小谷城(鼎の城)

所在地:堺市豊田
 小谷城、東山城、西山城の三城を合わせて『鼎の城』といわれていたそうです。
 平頼盛の子河内守保盛、その子の僧都心圓は、源頼朝の帰依を得て上神郷を領しました。そのとき、その弟・頼晴は、上神左近将監政員と改称し、建久7年(1196)、上神郷に東山城を築いたそうです。
 五代四郎政有に至って、寛喜3年、小谷城を築き小谷殿と称したそうです。八代権之進則常は、元徳年間(1329−31)、南朝の宮方に属したのですが、笠置で戦没したそうです。また九代の常信も南朝方として各地を転戦したということです。地理的に、楠木氏の本拠地河内に近いうえ、楠木氏の一族和田氏の本拠地(異説もある)に隣接していることから南朝方に属していたこともうなずけます。
 戦国期の元亀2年(1571)、二十二代小谷政種の時、三好氏に攻められ政種は戦死し、三城ともこのとき落城しました。
 なお、東山城・西山城の遺構は、泉北ニュータウンの建設により消滅したのですが、小谷城の遺構は現存しています。