私的アジア文明論

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7.日本の中の「南方」的要素について・改訂   8.日本の中の「南方」的要素について・続

9.今までの文章のまとめ


9.今までの文章のまとめ 2001年6月17日 TOP  

 

 2001年8月25日削除

 

8.日本の中の「南方」的要素について・続 2001年6月13日 TOP  

 

 現在、日本の学界においては、日本人や日本語、日本文化の起源を、インドや中国周辺地域や中国内の少数民族居住地域に求める見解が多く、実際、これら「中国周辺」地域には、日本文化と共通する要素が散見されるのであるが、このような現象については、やはり分析が必要であると思う。ちなみに、日本を含んだ「中国周辺」地域の共通要素については、時代順に見て、大体三種類の問題があると思う。

 

1.かなり古い時代に属するもので、当該地域に広く存在していたもの

 つまり、何度も述べたように、インドから東南アジア、中国南部、日本列島西半分、太平洋諸島などが、大枠でほぼ一体の文化圏であった時代の名残。それが文明の古い中国、特に漢族において失われたものが、日本含んだ「中国周辺」に残存しているもの。

 雲南省の少数民族中には、納豆類似の食品を食べるものがあるといい、また中国西南、ブータンの貴族などはドテラとほぼ同じ衣装を正装としている。これらの要素は、中国本土などでは滅びたものの、かつては南北を問わず、東ユーラシア一帯に広範に存在していたものが、「辺境」地区に残存したものかもしれない。

 

2.中国文明誕生前のものではあるが、中国本土から四方に伝播したもの

 例えば、稲作などは、かつては南方的要素の代表とされてきたのだが、昨今の発見により、これは長江流域に起源したものが、東南アジアや日本列島等、四方に伝播したものであることが明白になってきた。実際、タイ王国の主体民族はじめ、東南アジアの各民族や中国の少数民族は主要には中国長江以南に居住していたものが、長江流域での稲作や都市文明の誕生、更には春秋戦国の激動の中で、南方に拡散したものである。ポリネシア人も、中国大陸南部から太平洋諸島に拡散したものである。これら民族が南だけでなく、海を越えて東方、日本列島にも渡来したことは十分考えられる。

 総じて言えば、春秋時代以前の中国本土は、基本的には現在55族を数える中国少数民族のように雑多な民族が居住する土地であったが、民族間の闘争の中で、周辺に逃げたり、また春秋戦国以降、中心部では漢族として融合が進む中で、融合されないものは、周辺に移動して玉突き現象を起こし、「先住」民族を更に周辺に移動させたり、融合したりしていった。

 南方だけでなく、北方においても、例えば匈奴は、春秋時代には、中原に居住していたという説もある。もちろん、人的来源は中原でも、騎馬の術などは北方で学んだのかもしれないが。

 

3.中国文明誕生以降、中国から四方に伝播したもの

 屠蘇を飲む習慣など、明白に中国に起源しながら、本場では滅んでしまったのに、かえって日本に残っているような習慣がある。他にもいくつか例があるが、このうような本場で滅びたものが、日本の対極の地に残っているようなものがある。

 例えば、チベットの小学生たちは漢数字を勉強して、それを日本と同じく、「イチ、ニイ、サン、・・・」と発音している。この「イチ、ニイ、サン・・」というのは、唐の時代の中国語の発音が東の日本と西のチベットに伝わったもので、本場では滅びたものが、「辺境」の両者に残存している例である。

 

 なお、表題は「南方」的要素としたが、今まで述べたようなことは「北方」的要素についても言えることであることを改めて確認しておく。

 

7.日本の中の「南方」的要素について・改訂 2001年6月11日 TOP  

 

 豆腐、うどん、茶、饅頭等、現在、日本で伝統的とされる食品の中に中国に起源したものは非常に多いのであるが、筆者などが言うまでもなく、現在の中国文化と日本文化との間に各種の差異が見られるように、食文化においても、日中の差異は大きなものがある。

