以下の文章は2004年に刊行されたLuca no.6 (エスクァイア臨時増刊号)のために執筆したテキストをWEB用に再構成したものです(2005年WEB上に掲載)。若い読者(20代〜)を想定し、限られた文字数で書かれた原文に基づいていますので、平易な内容になっています。
重森三玲について、さらに詳しくお知りになりたい方は拙著「重森三玲K‐自然の石に永遠の生命と美を贈る」(京都通信社、2010年)をご覧ください。特に、重森三玲の創作のモットーである「永遠のモダン」について詳しく書いています。
重森 三明(重森三玲庭園美術館館長)



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重森三玲」という人の作った庭が見てみたい、重森三玲についてもっと知りたい。そんな声をよく耳にするようになった。インターネット上では個人レベルで三玲作の庭園を掲載したり、各地の庭を訪れた感想など(感銘ともちろん批評も)が述べられている。

しかし、重森三玲自身の著作が絶版になっており、彼に関する研究書も国内では未だ出版されていないので(注)、重森三玲をもう少し知っていただけるように努力してみることにしました。御関心のある方は三玲の庭を写真や映像だけで見るのではなく、是非機会があれば実際にご覧になって、その空間を体験してみてください。そして、もしもお近くの図書館や古本屋さんで三玲の著作を発見されたら是非ページをめくってみてください。

2005年



注:その後、2006年に展覧会図録が刊行。2007年には書籍が2冊、2008年、2009年、2010年と続けて1冊づつ出版されました(2014年現在書籍が5冊、ムック1冊、展覧会図録1冊)。



−作庭家・重森三玲について

重森三玲が庭園を研究した理由について、「庭園は上古から現代に至るまで続いた長い歴史をもっているので(中略)、歴史の永い庭園が最高だと思って取り組んだ…」と彼の言葉にある。本人の言葉なので確かだが、三玲が庭を専門にするようになった理由には天災やその時々の偶然がかなり関わっている。

大正6年に画家を志して上京するが全国から集まったライバル達の才能の凄さに意気消沈。当時、日本美術学校の校長が、「君の絵が一番純粋で良い」と励ましてくださったらしいが、かなりの挫折感を味わう。その後、技術面よりも思想面を鍛えるため、もっと総合的に日本の思想や美術史を学ぼうと決意し、研究を深める。

やがて、同時代の作家や研究者たちと交流を重ねていくなかで、「重森三玲」という作家名・ペンネームで活動するようになる(元の名は重森計夫)。そして、既に当時から日本美術界の弊害であった多分野のいちじるしく縦割り的な差別化を見直し、茶の湯、いけばな、庭園なども含めたかたちで日本の芸術を総合的に学べる場所(大学)を作り上げようとする(「文化大学院」という名称のもと、数年間にわたり講義や出版活動をおこなった)。その後、大学の本格的な創設にむけたスポンサーも見つけ、支援内諾ももらっていたのだが、関東大震災で全ての計画があえなく頓挫。故郷に戻る。

故郷では、農業に従事しながら村で哲学講座を開いていた。この頃、ある意味で首都・東京で受けたカルチャーショックや情報過多への反動もあってか、流行よりも、より古いものへの審美眼をどんどんと開花させていったように思う。そのような時期に地元所縁の八幡宮を文化財として保存するために奮闘を開始する。実は、これがきっかけで、文化財の保存指定に関わる東京の関係者が故郷を訪れることになるのだが、旅館や民宿もないような田舎なので、実家で接待することになる。この時に、もてなしと関係諸先生方の手前、いわば「点数を稼ぐ」意味もあって生家の庭を改修してご観覧いただくことになり、重森三玲の庭の処女作が誕生する(大正14年/1925年)。地元の文化財を守りたいという思いが彼の人生を「庭園」にシフトさせていった。その後、東京が復興したので再度上京しようとするが京都で途中下車(注1)。この頃は未だ、いけばなの研究を主にしていたが、徐々に庭にハマってしまい、京都に居を定める。庭園史の研究と作庭、結局、まったくの独学でプロになった。

重森三玲は18歳で茶室を設計するなど、若い頃から茶の湯が好きで目が肥えており、「茶」を芸術の中心にすえていた。彼にとって茶が絵画、彫刻、建築、工芸、いけばな、庭園など日本の諸芸術をつなぐものであり、日常で「生活とアートの一体化」を実践できるものだった。茶に限らず、創作は種別や時代が異なるものを調和させることが大切であると考えた。現代は過去と調和してこそリアルな生命力をはなつ。物事を総合的に捉え、異なる角度から分析し、その流れの中で答えを発見する。科学者も散歩中にひらめくと言うし、動きの中で何かを発見できる。少しオーバーな表現になるが、重森三玲は一つのことを理解するためにそのまわりを廻りながら研究し、その先につながる輪の形、つまり全体像(日本の総合芸術)を捉えようとしていたのだろう。

