鈴木孝夫『ものとことば』を読んで

(第一学習社『国語総合』所収)

実念論か唯名論か


 「ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルを貼るような具合に、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめている」。この「問題は、哲学では唯名論と実念論の対立として、古くから議論されてきているものである。私は純粋に言語学の立場から、唯名論的な考え方が、言語のしくみを正しくとらえているようだということを述べてみようというわけである。」
 このように言語学者・鈴木孝夫は述べ、所論を展開するのであるが、確かに中世ヨーロッパにおける唯名論と実念論の対立というのは、昔、世界史の授業で習ったことは覚えているのだが、余り深く勉強したわけではない。
 ただ当時、「ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルを貼るような具合に、ことばがつけられる」という実念論の方が正しく、「ことばが逆にものをあらしめている」というのは、完全に逆だと素朴に考えたことを覚えている。
 実際、鈴木も「ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルを貼るような具合に、ことばがつけられる」という実念論的な認識が世間一般に受け入れられていることを認めている。
 筆者は、基本的に鈴木のような唯名論的な考えを支持するつもりはなく、基本的に「ものという存在がまずあって、それから言葉ができた」という立場に立つものであるが、確かに言葉というものは実念論的に「レッテルを貼るような具合に」単純に作られたものとは言えず、そこに唯名論がつけ込む余地があるのである。

 確かに、ものの名前としての言葉というものは、例えば動物を例にとれば、幼児段階の子供は、その「馬」「鹿」「犀」「牛」「豚」「犬」「猫」などの具体的区別がつかず、四つ足動物をすべて「わんわん」と総称することがある。野菜にしてもしかり、すべて「葉っぱ」と総称し、キャベツ、レタス、白菜、ほうれん草、菊菜などといった具体的な区別がつかないことがある。
 このような子供たちに、周りの大人が「これは馬」、「これは鹿」とか言った具合に、具体的にそのものの名前としての言葉を教えていくことで、作者の言うように、「素材としての世界を整理して把握」させ、徐々に彼らの「世界認識」を援助していくのである。
 故に、作者は「ことばがものをあらしいめるということは、世界の断片を、私たちが、ものとか性質として認識できるのは、ことばによってであり、ことばがなければ、犬も猫も区別できないはずだというのである」。
 もっとも、子供が「世界を認識」していくのは、基本的には「日々の生活」によってであり、決して作者の言うような言葉によってではない。ただ、言葉が子供、いや人間の世界認識を格段に向上させることは間違いない。確かに言葉がなければ、たとえ動物的な世界認識は出来ても、人間としての世界認識はできないと言っても、決して過言ではないだろう。

 しかし、実念論者も唯名論者も忘れていることがある。もとより、この両論が対立したのは、中世ヨーロッパにおいてであり、当時の人びとは、本気で「神が最初にアダムとイブを造りたもうた」と信じていたのであり、その段階から、ほぼ完全な言葉を話していたと本気で考えていたのである。
 だが、歴史の実際の示すところは、人間は猿のような動物的段階から、膨大なる時間を経て、現在のような段階に進化してきたのである。二本足で立つようになった「サル」が、言葉の萌芽のようなものを発してから、現在のような高度の言葉を話すようになるまでは、おそらく何百万年という時間が経過しているのである。
 幼児のように、その成長過程で、周りの大人が言葉を教えてくれたわけではない。人間は、その発展過程で、世界に対する認識を深める中で、言葉を作り出していったのである。おそらく、幼児のように、四つ足動物は、何ら区別をつけず、例えば古代日本語なら、これをすべて「しし」と総称していた時代もあったのかもしれない。
 実際、作者も指摘するように、事物を「外見的、具体的な特徴から定義することは、ほとんど不可能である」。笑い話に、古代ギリシアの哲学者プラトンが、「人間とは何か?」と問われて、「毛のない二本足の動物である」と答えたところ、ライバルの哲学者が、羽をむしった鶏を投げ出し、「諸君、これがプラトンの言う人間である」と嘲笑したという話が残っている。
 原始の人類も、動物などの形態を一個一個確認して、「レッテルを貼るように」、名前としての言葉を付けたわけでは決してないだろう。
 名としての言葉を人間が付ける決定的な要素は、確かに作者も指摘するように、そのものの外見的具体的な特徴ではなく、「人間側の要素、つまり、そこにあるものに対する利用目的とか、人との相対的地位といった条件」である。
 実際、狩猟段階において、「馬」と「鹿」の区別など、ほとんど無意味であっただろう。であるから、狩猟によって食肉となる動物は、なべて「しし」と総称された。しかし、牧畜段階には入り、馬などを飼いならすようになると、状況は変わってくる。馬は食肉ともなるが、乗馬するとか、車を引かせるなどの利用価値がある。下手をすると、その段階になって初めて「馬」と「鹿」とをきっちり区別する必要が生じてきたのかもしれない。
 つまるところ、作者の言うように「ことば」によって「世界が認識」できるようになるのではなく、人間が世界に対する認識を深めていく、長期の過程の中で、言葉が作られていったのである。もとより、いったん作られた言葉が、人間の認識をさらに高度なものにしたであろうことは言うまでもない。
 しかし、決して作者の言うように「ことばがものをあらしめる」のではなく、最初にあったのはあくまで「もの」であり、その「もの」に接し、認識を深める中で、人間は「もの」を分類し、名としての言葉を作っていったのである。
 その「もの」、しいては世界に対する認識を深めるために重要であったのは、言うまでもなく、人間が生きていくための諸活動、つまり食料獲得を初めとした種々の生産活動であったのである。

 2006年11月30日



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