中国の南北と「南北」


 よく、中国の「南北」ということが言われる。確かに、中国中央部を流れる淮河を境にして、「南北」は気候が異なる。「北」は乾燥していて、農業は麦作中心、それに対し、「南」は湿潤で日本と同じような稲作中心。そして、中国の南北を代表するように、それぞれ黄河・長江という大河が流れている。「北方」と「南方」とでは、同じ漢民族でも言語も違うし、体質も違うと言われている。
 しかし、そのような「南北」の差はいつ頃形成されたのだろうか?
 かつては、世界四大文明と言えば、黄河文明が言われ、長江流域は長らく「蛮地」であったとされていた。しかし、近頃では、「長江文明」ということが言われ出し、色々、遺跡が出てくると、農耕も都市遺跡もどうも長江流域の方が古いらしいということが分かってきた。この長江文明を黄河文明と別系列の文明とし、上のような中国の「南北」差をこの時期にまでさかのぼらせようとする向きもあるようである。
 しかし、筆者はこのような見解には同意できない。
 まず、現在、乾燥した「北方」の麦作、湿潤な「南方」の稲作というような差異があることは事実である。実際、「南」では米が主食であるのに対し、「北」では小麦から作った饅頭(マントウ)などが主食である。
 しかし、この「南北」は大枠では農耕地帯として一括できる。
 むしろ、一時期まで中国史上の「南北問題」とされて来たのは、南の農耕民族と北の遊牧民族との対立であり、実際、漢代の匈奴、北方遊牧民の侵入をもって始まった南北朝時代、宋を圧迫した遼、華北を征服した金、続いて中国全土を征服した蒙古族の元、同じく満州族の清など、むしろ中国史の基本矛盾をなしてきたのは、このような北の遊牧民族と南の農耕民族との対立であり、決して「北」の麦作民族と「南」の稲作民族との対立ではないからである。
 実際、華北と淮河以南、特に長江以南との間に出来た漢族内部の言語・体質の相違というものは、むしろ歴史上、幾度にもわたる北方遊牧民族の華北への入侵、彼らとの同化融合の結果であって、長江以南には遊牧民族の勢力が及ばなかったか、たとえ彼らが中国全土を征服した場合でも、華北ほどの多大な影響を受けなかったからに他ならない。
 もとより、広大な中国、黄河流域と長江流域は北方民族を待たずとも、それなりの地域差があったことは否定できないだろう。しかし、初期の黄河文明と長江文明との間に世間でイメージされているほどの差異があったとは、筆者は考えられないのである。
 「稲作」と「麦作」の違いがあるではないかという人もいるかもしれないが、中国の麦は西アジア伝来で、初期段階において、黄河流域で主に耕作されていたのは、粟(アワ)や黍(キビ)などの雑穀である。確かに、麦作は西アジア農耕文化から伝来したものであり、稲作とは農耕文化の類型が違うのであるが、中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書 1966)によれば、稲作と粟・黍作は同じ雑穀農耕文化類型(※1)に属するという。
 つまり、粟や黍が乾性の雑穀であるのに対し、稲は湿性の雑穀であるという。もし、長江農耕文化の方が古いというのなら、中国の農耕文化は長江流域から黄河流域に伝播したものであり、その際、その土地の自然条件にあった雑穀を栽培したに過ぎず、ただ後に西アジアから麦が伝わると、粟・黍より生産性の高い小麦などが栽培植物として選ばれたのであり、初期の両者には言うほどの違いはなかったと見るべきではないだろうか。実際、黄河流域でも可能な場所では稲作を行っていると言い、また自然条件自体、商代にはまだ黄河流域にも象がいたというのだから、今と比べれば彼の地もまだ湿潤であり、「南方」的な性格を持っていたのではないかとも考えられるのである。
 実際、言語的にも南北の差異が出てくるのは、周代になってからだという。
 言語学者・橋本萬太郎によれれば、東アジアの言語は北方系と南方系とに大別され、両者の間には構造上、大きな差異があり、語族の違いを超えて、共通性があるという。(※2)
 そして、どうやら商(殷)代までの黄河文明の担い手は、商代の甲骨文などから見ても、南方系言語を話す住民であったらしい。ある論者に言わせれば、「周の侵入以前に中原地方で話されていた言語は、今日華南で話されている少数民族の言語に近い可能性が強い。」と言う。「例えば今日の山東省あたりにあった中国古代の奄(エン)や?(タン)に、今日のタイ語にみられる姓がある」(※3)という。ちなみに、タイ王国の主要住民たるタイ人はじめ東南アジアの民というのは、もともと中国の黄河長江流域に住んでいたものが、民族間の争闘の中で次第に南下していったものである。
 このように、長江流域から見れば、相対的に「北方」であった黄河流域も、中国全体から見れば、南方に属していたと見るべきなのではないか。
 それが、おそらくは西北のアルタイ系遊牧民であった周族に征服された結果、黄河流域の言語は現在の中国語のような南北混合言語に代わってしまう。一方、長江流域は依然として、南方系言語のままである。言わば、この時期になって初めて、現在の黄河流域と長江流域という中国の「南北」の差異が形成されたと考えられるのであるが、商から漢字システムを受け継いだ周を中心とした「北方」は次第に「南方」に対して優勢となっていき、後の秦の始皇帝の中国統一は「北方」を主軸に行われる。
 秦漢帝国の樹立によって、このような『南」「北」は基本的に統合され、現在に続く漢族が形成される。それでも、「南」と「北」の話し言葉は、お互いに相通じないようなものであったが、北方系の「書き言葉」たる漢文が全国共通語の役割を果たすのである。
 漢文という書き言葉の影響を受けながらも、それでも長江以南、特に華南の漢語(中国語)が南方系言語の特徴を残すのに対し、黄河流域はその後も相次ぐアルタイ系北方遊牧民の入侵を受け、言語もどんどんアルタイ語化していき、「南北」の差はますます広がっていった。
 このようにして、現在のような「北方」と「南方」の差異が出てきたのであるが、その「南北」の差異が、初期農耕文化段階から存在したと考えるのは、やはり無理があると思う。
 どうやら、日本の論者の中には、「黄河文明」に対する「違和感」から、同じく稲作を事とする「長江文明」を持ち上げるものもいるようだが、それはお門違いというものだろう。ちなみに、縄文前期の代表的遺跡といえる福井県・鳥浜貝塚などは米がないだけで、長江流域の同時期の遺跡と出土物が変わらないという。おそらく、自然条件の豊かだった当時の列島部では、農耕に頼る必要がなかったのだろうが、大枠として長江流域、黄河流域、華南、日本列島などを、土器を伴った新石器定住文化圏として一括することも可能かもしれない。自然条件の豊かな華南や日本列島では、山の幸(木の実)や海の幸(魚貝)の採集に頼り、そうでない湿潤の長江流域では稲作に頼り、黄河流域では粟作に頼った。いずれにしろ、採集もしくは収穫した食料を煮炊き、貯蔵するために土器が必要とされたのである。
 なお、一般に新石器時代の指標は土器と農耕であるとされてきたのであるが、日本列島のように自然条件が豊かなところでは、土器があっても農耕の必要はなく、逆に西アジアなどでは農耕があっても、土器の出現は遅い。日本でも中国でも、既に1万数千年も前の遺跡から土器が出土しているのに、西アジアでは農耕こそ古いものの土器の出現はかなり遅れ、8千年ぐらい前のものが最古だという。もっとも、それまでは土器に変わって、石で作った器を使用していたらしいが。
 