 わけても、これが最大の違いではないかと思われるものに、中国、というより漢族食文化の特色であるが、彼らは生肉、生魚、生野菜はじめ、生のものは絶対に食さない(水さえ生水は絶対に飲まない)のに対し、日本では刺身等、特に生の魚の活用は、その食文化において、大きな比重を占めている。

 もっとも、そんな差異を日中(あるいは日漢)の本質的な差異と取ってしまうことも出来ないのであって、例えば中国でも、孔子の時代には生の魚を食べていたのであり、現在においても、南方では生の魚を食さないことはないのだが、逆に今度はこれをもって、「お刺身って、もともと中国のものだったんですね」(ある有名中華料理店のCMの文句)などと、刺身が中国に起源して、日本に伝播したなどと考えるわけにも行かないのである。

 少し考えてみれば分かることだが、捕った魚を新鮮な内に、生で食べてしまうというのは、人類というか魚を捕る動物に共通していることで、かつてはどこでも行われていたことであり、ただ文明の古い漢族においては、一定段階で、このような「原始的」習慣が失われたに過ぎないからである。

 思うに、従来「南方」的「北方」要素のような日本の中の非「中国」的(非漢族的)要素とされてきたものの中には、案外、刺身のようなものが多いのではないかと考えるのである。文明の古い中国本土では、これらの要素は早くに滅んでしまったのだが、中国少数民族や東南アジア、太平洋諸島、日本などではまだ残っている。その結果、日本の学者などは、日本の中に残存している「南方」的要素をもって、東南アジアなどから日本列島に渡来したものだなどと考えるのだが、実は、これらの要素は、中国南半分をはじめとした広範な南方地域にかつては広く存在していたものなのである。

 

6.凡アジア太平洋時代と長江文化 2001年6月4日 TOP  

 

 インドの主要居民は、アーリア人が進入してくるまで、黄色人種であり、どうも文明時代の前夜においては、現在のような国境線はもちろんなく、人間は小集団ごとに雑多な文化を持ちながらも、アジア太平洋という大枠で一体だった時代があったことは間違いないだろう。

 黄色人種、白色人種、黒色人種といったような人種の区分がいつ頃出来たのかは分からないが、黄色人種の居住地であるユーラシア大陸東半分においては、どうも現在の中国とか朝鮮とか日本とか言う国境の区分など全く問題にもならず、それよりも重要であったのは、南北の差であった時代が確実にあったことは間違いない。

 つまり、当時の東アジア大陸は大きく南北の文化圏に分かれており、その大枠の中で、西日本、朝鮮半島南部、中国南半分、しいては東南アジア、インドなど南アジア、太平洋(以上、「南方」)は一体の地域であり、そして東日本、朝鮮半島北部、中国北半分、現在のシベリア(以上、「北方」)も大枠で一体の地域であった。

 もとよりきれいに線が引けるような所は少なく、時代ごとに境界は変動したことであろうが、案外、このような南北差は、よく言われる新旧モンゴロイドの差によるものかもしれない。つまり、氷河期に寒冷地適応した新(北方)モンゴロイドと、そうでない旧(南方)モンゴロイドの差である。日本列島などでは、縄文時代においては、北海道まで殆ど人種的には南方モンゴロイドであったという説もあり、実際、アイヌ族などは「北方」に居住しながらも、南方モンゴロイドの形質を残しているとも言われるが、文化的には、どうも縄文時代の日本列島は、大きく東と西とで文化圏が違っており、西が「南方」の影響を受けたのに対し、東の方は文化的には「北方」の影響を受けたように思われる。

 ちなみに、中国などでも、人種的形質という面では、華南の漢族と華北の漢族との差異は大きく、むしろ華南の漢族と南方少数民族、しいては東南アジア諸民族との間の方が差異が少ないのではないかと思われる。これは華北の漢族と北方諸族との間にも言えることであるが、これはひとえに漢族が南北の諸族を融合して形成されたことによるものである。

 

