子 欲 居 日 記

ホームレス問題に思う(上)


2006年12月13日


 先日、学校に出勤しようと、家を出ると、自転車を止めたホームレスとおぼしき人から挨拶を受けた。なんだろう。今日は「資源ゴミ」(アルミ缶、空き瓶など)の収集日ではないのに。我が町でも、缶ゴミ収集日の度に、朝早くから家々を回って、アルミ缶を集めて回るホームレスの人々を見かけるようになって久しい。スチール缶は金にならないが、アルミ缶の方は1個1円ぐらいにはなるらしい。私の町では、特に缶ゴミの分別を行政側から義務づけられているわけではないが、私の方もペットボトルやスチール缶からアルミ缶だけをより分けて、家の前に置くようになって久しい。一つは、わざわざ家々の前のしっかり結わえたビニール袋を丁寧にほどき、その中からアルミ缶をより分けて、また袋を結び直すホームレスの人々の苦労を思ってであり、もう一つは、これは正直言って、家の前で他人にゴチャゴチャとされるのが嫌だからである。
 話は先日に戻るが、その挨拶されたホームレスとおぼしき人の「狙い」は、私がその日出した新聞紙にあったのである。近頃、経済発展著しい中国が日本の故紙を買うものだから、故紙の価格が急騰しているという。古新聞の方が、アルミ缶よりよほど金になるのかもしれない。既に東京都などは、ゴミ回収の日に、故紙を持ち去ることを「窃盗」行為と見なす条例を制定したと聞くが、我が町はまだそこまでは行っていない。行政が持って行こうが、ホームレスの人が持って行こうが、私には関係ないし、もしそれが少しでもその人の役に立つなら、ホームレスの人に持って行ってもらいたい。
 本題に入るが、私が気になったのは、もうそれなりの年と思われる白髪頭の人の薄着姿であった。既に、12月であるのに、その人の格好は、私が10月にしていたような格好であった。私は、思わず、自分の着ていたユニクロで2000円足らずで買ったマイクロフリースの上着をその人にあげたくなった。あげても、私にはいくらでもジャンパーはある。しかし、自分の着ていたものをあげるなんてやはり失礼であろう。
 私は、ある種の勇気というか、「お節介」と言われても仕方のない精神を発揮した。「寒くはありませんか?余っているフリースの上着がありますから、もっていってください。少し待っていてください。取ってきます。」と、私は家に戻り、去年買って少し部屋着に使ったフリースの上着を取り出した。たたんではいなかったが、一度洗濯してから、一度も手を通していない。だが、私はその上着を手にしてから、決して古くはないが、自分の着ている者より薄手のフリースを上げることに、ふとためらいが生じた。しかし、今更引っ込めない。
 玄関に戻ると、私は「一度は洗濯してありますから」と、その人に差し出し、逃げるように慌てて自転車に飛び乗り、その場を立ち去った。後悔が走る。そんなに急いでいたわけではない。たとえ古着でも、ちゃんとたたんで、なんでもっと丁寧に差し出さなかったのだろう。もの自体も惜しくはない。というか、ユニクロに行くたびに、家にフリースの上着があることを忘れて、毎年一枚買ってしまって、けっこう余っていたのである。こんなものを上げて失礼ではなかったか。あの人は、嫌な思いをしなかったか。こんな思いが私の頭に、いまだにこびりついて離れない。
 昔、教科書でイスラム世界では、日本などとは違って、善行を受けた人ではなく、善行を行った人の方が「ありがとう」と言うというようなことが書いてあった。つまり、善行をさせてもらってありがとうという発想なのだという。私は、善行をしたとは思わない。その人の感謝を期待しなかったと言えば、嘘になるかもしれないが、そんなに丁寧なお礼を期待したわけでもない。私も、丁寧に渡さなかった。だが、渡し方といい、その人に失礼はなかったか。むしろ、その人が私の行為を素直に受け取ってくれたことに、私は感謝すべきでないか。
 人間とは哀れみを受けるよりは、むしろ憎まれ嫌われたほうが「いい」という思いを持つことが往々にしてある。私は、その人に対する失礼を心からわびる。上げない方がよかったと言っているのではない。いくら、一人暮らしの男のすることとは言え、もっと丁寧に上げるべきだったのである。



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