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再び御挨拶です 投稿者:たろう 投稿日: 6月30日(土)21時45分42秒
Sさん、YOAKEさんはじめまして。
お二方とも本当に凄いですね。
和泉国泉郡に住んでいる
県犬養橘氏(一応江戸時代からの伝承ですが)のたろうです。
さきほどはびっくりしたので変な書きこみで失礼しました。
中々興味深い話題、じっくり読ませて頂きます。
昔はここをよく使わせて頂いていたのですが、
ずっと、まったく違う世界にいたのでちょっとボケてます。
いきなりハードな話題になってるので、
入るにはちょっとリハビリが必要ですね。
masakiさんは留守してるのかな?
この掲示板は、あるサイトの掲示板の
辻本問答からはじまりました。
それでこっちにも掲示板を作ろうということで
masakiさんが推進され設置されました。
今後もここが発展すると楽しいですね。
本当にご無沙汰してました。
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六十六部経聖忠岳、生まれ変わり件 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月30日(土)21時12分03秒
これ以上は書けません。
私の母方が佐々木氏の関係なので、ちょっと場の雰囲気が...(;^_^A アセアセ・・・
武田家→今井家→堺今井家(この家は佐々木家なのですが、武田系今井家と親戚関係にあるそうです)
馬鹿にしている、穿り返されていると言われれば其れ迄なので..(;^_^ A フキフキ
この話は、これで終わらせて頂きます。
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(無題) 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月30日(土)21時01分21秒
はじめまして、たろうさん。
話を戻しますが、
>母家女房。此女房大名子三人。長.管領畠山右衛門佐。仲.小笠原。季.飛川江馬是也。可謂奇異乎。
女
┠畠山右衛門佐
┠仲:小笠原室
┗季:飛川江馬室
とも読み取れます。何故、中が仲なのか?参が季なのか?の疑問により。
で、もう一つ
女
┠長:畠山右衛門佐室
┠仲:小笠原室
┗季:飛川江馬室
全てが嫁入りなら.....(近親相姦禁止により書面にも影響があるのは御存知でしょうが、これも、もしかしたら...)
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1年ぶりぐらいかな? 投稿者:たろう 投稿日: 6月30日(土)19時46分22秒
10000人目の訪問者になった「たろう」です。
(ハードコピーはまだ持ってるよ)
ごめんなさい、東京やなんや行ってまして、
1年ぐらい覗いてなかったと思います。
今、覗いてびっくり、
知らんうちに凄い掲示板になってますね。
昔ほどの書きこみはできませんが、
また、よろしくお願いします。
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六十六部経聖忠岳 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月30日(土)19時30分10秒
和泉の者(でしょう多分..)。死後に、忠岳を附けられています。
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飛川江馬家について 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月30日(土)19時27分31秒
お手上げです。
飛騨国江間(江馬)家なら半国守護家で該当しますし、地域的にもあいます。
が、江間家の文書は殆ど有りません。
これは、地番沈下による地崩れのせいで、飛騨国の数家が、名を残すのみとなっています。
それと武田信成(だったかな?)は京住み30余年で、関東公方とも縁があったみたいで、
畠山・小笠原・江間氏に関係できる事は、確かです。
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(無題) 投稿者:YOAKE 投稿日: 6月30日(土)17時39分33秒
いや、なんとも、簡単に、関連する資料が、出てくるので驚いています。Sさん、ただ者じゃないですね。
確かに、義就の母についての、この記載が真実の事ならば、確かに、とんでもない女性であったわけで、
系図の作者も半信半疑で、「奇異と謂うべきか」と書き加えたのでしょうかねえ。この事に関しての軽い
論文を以前、見た事がありまして、「三人の大名の子供を生んだ女性」この事が事実なら、確かに面白い
のですが、三人の生まれた時期を考証して、少し無理があるのではないかというのが、結論でした。しかし、
それでも火のない処に煙は立たないわけで、何かが、やはりそこにあるに違いないのですが。あるいは、多少
のタイムラグを乗り越えて、彼女は、真実、三人の子供をうんだか?それと南条範夫でしたか、この事を取り
上げた短編小説がありましたが、これはフィクションでした。どちらにしても、義就の母は、ただ者ではなか
った?
