ミネラルウォーターの夢


 ちゃぷん、と水の跳ねる音がした。
 ぴしゃん。また。
 きっとあの紅い尾びれが、浴槽の縁を叩いたのだ。
 1DKで廊下のない私の城は、布団の中にいてもドア一つ隔てた向こうから、浴室の音がよく聞こえる。
 ざん……ロロロ。浴槽から零れた水がタイル敷きの床に流れを作って、排水溝に落ちて行く。ぴん。水面を一滴が叩く。
 浅くなっていた眠りから、私はゆっくり目を覚ます。

 午前七時過ぎ、枕元の目覚ましは、一時間前に鳴った。
 八時までには、アルバイト先のコンビニに着いて、タイムカードを押さなきゃならない。
 まだ、完全には覚醒しない体を引きずるように、だらだらと起き上がる。布団の左側から薄いカーテンを通り抜けて差し込む朝の光は、いい天気だ。
 テレビをつけると、天気予報が今日は一日晴れるでしょう、と言った。しかし、所によって強い風が吹くのでご注意ください。
 頭についた寝癖の具合を探りながら、私は洗面所に向かった。床に散乱する服を踏まないように、気をつけて。
 脱いだ服も洗った服も、ごちゃまぜで放ってあるかのようで、混沌と見える部屋を、いつ来ても汚い、と、たまに訪ねて来る姉は決まって呆れる。
 けれど、私は、どこに何があるか全部きちんと分かっている。この部屋の中、ヘアピンの一本ですら、見失ったことはない。
 雑然とした中で、実際は何も彼もが私にとっての必然なのだ。
 脱衣所兼の小さな浴室に続く扉を開けた私に、
「オハヨウ」
 そう、生成で統一された小部屋の奥、こじんまりとした湯船の中から、そこの縁に預けた右腕にちょっと体を乗り出すようにして、にっこり笑いかけた彼女も。


 お風呂場で、人魚を飼っている。
 上半身だけ見ればすっかり人間の彼女は、Tシャツにジーンズで街を歩くようなことがあれば外国人にすら見えなさそうな東洋系の顔立ちで、人魚の証明の一つに数えられそうな両手の指の間の水掻きも、水泳選手に比べればささやかな程度でしかない。
 けれども、腰から下、丁度お臍の少し下くらいから、赤い玉虫色の鱗がびっしり生えていて、そちらだけ見れば、すっかり魚の形をしている。

 この前の大きな津波の翌朝だった。
 人気も車もない、アルバイト先のコンビニの駐車場で、私は彼女を拾った。
 ここら辺は、少し海から離れているけれど、海抜がマイナスなので、大きな津波があると、いろんな物が打ち上げらて、庭先や道に転がることになる。その漂着物は、大抵がどこかから流れてきたゴミだとか、海草だとかなのだけれど、たまに魚が引いていく波に乗り遅れて残されたりする。彼女もそうして打ち上げられてしまったうちの一人らしかった。
 もっとも、人魚がそんな風に陸に上がってしまうなんて、彼女曰く「聞いたことがないわ、私が初めてかもしれない。よっぽどボーッとしてるのかしら、私。」ということで、私も他で聞いたことがないし、これが自分がでくわしたのではなくて、誰かから話に聞いただけのことだったら、まず信じないとも思う。

 だからその朝、一番最初に遠目で人魚を見つけた時は、それが何か分からなかった。奇妙な形の看板か、捨てられたソファーのような、片付けるのが面倒な粗大ゴミに見えた。尾鰭の形がはっきりわかるまで近付いて、私はやっと彼女が海の生き物だと気付いた。
 少しずつ強くなる朝の日差しに、アスファルトが乾くのと一緒に干涸びそうになっていた彼女は、私の影に気が付いて顔を上げると、
「お願い」
と、言った。私と同じ年頃の、若い顔。かさかさになって白っぽくなった唇から染み出たのは、少し東の方の訛りの響きがする、丁寧な声だった。
 人魚を見たのは、それが初めてだった。
 噂でしか知らない頃は、人魚なんて、人で魚なんて、さぞグロテスクに違いないと思っていた。でも、実際の人魚は人でも魚でもなくて、ごく自然で当たり前だった。御伽噺の挿絵なんて、どれもこれも嘘っぱちだった。
 砂埃で少し汚れて色がくすんでいたけれど、尾鰭が長くて奇麗だと思った。一目で、彼女を好きになれると分かった。
 私はもう、彼女と目が合った瞬間に、人魚を連れて帰ろうと決めていた。
 肩に担ぐようにして抱き上げると、潮の匂いで肺が一杯になった。思ったより、彼女は軽かった。

