和歌を初めて作ったのは中国人?

2017年12月27日ブログ掲載 2018年1月4日本ページ掲載


 和歌を初めて作ったのは渡来中国人だという説がある。東洋史学者だという岡田英弘の主張で、彼の著作『日本史の誕生』から、関連する記述を引用してみると、
 ・『古今集』の序で紀貫之が言っているではないか。和歌の開祖は「なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな」の作者、華僑の王仁だと。(同書P36)
 ・文化的に中国系でなきゃ和歌がよめるはずがない。だいたい、五七調そのものが中国の南北朝の楽府の長短句のまねだ。(同書P250)
 王仁(わに)というのは、いわゆる「応神天皇」の時に、『千字文』と『論語』を伝えたとされる人物で、もとは百済に渡来した中国人であったと言い、「王」という姓から見ても、中国系であることは間違いないだろう。もちろん、あくまで『日本書紀』などの伝承中の人物であり、この人物の実在については、疑問視する向きもある。
 しかし、たとえ非実在の人物であれ、渡来中国人が和歌の開祖であると、紀貫之が書いているのは注目に値しよう。
 なお、『古今和歌集』「仮名序」の当該部分は次の通りである。
  難波津の歌は、帝の御はじめなり。安積山のことばは、采女のたはぶれよりよみて、この二歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける。
  現代語訳
 難波津の歌は、仁徳天皇の御代の最初のお歌である。安積山の歌は、采女が興に乗じて詠んだ歌で、この二首の歌は、歌の父母のようなもので、字を習う人が最初に書くものにもなっていた。(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』 角川ソフィア文庫)
と、都帰りの采女の歌と共に、王仁の歌を人々の歌の模範、「父のようなもの」としているのであり、実際、「難波津」の歌は、木簡や土器などに書き付けられたものが多く出土しているという。
 なお、紀貫之はこの少し前で、
 ちはやぶる神代には、歌の文字も定まらず、すなほにして、ことの心わかがたかりけらし。人の世となりて、素戔嗚尊よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける。
  現代語訳
 神代には、歌の音数も定まらず、心に思ったままをそのまま詠みだしたので、歌われていることの意味がはっきりとわからなかったようだ。人の世になって、素戔嗚尊から、三十一文字の歌を詠むようになった。
と、和歌の起源を素戔嗚尊(スサノオノミコト)に求めているが、これはもとより、太陽女神・天照大神の弟とされる神話中の「神物」で、信ずるに足りない。むしろ、問題は渡来中国人の作ったとされる歌が和歌の「父母のようなもの」とされ、初学者の手本とされていたことである。
 思うに、古代の日本には、歌のようなものがなかったとは思わない。しかし、それは「歌の音数も定まら」ぬ、ただ「心に思ったことをそのまま詠みだした」ようなものだった。このような倭歌に三十一文字(五七五七七)のリズムを与え、今に続く和歌(やまとうた)の形式を生み出したのは、渡来中国人ではなかったのだろうか。少なくとも、五七のリズムは、本来、中国のもので、少なくとも和歌の起源には漢詩の影響があったことは否めないのではないか。
 漢詩というと、漢文の授業で教える五言詩や七言詩が有名であるが、長短句と呼ばれる五言七言が入り交じった詩歌も中国にはたくさんある。なお、最近、中国では「逆輸入」というか、「漢俳」とか「漢歌」とかいう詩の形式が誕生しているという。つまり、仮名ではなく、漢字を五七五、あるいは五七五七七の形に詠むのである。ちょうど、「城楼逐月高、近水悠悠遠影揺、来尋八百橋」(城楼月を逐いて高く、近き水は悠悠として遠き影は揺れる、来たり尋ぬ八百橋)といった感じである。
 「和漢」と言う時、我々は「漢」に先立ち「和」があったものと信じがちである。詩歌で言うと、日本では漢詩の前に和歌が存在していたのだと。しかし、どうも和歌とは渡来中国人(少なくとも中国古典の素養を持った人間)が漢詩をベースに倭語で創作を試みた結果が、和歌の誕生になったのではないだろうか。
 なお、冒頭に紹介した岡田英弘は、その交友関係から見ると、かなり保守的な政治傾向を持っているようだが、その友人という西尾幹二(例の『国民の歴史』の著者)などとは、かなり違った歴史観を展開している。
 岡田によれば、和歌に限らず、当時まだ諸民族雑居の状態であった倭国に代えて、日本国を建国し、しいては漢文を倭語に翻訳する形で、現在に続く日本語を形作り、いわば日本文化を形成していったのは「華僑」、つまり渡来中国人だというのである。(渡来「朝鮮人」の役割を強調する流れが存在するが、日本民族と同じく朝鮮民族が問題になるのは、半島の諸民族を統合した統一新羅以降であり、半島からの渡来人と言っても、王仁のように本を正せば中国人であることが多い)。
 もとより、岡田が「華僑」という名称を当時においても使用するのは、かなりの違和感を感じないでもないが、中国漢字文明が日本という統一体、しいては日本語、日本文化を形成したことは、間違いないと思う。言わば、「和」は「漢」の前に存在したのではなく、「漢」によって形成されたのである。

参考文献
 ・岡田英弘『日本史の誕生 千三百年前の外圧が日本を作った』(1994年10月31日 弓立社)
 ・高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(1914年1月15日 角川ソフィア文庫)
 ・
朱新林『日本の詩歌と中国の詩歌の関係』
 


子欲居的東アジア世界TOPページへ