松浦氏

守護被官、守護代
居城:蛇谷城(貝塚市木積)
 出自は、肥前(熊本県)の松浦氏とも、近江(滋賀県)の佐々木氏とも言われていますが不明です。
 南北朝時代、南朝方の木積蛇谷城(貝塚市木積)に籠る松浦某が足利軍に攻められたそうです。また、その子、松浦八郎左衛門は河内の楠軍に合流したと伝わっていますが、定かではありません。
 戦国期の諸文書や軍記には『和泉の松浦肥前守』の名が度々登場します。これは守、光のことです。
 守は、和泉守護代を勤め、守護細川氏の旗下度々軍功をあげました。また、守は木積蛇谷城(貝塚市木積)の城主でもあり、天文4年(1535)には野田山城(後の根福寺城)を築城したといいます。
 光は、永禄元年(1558)岸和田城主十河一存に蛇谷城を攻められますが、近隣の百姓を指揮して撃退したそうです。この時、光は弱冠16才であったといわれています。その後、光は紀伊根来寺の後ろ盾を得て、岸和田城主となりました。
 寺田安大夫は、松浦肥前守の家老でしたが、岸和田の浜辺で肥前守を暗殺し、自ら松浦と名乗るようになりました。安太夫が暗殺した肥前守とは光のことと推測されます。
 (『貝塚市史』などより)




       
 守───光