 お風呂場を居場所に選んだのは彼女だ。乾燥すると鱗の下の皮膚が引き連れて、痛いと言って。だから、湯船に水を張って、エアクッションを枕に入れて、そこが人魚の寝床になった。今ではその脇に、防水性のラジオと、鱗を磨くスポンジが増えて、益々浴室は、人魚の城然としてきている。
 シャワーが使えなくなったので、私は週に何度か銭湯に通うようになった。
 初めのうちは、なんだか不潔な気がして毎日行っていたけれど、一度二度行き損ねると、後は案外平気になった。街には、いろんな臭いがあふれてるから、私独りどってことない。
 人魚は悪いわね、と言う。
 次の嵐が来て海が荒れたら、ちゃんと私は帰るから。それまで、ごめんなさい。
 何故? 私が決めたことだもの。私が貴女を見つけて、連れて来た。
 この部屋の主人は私。私がいいと言ったから、謝ることなど何もない。

 ぴちゃんと水が飛ぶ。人魚の呼吸が、タイル張りの部屋に響く。この、静けさに似た時間を心地好く思える。
 一人きりでいた時より、部屋の中を暖かく感じる。シカクかキュウカクかショッカクか、そのようなもので彼女を感じる。家にいる間中、いつでも。
 家に帰るのが、前よりずっと好きになった。
 彼女を拾って、一月と半分。その前に、どんな風に暮らしていられたのかと考えると、不思議にすら思える。その時はちっとも気がついちゃいなかったけれど、私は寂しかったのかも知れない。
 あの日、干涸びそうになっていたのは、本当は、私の方かも知れない。


 いつもの様に二十分で身支度を済ませ、昼食を持って家を出る私を、彼女は「いってらっしゃい」と見送った。
 私は夕方まで帰らない。これから昼まで午前中はコンビ二のバイト、午後は陶芸の専門学校に行く。
 本当は、嫌なことばかりが重なった一学期のお陰で、夏休みの少し前にはすっかり休みがちになっていた授業に、今更まじめになるなんてのは馬鹿らしい、と思う。いっそ、きっぱり休学してしまって、人魚と家にいた方が、随分幸せだ。

 それでも私が学校に通うのは、人魚がいなくなる日が近いとわかっているから。それは多分、季節が変わる前にはやって来る。
 それなのに四六時中人魚とだけ過ごして、それが当たり前になってしまったら、彼女がいなくなってしまった時に、私はまばたきの仕方にすら、戸惑いを覚えてしまうかもしれない。
 心地の良い空間に、閉じ籠ってしまってはいけない。ほんの数か月前に身に刻んだ教訓が、そう、私に忠告する。

 私はもう、気がついてしまっていた。
 人魚を拾ったのが、親切心からでも同情心からでもないということに。
 だって、本当は今すぐ彼女を帰してやることだってできるのに。海はそんなに遠くない。
 私はただ、言い訳をしながら、執行猶予に甘んじてる。
 嵐が来るまで。少しの間でかまわないから、傍にいて。
 独りに戻って、また、ノイズの多いテレビの画面を見ながら、思い出したように泣くのは嫌だから。
 もう少し時間があれば、あなたを思い出にしても、大丈夫になって見せるから。

 授業に出て、土を捏ねるのも、ちゃんとそれなりに楽しい。
 一度は全く何も彼も嫌になって、いっそ安瀬に帰って実家の手伝いでもしようかと思ったものだけど、結局私は陶芸が好きなのだ。
 でも、最近作ってみる物は、どれも人魚を考えている。