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ちょっと宣伝 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月30日(土)16時31分42秒
続郡書類従完成会
〒170 東京都豊島区北大塚1-14-6
TEL 03-3915-5621 FAX 03-3915-5830
郡書系図部集全七巻1.1万円
武鑑・寛永家譜家系図・郡書系図部集等を纏めた22万円とお高い物も..(購入してません(笑))
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小笠原政康母 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月30日(土)16時22分46秒
武田陸奥守信春女。
甲斐武田本家
信武
┗信成
┗信有 改.信春 号.華峯?
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追記 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月30日(土)15時47分40秒
宗康
二男。母春日女。十歳元服。号松尾五郎。左京大夫。此宗康不思議之再誕人也。六十六部経聖忠岳者。
参籠善光寺之時、小笠原政康五六百騎(略)。令詣善光寺
(略.大体.生まれ変わりの事が書いてます。実験なにかで死ぬ寸前人の足の裏に文字を書き、二年後に
生まれた赤子に、その文字が..と言うやつです)
。(略.善光寺表漆田原の戦)。持長継父畠山徳本子息右衛門佐依為時之管領。(後略)
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これ? 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月30日(土)15時22分51秒
郡書系図部集 第三 p90上段
小笠原政康
┠持長
┃┃嫡男。母家女房。此女房大名子三人。長.管領畠山右衛門佐。仲.小笠原。季.飛川江馬是也。可謂奇異乎。
┃┠清宗
┃(略)
┠宗康
(略)
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YOAKEさんへ 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月30日(土)15時01分34秒
畠山氏を調べるなら河内(河内長野・富田林・羽曳野・藤井寺・交野)の方が..(;^_^ A フキフキ
義就・政長の確執の件は、細川勝元も関わっているので、京都も視野に入れた方が良いと思います。
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畠山系図(郡書系図部集 第二 P390) 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月30日(土)14時54分09秒
満家
┠持国 左衛門督 尾張守 法号:徳本
┃┠義就
┃┗政長 左衛門尉 尾張守
┃ 実持富之子 初徳本無子 養政長為子(後略)
┗持富 左馬頭
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(無題) 投稿者:YOAKE 投稿日: 6月29日(金)19時17分29秒
Sさん、ありがとう御座いました。吉益系図、面白いです。
たとえば、系図の基家を、義就の息子で、改名して、義英になったと、解釈される事が、多いのですが、
この系図では、ずばり持国の、晩年の子供で、義就に育てられ、母は、紀州粉川の人だと、すこぶる明快で、
信ぴょう性が、ありそうです。堺市史など、このあたり、かなりあやふやで、私としては、何か、少しすっきり
した気分です。これで、義就の母についても、書かれていたなら、いう事ないのですが、残念ながらありません。
彼女こそが、義就の家督相続の妨げになったわけで、つまり、長い畠山二流の争いの原因とも言えるわけで、小笠
原氏の系図に、その記載があるという説もありますが、(小笠原某と義就が、同母だという記載があるらしです)
しかし「?」です。ただ、彼女、かなり長生きしたようで、晩年は、息子のいる高屋城近くの西淋寺で、生涯を終
えてます。吉益系図、まだ全部を見てませんが、そういうわけで、色々と示唆にとんだ記載が、多々あります。
ご好意、まことに、感謝しております。
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(無題) 投稿者:YOAKE 投稿日: 6月29日(金)00時09分04秒
佐保ではなく左保でした。吉益系図ですが、たしかに、かなり面白いですですが、政長の記述などに、弥三郎と称
したとか、かなり基本的な間違いがあります。長禄寛正記には、当初、弥三郎を立てたが、死亡したので、弥二郎
を立てたと書かれていますし、弥三郎が、代々の家督相続者の通称ならば、なんで弥三郎の弟が、弥二郎なのかと
いうのも、納得できます。したがって、政長が幼くして、父をなくしたので、持国に養われ、後嗣となったという
のも、おかしいわけで、それに持富(政長父)は、嘉吉元(1441)兄持国に味方しているわけで、そんなに若死に
った?(今、手元に資料がないですが)しかし、全体としては、かなり、貴重だと思います。まだ、しっかりと見
てませんガ。Sさんが、次から次へと資料を提供してくれるので、こちらの頭がついていかないというのが、現状で
す。
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(無題) 投稿者:YOAKE 投稿日: 6月28日(木)22時46分59秒
