【Cinema Holiday】 生きていくには力が必要です | |
=思索するラテンと冷えたオセアニア。半年間のマトコメ・シネマ:その2= | 1999/12/20 |
マトコメ・シネマ第2回は、アカデミー絡みの作品などを……
アカデミーは伊達じゃなかった 『ライフ・イズ・ビューティフル』
(1998年イタリア作品、監督:ロベルト・ベニーニ、出演:ロベルト・ベニーニ、ニコレッタ・ブラスキ、ジョルジオ・カンタリーニ)
アカデミー賞を獲ってから日本公開される作品は、配給する方も「アカデミー○○賞獲得!」と銘打つし、見る方も「アカデミー取った映画なんだから、さぞかし素晴らしいんだろう」と少なからず思って足を運ぶ訳である。その思いがどう具現されるかは、もう賞云々を離れた個人的嗜好でしかないのは当たり前なのだが、今年の場合、結果的に凶と出たのが『恋に落ちたシェークスピア』、吉と出たのが『ライフ・イズ・ビューティフル』だった。
ユダヤ人主人公グイドとドーラの恋物語、というか、グイドによるドーラの口説き物語である前半部は、どこまでも真っ直ぐなグイドの視線と振舞いのもたらすペーソスが、観客に小さな小さな幸せの積み重なった笑いをプレゼントしてくれる。数年が経ち、小さな本屋さんの主人となったグイドの元には、愛妻ドーラとこの上なく愛らしい一粒種の息子ジョズエ。やがて、ストーリーはユダヤ人強制収容所へと舞台を移すが、ここに至っても観客には笑いが絶えないのだ。ジョズエに希望を与えるため、収容所は大勢が参加する勝ち残りゲームだとグイドは嘘をつく。そこから始まるグイドの八面六臂の大活躍は、ジョズエへの約束を果たすためでもあるが、グイド自身の生への懸命の戦いでもあった。
状況は次第に悪化し、やがてグイドもジョズエも直接的な生命の危機にさらされるが、ここでもベニーニのエンタ思考はフル回転する。必死に逃げ回るグイドがとうとうナチスの哨兵に見つかるシーンが、この映画中一番の大爆笑シーンなのだ。普通に考えたら最も悲しい場面を、生への執着という人間の根源的な欲望を剥き出しにすることで笑いへと転化させてしまったベニーニ…… ただただ脱帽……
監督・脚本・主演の全てをこなす国民的コメディアン、となると、まさにイタリアの北野武とでもいうべき存在なのかもしれないが、ロベルト・ベニーニの立ち位置はどちらかというと明石家さんまに近い。強制収容されるユダヤ人一家の悲哀、というまともに描けば限りなく重い主題を、これほどしなやかに軽やかに仕上げたのは、さんま的なフットワークの軽さが彼の体質として備わっているからなのだろう。仮に北野武なら、同じ笑いでもドス黒いユーモアを醸し出しながら「芸術的な作品」として完成させたように思う。どちらがいいとか悪いとかいう問題ではないが、極めて分裂的な気質から自己の分身ともいえる作品を搾り出す北野武に対して、エンターテイメントに徹したベニーニの姿勢が、とても新鮮に思えたのだ。
結局、エンディングには号泣させられたのだけど、それでも悲しいという感情はなかった。タイトル通りの人生賛歌に、人間って捨てたもんじゃないな、って思い出させてくれた100点満点の映画。
”菊次郎の夏”は面白かったのでしょうか? ラテン発ロード・ムービー『セントラル・ステーション』
(1998年ブラジル作品、監督:ヴァルテル・サレス、出演:フェルナンダ・モンテネグロ、ヴィニシウス・デ・オリヴィエラ)
一方、アカデミー外国語映画賞最有力候補と言われながら、『ライフ・イズ・ビューティフル』に栄冠をさらわれたのが、このブラジル映画『セントラル・ステーション』。中年の大人と幼少の子供、という構成も同じで、主人公の子供の名前も同じ。ジョズエって名前はラテン系ではよくあるのかなぁ?
