古橋信孝『「知る」ー和語の文化誌』を読んで
(第一学習社『高等学校現代文』所収)
訓読みとはどういうものか
周知のように、日本語の漢字には音読みと訓読みがあり、中国伝来の漢字の発音に基づいた音読みに対し、訓読みは、一般に中国から伝わった漢字に対して、それに該当する「古来からの日本語」を当てたものとされる。
例えば、「山」に対する「やま」、「川」に対する「かわ」などと、言わば英語の「mountain」を「やま」、「river」を「かわ」と翻訳したようなものだと理解されているのである。
しかし、一般的に言ったところで、この「翻訳」作業というものは、外来の言葉を従来の日本語に置き換えるだけといった単純作業では決してないし、特に漢字の訓読みの場合、後述する理由により、その状況は非常に複雑なものがある。
ここで指摘しなければならないことは、その社会に存在しない事象に関しては、それらを意味する名称、言葉は当然、その社会には発生しようがないということである。そして、その社会に従来、存在しなかったような事象が、例えば外国から伝播した場合、それらの事象に対しては、1)全く新たに言葉が創出されるか、2)その外国語がそのまま、あるいは少し変形した形で使われるか、3)従来から存在した言葉に新たな意味が付与されて、その新来の事象を意味する言葉として使用されるかであろう。
ちなみに、2)の例を挙げると、戦前、東洋史学者・内藤湖南は、当時「日本古来の醇風美俗」とされた「忠孝」という概念について、一応、訓読みがあるものの、それが一般的に良いものを意味する「ただし」とか「たかし」とか言う語であるところを見ると、元々、「忠孝」という漢語が伝来してくる以前の日本列島においては、漢字のような「(君に)忠(親に)孝」などといった概念自体存在しなかったと考えざるを得ないと指摘している(*1)。実際、「忠孝」の場合は、「(君に)忠、(親に)孝」という意味で使用する場合、そのまま音読み、つまり漢語が直接使用されざるを得なかったのであり、それに対応する大和言葉は古来より存在しなかったし、新たに創造もされなかったのである。
このようなことを言うと、反発する人もいるかもしれないが、近代以降、欧米から伝わったものを除いた、いわゆる日本の伝統的なものと一般に認識されているものの内、日本独自のものというのは極めてまれであり、その多くは中国に起源している。
この基本的事実は、従来、漢字の訓読みや漢語と和語の関係といった問題を考える際、ほとんど閑却されていたことなのであるが、やはり指摘しておかねばならないのは漢字伝来時の中国と日本との圧倒的な文明の差異であろう。実際、日本列島がやっと弥生時代を迎えた紀元前3世紀には中国では秦漢巨大帝国が成立していたのである。
例えば、当時、日本列島では非常な「宝物」となったであろう中国産品も、中国本土では、全くありふれたものであり、現在でも、ほとんど値打ちがつかないと言うことがある。一例を挙げるが、「ラストエンペラー」として名高い清朝最後の皇帝・溥儀は、その偽満州国皇帝時代、日本軍により国家神道の崇拝と訪日とを強制され、その際、昭和天皇からじきじきに例の「三種の神器」を見せられたのであるが、満州族の伝統である祖先崇拝を禁じられた溥儀は憤懣やるかたなく、「これぐらいのものは北京の古物屋にいくらでも転がっている」と非常に情けなく思ったと、その回想録(*2)に書いている。
このように両者の文明の差異は圧倒的であり、中国にあって日本になかったものは、それこそ数え切れなかっただろう。中国から伝来した膨大な数の漢字、いや『論語』とともに日本列島に最初に伝来したとされる『千字文』という書物に掲載された僅か千字の漢字の中にも、当時の列島人のほとんどが目にしたこともないような文物、制度、思想、概念がひしめいていたことであろう。
実際、文字が中国から伝わったものである以上、「(字を)書く」と言った事象自体、従来の列島には存在しなかったことは自明である。従来、「(痒いところを)掻く」とか「(茶碗を)欠く」、せいぜい「(絵を)描く」と言った意味しか持たなかった「かく」という「和語」に対して、それを「書」という漢字の訓読みに当てることによって、従来、その語になかった意味が付与されたのであり、このようなことは多くの「漢語」と「和語」の対応関係に当てはまるもと考えるのである。