すいません。無関心、無知にも、程がありました。しかし別段、私、自分の名前や住所を、さほど隠そうなどとも、
考えてはないのですが、YOAKEは夜明で、これ、私の名字です。岸和田の通称、「浜」と呼ばれる旧市街には、結構
ある名前です。笹沢佐保の推理小説で「タクシードライバー夜明」シリーズというのが、ありますが、東京の方にも、
夜明という姓があるのかと、驚きました。もっとも、私の弟などは、東京で暮らしていますが。
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YOAKEさんへ 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月28日(木)20時02分43秒
E−mailbox
容量:1〜3Mb
送られ来る又は送ったe-mailを置いておく所の容量です
この容量制限を越えると超過料金を取られるか、送り返されます。
e-mailaddress
メールの欄にアドレスを挿入して投稿すると、名前の欄にアドレスのリンクが附きます。
アドレスを確認したい場合、名前にカーソルを合わせて右クリックで、
mailto:xxxxxxxxxxxx のメールアドレスが表示されるはずです。
後、恐ろしいことにIPまで見ることが出来ます。
ocnでは浮遊IPですので心配することはないと思いますが、住んでいる地域ぐらいは判別できます。
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Sさんへ、お礼 投稿者:YOAKE 投稿日: 6月28日(木)07時39分55秒
吉益系図、ちゃんと着きました。有難う御座います。実のところ、PCに詳しくないので、どんな仕組みなのか、
ハッキリとは分かりませんが、大変だったろうと思いますが、もし、よろしいのなら、続きを、お願いいたします。
誠に、厚かましいですが。
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(無題) 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月27日(水)21時51分20秒
と、言いつつYOAKEさんには1.2を送ってしまいました(笑)
パンクしたなら御免なさいm(__)m
又送ります。
お休みなさい。
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┃_・) ジー 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月27日(水)21時37分30秒
今晩は、
YOAKEさん管理人さん、jpegの吉益系図要りますか?
画像6枚、2.66Mbあり軽々しく送れません。(;^_^A アセアセ・・・
cabで圧縮してみたところ2.58Mbに圧縮できましたが、e-mailでは、1Mb以上は送れないので..(´ヘ`;)ハァ
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紀州郡主旧記 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月27日(水)18時11分12秒
(前略)
1.日高湯川、居住は小松原、領知は日高郡土生村より下の浦里 海士郡の内衣奈、由良筋、有田郡広辺にて御座候、
大形今検地、二万五六千石計之領主にて
(後略)
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(35)口上之覚 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月27日(水)18時00分01秒
清光 嫡男 逸見冠者、黒源太ト号
信光 嫡男 武田五郎・伊豆守
朝信 嫡男 武田小五郎、紀州牟婁郡ニテ弓ヲ以得勝利、子細有
右武田七代甲斐国伊沢之在所より罷出、紀州ニ住所
信忠 次男 武田悪三郎、北条平泰時公御代、仁治二年季冬、紀州湯河ニテ 〜(略)
元喜 嫡男 湯河孫三郎・庄司、湯河里誕生
清喜 嫡男 湯河孫三郎・庄司
光喜 嫡男 湯河孫三郎・庄司
光種 嫡男 湯河孫三郎・庄司、然ニ光種観応二年五月上旬ノ比より八幡主上奉就尊氏公紀州日高河上城合戦之時致忠節、
尊氏より被下感状有
詮光 嫡男 湯河孫三郎・庄司、(略)
満春 嫡男 湯河孫三郎・庄司、(略)
持喜 嫡男 湯河孫三郎・庄司──公方義持より御字被下
光春 嫡男 湯河孫三郎・庄司
政喜 嫡男 湯河虎満・新庄司、(略)
勝喜 嫡男 湯河孫三郎・庄司、明応二年安房守
経喜 嫡男 湯河孫三郎・庄司
直光 嫡男 湯河孫三郎・庄司、(略)
直春 嫡男 湯河中務、(略)
勝春 嫡男 湯河丹波守、(略)
仁治弍年湯河悪三郎信忠代より万治三年(略)
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鶴原家について 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月27日(水)15時55分08秒
戦国期の鶴原加賀としか出来ません。
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源畠山吉益系図第二(の一部)について 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月27日(水)15時52分47秒
この源畠山吉益系図第二に関しては、以降を省きました(笑)
源畠山吉益系図の存在意義は畠山氏の系図を補填するに重要な文書だそうです。(吉益家の存在は兎も角として..)
