子 欲 居

 

 

読    み    方

 

 日本語で音読みして「しよっきょ shiyokkyo」、訓読して「し、おらんとほっす」共に可。中国の方、朝鮮・韓国の方、ベトナムの方などが、それぞれの国の漢字音で読まれても可。もちろん、中国語の各種方言(広東語・福建語・上海語、等)の漢字音で読まれても可。非漢字圏の語、例えば英仏語などに意訳して、読まれても可。

 

典        故

 

  『論語』子罕《しかん》第九に 「子欲居九夷。或曰、陋。如之何。子曰、君子居之、何陋之有。」とある。

 訓読:「子《し》、九夷《きゅうい》に居らんと欲《ほっ》す。或《あ》るひと曰《い》わく、陋《いや》しきこと之《これ》を如何《いかん》。子曰わく、君子《くんし》之に居らば、何の陋しきことこれ有らん。
 
 注:朱子《しゅし》曰はく、東方の夷《い》に九種有り。之に居らんと欲するは、亦《また》桴《いかだ》に乗りて海に浮かばんの意なり。

 また、『論語』公治長《こうやちょう》第五には「子曰、道不行、乗桴浮于海」(「子曰わく、道行われず、桴に乗りて海に浮かばん」)とある。

 

解        説


 中国の古典小説に『子不語』《しふご》という本がある。つまり「子が語られなかったこと」という意味である。「子」とは孔子のこと。『論語』述而《じゅつじ》第七に「子は怪力乱神を語らず。」とあることから、『子不語』というのは怪談小説集である。
 同じく、「子欲居」、つまり「子が居住しようとされたところ」は、「東方九夷」の世界。天下に「道」が行われないことに絶望した孔子は、「東方九夷」の世界への居住を考えられた。「東方九夷」の中には、「桴《いかだ》に乗りて海に浮かばん」とあることから、海の向こうの朝鮮半島や日本列島も含まれていると見るべきであろう。「九夷」とあるが、「九」とは「多数」を意味する言葉であり、実際に「九つの異民族」を指すわけではない。当時、まだ中原文化の及んでいなかった中国東北沿海部や朝鮮半島、日本列島など中国東方に居住していた諸民族、さらには彼らの居住していた広大かつ漠然とした東方地域全体を指す言葉である。
 つまり、韓国朝鮮人や日本人など中国東方に居住する民族が、自称するのにふさわしい名称と筆者などは考えるのであり、これをハンドルネームとした筆者の大体の意を汲んでいただきたい。ちなみに、「日本」も「日の本」、太陽の出るところ、「朝鮮」も「朝が鮮やか」、夜明けの空の美しさをいった言葉であり、日本も朝鮮も中国から見て東方を意味していることを、この際指摘しておく。
 別に、これは中国に対して卑下した名称ではない。「東方九夷」とは、かの中国の大聖人、孔子も一時、移住を考えられた「すばらしき新世界」なのである。
 実際、春秋・戦国、さらには秦漢帝国の成立という中国社会の未曾有の大発展と大激動は、中国周辺にも及び、この時期に中国から海を越えて朝鮮半島や日本列島に移住してきた人々は多いと思う。日本列島における弥生文化の「成立」(伝播)も、このような中国社会の大激動を背景にしていのである。     

  2006年12月23日