筆者がこの一文を書くにいたった直接のきっかけは、教科書に掲載された国文学者・古橋信孝の「知る」という「和語」についての随筆を授業で取り上げたことであるが、その中で、古橋は古語の「知る」は「領有する、支配する」の意であることは、「古典の一般認識になっている」と述べた上で、和語の「シル」がそのような意味を持つようになったのは、大和朝廷による列島支配が成立して後の段階においてであり、それ以前は「生まれる」とか「生まれたままの真っ白な状態」を意味していたと主張する。
「シル」という和語の原義についての古橋の所説については、よく筆者の判断できるところではないが、実際、「領有」とか「支配」という実態どころか、萌芽さえない段階においては、当然そのような意味の言葉は成立するはずはないのであり、その意味においては、たとえ同じ「シル」という語が存在したとしても、それは「領有」とか「支配」とかいう意味を持たない。列島主要部において、「支配・領有」という実態が芽生えて初めて「支配・領有」を意味する言葉も成立しうるのであり、その意味では、古橋の指摘は傾聴に値するものと筆者は考える。
さらに、古橋の論を筆者なりに進めて行けば、『岩波古語辞典』などは、「しる」について「領る・知る」と訓じ、「領有する、支配する」の意とともに、一応、現在一般に認識されている「知る」の意味も載せるのであるが、どうも「領有する・支配する」(つまり「(自分の)ものにする」)の方が、「しる」という語の意味としては古く、現在の「(一定の情報を)知る」の意は、後になってから付加されたものと考えざるを得ないのである。
そして、おそらく「しる」という語に、現在の「知る」の意を付加したものは、「知」という漢字の伝来である。この「知」という漢字の意味について、「(一定の情報を)自分のものにすること」、当時の言葉で言えば、「(一定の情報を)『しる』こと」と説明された結果、「知」という漢字はやがて「しる」と訓読みされ、それに従って、和語の「しる」は従来の意味に加えて、現在の「知る」の意味を付加されたものとは考えられないだろうか。
そして、「(土地・人民などの)支配・領有」についても、時代が進むにつれて、その初期の「支配・領有」とはかけ離れた形態のものとなって行き、もはや「しる」という言葉で表現できなくなった時、この「しる」という言葉からは、「支配・領有」といった意味あいは消滅し、現在の「知る」の意だけが残るにいたったのではないか。
ここで、筆者の所論をまとめれば、漢字の訓読みというものは、決して単純に漢字、つまり漢語に和語(大和言葉)を当てはめたものではない。そんなものも、もちろん決して少なくはないだろうが、決して主要なものではない。むしろ、重要なのは、従来、列島に存在しなかった事象を意味する漢字に対し、あえて訓読みという「翻訳」作業を行うことで、訓読みに採用された既存語に対し、全く新しい意味を付加し、既存語の再編作業を行って行ったことである。
言わば、和語(大和言葉)というものは、一般に言われるような漢字伝来以前からある古来の日本語などといったものでは決してなく、中国から伝来した漢語の「翻訳」作業の中で形成されていったものであり、その「翻訳」作業、つまりほぼあらゆる漢字に対する訓読みの付加といった姿勢の中に、漢語に対する「反発」が感じられるものの、基本的には、そのような「反発」も含めて漢語の影響によって形成されたものであり、漢語の影響なしには、現在残っているような和語(大和言葉)、しいては日本語は決してあり得なかったのである。
もちろん、以上に述べたことは決して筆者の独創ではなく、書道家・石川九楊氏の所論に負うところが多い。この問題に興味のある人には、是非、石川氏の著作(*3)を一読されることを勧める。
注)
(*1) 内藤湖南『日本文化とは何ぞや(その一)』(『日本文化史研究(上) 講談社学術文庫 1976』
(*2) 愛新覚羅・溥儀『わが半生[下]』(筑摩書房 1977)
(*3) 例えば、石川九楊『日本語とはどういう言語か』(中央公論社 2006)
2006年9月10日