【Scrap Holiday】 沈黙という名の悪意 | |
=本当に加藤紘一だけが弱かったのか? 自民政変批判を批判する= | 2000/11/22 |
騒動は不透明なまま収束し、加藤紘一だけが悪者として生け贄にされた。勝ち誇った表情の自民主流派と宏池会内反加藤勢力。そして、世間では「腰砕け」「弱虫」「密室の出来レース」「裏切り者」と言いたい放題の加藤バッシングである。わずか4〜5日前には、あれほど民主勢力のヒーローとして祭り上げていたのに、おそるべき大衆の豹変、である。
加藤の行動の結末と余りにも急な変節は、その前段階の大言壮語と比較して、決して厳しい批判を免れるものではない。健全な政党政治復活ののろし、橋本派を中心とする派閥力学のみで動くいわゆる永田町論理の打破、という国民の期待は、驚くほどあっけなく、そして木っ端微塵に打ち砕かれた。この点において、加藤と盟友の山崎拓の決断は非難されて当然であろう。しかし、我々国民に彼らを批判する資格は本当にあるのだろうか?
よくニュース番組でやる街頭インタービューで最も頻繁に聞くのが「政治家なんて誰でも同じ」「誰が首相になっても日本は変わらない」「政治には期待しないし、興味もない」というような意見である。私はこのような声を聞くたびに、いつも少なからず不快感を感じる。そのような回答を訳知り顔で繰り出す人達は、本当にその言葉を自分の意見として述べているのだろうか? 「誰でも同じ」というからには、総理候補者の政策を自分なりに咀嚼して判断するのが当然の前提であるが、そういう意見を述べる人の大部分が、政策どころか候補者名を上げることさえ出来ないのだ。政策を知りもしないで、どうして「誰でも同じ」などと断言できるのだろう? それは本当にあなたの意見なのですか? きっと違うだろう。それは決して個人の意見などではなく、政治への無関心さを強調し、アイロニーとクールネスこそ美徳であるとし、政治家を意図的に十把一絡げの下等な人種に仕立てようとするマスコミの誘導施策に洗脳された結果でしかあり得ない。
本当に「誰が首相になっても同じ」ならば、橋本・小渕・森という最近の政権交代と見事に連動している株価の動きはどう説明するのだろう。橋本の緊縮・財政再建路線から小渕の景気刺激最優先路線へという政策の転換は、長期的評価はともかく、少なくとも短期的には日本経済の元気をやや取り戻すことに成功した。そして、森は表面上は小渕路線の景気刺激策を継承したが、小渕とは違い、森には全くビジョンというものが欠如していることを市場にすぐに見破られ、経済は再度低迷の道を歩もうとしている。同じ自民党政権でありながら、トップが変わるだけでこれほど上下する経済の動きだけ見ても、政治家の政策というものが、どれほど国のあり方を左右するか、全くの自明である。
政治になんて関心がない、と本当に思うのならそれでよい。政治家の顔も政策も覚える必要はないし、選挙にも行かねばよい。しかし、それならば最後まで政治に期待はしないことだ。2週間前「誰でも同じ」と言っていた街角の人は、今回の政変で急浮上した加藤を救世軍のリーダーに仕立てようとした。しかし、加藤戦略の本当の読み違いは、宏池会内の表読みの多寡や、野中・亀井を中心とする執行部の締め付けの予想以上の厳しさなどではない。彼は、大衆の力を信じていた。派閥力学からすれば、どう考えても不利なのは最初から分かっている。それでも加藤が無茶苦茶とも言える喧嘩を始めたのは、党内ではなく、党外の大衆のパワーに賭けたからだ。決起以来、毎日のようにメッセージが掲載された加藤のホームページ、何度も繰り返した「国民を含めた長いドラマの始まり」という言葉。即ち、加藤戦略とは大衆と結託した一種の無血革命を目指したものであったのだ。