 今から約1万数千年前、東アジアでは画期的な事件が起こった。それは、長江流域での新石器革命(農耕と土器の発明)であり、現在同地域では約1万4千年前の稲作遺跡と土器とが発見されている。少なくとも、これ以降、長江流域は東アジア圏において、主要な役割を果たすようになったことは間違いあるまい。

 従来、稲作はインド、後には雲南・アッサムなどに起源したとほぼ定説のように言われてきたが、これら地域では、長江より古い遺跡は発掘されておらず、現在では稲作が長江流域に起源して、四方に波及していったことはほぼ間違いないものと考えて良い。

 なお、日本の縄文文化と長江流域文化との関連で言うと、例えば縄文前期の代表遺跡とされる福井県・鳥浜貝塚の出土物は、米がないだけで、長江辺の遺跡からの出土物とほぼ同じだと言い、日本の縄文文化と長江文化との関連も指摘されるのであるが、米が発掘されないことについては、よく言われるように、当時の日本列島は恵まれた自然条件にあり、農耕に頼らずとも、一定規模の人々が生活できたことが挙げられる。もっとも、それでも縄文晩期には列島西部では稲作が行われていたらしいが。

 長江流域で起源した稲作は、海を渡った朝鮮半島南部や日本列島だけでなく、南にも広がった。東南アジア諸国の稲作は基本的に江南から伝わった。列島へもそうだが、当時のこのような文化の伝播には、当然、人の移動も伴ったものと考えられる。従来の定説に反して、雲南、ミャンマー、しいてはインドの稲作も長江のものが伝わった可能性がある。(もちろん、インドのインダス文明はどうもメソポタミアの影響で発生したものらしく、主作物も米ではなく小麦である。)

 また、このような民族(文化)の移動は行った先で、色々と「玉突き」現象を起こしていったことも考えられる。例えば、ポリネシア人は元々、中国大陸南部に居住していたものが、太平洋の島々に船出していったものであるが、彼らは稲作は知らなかったが、イモ農耕は知っており、家畜としての豚と犬とを連れ、少なくとも初期には土器の製作も知っていたという。おそらく、ポリネシア人の大航海も、長江流域での農耕の発展と無関係ではあるまい。

 

5.私的東アジア世界史概略 2001年5月14日 TOP  

 

【第1期】 原始時代

中国も朝鮮も日本もない時代 大枠で言えば、アジア太平洋は一体の地域である。ポリネシア人でさえ、中国大陸南部から、カヌーで太平洋諸島に移住、ハワイにまで到達しているのに、この時代(縄文時代)の(日本)列島が海によって孤絶していたなどと言うことはあり得ない。この時代は長期にわたるが、今から約1万4千年前には中国長江流域で稲作が始まる。列島の縄文文化も、これと無縁ではないだろう。この時代の東アジアは大枠で一体の地域であるが、人々は民族など形成せず、氏族部族的段階で生活している。

 

【第2期】 黄河長江流域での文明の出現から夏殷周三代

中国文明の出現は周囲に影響を及ぼし出すが、まだ【第3期】以降ほど強力ではない。この時代の文明はまだ「点」でしかない。漢民族もいまだ出現せず、夏商周などの王朝も、中国統一王朝などといえるものではない。人々は依然、氏族部族的段階で生活し、東アジア地域はやはり大枠で一体の地域と言うべきであろう。

 

【第3期】           中国統一帝国への胎動 春秋から戦国、秦漢統一帝国へ

  春秋時代より激動発展期に入った中国文明は、それまでの「点」の状態から「面」の状態へと発展していく。戦国期には、既にかなりの民族一体化をなし、やがて秦漢統一帝国が誕生。中国中心部の諸部族・「民族」が融合、基本的には北方黄河流域と南方長江流域とが融合し、漢民族が形成され、今我々がイメージするような伝統的中国文明が形成される。この中国文明の激動は、東アジア全体に影響を及ぼし出す。日本列島への中国・江南からの弥生文化の伝播も、春秋末から戦国初にかけての江南地域の激動と無縁ではないだろう。