日本の伝統文化を愛し、その独自性に誇りを感じながらも、日本文化の将来を危惧し続けた重森三玲は生涯海外にでることなく日本で活動した。今の世の中ではなかなか考えにくい。イサム・ノグチ氏にもパリに来て仕事を手伝ってほしいと要請されたことがあるが、あっさりとお断りしたようである。しかし、旅行は大変好きであったので、外国料理が口に合わなかったのか、単純に飛行機に乗るのが怖かったのではないかという身内の推測もある。何れにせよ、西洋カブレの流行のようなものは彼には無関係であった。


−代表作の東福寺方丈庭園と松尾大社庭園について

東福寺方丈庭園(東福寺本坊方丈八相庭、1939)はデビュー作の一つであり、初期の名作。松尾大社庭園(1975)は遺作になった。簡単に比較はできないが、ピカソの『アヴィニオンの娘たち』が初期の作品なのにピカソの代表作として認知されているように、「重森三玲=東福寺方丈庭園」と考えるひとは多いだろう。

1930年代初頭、重森三玲は主に庭園及びいけばなの研究者として活動していたが、各地の庭の調査を重ねる度に建物の図面や資料が存在しても、庭園の資料が皆無であることを感じていた。そこへ室戸台風(1934年)が西日本に上陸し近畿の名園も多大な被害を被った。各社寺には庭に関する資料が残されていないので、修復には困難が予想され、このままでは将来も庭園の研究が発展しないことを痛感した三玲は全国の庭園の実測調査をおこなう決意を固める。そして、1935年頃より1939年にわたって第一次実測調査をおこない、その成果を体系的にまとめた『日本庭園史図鑑 全26冊』を出版する。

当時、日本各地の時代や様式も異なる庭園を自ら訪れて実測し、自身で写真撮影も担当した。調査研究を進めていった結果、重森三玲は一つの確信にいたる。「江戸中期を境にして庭の芸術性が落ちている。そして、自身が生きる昭和期には将来に誇れるような庭がつくられていない…」。これが彼の創作者としての血を再び刺激することになる。

そして、このような思いで東福寺の調査(環境計画)を手がけていた時、東福寺の造園計画が持ちあがり、永代供養(つまりボランティア)で庭づくりを引き受けることになる。国内で多くの庭を実測調査した実績と画家をめざしていた自身の自由な発想でこの仕事に取り組んだ。庭の設計にあたっては、禅宗寺院における廃物利用の精神が市松の庭と北斗七星の庭を創り出す原因になったり、方丈前庭のために探し求めていた巨石が苦労の末に見つかるなど運も味方した。

考えてみれば現場の環境、歴史的背景、材料など、「場」の力が大きければ大きいほど名作を残せた不思議なひとである。実際、変な言い方をすれば少々「怖がり」で、それは「鋭敏」と言うべきなのだろうが、とかく神秘的なものへの畏敬の念は強かった。実生活では無用の長物のような能力(一種のテレパシー)を備えもち、素材の声を聞き取り、場の力を創作に還元できる作家であった。

遺作になった松尾大社庭園・上古の庭はまさしく場の潜在力を最大限に引き出した作品であり、場と人間が一体となっていわば核融合的な爆発をおこしている重森三玲の最高傑作。荒々しくも静寂。それは不思議に古代と現代、優しさと厳しさなど、相反するものの一致を見せている。


−重森三玲の庭とモダンデザイン、抽象絵画、石組

もとは画家を志していたので、抽象絵画のような作品も残している。「アヴァンギャルド=前衛」という言葉は、彼の著作でよく目にする。画家ではカンディンスキーが好きで、三玲の残している絵画作品や彼が設計した庭を見ると州浜や砂紋のデザインにはその影響が見て取れる。イサム・ノグチは東福寺の市松の庭を見て「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評した。ただ、西洋美術やモダンデザインに傾倒した作家ではなく、どちらかといえば和風好みの人物だったので、日本の諸芸術を幅広く学び、そのデザイン的要素から創作の着想を得たようだ。古いものにも時代を超えたモダン(新しさ)が存在することを見抜いていた。重森三玲はこの美意識を「永遠のモダン」と称し、自らの創作の基本にしていた。

元来、日本庭園の石組みの起源は磐座や磐境と呼ばれる古代の巨石(群)であり、よく神社の御神体になっている。庭園史において、石組みは古代中国の神仙蓬莱思想という、仙人が住み不老不死の薬が存在するという島を表したり、三尊石で仏の姿を表現した。枯山水の石庭を連想すると、石組みと「禅寺」を簡単に結びつけるが、日本庭園の始まりはもっと古く、古代にまでさかのぼる。元来、日本古来の山岳信仰と大陸思想の影響、更に古墳文化や浄土思想などが混ざりあいながらその時々の「庭」を形成していった。信仰心や時代の精神性とともに発展した日本庭園において、石組みの基本は神や仏を宿す躍動的な立て石にあったが、江戸中期を過ぎると石を寝かせて配置することが多くなる。重森三玲は昭和期において立石本意のモダンな枯山水の復興に努力し、抽象的な表現を模索しながら現代的な石組みを作り上げている。
(参考:保久良神社磐座、楯築神社遺跡、石像寺巨石群、阿智神社など、日本庭園の源流といわれる磐座や磐境には今もモダンを感じます。)


