東アジアの北方系言語と南方系言語、及び両者の混合による漢語の形成



 言語学者・橋本萬太郎によれば、東アジアの諸言語は、「北方系」言語と「南方系」言語とに大別され、いわゆる「語族」の相違を超えて、両者には構造上の顕著な違いがあるという。
 というのは、北方系言語は「逆行構造」を持つと言い、日本語のように、名詞句の場合、「美しい服」と、名刺に対する修飾語(形容詞)は名詞の前に置かれ、動詞句の場合、「花を見る」と、動詞に対する「修飾語」も動詞の前に置かれ、それぞれ「逆行構造」で一致している。
 一方、南方系言語は「順行構造」を持つと言い、マレー語のように、名詞句の場合、「オラン・ウータン」(一般に「森の人」と訳されるが、「オラン」は人で、「ウータン」は森)、つまり「人・森の」と名詞に対する修飾語は名詞の後に置かれ、動詞句の場合、「食べる飯」と、動詞に対する修飾語も動詞の前に置かれ、それぞぞれ「順行構造」で一致しているという。
 一般に、動詞句が順行構造なら名詞句も順行構造、動詞句が逆行構造なら名詞句も逆行構造と、両者は一致しているのがふつうである。
 ちなみに、北方系言語としては、モンゴル語や満州語などのアルタイ諸語が挙げられ、南方系言語としては、タイ諸語(タイ王国の主要言語や一部中国少数民族の言語)、ミャオ・ヤオ諸語(中国の一部少数民族の言語)、チベット・ビルマ諸語、モン・クメール諸語(カンボジア語など)などが属する南アジア(オーストロアジア)語族、南島(オーストロネシア)語族とも言われるマライ・ポリネシア語族などが挙げられる。
 しかるに、その「北方」と「南方」の中間に位置する中国語(厳密には漢語、漢民族の言語)の場合、名詞句は「大国」(大きな国)のように「逆行構造」であるのに対し、動詞句は「登山」(山に登る)のように「順行構造」であり、他の東アジア諸言語のように両者が一致していない。
 まさに、北方系言語と南方系言語との折衷的構造を持っているのだが、橋本萬太郎によれば、順行構造の南方系言語の上に逆行構造の北方系言語が重なって、現在のような漢語が形成されたのだという。
 このような漢語の形成が行われたのは、橋本によると周代であるという。すなわち、商(殷)代の甲骨文に見られる名詞句の「帝辛」「丘商」などの順行構造が、周代には「文王」「商丘」などの逆行構造に変わるが、一方、動詞句は国語漢文でおなじみの「登山」「読書」など、動詞が目的語の先に来る順行構造のままである。
 どうやら、初期黄河長江文明の担い手たちは南方系言語の持ち主であったようであり、漢字の発明は彼らの手によって行われたのであろう。黄河流域しか勢力の及ばなかった商(殷)にしても、南方系言語を持つ「南方」的雰囲気の強い集団であったのだろう。実際、その頃は黄河流域にも象がいたという。
 それが、少なくとも黄河流域の商が、おそらくは北方系民族であった周の征服を受けることで、周代以降、黄河流域では、南北混合の現在の標準漢語につながる言語が主流になっていくが、南方・長江流域では、従来の南方系言語のままであったようだ。
 後に、戦国時代、秦漢帝国の成立などを経て、南北が一体化して、漢族が形成され、南北混合語の文章(漢文)が漢族の共通語的な役割を果たすわけだが、南方の話し言葉は文語の影響を受けながらも、南方語的な性質を現在でも留めているという。実際、長江以南では、現在でも「生魚」(生の魚)とか「客人」というところを、「魚生」とか「人客」と言ったりすると言う。
 一方、北方はというと、華北には、その後もたびたび北方民族が入ってきたことは言うまでもない。その結果、話し言葉はかなりアルタイ語化しているという。例えば、現代漢語でも、「我去学校。」(私は学校へ行く)と「去」(行く)という動詞を目的語の前に持ってくれば、これは南方的表現(順行構造)であるが、「我到学校去。」と動詞をアルタイ語的に後に持ってくる北方的表現(逆行構造)が現代漢語には増えてきている。ちなみに筆者も、学生時代、「到」は動詞ではなく、「補語」だとか何とか教えられたが、この橋本のように説明されると「到」の意味もよく分かる。
 また現在、中国の「普通話」(標準語)のベースとなっている北京語は、清朝を樹立した満州族が話した「ピジン・チャイニーズ」というか、「満州なまり」の漢語だとも言えるという。それゆえ、満州族出身の作家・老舎の書いた文章が最も典型的な北京語であるから、その作品を読むように学生時代、勧められたという。

2007年1月4日



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