 

【第4期】           中国統一帝国の誕生 秦漢から唐

  春秋よりの中国の激動は、強力に周辺に影響し出すが、秦漢統一帝国の誕生はより強力な影響を及ぼし出す。列島でも、倭人は初めて中国史書に記載され、邪馬台国の卑弥呼などが朝貢を開始する。中国文明の巨大な影響を受けて、半島、列島なども文明への胎動を開始する。中国王朝は、やがて三国・南北朝などの「分裂」期を迎えるが、大勢に変わりはなく、半島の統一新羅や列島の日本国号国家などが出現。

 

【第5期】           中国統一帝国の発展 宋・元・明

  宋代以降の中国文明の発展は、半島・列島への貨幣の輸出に代表されるように以前より巨大な影響を及ぼし出す。列島では、列島内部の文明の発展とも相まって、列島はやがて南北朝、戦国という激動期に入り、この時期、最終的に列島は各種の意味で統合されだし、【第4期】に萌芽した日本文明が最終的に形成される。1)ほぼ完全な列島統一国家としての豊臣(続く徳川)政権、2)列島主要居民の最終的民族統合、今につながる日本伝統文化が形成されたのもこの時期とされる。朝鮮半島でも、ハングル文字の発明など、今に続く朝鮮伝統文化が形成されたのも、この時期であると考えられる。

 

【第6期】           近代への胎動 明末清初

  この時期、中国・朝鮮・日本がほぼ同時に取った海禁政策により、東アジア一体化の流れにストップがかかり、【第5期】の流れが確立し、現代につながる「国民国家」的な中国・朝鮮・日本が姿を現す。

 

【第7期】           近代

  東アジアへの欧米列強の侵略の本格化。中国の衰退・半植民地化、日本での明治維新、日本の欧米列強への仲間入り、朝鮮・中国への侵略の開始。日清・日露戦争。朝鮮の植民地化と清朝の滅亡。

 

【第8期】           現代

  中国辛亥革命、朝鮮の三・一独立運動。日本の中国への全面侵略と中国人民の抗日戦争の勝利、日本の降伏。南北朝鮮の成立と中華人民共和国の成立。以後の戦後史。

 

4.日本とは何か! 2001年5月11日 TOP  

 

 漢文について、一部の人から「なぜ日本人が中国語である漢文を習う必要があるのか」という主張をよく聞く。だが、これは全く話が逆であって、歴史的に見れば、漢文という「中国語」(漢文の語学的性格的については、またの機会に述べる)を、今でも国語の授業で扱うように、ほとんど外国語などとは意識せず、国語として学んできたのが日本人なのであり、その歴史事実は何人も否定できるものではない。

 上のように、「なぜ日本人が……」などと、漢文学習の必要性を否定する人は、まず自らの「日本人」概念について徹底的に再検討する必要があるだろう。もとより、古典教育の比重が下がる中、それに連れて漢文教育の比重が下がっていくのは、当然と言えば当然のことである。しかし、漢文により日本語に入った各種の故事成語や漢字熟語のたぐいは今でも大量に使われているのであり、果たして漢文なくして現在のような日本語が果たして存在し得たかというと、その答えは限りなくノーに近いのである。

 そもそも、現在において、漢字を使っているのが既にほとんど中国人(台湾、香港なども含む)と日本人だけであること、日本固有と言われる仮名文字さえ漢字をもとに作られたこと、また明治期に大量の欧米語を日本語(漢字熟語)に訳し得たのは、ひとえに江戸時代における漢文学習の成果であること、このような例は数え上げれば切りがないのであり、そして極めつけは、我が国号の「日本」なるものが、そもそも中国語であること、日本語どころか、漢文を始めとする中国文化の影響なしには、「日本」なる存在さえ、そもそも存在し得なかったと言っても決して過言ではないのである。

 

3.東アジア世界 2001年5月9日 TOP  

 

