太古における中国大陸からインド亜大陸への民族移動

2018年1月3日


  インドには何と200余りの言語があると言うが、その内、人口の90%以上を占めるのはインド・アーリア系とドラヴィダ系の言語の話者なのであるが、少数とは言えチベット・ビルマ語系の言語や南アジア語系の言語の話者がいる。
 その内、南アジア語系は今でこそ、人口の1.3%ほどで山岳部に追いやられているのであるが、彼らこそがインドの地に「一番古く住みつき地域的にもある程度のひろがりをもっていた」(*1)らしいが、もとより「一番古く」というのは、現在話者が残っている民族の中でと言う意味で、おそらく南アジア語系がインドに定住する前に先住していたのは、オーストラロイド系の住民であろう。
 南アジア語系民族の「インド文化に対する貢献は決して過小評価してはならず、たとえばヘビの信仰など、今日のヒンドゥー文化にとって極めて重要な幾つかの文化要素をもたらしたのは彼らであると考えられている」(*2)という。実際、ヘビはヒンドゥー強の神話においてしばしば登場し、「民間信仰の対象として東部インド、南インドでは村はずれの小さな社にヘビを祭ったものも少なくない」(*3)と言う。
 南アジア(オーストロアジア)語というと、有名なところでカンボジアのクメール語であるが、前(*4)にも述べたとおり、これは東アジア南方系言語として、タイ諸語、マレー・ポリネシア語などのオーストロネシア(南島)語、更には広東語などの漢語(中国語)南方諸方言などと、動詞句・名詞句の「順行構造」という共通点を持っている。この語族を越えた共通点は、太古において彼らが同一地域に居住していた証左とされるが、おそらくその同一地域は長江中下流域であり、黄河流域も含むかもしれない。
 前(*5)にも述べたとおり、そんな彼らの内、民族間の闘争に敗れた者が、順次、東南アジア地域に南下して行って、先住のオーストラロイド系住民に取って代わったのであるが、インドに進出した南アジア語系の民族も、おそらく長江流域に居住していたものがインドに進出したのであり、おそらく彼らがインドに稲作を伝えたのであろう。実際、稲作の起源地は長江中下流域であることは間違いない。
 インドと中国というと、ヒマラヤを挟んで隔絶しているように思えるが、両者の距離は意外と近い。有名なところで、前漢の武帝の時、西域に使わされた張騫は中央アジアの大夏で蜀(四川省)の地方の物産である竹の杖と布を見たという。大夏の住民によると、東南の「身毒」(インド)で手に入れたといい、そのことから「身毒」と蜀は遠くない場所にあると判断したという。(『史記』大宛列伝) 実際、戦争中、「援蒋ルート」というのがあったが、長江上流・四川省から雲南、ビルマと進めば、中国とインドの距離はそんなに遠いものではない。
 現在ではドラヴィダ系民族やインド・アーリア系民族に圧迫同化され、山岳部の少数民族として残存しているインドの南アジア語系民族も、もとはと言えば、長江流域から雲南・ビルマを経てインド亜大陸に進出して稲作を伝え、言われるようにインド文化の基層を作ったのであろう。もとより、これは中国文明の形成以前のことであるが。
 次にドラヴィダ系民族であるが、彼らがモヘンジョダロ遺跡などに代表されるインダス文明の主要な担い手であり、後に進出してきたアーリア人に南インドに押しやられたのであるが、彼らもまた西北部からインドに進出してきた「外来」民族である。実際、彼らの進入経路を示すかのように、アフガニスタンやガンジス河流域にドラヴィダ語が飛び地のように残っている。思うに、彼らの肌が黒いのは先住オーストラロイド系住民との混血のせいであり、彼らが西北部よりインドに進出してきたことは間違いない。
 さて、このドラヴィダ人がどこから来たのかというと、インド西北部というと、これは中国から見ると、先の南方ルートとともに、インドへの道の一つである。有名なところで、『西遊記』で有名な三蔵法師などは、西域からカイバル峠を越え、つまりインド西北部からインドに入ったのである。
 ドラヴィダ人の中国大陸起源というと、突拍子もないことを言ってように見えるかもしれないが、
かの大野晋が「日本語のタミル語起源」を主張するぐらいで、「ドラヴィダ語とウラル語及びアルタイ語の間にも、著しい類似性が存在する」(*6)というし、実際、ドラヴィダ語族の代表的言語であるタミル語の場合、「語順は日本語と同様、基本的にはSOV型」「飾語は被修飾語の前につく」とあるから、まさにアルタイ語同様、東アジア北方系言語の特徴を有している。もっとも、「主部だけが文末に来るOVS型も少なからず用いられる」(*7)というが、いわゆる「膠着語」であることも、アルタイ語との類似性をうかがわせる。
 ウィキペディアの記事などは、ドラヴィダ語を古代オリエントに存在した系統不明言語エラム語と結びつけ、「メソポタミア文明を携えた原エラム人が、一方ではパキスタンに移住してインダス文明・ドラヴィダ語族を生じさせ、他方では東アジアに移住し遼河文明・ウラル・アルタイ語族を生じさせた可能性がある。」(*8)とする。
 どうも文明の「西方起源説」というのがまだまだ有力で、他にも辛島などは南アジア語族さえ、「極めて古い時代に西方からインドへやって来て、インドから逆に東南アジアに広まったという説」(*9)を紹介したりしているが、いかがなものであろうか。
 筆者は、南アジア語族については明白に長江流域に起源して東南アジア・インドに拡がったと考えるし、ドラヴィダ語についても中国北方起源の可能性を考えてもよいと思う。もちろん、ドラヴィダ語とアルタイ語との関連性についても、類似性が指摘されるだけで確証はない。確かに、インダス文明の性質を考えれば、むしろドラヴィダ語は西方エラム語との関連で考えるべきで、アルタイ語とは関連がないのかもしれない。
 しかし、アルタイ語や南アジア語の西アジア起源を主張するぐるいならば、逆にドラヴィダ語、しいてはエラム語の東方起源の可能性を考えてもよいと思う。中国文明(それに先立つ農耕新石器文化)はそれぐらいの古さは持っていると思う。
(補記)
 そう言えば、インドは歴史上何度も、西北方からのアルタイ語系民族の侵攻を受けている。例えば、5世紀のエフタルの西北インド侵攻、エフタルはインドでは「白いフン」とも呼ばれた。どうも、アルタイ語族に属するテュルク系の言語を使用していたようである。極めつけは南インドを除く全インドを支配したムガール帝国、「ムガール」は「モンゴル」の意であり、ムガール帝国の始祖バーブルはテュルク・モンゴル系とされる。
 もちろん、アケメネス朝やアレクサンダー大王などの西アジア系の侵入者も少なくないのだが。

 (*1) 辛島昇・奈良康明『インドの顔 生活の世界歴史5』(河出書房新社 1975年12月)P51
ページは文庫版1991年9月4日による。
 (*2) (*3) 上書P52
 (*4) 拙文『日本人はどこから来たか!
 (*5) 拙文『東アジアの北方系言語と南方系言語、及び両者の混合による漢語の形成
 (*6) ウィキペディア「ドラヴィダ語族
 (*7) ウィキペディア「タミル語
 (*8) 同上
 (*9) 辛島前掲書P53



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