【Music Holiday】 メッセージのないメッセージ | |
=時と場所を超える声、スティーヴ・ウィンウッド 4枚組BOX『Finer Things』= | 1998/9/14 |
僕は酒が飲めない。だから、嫌なことがあっても、仕事の帰りに一杯引っかけるということはない訳で、ストレス解消法は部屋にこもって好きなCDを聴くという、今時あまり流行らない暗いヤツなのだ。そしてその暗いお供CDの筆頭が、最近は何故かスティーヴ・ウィンウッドのバック・アイテムなのである。
例えば、スミス〜モリッシーで心の痛みを癒す(?)人、或いはヴァン・ヘイレンでファイト一発!!状態に持っていく人、ストーンズのダルさで自分の存在意義を確認する人など、一種のセラピーとして、いろんな場面でいろんなロックが使われているだろう。しかし、そこにウィンウッドを登場させる人は、そう多くはいるまい。
僕がウィンウッドを聴きはじめたのは、『Talking Back To The Night』の発表直後、ちょうどシングルの「Valerie」が中ヒットしていた82年の秋頃だった。最初は、ラジオで聴いた「Valerie」の超ポップなメロに惹かれたのだが、次第にウィンウッドの声が麻薬のように体の中にしみ込みはじめた。数多いアルバムの中では、今イチの出来の『Talking Back To The Night』においてでさえ、である。それから、遡ってトラフィックやブラインド・フェイスを聴くようになり、特にトラフィックの牧歌的ともジャズ・フレイバー的とも何ともいえない混沌としたサウンド(トラフィックこそ「ミクスチャー・ロック」という称号が相応しいと思う)と、そこに響くウィンウッドの歌声が、僕を捉えて離さなくなった。
その後、不思議なことに『Back In The High Life』が世界中で大ヒットしてしまい、ウィンウッドは一転して、いやそのキャリアの中で初めて華々しいスポットライトを浴びた。今でもよく憶えているが、シングル「Higher Love」が毎週ジリジリと全米チャートを上がるのを見る度に、それがホントに起こっている事実であることが信じられなかった。それほど、ウィンウッドのイメージと、売れること、チャートを制することはどうしようもなく結びつかなかった。僕の中でのウインウッドの定型は、地味な玄人受けするヴォーカリスト兼キーボード弾き、ミュージシャンズ・ミュージシャンの域を決して出なかったのだ。
結局、『Back In The High Life』と続く『Roll With It』の商業的成功は、それまで仙人の如き求心的な音作りを続けてきたウィンウッドが、ふと外に目を向けたことからもたらされたものだった。よく言われているように、『Back In The High Life』の派手な音は、ウィンウッドのキャリアの中では確かに異色だ。けれども、表向きの音がどう派手になろうが、曲の底に脈打つストイックな音楽的姿勢は何も変わっていなかった。そして、何よりも輝くあの声。
タイトル曲でジェイムス・テイラーとハモるウィンウッドの声を初めて聴いた時、僕は素っ裸の音楽のもたらす感動というものが、この世に確かにあることが分かったような気がした。
どうやら日本盤は出ないらしい4枚組ボックス・セット『Finer Things』は、64年のスペンサー・デイヴィス・グループからトラフィック、ブラインド・フェイス、再結成トラフィック、ツトム・ヤマシタとのゴー・プロジェクト、そしてソロ時代まで、実に30年間に渡る彼の活動を追ったものだ。この途轍もない才能の持主のミュージシャンの軌跡を辿ると、つくづくと神様は不公平だとの感を新たにしてしまう。何しろ、神様は彼に、声、創作能力、プレイヤビリティ、おまけにルックスまで加えて、二物ならず、三物を、更に飛び越えて四物を与えたのだ。ルックスはまあ置いとくとしても、残りの三つを、しかもいずれもこれほどの高水準で兼ね備えている人物は、他に滅多にいるまい。早すぎたイチローとでも言おうか……
未発表曲や未発表ヴァージョンの少ないこのボックスの数少ない目玉であるブラインド・フェイスの「Can't Find My Way Home」のエレクトリック・ヴァージョンを聴くと、何故この素晴らしすぎるテイクがオクラ入りにされたのかが自ずと明白になる。このヴァージョンでは、ウィンウッドの降り注ぐ声が、「あの」クラプトンのギターを完全に凌いでいるのだ。クラプトンが望んで結成されたブラインド・フェイスだったが、いざ始まってみるとクラプトンは、全身から止めどなく溢れだすウィンウッドの才能と、天賦の声に圧倒されたに違いない。天下に名だたる「スーパー・ギタリスト」も、「スーパー・ミュージシャン」ウィンウッドの前では、一介のバンド・メンバーでしかなかった。
「どない頑張っても俺が負けるんやったら、アコースティック・ヴァージョンで最初からアイツを立てといたらエエんやろ」クラプトンがそう思って、エレクトリック・ヴァージョンをボツにしたと考えても無理はないほど、このヴァージョンのウィンウッドのヴォーカルは圧巻である。まさに、全ての電気音を凌ぐヴォーカル・パワー、である。
そんなバンドが、デビュー・アルバム1枚で終焉を迎えたのは必然の帰結だった。ウィンウッドは再びリーダー・バンドのトラフィックに戻り、途方に暮れたクラプトンは自分で歌いはじめた。
自分で殆ど歌詞を書かないウィンウッドの歌が、何故そんなに圧倒的な力を持ちえるのか? それは声質や、歌唱力といった物質的な側面の産物だけではあり得ない。自らの存在の全てを、言わば宗教的と言える程の傾倒さで音楽へ注ぎ込むことによって、元々は単なるひとつの楽器に過ぎない人間の声が、紡ぎ出される言葉の意味を超越して、全く別次元の存在へと昇華される。有り余る音楽的才能を与えられた男は、その才能を最大限に発揮する場を与えられ、発揮する強い意思を持ち、そして実行へ移した。その武器が、あの白人ではまず最高と言ってよいヴォーカルだった。
だから、歌詞の内容なんてどうでも良かったのだ。メッセージ・ソングでもない、かといってラヴ・ソングとしてもイマイチなのに(ソロ時代のウィル・ジェニングスの歌詞はかなり良いが)、あの声だけで全てが許されてしまうのは、ウィンウッド自身が、心から楽しみ、創作やプレイヤビリティに全力を傾けているという事実に、彼の歌声が裏打ちされているからだ。
ボックスを買ってから、約1週間というもの、狂ったようにウィンウッドの声に浸り続けた。至福の時、とはこういう時のことをいうのだろう。
一緒に悩んでくれるバンドもいい、バカ声を張り上げて元気の館へ連れていってくれるバンドもいい。けれど、僕は、音楽への強い意志の見えるウィンウッドの歌声を、伴走のパートナーに選びたい。
(追記:このレビューは、1996年に某雑誌投稿用として書いた文章に、今回、若干の加筆訂正を行ったものです)