 劉公嗣氏が教えてくれたことだが、日本では一般に遣唐使が廃止されてから、独自の「国風」文化が盛んになったとされるのだが、それでも平安京の宮中の障壁画に描かれたのは、中臣鎌足や藤原不比等のような日本の功臣ではなく、管仲や諸葛亮といった中国の功臣だったという。

 このような状況は、日本史上多々あるのであり、例えば江戸時代に至るまで、日本人は『十八史略』のような入門書によって中国の歴史はよく知っていたが、日本の歴史は余り知らなかった。このような状況を憂えて書かれたのが頼山陽の『日本外史』であるのだが、その『外史』も本場の中国人さえもが賛美するような見事な漢文で書かれ、しかも『史記』の体裁に習っているという。

 国風文化というと、確かに平安初期に仮名文字が発明され、その結果、平安時代には『源氏物語』や『枕草子』に代表されるような和文の名作が出現した。しかし、歴史上、日本人がより多く読んできたのは、このような和文(漢文)で書かれた「日本の古典」ではなく、漢文で書かれた「中国の古典」であった。実際、このような状況は戦前の旧制中学に至るまで続いてきた。

 従来の国学者流は、このような「中国への傾倒」を批判するが、上のような例は、これを「傾倒」と呼ぶよりも、むしろ日本が中国を中心とする(一国よりも)より大きな「世界」、つまり東アジア世界(文明圏)に属していたことを如実に示すものではなかろうか。実際、上に上げたような状況は、別に日本だけでなく、朝鮮やベトナムにおいても見られたのであり、これら諸国がともに東アジア世界に所属していたことの証明であろう。

 例えば、郷土史や郷土文学というものが言われるが、概して専門家か特に趣味のある人でもなければ、余りそのようなものは知らない。しかし、日本史や日本文学については、学校で教えることもあるが、大抵の人が一定の知識は持っている。

 江戸時代以前の日本において、日本人が日本史よりも中国史を知り、日本文学よりも漢文学を知っていたのは、ちょうどそれと同じであり、これは確かに「中国への傾倒」という面もあるのだが、むしろ当時の日本人が客観的には、日本よりもより大きな世界(東アジア世界)に帰属していたことを示すものであり、中国史は中国の一国史と言うよりも、かなり不完全とは言え、一種の「東アジア世界」史であり、漢文は中国の古典であるだけでなく、実質、東アジア世界の古典であったのである。

 

2.中国史と中近東史との比較 2001年5月8日 TOP  

 

 中国も中近東は、ともに世界で最も古く文明が発達した地域であり、その後の歴史には、近似点もあれば相違点もある。以下、挙げてみる。

 

(近似点)

ともに、黄河と長江、エジプトとメソポタミアというように文明が多元的に成立し、それなりの「民族の興亡」を繰り返した後、国家的統合と文化的に強固な統合を成し遂げ、今に至る文明圏を作り上げている。

1.   中国では、先秦時期の多元状況は、秦漢帝国によって統合され、その体制は清末まで続いた。一方、中近東で多元的状況を最終的に統合したのは、よく言われるような「古代帝国」などではなく、イスラム帝国の成立によってである。このイスラムによる統合は、基本的にオスマン=トルコまで続いた。

2.   中国では、戦国から秦漢にかけて、国家的統合とともに、文化的民族的統合も進み、マクロ的には北方黄河流域と南方長江流域との統合がなされ、漢民族が成立し、現在に続いている。中近東では、アラビア半島のイスラム勢力の征服とともに、同地域のかなりの民は、アラブ民族として統合され、現在に続いている。モロッコから、イラク、サウジアラビアに至る地域の住民は基本的にアラブ民族であり、ほぼ同じアラビア語を話している。

3.   周辺にも影響し、中国文明は東アジア文明圏(漢字の使用、儒教・仏教を基本イデオロギーとする)を形成し、日本、朝鮮、越南(ベトナム)にも及んだ。中近東文明はイスラム文明圏(もとよりイスラム教、そしてアラビア語の使用を特色とする)を形成し、非アラブのペルシャ、トルコにも及んだ。※

