【Music Holiday】レコードとCDを巡るあれこれ | |
=Seekerな人に贈るノスタルジック(?)エッセイ= | 1998/4/26 |
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僕が初めて買った洋楽のアルバムは『ザ・ビートルズ・バラード・ベスト20』という企画盤だった。これは、日本とイギリスのみで発売された限定盤で、「イエスタディ」も「レット・イット・ビー」も「ヘイ・ジュード」も「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」まで入っているという、ビートルズ初心者には打ってつけのヤツだった。しかし、このアルバムの重要なポイントは、そういった代表曲が網羅されているということよりも、タイトルの示すが如く1枚のアルバムの中に20曲も入っているということであった。
その時、僕は中学3年だったから、当然、小遣いはたかが知れていて、2800円もするアルバムを買うなんてことは大仕事だった。すると、この頭脳の未発達な中学生は何を考えたかというと、1曲あたりの単価を計算したのである。即ち、アルバムの値段を収録曲数で割って、最も曲単価の安いものを買うと、「こりゃあ、お得だわい。」ということになる訳だ。この理論に従うと、『ザ・ビートルズ・バラード・ベスト20』は〔2800円÷20曲=140円/曲〕となる。ちなみに、対立候補であった『ヘイ・ジュード』は〔2800円÷10曲=280円/曲〕となり、両者の間には実に2倍もの格差が存在したのである。毎月の小遣いが4000円の身にとって、前者に心が靡くのは仕方あるまい。
そんなセコイ計算をする癖は中々とれなかった。高校生になって少しは小遣いが増えると、さすがに好きなアーティストのアルバムは曲単価が高くても買うようになったが、それでも常に頭の中で単価計算はしていた。結局、アルバムがつまらなかくて、なおかつ、曲単価が高かったりした場合には、本当に悔しくなった。一方、つまらなくても曲単価が安いと「まあ、許したろ。」となるのである。
高校1年の時に買った『クイーン・グレイテスト・ヒッツ』は17曲入りで、「デビューの時から暖かく応援してくれた日本のファンの為に」2000円の特別価格だった。僕は別にデビューの時から暖かく応援していた訳ではなかったのだが、やっぱり2000円で買えた。このアルバムの曲単価は〔2000円÷17曲=118円/曲〕となり、これは僕にとって実に素晴らしいことであった。殆ど缶ジュース1本分のお金で、「ボヘミアン・ラプソディ」やら「ドント・ストップ・ミー・ナウ」やら「セイヴ・ミー」が聞けるのである。僕は大いにワーナー・パイオニアに感謝しつつ、フレディ先生の御声を毎日聞いていた。
それと、確かこのアルバムはA面28分、B面32分位で、60分カセットに録音出来なかった。今と違って、当時は64分だとか70分だとかいうカセットはなかったので、これを録音するには90分テープしかなく、大層損に感じたのを覚えている。
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そのうち、僕が浪人時代を経て、大学へ行く頃になるとCDが登場してきた。最初は、レコードと同じ45分10曲とかとかいうものが大半で、しかも3200円という高値だった。つまり、〔3200円÷10曲=320円/曲〕ということになり、いくら音がいいとはいえ、未だ完全に貧乏から抜けきっていない僕には中々辛いものだった。
しかし、74分も入るものに10曲ではもったいない、と誰かが考え始めたのであろう。CDの収録曲数と時間は次第に長くなっていった。70分ではレコードにするのに1枚では入らん、2枚組にするには短すぎる、なんていう心配も、レコード自体が生産されなくなってしまったので雲散霧消した。また、対応するカセットも、次々とタイム・ヴァリエーションが増えていったので、『クイーン・グレイテスト・ヒッツ』のような事態は起こらなくなった。CD自体も安くなり、大概の曲単価は、〔2500円÷15曲=167円/曲〕なんてものになった。今の新作CDは、12〜13曲で55分から60分位、多いやつなら19〜20曲で74分なんてのが主流になり、ボブ・ディランみたいに10曲35分なんてのを出そうものなら、手抜きとも見られかねない状況である。
しかし、最近、僕はどうもCDをプレイヤーに入れて、「43分18秒」とかいうのをみると安心するようになった。収録時間が長いやつは、レコード時代ならボツになったような水準の低い曲をダラダラと放り込んでいたり、「12曲+ボーナストラック6曲収録」などと称して、前の12曲の勢いを削ぐだけのものが大半であるように思う。イーグルスの復活ライヴ盤なんて、どういう細工か79分もあり、「45分に絞りこんだ方がいいのになあ」と思うことしばしばである。
