子 欲 居 日 記

ホームレス問題に思う(下)


2006年12月14日


 先日は、筆者の個人的体験を私小説風に書いてしまったが、現在の日本でホームレス問題は深刻であり、これからも深刻さを増すことと考えられる。既に私の家の近所の公園も、テント村状態になって久しい。その中で、特に筆者が心を痛めているのは、ホームレスの人権問題である。筆者は、基本的にホームレスというのは、平成10年不況の犠牲者であり、せいぜい「運が悪かった」だけであり、決して働くのが嫌で、ホームレスになった人々など殆どいないと考えている。
 だが、残念なことに、生徒の口からも、ホームレスに対する悪口は聞くし、大人からも聞くし、あろうことか同僚教職員(学校の先生)の中にも、ホームレスを「ゴミ」呼ばわりする人がいる。そして、それを背景に、一部とはいえ、少年たちによるホームレス襲撃事件は頻発し、殺人事件まで起こっている。
 しかし、筆者の見る限り、ホームレスが問題になり出した10年前と比べれば、ホームレスに対する社会の見方は、一部裁判所の判決にも伺えるが、微妙に変化しているようにも感じられる。おそらく、後5年ぐらいで、学校などでも、在日外国人などと同様、ホームレスの人権を守るべく生徒を教育するよう、むしろ行政側から、つまり教育委員会などから、指導がくるのではないだろうか。それほどに、ホームレス問題は深刻であり、また政府は無策である。
 おそらく、現在の「ゼロ金利政策」が完全に破綻し、自己破産者が急増すると言われる来年(2007年)当たりが、政府の政策の転換点になるのではないだろうか。こんなことを言えば、語弊があるが、従来、ホームレスとなった人々の前歴は、日雇い労働者など、決して「社会的地位」が高くない人々が中心であった。しかし、近頃では、元サラリーマンというホームレスも急増しているという。ひとえに、長引く不況、リストラの結果であるし、これと比例して、ホームレスのある種、若年化も進むように考えられる。
 もとより、政府の無策には変わりはないし、別に抜本的な解決がなされるわけでもないが、ホームレスに対する人権無視とも言える発言が、少なくとも公的な場では禁止されるだけでも、筆者は、それなりに一つの「発展」だと考える。実際、学校の先生の中からでも、「気の毒」だという人がむしろまれで、信じられないような発言を平気でする人がいるのである。そういう発言が封じられるだけでも、筆者はそれなりに意義があることだと思う。
 「公共の場所であるはずの公園を私的に占有していいのか」などと、高校生でも、ホームレスに毒付くものがいるという話を聞くし、大人からでも聞くのであるが、ここで考えていただきたいのは、日本国の法理では「緊急避難」ということを認めているのである。同じく古代ギリシア哲学に、「カルネアデスの板」という問題がある。船が難破した際、乗客Aがたまたま舟板の破片につかまった。そこに乗客Bも近寄ってきたのであるが、二人が一枚の舟板に捕まれば、二人とも溺死するというので、乗客AはBを押しのけ、溺死させてしまった。古代ギリシアにおいても、Bを押しのけて溺死させたAは無罪となったし、現在の日本の刑法でも、この「緊急避難」を認めており、Aは無罪となる。
 つまり、自分が生き延びるためには緊急時の殺人をも無罪とする法理が現代日本にはあるのである。殺人に比べれば、「自分が生き延びる」ために「公園を占有」することなど、ほとんど問題にするほどのことではない。
 もとより、これは何ら問題の根本解決を提起するものではないが、現在の政府無策の状態では、あえて提起せざるを得ない。逆に、「公園の占有」という「違法行為」をしているからと言って、彼らに何をしてもいいという論理こそ、現在の日本の法理では認められないのである。

※北朝鮮では、平壌の市民は特別扱いされていい暮らしをしていると、「真顔」で筆者に北朝鮮批判を仕掛けてくる人がいた。馬鹿を言ってはいけない。日本国では、同じ街に住みながら、一方は大邸宅に住み、一方は公園のテントや駅前の段ボールの中で暮らしているではないか。ちなみに、我が家から自転車で東南に10分も行けば、大邸宅街であり、一方、西北10分も行けば、それこそ段ボールの中に寝泊まりする人が珍しくない。



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