 一学期までの私が、いかにも茶色い土から生まれたようなものばかりを作っていたことを知っているクラスの子には、「どういう心境の変化?」と聞かれた。
「魚をね、飼い出したの」
 と私は答えた。
「あぁ、道理でこの間の課題、錦ゴイっていうか……そう、熱帯魚っぽいなって思ったのよ。」
 頷いてくれたのは、率直に言い過ぎるせいでしょっちゅう的外れな感想を持ち出すと有名な彼女だったので、私は少し嬉しくなった。

 けれども、窯から出てくる鱗たちは、人魚にはまだ遠い。
 あの、赤い鱗の色と同じ艶を探している小皿が、彼女が消えてしまう前にできればいいのに。そうすれば、寂しい自分を慰められるも知れない。


 人魚は喋る。魚ではないから。
「人魚と魚の違いは、喋るか喋らないかってことなのよ。それで、人もやっぱり喋るから、これは人と人魚だと同じところ。」
 出会った日に、彼女は言った。
「じゃぁ、人魚と人の違いはどこにあるの?」
「どこかしら。私は今まであなた以外に人に会ったことがなかったから、ちゃんとしたことはわからないけれど、一々比べてみると違いだらけのような気もするわ。あぁでも、そうだ、人魚と人の違いは、泣くか泣かないかってことだって聞いたことがあるけれど。人は悲しい時や嬉しい時に、涙を流して泣くんですって? 人魚はそんなことはしないわ。魚も泣きはしないから、それは人魚と魚が同じになるわね。」

 だから人魚は人でも魚でもないのよ、と彼女は笑む。
 その笑みは私をただただ、暖かな気分に浸す。
 彼女は話好きだ。私が想像もできないような、海の中での生活のことを、次から次へと語ってくれる。

 けれども、彼女は、自分のこと以外は、あまりちゃんと話せない。
 同じ話を何度か繰り返して、なのに言うことが少しずつ変わってゆく。名前や、場所や、順序や、結果まで。
 私はいつもそれを、開け放しにした浴室のドア近くに、クッションを抱いて座り込んで、何か物語りでも聞くように、聞く。
 どんな話をする時も、人魚の声は柔らかい調子で耳障り良く、私の心まで届く。お陰で、どんなに愉快な話でも、どんなに陰惨な話でも、私がそうと気付くのは、決って家の外に出て何かの拍子にその話を思い出したような時だ。
 そんな時は思う。自分の家のことも、小さな頃のことも、友達のことも、人ごとの様に淡々と話す彼女はいつか、私のこともそんな風に、他の誰かに話すのだろう。そして、同じ頃には私も、ちょっとした懐かしさと一緒に、人魚のことを誰かに話せるといいのだけれど。
 今はまだ、誰にも人魚のことは話せない。自慢したい気もするけれど、きっと上手くは話せない。


 バイトはいつものように暇だった。
「何かいいことでもあった?」
 シフトがよく重なる一つ年上のお姉さんに言われて、
「わかります?」
 そう返したのは、自分でもなんだかうきうきしているのが、わかっていたからだ。
「頭に羽が生えて飛んでっても、納得って感じよ?」
「それはちょっとマズイですねぇ。」
 そう言いながらも、言葉尻に笑ってしまったので、我ながら全然マズそうではない。

 鼻歌くらいなら歌ってしまいそうな気分の元は、ロッカーの中の、リュックの中の、新聞包みの中身。
 朝焼けの空のように赤い欠片。
 まだ満足するには全然だったけれど、底に波紋のように走る筋が、ちょっとだけ気に入った。
 同じように作った六枚のうち、半分はきれいに整いすぎて好きになれなかったので、捨てた。
 残りの半分を、丁寧に包んだ。