おまけに、CDはA面B面がないから、例え同じ45分でも、レコードよりメリハリがいるのである。70分もA面B面チェンジのトイレ休憩もないままリスナーに一気に聴かせるには、余程のテンションが必要なのではないだろうか? 結局のところ、アーティストもリスナーもレコード時代の方が幸せだったのかなぁ、などと曲単価理論は何処かへ追いやって、つい郷愁を感じてしまう。
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ビートルズの『アビイ・ロード』は69年の作品だから、当然レコードを意識して作られている。A面ラストは「アイ・ウォント・ユー」、ブルージーなサウンドにジョンの叫びが乗っかるというかなり重い曲で、エンディングは永遠に続くかと思われるインストゥルメンタルがブチッと切れるという仕掛けである。代わって、B面トップバッターはジョージがエリック・クラプトン邸の庭で書き上げたと言われている太陽讃歌「ヒア・カムズ・ザ・サン」で、極限まで爽やかなアコースティック・ギターの音色で始まる。レコードで聴いていると、A面は「アイ・ウォント・ユー」の一種独特の緊張感に包まれつつ終わる。そして、数十秒の間をおいてB面に針を落とすと、「ヒア・カムズ・ザ・サン」の至福の安堵感が訪れるのである。
ところが、この儀式がCDでは味わえない。「アイ・ウォント・ユー」とその前の「オクトパス・ガーデン」の曲間と同じ時間しか、「アイ・ウォント・ユー」と「ヒア・カムズ・ザ・サン」の間には与えられていないのである。
これはいけない。この2曲は3秒や5秒でつながってはいけないのである。だから、CDで『アビイ・ロード』を聴く人は、「アイ・ウォント・ユー」が終わったら、プレイヤーを一時停止にしてトイレに行かなければならない。トイレに行きたくない人は、郵便受けに夕刊を取りに行かなくてはならない。トイレにも行きたくないし、夕刊も取ったという人は、3時のミルクティーを沸かさなければならない。
とにかく、何でもいいからリスニング作業を一旦止めることである。そして、「アイ・ウォント・ユー」の余韻を心の何処かに残しながら、満を持して「ヒア・カムズ・ザ・サン」に相対する。それがビートルズに対する礼儀というものである。
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コンセプト・アルバムというのがある。フーの『トミー』や『四重人格』、デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』といった作品がその代表で、要するにキャラクターの明確化された登場人物が複数曲に現れ、ストーリーが展開されていくというやつである。
『ジギー・スターダスト』の原題は『The Rise And Fall Of Ziggy Stardust And The Spiders From The Mars 』という長ったらしいもんで、もともとの邦題は『屈折する星くずの上昇と下降、及び火星から来た蜘蛛たち』といった。僕は一回で覚えられなかった。それから、『四重人格』の原題は『Quadrophenia』といって、これは造語なのでどこの辞書にも載ってない。
このように、コンセプト・アルバムは題名からしてややこしいのである。ましてや内容となると、もっとややこしい。しかし、ややこしい方がいいのであって、余り分かりやすいコンセプト・アルバムは、安っぽく扱われて馬鹿にされる。情報量の圧倒的に多い視覚的手段を用いる映画に対抗するためには、分かりやすさよりも、想像力を喚起させる難解さとイメージの散乱が有効なのである。
しかし、映画ではないのだから、言葉なしでイメージを完全に伝えるというわけにはいかない。当然、そこでは歌詞が意志伝達手段として大きな位置を占めることになるのだが、ロック・アーティストのほとんどが英米人である以上、歌詞は英語で書かれるのである。これは非常に大きな問題として、我々日本人の上にのしかかる。
ロックなんて(あるいはポップ・ミュージックなんて)しょせんはメロディとリズムさ、歌詞なんて二の次、三の次なんだよん!! という考え方もあろう。まあ、それでいい種類のものも多いのは事実だが、コンセプト・アルバムともなるとそうもいかない。少なくとも、アーティスト側に何か伝えたいことあるという事情が、リスナーに前もって分かっている場合、リスナーは真面目にその歌詞の意味を受け止めてやらねばならないのだ。
