海と陸 日本と雲南との違い



 日本が中国からは独立した国家を形成し、それと比例して、大和族(いわゆる「日本人」)という人口一億にも上る大きな民族集団を形成し得たことを、四方を海に囲まれた、その「孤立」性に求める見解は根強い。その点は、朝鮮やベトナムなども同じで、陸続きといっても、それらの国と中国との間の陸路の往来は、例えば朝鮮など山がちなところもあって、けっこう難しい。それに対し、海路の往来は非常にたやすい。基本的にこれら朝鮮、ベトナムなどの半島部も、程度の差こそあれ、中国本土からは、海で囲まれていると言っていいのである。
 実際、中国王朝は隋の煬帝はじめ何度も朝鮮半島の征服に失敗しているし、一時は成功したモンゴル族の元も、近現代においては、日本もじきに駆逐され、朝鮮は独立を取り戻した。また、朝鮮戦争の際、マッカーサーによる仁川上陸作戦の成功により、一挙に勝利を得るかに見えた米軍が、一時は中朝国境に迫りながら、たちまち崩壊し、ソウルこそ奪還したものの、その後はついに38度線を越えることが出来なかった。もちろん、これは基本的には中国の参戦によるところが大きいのだが、もし朝鮮が山がちの地形でなかったら、中朝軍は、たとえ38度線を固守できても、米軍の物量の前に、より多大な出血を強制されたことは間違いない。
 このように、日本も、朝鮮も、そしてベトナムも海による相対的孤立性の故に、巨大漢族には及ばぬものの、それぞれの列島、半島において、かなり大規模な民族と国家を形成し得たことは、確かに一面の真実である。
 それとともに、筆者はもう一面の真実として、海が果たした交流における役割、海による相対的開放性もまた、これら日本、朝鮮、ベトナムが中国から独立する一大要因となったことを、ここに指摘するのである。
 実際、古代においては、例えば雲南などの辺境部に対する陸路の交通は困難を極めた。それよりは、海路による交通の方がよほど、たやすかったのである。もちろん、海路を越えての大軍による征服を行おうとすれば、海は障壁となったのであるが、人物、文物、いわゆる文化の交流の面においては、海路は下手な陸続きの辺境部よりも、よほど開放的で、そのような人物をも含んだ文化がたやすく流入したのである。
 日本、朝鮮、ベトナムの中国周辺三国が、現在のような大をなした背景には、海による相対的孤立性もさることながら、決して絶海の孤島ではない、中国大陸との一衣帯水とも言われる海を通じた文化の流入によるところが大きい。そのような文化の流入が、これら三地域の社会を発展させ、統一国家、統一文化形成へと向かわせたのである。
 一方、陸続きであっても、交流の困難な雲南など中国辺境部は、大軍による征服も困難であれば、文化の流入もまた困難であったのである。結果として、これら地域が中国王朝の版図に組み込まれるのは、たとえ近代以前のことであっても、比較的後世のこととなるし、それも地方領主を通じた間接支配であった。そして、文化の流入の遅れは、結果として、雲南はじめ辺境部の文化的統合、統一国家成立をも阻害したのである。
 以上のように、筆者は日本、朝鮮、ベトナムが中国から独立した要因として、海による(朝鮮、ベトナムの場合は海陸による)相対的孤立性とともに、一衣帯水の海による相対的開放性による中国文化流入のたやすさを指摘するものである。

 2006年12月13日



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