−鏡としての庭 見つめられている感覚

日本庭園、特に枯山水の庭に見入るとき、石に見つめられているように感じることがある。石(庭)には目がないので不思議な感覚だ。しかし確かに見つめられているように感じる。例えば美術館で画家の自画像に直面した時に同じような感覚を覚えないだろうか。枯山水と自画像、これらは対象でありながら「見るものの鏡」として機能していると思われる。

人は見つめられることで自分の存在に気づく。つまり、ハットする。更に、目の前の他者であるはずの対象があたかも自分自身のように感じられると緊張感を伴う。この緊張感は心地よいもので、自他を区別していたものがシンクロ(同期)し、相関関係にあるときに感じられる。身体と思考は常に一体ではない。映画やドラマを観ているとき、登場人物に簡単に感情移入していくように、人の感情は移動し、自己の場所が移動することがある。庭園を見るときは風景に感情移入しているのだ。

中でも特に傑出した石組の庭を見るとき、私たちの感覚は石組みへと感情移入されていくが瞬時にこちら側に送り返される。石は無言に「貴方はあなただ」と「私はあなただ」を繰り返す。はっきり言って訳が分からないが、庭に引き込まれる。しかし、この突き放されたような心地よさは何なのか。実は、目の前の庭を見つめているあなたは自分自身を見ている。自他の区別が減少すれば庭との一体感が発生する。鏡で見慣れた自分とは異なる「わたし」との出会い。あなたはこの一体感を感じうる限りその場所から離れようとしないだろう。これが庭園観賞における「自己」との出会いだ。

一方、この悟り的な考え方が少し苦手な人達に、最近あたらしい研究が進んでいるので紹介する。イギリスの生物学者、ルパート・シェルドレイクは「見つめられる感覚」や「飼い主の帰りがわかる動物」など、不思議な現象を科学的に解明しようと研究している。彼の仮説では地球上に形態場(morphic fields)や知覚場(perceptual field)が存在し、これらの磁場をとおして人は背後から見つめられていることに気付き、動物は主人の帰りを事前に感知することが出来るのだろうと主張している。

つまり、生き物の視線や感情とは意志(intention)であり、人や動物の意志は空間を移動しながら相手に到達することができる。更に、意志は強さと反復によって形態場に蓄積されることが考えられ、時空をこえる。やはりテレパシーは存在するのか。しかし、この仮説を応用すれば、石に見つめられているような気がする原因を少し解明できそうだ。作者であるアーティストは誰よりも最初から庭と向き合っていた(庭=自画像?)。すると、作者の意志は石組み(庭)に込められており、その強さが今も私たちを見つめているのかもしれない。


−重森三玲の再評価について(「永遠のモダン」とは?)

三玲所縁のもの達の努力もあって、重森三玲がメディアで連鎖的に紹介されたり、庭園や「in-betweeness=間(ま)」 に対する関心など、色々な理由があって重森三玲の業績が再評価されつつある。世界に散らばっている三玲ファンは少数でも情熱的な人が多く、これらの人々の口コミによって更に多くの人々が庭(関係性の芸術)への関心を高めている。重森三玲の創作は決して時代を先取りしすぎていた訳ではなく、これまでの伝統的な日本庭園という文脈では理解されてこなかったのだろう。重森三玲が好んで使った言葉に「永遠のモダン」と「石に(の)乞わん」がある。「永遠のモダン」とは意訳すると、寂びないモダンさのことで、作品が作られた当時だけ輝くのではなく、時代をこえてモダンに見え続けること。これは現代のデザイン界にもピッタリとくる表現。一方、「石に乞わん(石の乞わんに従う)」とは石組みを行うときに石の命のままに石を立ててやることで、石の聞こえざる声を聞くこと。これは「他者(異文化)を理解する」という今日の命題に通じるのではないだろうか。重森三玲の再評価はまだ始まったばかりで、ひょっとすれば直ぐに終ってしまうかもしれない。世は気まぐれである。しかし、没後30年もたって流行るとすれば本人には少し迷惑だろうか。

重森三明(しげもり みつあき)
 美術家、現代美術・庭園など場のアート研究 重森三玲庭園美術館館長

注1:昭和4年に三玲が京都に住むようになったのは、復興した東京へ向かった時点での途中下車説が長年定説になっていましたが、 最近、三玲の日記を確認した結果、「美術の研究と思想的発展のため」京都を明らかな目的地として選び、住むようになったことがわかりました。

上記の文章はLuca no.6 (エスクァイア臨時増刊号2004年)掲載用に準備した文章をもとに再構成しました。