ところが、他の人はどうか知らないが、僕はン十年も洋楽ばっかり聴いている癖に、英語がからっきし駄目で、ヒアリングは勿論、辞書引き引きの対訳作業さえまともにこなせない。大体が、星くずがどうしただの、四重人格が分裂しただのという、ただでさえ意味不明な歌詞を、その程度の語学力で凌ごうという考えがどだい無理なのである。
ということで、頼みの綱は日本盤に添付の対訳ということになる。
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対訳というのは付いてて当たり前だというのが最近の感覚だろうが、これは洋楽全体の売上減少、輸入盤のシェア上昇といった要因に危機感を持ったレコード会社のサービスが広がってきた結果で、80年代に入るくらいまでは、そんなモンがついていれば、しみじみ有り難く感じたものである。
昔ラジオ関西でやってた「全米トップ40」という番組で、「私は将来洋楽の歌詞を翻訳する仕事に就きたいのですが...」という相談のハガキに対して、自身も対訳をこなす湯川れい子氏が、「あんなもんだけで絶対に食べていけませんよ。アルバム1枚やっていくらになると思います? 5千円ですよ、5千円。」と言っていたことがある。つまり、輸入盤なんてものが簡単に手に入らず、ツェッペリンが売れまくり、アバがヤンリクで1位を独走する時代を知るレコード会社としては、対訳なんちゅうものはあくまでもオマケに過ぎず、そんなサービスをせずとも、殿様商売で世の中を渡っていけたのであった。
さて、学生時代にフーに心酔し始めた僕は途方に暮れた。『トミー』や『四重人格』の意味が分からんのである。他のアルバムは百歩譲って良しとしよう。しかし、この2枚だけはそうはいかない。何しろ「コンセプト・アルバム」なのだ。その上、「ザ・フーとは何より精神的なバンド」であり(by松村雄策氏)、リーダーのピートは「60年代最大のイデオローグ」なのだそうである(by小野島大氏)。イデオローグとは何ぞや、と辞書を引くと、「観念」と書いてある。ここまで言われて、メロディ&リズムだけで済ます事などができるはずもない。
フーは日本では全く人気がなく、問題の『トミー』『四重人格』を含めたほとんどのアルバムは、中古屋か輸入盤屋で手に入れるしかなかった。『トミー』は中古の日本盤を2000円で買った。しかし、当然の如く対訳はなし。一方、『四重人格』は中古さえ見つからず、更にイギリス盤もアメリカ盤もなく、6000円も出して西ドイツ盤CDを買わざるを得なかった。そのCDにはドイツ語の説明はあったが、どこにも日本語が見当たらなかったのは言うまでもない。
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困った。非常に困った。英詞とニラメッコして何とか雰囲気みたいなものは分かるが、いかんせん限界がある。ならば、一生懸命英語を勉強すればよいではないか、と言われそうだが、元来アンテナがズレている僕は、死んでも中古屋で対訳付き日本盤を探し出してやる、という見当違いの方向へパワーを注いでしまったのだ。
しかし、世間はそう甘くはなかった。ない。講義をサボって、丸一日ミナミとキタの中古屋を巡ってもそんなものは見つからなかった。英語の出来る友達に頼むという手もあったが、ちょっとやそっとの量じゃない。そのうちに英語の出来る奥さんに訳してもらおう、ということにして僕はいったんあきらめることにした。(ここに至ってもなお自分で英語を勉強しようという気にならなかったというのは、今考えれば、全くもって不可解なことである。)
一年ほどたった頃、近所のレンタルビデオ屋に『トミー』の映画が入った。オリジナル・アルバムの発表から6年後に鬼才ケン・ラッセル監督が映画化したやつである。置いてあるのは日本盤、ということは字幕で対訳があるはずだわな……
早速ビデオを借りてきた僕は、恐るべき作業に突入した。映画の字幕を全て書き写すという暴挙である。一体、あのパワーは何処から湧いて出てきたのだろうか? 最早、今の僕には想像もつかないことである。
けれど、ここにも問題があった。一般的に映画の対訳というのはスピードを要求される都合上、意訳が幅を効かせており、歌詞対訳に比べて、詳細な表現をハショっていることが多い。『トミー』も同様だった。僕の貧弱な英語力でも、「そこをそない訳すかぁ!」という箇所が頻出した。更に問題だったのは、何の気まぐれか、映画版と称して、オリジナルの歌詞がかなり大幅に変えられており、オリジナルの対訳に活用しようと、考えていた僕には余計な迷惑だった。
