子 欲 居 日 記

「聖母」マリアの「処女受胎」に思う


2006年12月27日


 クリスマスは終わってしまい、いささか時期遅れと感ずる向きもあるかもしれないが、こういう話題は、時機を逸している方がまだいいと思う。
 今年、『ダヴィンチ・コード』という映画が話題となり、キリストが実は子供を残しており、その子孫がまだ生きているという映画の内容が、全世界のクリスチャンの怒りを招き、世界各地で上映禁止を求める声が上がったことは記憶に新しい。
 しかし、キリスト教徒でないものからすれば、イエスが子孫を残したこと以前に、マリアが「処女受胎」を行ったという話自体が、言い方が悪いが、まず「眉唾」なのであって、さすがにキリスト教国の映画は、そこまでには疑問を呈せなかったようである。
 思うに、「処女受胎」という話が残っているところを見ると、間違いなく、イエスは「父《てて》なし子」であり、マリアは「未婚の母」である。誰が父親とも「分からぬ」子を生んだのである。
 当時、そんな女性は「ふしだらな女」として、世間の指弾を浴びたことは容易に想像できるのであるが、ここで考えていただきたいのは、マリアが「ふしだらな女」だからといって、それが決して「奔放な恋愛」の結果でないということである。当時のような身分制度の厳しい社会において、果たして身分の低い女性が、自分の主人など、自分より身分の高い男の要求を拒めたのであろうか。実際、戦前の日本でも、雇い主が召し使いの女性などに、手を出すことはざらにあったという。ましてや、2000年も前の話である。
 主人の要求を拒めず、ほとんどレイプ同然に関係を求められ、その結果、子供が出来たら、「父無し子」を生んだ女として、世間は指弾する。一方、男の方は、ほとんど批判されない。そういう状況の中で、イエスは、自分がそういう母から生まれたということもあったのかもしれないが、そんな世間の有形無形の指弾を浴びた女性たちに、心からの愛を注いだのである。
 この弱きものへの愛こそが、初期キリスト教の精神ではなかったのだろうか。キリスト教について、ほとんど無知な筆者にこんなことを言う資格がないかもしれないが、何かこういう気がするのである。そして、イエスの母、マリアは、そういった「虐げられた女性」たちの代表として、「聖母」とされたのではないのだろうか?



HOME