この前の系図に従三位下尾張守、両尾張家の記載があります。
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(無題) 投稿者:YOAKE 投稿日: 6月27日(水)15時03分16秒
吉益系図有難う御座います。系図の中に吉益という若死にした人の名前がありますが、はて?どうして、この系図を
吉益系図と、いうのでしょうか。
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日根野に関する雑リンク2 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月27日(水)14時01分31秒
http://bfjo.org/ktup/info/kumatori/ayumi2.html ←熊取町の歩み
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_hi.html より
洲浜
和泉の日根郡から出て、日根氏と称し、のちに日根野氏となった。藤原氏の後裔とか、源氏の後裔ともいうが、
同地方に根を張る旧族日根造のあととうのが本当のようだ。弘就の代に秀吉のもとで一万六千石の領を得た。
弘就には男子が四人あり、長男高弘が家を継いで、信州高島二万六千石までになったが、後嗣がなくて断絶した。
三男弘正が先の日根であり、あとの二男吉時、四男の弘勝がそれぞれ旗本家として残った。
丸に洲浜
和泉の日根郡から出て、日根氏と称し、のちに日根野氏となった。日根野弘就の三男弘正が分家してもとの日根を
称した。徳川家康の長男信康に付属されたが、信康の自害後、先祖の地和泉の日根に戻った。のち曽孫正福の代に
旗本に返り咲いた。
http://www.threeweb.ad.jp/~umeyuki/wagamati/maturi/makura.htm ←まくら祭り
http://www2u.biglobe.ne.jp/~med-j/nikki/nempu_masamoto.htm ←九条政基年譜
http://takao.saitoh.ne.jp/9999/9902.htm より
日根県主、日根臣、日根造、桓武平氏、藤原氏、中原氏など。西条藩に存す。
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/o3hne01.htm より
江戸=日根野荘日根野村、明治=日根郡日根野村大字日根野字大井関
和泉国諸蕃に「日根造、新羅国人、億斯富使主之後也」とある。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hineno.html ←播磨屋の日根野氏の項
v
http://www.kamnavi.net/ny/hine.htm ←日根野神社のHP
(四)戦国時代の一五〇〇年ごろ、大井関大明神で盛大な祭礼がおこなわれていることが、日根荘の領主九条政基の日記
「旅引付」に書かれている。戦国時代末になり、日根神社は朱印地(五〇〇石)を受けるが、織田信長、豊臣秀吉は統
一のために根来寺や一向宗徒を攻撃した。日根氏は秀吉に従ったが、一五七六年(天正四年)に兵火により炎上した。
一五八五年(天正十三年)には秀吉により神領地が没収された。この年より和泉五社の神輿会合は中止された。しかし、
その遺風は各神社で受け継がれ、日根神社では岡本村の船岡山への神輿渡御が始まったとされている。
(五)一六〇〇年(慶長五年)豊臣秀頼は吉田半左衛門を奉行として社殿を再興した。これが現在の本殿です。一六八七年
(貞享四年)岸和田藩主岡部美濃守は水田一町余を寄進した。春の祭礼で幟の行列が船岡山まで華やかに渡御した。
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日根野に関する雑リンク1 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月27日(水)13時50分35秒
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/endo/monokissho.html より