雑踏と無秩序が支配する大都市リオ・デ・ジャネイロの中央駅で代筆屋を営む女性ドーラは元教師だが、今はかつてのモラルも捨て去り、代筆した手紙を密かに捨て、切手代をネコババする毎日。ところが、ある日未だ見ぬ父親への手紙の代筆を頼んだ少年ジョズエの母親が、彼女の目の前で交通事故に逢い死んでしまったことから、ドーラの人生が少し動き出す。行きがかり上、やむを得ずジョズエを遠く離れた父親の元まで送り届けることになってしまったドーラは、初めはジョズエと衝突ばかりしていたが、やがて自分自身よりもジョズエの人生を気に掛けるようになっていく。
大筋としては、大人と子供の長い旅路を通しての魂の触れ合いを描く、という典型的なロード・ムービーなのだが、主人公ドーラを演じるフェルナンダ・モンテネグロの抑えた演技は、まるでブラジルのどこまでも広い大地のように乾いていて、ロード・ムービーにありがちな感動の押し売りに全く貢献していない。物語は、ドーラ自身の女性としての復活という副題をエピソードに、ジョズエの父親探しの旅を描いていく。しかし、表面上の主題とは裏腹に、この映画の核心はドーラとジョズエという仮初の母子の物語であるように思えてきた。
一度も結婚したこともなく、勿論母親の経験もないドーラ。途中、あちこちが弛んだ下着姿をいくら子供相手とはいえ明け透けもなく披露し、そのままベッドの中でジョズエをぎこちなく抱きしめる彼女の表情には、恐らく初めてであろう母親的な感情の目覚めが表れている。そして、つい数日前に目の前で母親を亡くしたジョズエも、ドーラの弛んだお腹に新たな安住の地を見つける。巡り合えそうで中々逢えない父親の存在は次第に霞んでいき、いつのまにか形成された二人だけの小宇宙を続けていくかどうかの決断の時期が迫られる。
この映画には希望もなければ絶望もない。旅の間の感情の揺れを描くという本来のロード・ムービー的手法にあくまでも忠実である。だから、見終わった僕達にも、ただ「二人と共に旅をした」という以上の感想は出てこない。旅の結果としての何かではなく、旅自身をスクリーンに載せることで、観客をトリップさせてくれる。父親探し、内なる女性の目覚め、擬似母子の葛藤、そんな主題は全て旅の中にだけある。旅が終われば全てがなくなる。そして、それは映画が終われば全てがなくなることを意味し、残された心地よい空虚こそが、深い感銘を残す。そんな宗教的な瞑想さえ浮かんできた深い味わいの落ちついたラテン作品。
怖い井戸でも”リング”じゃない『女と女の井戸の中』
(1997年オーストラリア作品、監督:サマンサ・ラング、出演:パメラ・レイブ、ミランダ・オットー)
原題は『The Well』、つまり単に『井戸』というこの作品は、今年一番素晴らしい邦題を持った作品だろう。二人の女性が井戸というひとつの呪縛を通して、恐ろしいまでの心理ゲームを展開する。ミステリーでもサイコ・サスペンスでもないけど、見終わった後の恐ろしさは、そんじょそこらのホラーを遥かに凌ぐ出来。普通の人間が一番怖いってことが嫌というほど再認識した。
オーストラリアの片田舎で暮らす初老の女性ヘスターは、重荷に感じていた病弱の父親の死で手にした遺産で新しい家を買い、ヒッチハイクをしていた奔放な若い女性キャスリンを住込み家政婦に雇って二人の共同生活をスタートする。キャスリンは上流階級の作法にやかましいヘスターを初めは鬱陶しく感じるが、二人はやがて親子ほどの歳の差を気にしないベスト・フレンズになっていく。ところが、ある夜間違って車でヒッチハイクの男をひき殺してしまった二人は、うろたえながらも家の前の廃井戸に死体を捨てるが、同時にキッチンに隠してあった大金が消失していることに気付く。
二人とも男を殺した犯罪者としての罪悪感は共通するが、消えた大金の行方に関連して、お互いを疑惑の目で見ざるを得ない。犯人は死んだ男かもしれないが、目の前のパートナーかもしれない。事故を起こすまでの前半部は意表を突いた軽やかなムードだったのが、この辺りから一転して極限までの心理サスペンスが展開されて行く。とにかく何が怖いって、キャスリンを演じるミランダ・オットーの目が怖いことこの上ない。何を考えているのか分からず得体がしれないとは、こういう目のことを言うのだろう。陽気なヒッチハイカーだった前半ととても同一人物とは思えない。
一方、へスターは変質していくキャスリンを自分の元に(精神的にも物理的にも)引きとめようと、必死に努力するが、逆にどんどんキャスリンとの溝を深めてしまう。若者的な手軽な心地良さでヘスターとの交流を深めていたキャスリンと違い、へスターの彼女への思いは、真摯な恋愛感情とさえ言えるものだったから、"たかが”犯罪とお金ごときが二人の間を引き裂くのは許されなかった。錆付いた井戸を巡って果てしなく続く二人の駆け引きの果てに訪れるのは、荒涼とした巨岩が剥き出しになったオーストラリアの大地。キャスリンの若者らしい開放感とヘスターの空虚な心を、同時にイメージしたこの風景は、観ていてゾクゾクとする恐怖感をもたらす。人を愛するということと、社会的存在を守ることへの葛藤、金銭への欲望、これらが複雑に絡み合った愛憎劇は、世代間のギャップを決定的な触媒にして、最後に破滅する。さあ、あなたの愛する人は、本当にあなたを愛していますか?