともなって雲南などにも広がっていたようで(これが南アジア語族の南下を引き起こしたか?)、現在のタイ王国の住民や中国・壮族の直接の祖先は、この辺りらしい。