子 欲 居 日 記

人権映画『パッチギ』を視て


2006年12月2日


 私自身は、今回の映画を基本的に青春活劇映画として受け取ったし、多くの生徒もそう受け取ったと思う。あの60年代末のエネルギーや若さのエネルギー、純粋な正義感や友情、いじめは悪い、差別は悪い、といった感情で見たと思う。
 しかし、残念なことに、昨今の東アジア情勢は少なくない日本人に、そのように純粋な気持ちで、あの映画を受け取らせない恐れが大いにあるし、また制作者もこのような情勢から決して自由ではないどころか、随所にいやらしいまでに作者の政治主張をちりばめている。
 基本的にいい映画だと思いながら、ある先生が憂慮された「変な形での朝鮮人嫌いを増やす恐れがある」という指摘は、私も確かに気になっている。
 私からすれば、あの映画は明白に反北朝鮮の映画である。もちろん、これが悪いと言っているのではない(いいとも言っていないが)。
 ただ、ここで考えなければならないのは、世界の北朝鮮を批判する人々が皆、大多数の日本人と同じような観点、温度差で北朝鮮に反対してはいないということである。例えば、「拉致、ミサイル、核」にしても、これを「いい」と言う人は、いたとしてもごくまれであろう。多くの人は(私も含めて)「よくない」という意見を持っているだろう。
 しかし、今回の「核」問題にしても、韓国や中国などが、一応反対しても、日本政府と同じような強烈さを持っていないのは明白であろうし、アメリカだって、日本より過激とは思えない。
 拉致にしてもしかりである。実際に過去に日本の侵略を受けた中国や韓国の人々などは、確かに「拉致はよくない」とは言ってくれるだろうが、腹の底で、「日本人は拉致などとは比べものにもならない悪いことをしているのに、まだ真剣に謝っていない。」と思っていはしないだろうか。実際、韓国の拉致被害者の会が日本の被害者の会との共闘を拒否した経緯がある。
 実際、在日韓国朝鮮人の中にも、北朝鮮に批判的な人々は少なくない。しかし、そんな人々が拉致問題や、例えば「靖国」問題といった過去の侵略問題で、日本政府と同じ態度を取ることはまずないだろうし、あってもごくまれだと思う。映画『パッチギ』にしても、各所で北朝鮮に対する批判をちりばめながらも、在日青年の葬式の場面を借りて、しっかりと過去の日本の軍国主義が韓国朝鮮人に行った罪行を指摘することを忘れていないのである。
 はっきり言えば、孤立しているのは北朝鮮ではない。日本の方である。例えば、靖国問題では、中国・北朝鮮・韓国がそろって日本政府を批判しているという構造がある。北朝鮮はもちろん、中国や韓国が、拉致や核・ミサイル問題を、過去の侵略問題の十分の一ほども重大に受け取っているとは、私には到底思えない。
 このような世界各国の多様なものの見方や、過去の歴史などを伝えて行かなければ、韓国朝鮮人に対する差別やいじめをなくすどころか、確かに中途半端な映画では、昨今の情勢の中で、「変な形での朝鮮人嫌い」を増やす恐れが大いにあるだろう。
 そもそも、韓国朝鮮人を差別する人は、南北の区別をつけない。最初、私は「日本には、北朝鮮と韓国の区別もつけられない人がいる」と思ったが、実はそうではなかった。はなから、区別をつけないのだ。
 冷戦時代の「資本主義vs社会主義」という問題より、民族問題の方が重大なのであり、これは朝鮮半島の方でも、既に体制やイデオロギーを超えて、「北も南も同じ民族」という意識は、国際スポーツ大会の際の統一旗の掲揚・南北共同行進、日本では考えられないような多数の韓国人の北朝鮮観光旅行(地域限定的ながらも)等に現れている。
 今回の核問題で危ぶまれた韓国の「太陽政策」も、むしろ今回の核問題を契機にした六者(朝韓中米ロ日)会談再開の決定により、継続方針は変わらなかったし、むしろ再強硬の日本が孤立の危機に瀕している。
 確かに、拉致問題は拉致問題で解決の必要な問題であるが、日本も、心から過去の侵略を反省し、特に隣国である韓国、北朝鮮、中国などのアジア諸国との友好関係を築いていかなければ、世界の中で孤立を深めていくだけだろう。

※これは、なお、担当者によれば、この映画は教職員の間でも賛否両論の反響が強く、普段は余りでない感想文が担当者に殺到したという。
※思うに、作者がちりばめた政治思想の多く、たとえば観る人間が観れば、北朝鮮に対する皮肉としか取れない部分も、観る人によっては、逆に北朝鮮にt対する「賛美」としか写っていない可能性もあると思う。

 



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