それでも、「原」対訳が手に入ったのである。あと、これを「本」対訳にするくらいは僕にもできるであろう。もっともいつになっても、その作業には取りかからなかったが。
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就職した年の夏に、信州に旅行に行った。前のバイト先で知り合った友人が、夏の間、白馬のペンションで住み込みのバイトをすることになり、8月の終わりの彼のバイト終了に合わせて、僕が向こうへ行って、2、3日遊んで一緒に大阪へ帰ってこようという計画を立てたのだ。だから、行きは半年前に20万円で買ったばかりのオンボロ車でのひとり旅だった。
2日目に彼と合流することになっており、初日は一人で松本の街を自転車でブラブラと回っていた。金がなかったので、泊まりは安いビジネス・ホテルにした。夕飯を食べに行こうとホテルを出て、繁華街に向かおうとしたが、案外さびれた所の方がうまい店があるかもしれんな、と思い、山手のほうに足を向けた。
しばらく歩くと、小さなレコード屋があった。中古屋だった。連れがいるわけでもないし、別に急ぐ必要もないので、僕は何を考えるとでもなく、中へ入った。店は10坪程の小さいもので、世間一般ではそろそろでかい顔をし始めていたCDは全く置いてなかった。
まずはクイーンのコーナーを見る。次にフーである。これはもう癖になっている順番であった。フーのところは、やはり単独では与えてもらえず、キンクス、ジャムと合同のコーナーである。おもむろにレコードを繰っていく。あるのは『イッツ・ハード』『フェイス・ダンス』といった最近のものばかりだったが、最後に『四重人格』が一枚あった。どうせ西ドイツ盤だろうと思って裏クレジットをみると、そこには次の文字が刻み込まれていた。「¥3600」
さんぜんろっぴゃくえん? マルクとちゃうよな? ということはドルか? 待て待て、3600ドルと言えば、250円×3600だから……そんなはずあるかいな! ¥っていうたら円に決まってる、明治以来日本国が使用している通貨単位……
ということは、これは、演奏者ザ・フー、原題『Quadrophenia』、邦題『四重人格』というアルバムの日本盤なのだ。そういえば、表の上オビのところに、「ARTIST: THE WHO、TITLE:四重人格、日本盤(中古)、8500円」と書かれていた。コソコソと中を見る。ある。対訳が入っている……
次の瞬間、僕は1万円札を握りしめてレジのオッチャンの前にいた。
「いやあ、僕は大阪から来たんですけどね、ずっとこれ探してたんですよ、もうないでしょ、これの日本盤、どうしても対訳欲しかったからね、ほんまに偶然やったんですよ、ここにくるつもりなかったし、そこのホテルありますやん、ビジネス・ホテル、あそこに泊まってるんですけど、メシ食いに行こうと思ってこの前通りかかったんですよ、ほんならこの店が目に入ってね、ちょっと覗いたらこんなずっと探してたモン見つかって、いやあ、ホンマニ……」
僕は何を一人で喋っていたのだろうか?
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それから、また数年が過ぎ、遂にと言おうか、フーのバック・カタログが再発された。全作品解説・歌詞・対訳付き。暇だった学生時代に、馬鹿みたいな労力を注いだ末に、この手に確保した汚い中古レコードは完全に無価値になったのである。
好きなアルバムがCDでいつでも手に入るようになったら、面白くないなんていうマニアみたいなことは全然思わない。「アナログじゃないとロックじゃないよ」といつまでも言ってるやつもいるが、中身が素晴らしければ、CDでもレコードでも感動は一緒だ。ジャケットはレコードのほうが楽しいけれど、そうやって惜しまれながら消えていくのが、どんな世界にでも共通する正しい世代交代なのだ。
ただ、ちょうどCDとレコードがバトンタッチする時期に最も多くのロックを聴いた僕には、それは単なる媒体の違いとかいうんじゃなくて、妙に直接肌に蘇ってくる思い出の触媒としての役目があるような気がする。CDで買い換えたために、レコードと両方持っているアルバムもたくさんあるけど、レコードの「俺は過去には王様だったんだぜ」と主張しているような大きなジャケットと、CDの「何言ってんだよ、今が問題なのさ」とクールにホザく鼻っ柱の強そうな小さなジャケットを見ると、全く違う印象を受けるから不思議だ。
けど、何年か後には、どこかに昔の僕と同じ様なやつがいるんだろうな。その頃には、今売っているCDの半分くらいが廃盤になっていて、それを探して中古屋さんを必死で駆けずり回っている小汚い学生が。