さらに中野が三箇条吉書での饗応の事例として掲げた九条家領和泉日根野荘の吉書もまたこの類
であったのではないか。日根野荘における吉書を物語る『政基公旅引付』文亀二(一五〇二)・
三・四年正月の記述は、概ね以下のように集約できる。日根野東方・同西方・入山田の各村落で
吉書のあったこと、会場は政所・寺庵であったこと、領主側の人間と村落側の番頭衆・寺庵衆・
古老衆が会した饗宴のあったこと、その用途は領主側で負担したこと、などである。ところが肝
心の吉書の様式、つまり三箇条吉書がそこで使用されたとの記事が存在しない。ここで注目した
いのが文亀二年正月二日の記事である。「日根野村(東方)吉書今日也、依例仰付無辺光院行之
云々、」、すなわち無辺光院善興に命じて吉書が行われたとある。そして次の無辺光院善興書状
が日記に挟まれている。
大井関(日根野内、無辺光院在所)より、御祝言之物共御進上申候、円鏡一面・ます鏡一面・
けへふ九ツ・柿一串・同御御穀、進覧令申候、此分可然様ニ御披露可有候、旁々以参拝候、御吉
事重々可申上候事、恐々謹言、
正月二日 無辺光院善興(花押)
兵部少輔殿(竹原定雄、政基の家人) 人々御申(中カ)
http://www.sakuranet.or.jp/~kido/ari.htm より
番頭荘園は、鎌倉末期、南北、室町時代に起こった。宮座は、神社の円座を意味し、祭祀組織
である。その宮座の指導者は、村落の共同組織(惣)の指導者がなった。現在の市議会長と市長
を兼ねたものである。荘園領主は、番頭に給田与え番頭を通じて、確実に支配や年貢の収取を行
うことができた。これを番頭荘園と呼んでいる。長滝荘には三人の番頭があり、日根野には四人
の番頭が置かれている。領主九条家や、禅興寺が長い歳月の間、続くことができたのは、この番
頭制によるものである。
http://www.ne.jp/asahi/taniyan/castle/html/gunki/tonoha.htm より
居城/美濃国中島城 家紋/洲浜 先祖/和泉国日根野荘の出
系図/致有−致秀−盛実−盛氏−盛経−盛冶−時盛−国盛−国景−盛澄−盛久−盛長−国吉−秀盛
−景盛−某−弘就−高吉−吉明
<一口メモ>弘就は斉藤道三に仕え、龍興の時に斉藤家が織田信長に滅ぼされると、今川氏真の家
臣となった。このときの居城が美濃国厚見郡中島城であった。のち信長・秀吉に仕え、文禄3年(
1594)には尾張および三河国において1万6000石を与えられている。高吉は天正18年信
濃国諏訪郡2万8000石を与えられ、諏訪高島城の城主となっている。吉明は大阪夏の陣でも活
躍している。
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諸々(日根野氏関係) 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月27日(水)13時20分34秒
忠岡町史 第一編 考古・古代・中世 第四章
p133
日根野孫二郎(日根文書.信長公記)
p135
日根野六郎左衛門とその一族
不明
p7 三十六人郷士名前左之通り
日根野若狭守 同(居城) 日根野村
p10 隆家
日根野七郎此時に乗遺恨を問わん事を
p14 寛永ノ末岡部氏岸和田入城後、小出播州ノ例に依て両家に日根郡代官を預けらる
岸和田市史 第3章 戦国時代の岸和田 第4節 戦後の動乱と守護・守護代
p628 永禄四
八月廿六日
実休(花押)
日根野孫七郎殿
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源畠山吉益系図第二(の一部) 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月26日(火)10時29分24秒
義英
┠勝益
┃┠匡弼
┃┃┠萱振次郎五郎飛騨守盛藤豊貞 19歳高屋討死
┃┃┠国分二郎六郎盛宮豊氏 為国分但馬守養子 18歳高屋討死
┃┃┠藤代次郎七盛岩 為藤代出羽守養子 17歳高屋討死
┃┃┠吉益小太郎盛竹 16歳高屋討死
┃┃┠盛秀
┃┃┠盛虎 14歳高屋討死
┃┃┠助秀
┃┃┠某
┃┃┠増田鉄之助某