4.   ともに近代以前には、先進文明の地位を占めながら、近代には乗り遅れ、ともにヨーロッパ列強の植民地もしくは半植民地となった。

※オスマン=トルコの軍旗に書かれていた言葉がアラビア語であったことは有名。

 

(相違点)

現在、中国が国家的統合をなしているのに対し、中近東は同じアラブ民族さえ多くの国に分かれている。

その原因としては、

1.   ヨーロッパに近い故、中近東地域はトルコ・イランを除いては、皆、それぞれ違った列強の植民地とされたが、中国は半植民地でとどまり、完全な植民地にはならなかった。

2.   その内因として、中国ではかなり強固な中央集権国家が作られたのに対し、イスラム帝国は割拠的傾向が強かった。

3.   両文明の歴史観の違い。秦漢時期に統合された中国文明は、以前から自らの歴史が一貫している(中国4000年)との歴史観を持ち、伝統的な歴史観は「事実」に反して、長江文明勢力などを「蛮族」視し、北方黄河文明一元史観を取った。その影響は今でも根強い。一方、イスラム勃興によって統合された中近東文明は、イスラム教誕生以前の過去の歴史との断絶を宣言し、この史観の影響はやはり今に至るも根強い。

 

 筆者は、実際問題として、中国文明も中近東文明も共に多元的に発展し一定段階で統合されたこと、統合以前と統合以降とでは、決して両者の歴史(文明)は断絶してはいないと考える。

伝統的中国文明は、実際には長江文明の要素も大量に取り入れているし、イスラム文明もやはりそれ以前の中近東の諸文明、メソポタミア、エジプト、ペルシャ、ギリシア、ローマ※などの文明を統合継承しているのである。

※なお、筆者はギリシア、ローマの文明は「中近東」の文明と言うと、用語上適切でないかもしれないが、上で挙げた 文明は基本的に、世界史的には「同じ大地域の文明」と考えている。詳しくは、旧ホームページ『歴史雑談』の「過去の文章」の項『「西洋」と「東洋」』という一文を参照していただきたい。

 

1.夏殷周三代 2001年5月7日 TOP  

 

 伝統的な中国史の歴史観では、最初の王朝、夏から続いて殷、周と王朝が替わり、途中分裂時代が間在しながらも、最後の王朝、清に至るまで、次々と王朝が興亡を繰り返したとされてきた。

 しかし、この夏・殷・周の三代を秦以降の清までの歴代王朝と同列に扱うことは出来ない。というのは、

1.   これら三代は秦以降のような統一国家ではない。ゆるやかな都市国家連合体、部族国家連合体のようなものである。

2.   中国の地では、多くの民族・部族が存在しており、まだ漢族と言えるような巨大民族集団が形成されていない。

3.   当然、その王朝の君主も、「帝」もしくは「王」と称し、秦以降のように「皇帝」とは称していない。

4.   また、これら王朝の非統一的性格の最たるものとして、これら中原王朝と対等でないまでも、決して服従しないような勢力が、長江流域に存在していた。概して、長江流域のこれら中原王朝に対する独立性は高く、しかもこれら長江流域が伝統的歴史観の「蛮族」視に対して、「長江文明」と称されるよう、かなり高度の文明を持っていたことが証明されつつある。

 いわば、夏殷周三代を、秦以降の王朝と同列に描き、これら中原王朝が全中国を支配していたように描くのは、中原=黄河流域が主体となって、長江流域を統合した後、つまり秦漢以降の歴史家(司馬遷を代表とする)の「創作」にかかるものである。

 このような「中原」一元史観の影響を廃するならば、中国史もまた違った像を見せてくる。単なる支配王朝の交替ではなく、先秦時代の中国には、オリエントに勝るとも劣らない民族の興亡が繰り返されたと見るべきだろう。