 この日、私は初めて、人魚を考えながら作った小さな皿を家に持ち帰った。
「あなたみたいな色にしたかったんだけど。」
 私が言うと、人魚は随分面白がって、
「私はあなたに、こんな風に見えているのかしら。」
「だから、これは上手く行かなかったって言ってるの。」
 そんな私の言い訳はあんまり気にした様でもなく、「私に、でしょ?」と、人魚は浴槽に皿を沈めて飾りにした。三枚の偽物の鱗は、水の中に入った方がなんだかマシに思えた。

 その夜、布団に潜り込んだ私は、初めて人魚が歌うのを聞いた。喋るよりも幾分高い旋律を、ゆっくり凪いだ海の様な穏やかさで紡ぐ歌声に、私は眠りに落ちながら、海の中で、頭上を通り過ぎる大きな魚の群れを見上げる、夢を見た。


 季節は深くなって、その秋はよく秋刀魚を買った。
 魚を焼く匂いを人魚は珍しがって、一度、焼けた肉を口にした。二度目はなかったけれど。

「わざわざ、おかしな味にしてから食べることないと思うわ」
 彼女はそう言って、白く光る魚の腹に、意外なくらい尖っている犬歯を突き立てる。
 その仕草はあまりに意外なようにも、存外似合っているようにも思えて、時々私は人魚がそうして魚を食べるのをじっと見つめてしまう。
 彼女は私の視線の意味を、きっちり知っていて、いたずらっぽく笑う。
「あなたの知っている人魚は、食事をしないの? それともスプーンでスープを飲むの?」
「生の魚を、かじるのよ」
「そうよ? やっぱり、あなたたちの人魚の出てくる御伽噺は一度書き直したほうがいいわ。」
「そうね」

 頷いてみせるけれど、私は御伽噺は御伽噺のままでいいと思う。人魚の本当の綺麗さなんて、どうやったって実際に会って言葉を交わさなくちゃ判りはしないから。
 人魚を知らない誰が、どうして人魚を知る必要があるだろう。


 野菜も果物も食べられるけれど、やっぱり魚や貝を喜ぶ人魚に、私は生まれて初めて港の朝市に行ったりもした。
 そんな日は、帰って来た私に纏わりついている潮の匂いを嗅ぎ取って、人魚は海を懐かしむ。

 彼女は、私の朝に弱いのを覚えて、市に行く前の晩、目覚し時計をいつもより早く合わせる私に、
「朝市に行くなら、早く起きれるの?」
 と大げさに驚いてみせる。
 何故、朝市に行くための私が早く起きられるかには、思い当たることもなく。
 彼女は、いつも微笑む。綺麗で、薄情な人魚。


 その日、家に帰ると、彼女はラジオを聞いていた。玄関を開けるや、浴室の中に反響しているアナウンサーの声が聞こえたので、私は扉をそっと閉めた。そして、浴室のドアの前を通ろうとして、私の耳は、雑音の中から、幾つかの意味を拾い上げた。
『……台風……が、南……に発生……』
 台風十一号ガ南方洋海上ニ発生シマシタ。
 頭の中で、一連なりに言葉が繋がる。
台風が来る。海が荒れる。嵐になる。明日か明後日か、近いうちに。
 周りの温度が、僅かに下がったような気がした。

 ここ数日、彼女はよくラジオを聞いていた。音を絞っている上に、雑音が多いので、ドア越しでは、何の番組かはよくわからなかったけれど。
 ただ、ラジオを消した後の彼女は、何かをじっと考えていることが多かった。
 彼女は、予感していたのだろう。

「お帰りなさい。あのね、台風が来るわ。津波を連れて来るわ。」
 私が帰って来たことを察した彼女が、ドアの向こうから、朗らかに告げた。
「ただいま。よかったわね。」
 浴室のドアを開けて私が応えると、
「本当に。やっと帰れるのね。泳ぎ方を忘れていないといいんだけれど。」
 ぴしゃんと尾鰭をかえして、彼女は笑った。屈託のない笑顔。
 私は、彼女のために、喜ぶことしかできない。
 そう、ずっと前から判っていた。この時が来たら私は喜ぶほかないと。人魚はその日だけを、浴槽の中で待っていたのだから。
「それで? ここに来るのはいつか判る? 明日? 明後日?」
 彼女の答えは、明瞭だった。
「明後日の明け方だわ。今日はまだ、嵐の香が微かだから。」
 あと二日。
 私の耳にはまだ届かない嵐。けれどその時がくれば、嵐はきっと、人魚をさらって行く。