しかし、事態は加藤の期待とは別の方向へ転がりだした。不信任案に欠席という玉虫色の決着を決断させた最終要因は、前オーナー宮沢蔵相や宏池会創始者池田勇人の血を引くだけの無能としか言いようのない池田行彦ら派内長老・中堅職員の離反であったが、その背景は加藤が頼みの綱とした国民の沈黙であった。加藤の行動に反対するといった者はまだ良かった。しかし、問題なのは無関心層から俄か加藤シンパに衣更えし、自分は最後までフィールドに下りないまま加藤に無責任なエールを送り続けた者達だ。
議員にとって最大の関心事は自らの議席の保持である。今回、野中ら党執行部はこの点を巧みに突き、除名あるいは選挙における非公認処分を最大の武器としてちらつかせながら、加藤・山崎両派の議員を切り崩していった。そして、加藤も最終的にはこの脅しに屈したのだが、これは加藤の意志の弱さだけが原因なのではない。最大の原因は「加藤を口先だけで本当に応援しようとしなかった無責任な大衆」にある。党執行部の締め付けに根を上げた議員を彼らは非難する、議席大事が故に初志を曲げたと。ならば逆にこう問いたい。
「あなたは一国民として、今回の政変に際して何らかの行動を起こしたのか?」
議席を与えるのは、党執行部ではなく、我々選挙民である。加藤に賛同する議員を執行部が除名で脅すのならば、加藤を本当に支持する選挙民は、森を支持する議員を有権者の意思で脅迫すべきであった。電話・ファックス・ホームページ・電子メール…… 手段はいくらでもある。加藤が強大な党執行部の力に対抗するためには、大衆のそのような決起が必要だったのだ。派閥力学のみで森を支持する議員に対し、選挙民に意志の行使を付託された尊厳ある一議員としての思想決断を迫ること。それこそが主権者たる国民の義務であるはずだ。
本会議開会直前での加藤・山崎の方針転換に国民は失望し、茶番劇に怒った、とマスコミは騒ぎ立てている。確かに敵前逃亡であり、不戦敗には違いない。しかし、弱気な最終決断自体は加藤の責任であることは間違いない事実だとしても、加藤をそこまで追い込んだのは、単なる俄か偽善者でしかなかった多くの大衆だ。「政治への期待を失望させた」「更なる政治不信が深まった」「結局単なる派閥抗争だった」…… 冗談じゃない。そんな加藤を選んだのも、野中を選んだのも、加藤を束の間口先だけで応援し、すぐに打ち捨て、口先だけで非難しているのは、すべて我々国民なのだ。政治家とは国民の付託を受けて国政に携わる人間であり、その行動が誤った際に是正を求めることができるのもまた国民だけなのである。
今回、掌を返したように加藤を批判する人間に一番認識が足りないのが、この点であると私は思う。「熱いフライパンの上でネコ踊りさせてやる」そんな下品な表現を用いて加藤を攻撃したのは、元々は同じ構造改革論者であったはずの橋本元首相だが、政変の結末は橋本の予言どおりになったとしても、その中身は大分違ったようだ。フライパンとは、自民党でも、橋本派でもなく、国民自身だったのだ。加藤が願っていたのは、国民というフライパンが熱くなってこそ、その上で踊る政治家の加藤や山崎が、普段は飛ぶことのできない距離を飛躍することができる、という構図だった。しかし、最後までフライパンは熱くなるフリをしながら、その実は全く冷めたままだった。加藤は冷めたフライパンの上で凍え死にしたのだ。加藤が必要としたのは「頑張れ!」という言葉ではなく、「一緒に頑張る」という一人一人の行動だったのに。
ほとんど個人的な怒りにまかせて、まとまりのない文章を延々と書いてしまったが、最後に某ロック雑誌に掲載されていたU2のボノの言葉をここに引用させていただきたい。
『21世紀にはもうアイロニーの居場所はないよ。この時代に見合った反応じゃないと思う』
加藤の敗北は、アイロニーという分厚いヴェールを未だにまとっている僕たち国民の敗北なのだ。