 (※1) 参考までに旧HPに系指した拙文『雑穀農耕文化(稲作と粟作)』を転載しておく。

 実はだいぶ前に読んだ本のうろ覚えの知識で、「稲作と粟(キビ・ヒエ)作は同類型の農耕である。稲作がその類型の農耕の湿地バージョンであるとすれば、粟作は乾地バージョンである。稲を植えれば、粟は雑草として生えてくる。」と拙文に書きまくっていたのだが、今回、出典を確かめたところ、直接の出典を探し出せなかったが、どうやら元々は中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』(岩波書店 1966)によるものであったらしい。
 なお、「稲を植えれば、粟は雑草として生えてくる」というのは、昔、農家出身の友人に聞いたような記憶があったのだが確認できず、上書によれば「雑草」としてよく生えてくるのはヒエだという。
 ちなみに、中尾氏は、
「イネはただ湿地に生ずるだけで、農耕文化の基本複合としては、簡単に他の雑穀と同じカテゴリーに入るものだ。そこでイネはなにか他の文化要素と複合して、雑穀農耕の複合と区別すべきなんらの理由もない。イネは湿性の雑穀だ。」と述べている。
 現在、確かに稲(米)は一般的には特別視され、他の「雑穀」(粟・稗ヒエ・黍キビなど)と区別される。しかし、これは網野善彦氏などの言う「水田中心主義」の産物であって、本来、稲を他の雑穀と区別する必然性はない。実際、日本では、畑作物の雑穀は歴史的に大きな比重を占めていたのであり、決して水田稲作農業だけが行われていたのではない。それは中国でも同じであり、畑作中心の北中国でも可能地では稲を作ってきたし、逆に水田中心と言われる南中国でも、山の中に入れば畑作の雑穀類はいくらでも栽培されている。そういえば、「畑」が日本で作られた「国字」であるのに対し、中国では「田」が水田と畑の両方を意味していることも興味深い現象である。
 少なくとも、米に対する勝手な現代人の思いこみから、稲と他の雑穀を全く違うものと見なしたり、ましてや粟作などの「雑穀」作より稲作の方が進歩したものであるなどと決めつけるのは、歴史を見る目をゆがめることになるだろう。
 例えば、山間での焼き畑による「雑穀」栽培などと言うと、「遅れた農耕」の代表的なもののように言われる。しかし、それは後世の「かなり進んだ水田耕作」と比べるからであり、肥料もやらず沼地のような所に直播きしていたような原始段階の稲作に比べれば、焼き畑などはかなり進んだ農耕形態であるはずである。
 実のところは、稲作・「雑穀」作に関わらず、比較的進んだ農耕形態とそうでない農耕形態とがあるだけである。粟作などの「雑穀」作より稲作の方が進んだ農耕であり、「雑穀」作を「稲作以前」段階の農耕などと考えるのは、稲作至上主義の日本人の偏見であり、実際、中国・長江流域を見ていても、稲作以前に粟作をやっていたとは到底考えられない。

 (※2) 拙文『東アジアの北方系言語と南方系言語、及び両者の混合による漢語の形成』を参考にしていただきたい。

 (※3) 矢吹晋『巨大国家 中国のゆくえ』(東方書店 1996)第1章第1節「漢民族と漢語の形成」より。
   なお、筆者の橋本萬太郎理解もこの書に負っているところが大部分である。
   ただし、この書の第2章以下の記述には、筆者は興味を感じていない。

 2007年1月4日



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