東アジア世界史論

は じ め に



 一般に「中国4000年の歴史」などと言われ、中国という「一つの国家」なり、中国人という「一つの民族」の歴史が4000年絶えることなく綿々と続いてきたように、我々は思っている。中国では、王朝が次々と興亡したものの、時には分裂時代があったものの、中国という「一つの国家」が存在し続けてきたものと思っている。中国人というのは、漢民族という「一つの民族」だという見解が、まだまだ日本などでは根強い。
 王朝の興亡というものについて言うと、例えば「唐の時代の中国」とか、「元の時代の中国」とか言う言い方は、確かに一般的に言う分には、何ら問題はなく、かく言う筆者もそんな言い方をし続けるだろう。ちょうど、「平安時代の日本」とか「鎌倉時代の日本」というのと同じような言い方であり、その時代をイメージするには、確かに便利である。
 しかし、誤解を恐れず言えば、中国という「一つの国家」が問題になるのは、近代以降、せいぜい現在の中国の領域が基本的に確定した近代前夜の清朝以降のことである。それ以前の近代以前の状態において、「一つの国家」としての中国など全く問題にならない。
 それに対して、従来よくある史観は、夏なり殷なりから始まる歴史上の王朝をもって「中国」とし、それを現代の中華人民共和国にまで及ぼそうというものである。実際、中国では、各王朝が前代王朝の「正史」を編み、そういった王朝の「正統」を継ぐものであると認識してきた。しかし、近代的国家概念が通用しない時代に、そういったものを無理やり当てはめたり、「中国」や「日本」という国家が、昔から今まで存在し続けているというような歴史観が、やはり問題なのである。
 何度も言うが、現在につながる「一つの国家」(言葉の厳密な意味で)としての中国が問題になるのは、せいぜい近代前夜の清朝以降のことであり、同じく現在につながる「一つの国家」としての日本が問題になるのも、近代でなくても、せいぜい太閤秀吉による「天下統一」以降のことである。

 こういうと、「では、中国4000年の歴史というのはウソなのか」というようなことを言う人もいるかもしれないが、筆者はそうは考えない。ただ、「中国4000年の歴史」と言った場合、やはりそれは中国文明4000年の歴史、つまり一般には「まあ一つの国と言っても差し支えない」文明の歴史である。ちなみに、中国とは「一つの国を装っている文明」と指摘した欧米の政治学者がいるらしいが、まことに当を得ていると思う。
 中国文明とは何かというと、それは漢字文明であり、もっと言えば中国文明圏、近代以前における一つの「世界」である。つまり、「中国4000年の歴史」というのは、中国文明の影響交流圏たる中国世界の歴史であって、決して「一つの国家」の歴史でも、「一つの民族」の歴史でもない。いわば、その「世界」に興亡した諸国家、諸民族の歴史なのであって、「中国世界」という名称に反発があるなら、これを「中国文明圏たる東アジア世界」としてもいいのだが、その実質は変わらないのである。
 8世紀を例に取るならば、唐も、(現チベット自治区を中心とした)吐蕃も、(雲南省にあった)南詔も、そして当時出来たての律令国家「日本」も統一新羅も、この「中国=東アジア」世界の諸国家なのであり、中国文明や中国世界は存在しても、言葉の厳密な意味での中国国家などと言うものは存在せず、せいぜい「現在の中国の領域に存在した国家政権(唐、吐蕃、南詔など)」ぐらいのものしか存在しないのである。
 その意味で言うと、当時の律令「日本」もまた「現在の日本の領域に存在した国家」であり、現在の日本国家と決してイコールでないことが見て取れよう。「領域」だけの問題を見ても、「日本」の西南には隼人がおり、東北には蝦夷がおり、決して「日本」には服属していなかったし、当時の北海道などは、「日本」人にはほとんど未知の世界であった。

 このような見方には抵抗があるかもしれないが、「一つの国家」の歴史としての中国史を描こうとしても、多民族国家である中国の歴史は結局、実質、諸民族・諸国家の興亡と交流の歴史としてしか描きようがない。また日本史にしても、その相対的孤立性というか辺境性にかまけて、従来、史学家は最初からの「日本一国の歴史」を語ってきたわけだが、これは「夜郎自大」もいいところであり、こういう視点で日本史が語られる限り、そこにいくら「マルクス主義」的手法を導入しようとも、それは皇国史観の枠を一歩も出るものとはならないだろう。
 日本列島もまた、「中国=東アジア世界」の一地域なのであり、その全体の中で見て行く必要があるのであり、この点が、従来の東洋史と東アジア世界史との違いである。我々は大学などでも、「東洋史・西洋史に対する日本史」という見方で、ものを見ることに慣れすぎている。実際、我々の先祖は、いつ頃からか、この狭い列島を「天下」(世界)などと称してきて、外界とは関係のないような顔をしてきたのだが、この際、太古より、列島もより広い天下(東アジア世界)の一員であったことを認識することは、今後の日本の進路を考える上でも、非常に重要なことだと思う。

 まあ、非常に「口の悪い」言い方かもしれないが、筆者の試みは、日本列島を雲南省辺りと「同列」に置いてみようというものである。(ちなみに「夜郎自大」の夜郎国も雲南にあった国である)。雲南地方は、日本列島と同じく「中国世界」の辺境であり、現在でも少数民族の非常に多いところで、日本の中には、これら少数民族の中に「日本文化の源流」を探ろうというものもいるが、確かに言えることは、元々は長江流域にでも居住していたような諸民族が、その後の変動の中で南下して雲南省にたどり着いたり、あるいは東して海を渡り、半島や列島に渡来したことは十分推測できる。
 このように、西南と東方とに流入してきた諸民族が、東方の半島と列島とで、比較的大きなまとまりを作って、現在においては、日本や朝鮮という民族や国家を形成しているのに対し、南方の雲南は現在、中国の一省である。雲南で不可能であったものが、なぜ日本や朝鮮では可能であったのか。雲南に、国家形成の動きが全くなかったわけではない。唐代の南詔といい、宋代の大理と言い、決して唐や宋に服属していたわけでもない。
 筆者が考えるに、両者のその後の相違には確かに理由はあるのだが、雲南と日本・朝鮮との立場は非常に相対的なものであったのであり、どうも応仁の乱以前の日本列島というのは、雲南あたりとそう変わるものでもなく、中国王朝の支配こそ及ばず、一時は律令国家形成に見られるように「統一国家」形成の動きを見せたものの、たちまちそれが崩壊し、関東では武士が勃興したり(「網野史学」で名高い網野善彦氏などは、西日本を支配した天皇政権に対し、東日本を支配した鎌倉幕府を東国国家として位置づける見方を提起している。)、南北朝時代のように、天皇さえ並び立ち、内部で激しく争闘したり、決して今に続くような日本国家とか民族というものが、古くから確立していたわけではないのである。
 それが形成されるのは、内藤湖南などが指摘したように、戦国期における旧体制の精算と、下からの再統一を経てであり、江戸時代の「鎖国」が、これを確立したものとも考えられるのである。この時期になって、やっと中国文明と対等な日本文明というものが形成されるのであり、雲南との違いがほぼ完全に明確になったとも言えるのである。なお、内藤湖南は言う。
 大体、今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります、(『応仁の乱について』 大正10(1921)年講演)

2001年7月29日初稿 2006年12月12日訂正



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