 翌日は、一日中出かけなかった。
「アルバイトは? 学校は?」
 平日なのに出掛けない私を、人魚は訝しがった。
「今日はいいの。」
 そして、昨日も一昨日も今まできっちり出掛けていたのは、すっかり無駄だった。
 私はこんなにも、彼女を海には帰したくない。人魚がいなくなっても、ちっとも大丈夫じゃない。

「今日は休みなの?」
 私が休む理由を、人魚は判らない。それでも私には、まだ人魚が必要なのだ。
 窓の外の音に耳をそばだてながら、私は願った。嵐の気紛れを。
 風が強く吹いてもいい。雨が激しく降ってもいい。
 人魚さえ、もう少し私の傍に置いておいてくれたなら。


 けれども嵐はやって来た。
「迎えが来たわ。」
 彼女が言った。
 いつのまにか、うつらうつらしていた私は、その声で目を覚ました。
 町内スピーカーから、警報が流れ出した。
『コノアタリハ津波ニノマレル可能性ガ有リマス。至急、避難シテクダサイ』

 彼女の見据える方向から、水の音が近付いてくるのが、はっきりとわかった。津波は、前と同じように押し寄せて、今度はきっちり彼女を連れ去って行くだろう。
 窯で焼かれた赤い鱗は、間に合わなかった。

「帰るのね。」
 そう言った私に、彼女はやっぱり微笑んだ。
 段々と大きくなる水の音。もう、すぐ、そこに。
「さようなら。」
 私は言った。
「さようなら。」
 彼女は言った。ギシリ、と家が鳴ったような気がした。

 津波が私の家をのみこむ。目の前に、周りに、どこにでも、泡立つ、塩辛い、水。
 私の肺に、海水が流れ込む。冷たい。私は、溺れてしまう。
 自由になった人魚が、私の手を引いて、上へと導こうとする。遠くなる意識の中で、私はその手を振り解く。
 行きなさいよ、あなたは。今さら私にかまわないで。
 人魚に助けられて、翌日砂浜に打ち上げられた私は、去っていってしまったあなたと、失った時間を思って、寂しさに泣くだろう。
 そんなのは、嫌。このまま溺れてしまったほうが、どんなに楽か知れない。
 この海水と同じように、心と体は冷えてしまえばいい。

 私はその時、初めて人魚の寂しそうな顔を見た。
 けれどもそれは、ほんの一瞬。
 きりきり舞いの私の体は、波にもまれて沈むこともできないまま、海へ、海へ、海へ。
 意識は白い泡のように、ぱちんと弾けて水の中。


 目が覚めた?
 誰かがそう呼んだ気がして、私はうっすら目をあけた。
 視界がぼんやりしていて、どこにいるのか良くわからない。わかるのは、傍らに人の気配があることと、今寝ているこの場所が、酷く窮屈だということ。

 身じろぎをすると、私の尾鰭がぴたん、と音を立てた。
 オビ、レ?
「覚えている? あなた、アパートの前に倒れていたの。」
 穏やかな声が言った。私は段々思い出す。私はこの声の主に、拾われたのだ。
「もちろん覚えているわ。お陰で命拾いしたんだもの。」
「大袈裟ね。」
「本当にそう思ってるのよ。」
 そして私は、誰だかわからないその相手に、笑いかける。
 すると空気が和らいだのがわかった。

「ね、お願いがあるのだけれど。」
「なぁに?」
「次に海が荒れるまででいいの……」
 そう、今度はちゃんと、海は波を攫って行ってくれるだろう。


 ぴとん、蛇口から落ちた一滴が、水面を叩いた。
 その音にうっとりまどろみながら。
 私は今、嵐の夜を待っている。



―了―

jaga
煩悩人工衛星島