┃┃┠女
┃┃┠女
┃┃┗中野富三郎某 女中狭山為養子
┃┠家長 氏.加納 名.内蔵之助 天文21年10月28日為遊佐信教討死
┃┠女子 坪井某室
┃┠女子 烏帽子形城主草部肥後守室
┃┠女子 高井田右京進室
┃┠長景 氏.遊佐 名.三郎左衛門 為遊佐河内守家長之養子 於紀州中島領地弐千貫之地
┃┃┗某 遊佐紀伊守
┃┠女子 鶏冠若狭守室
┃┠女子 大堀大膳太夫室
┃┠女子 伊賀地某室
┃┠女子 恩地左近室
┃┗女子 芳賀某室
┠頼豊 三郎 中務大輔
┠国綱 弥三郎 大蔵大輔 後号:遊佐勘解由左衛門 領.越中国戸波郡
┠長綱 四郎 掃部督 後号:池永左京亮
┗女子 遊佐河内守長直室
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(無題) 投稿者:YOAKE 投稿日: 6月25日(月)20時17分34秒
Sさん、ひたすらに、湯川氏の資料。湯川氏が、武田の一族だとは、知りませんでした。湯川氏が、
畠山を、担いで、畿内に、進出を、企てるのは、あるいは、この名門意識のためですかね。若狭の
武田氏も、将軍家にすりより、名門意識がきついですが、これは、周囲の、強力な大名、浅井、朝倉
などに対して、家
格を、あげる事によって、対抗しょうとしたから、でしょうね。これは、結局、
領国経営を、疎かにするという失敗になるわけですが。湯川氏は、南紀から、「今に見ていろ」と、
出世したこの若狭の同族を、見ていたわけですかね。
以前は、ちょくちょく御坊へ行きましたが、最近は、ご無沙汰です。故伊丹十三が絶賛した御坊の堀河
野村商店、三ツ星醤油1リットル瓶を、4本買い込んで、リュックに押し込み、なんとも苦しいサイクリ
ングを、した事があります。なんだか重い醤油を運ぶのだけが目的のサイクリングみたいでした。本当
に歌枕白崎の急坂のあたりで、「醤油を海に捨ててしまおうか」と、思いましたね。それに懲りて、次
からは、ゴールを御坊にして、帰宅の時に、三ツ星醤油を買いましたが。しかし、和歌山市駅の高島屋
でも、三ツ星醤油を販売していると知った時の落胆は、、、もっとも、手には入れ易くなりましたが、
なんだか、以前よりも風味が、落ちたような気がするのですが、これは「御坊まで行って、買ってきた」
という精神的な有難味がなくなったため、かも知れません。
JR御坊駅は市街から2キロほど離れてあるのですが、しかし、そこが、かって湯川氏が居た小松原です。
機会があれば、そのあたりの散策もしてみたいものです。無論、日高御坊周辺の町並みも、のんびりして
いて、近くに大規模店の進出がないので、商店街も活き活きしてました。2,3年前の話ですが。湯浅の
熊野街道沿い商店街も、丁度、熊野古道博の頃ですが、いい雰囲気でしたね。話が無茶苦茶で、おしまい
にします。
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御無沙汰です 投稿者:管理人 投稿日: 6月24日(日)23時29分50秒
御無沙汰しています。
管理人です。
最近出張が多くてぐったりしています。
自宅でインターネットをするのは随分久しぶりです。
不精な管理人で申し訳ありません。
たろうさんは、本当によくご存知でした。
でも、よあけさんや通行人_Sさんのご両人も
たろうさんに負けず劣らず博識ですね。
たろうさんにもまた戻って来て貰いたいものです。
そうすれば、管理人不在のこの掲示板もますます
にぎやかになるのに・・・。
おっと、他力本願はいけませんね。頑張ってHPの更新に
精を出します。
でも、来週4日間も出張でやっぱり掲示板のカキコミが滞って
しまいますがご容赦下さい。
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紀州武田系図(郡書系図部集 第三 P69) 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月24日(日)17時52分43秒
義行 南古九郎 号:八条蔵人
┗義継 法名:浄蓮
┠家房 武田九郎
┃┗家弘 武田太郎
┃ ┠景弘 武田太郎
┃ ┃┗某
┃ ┠範長 川次郎
┃ ┃┠行長 毘沙王太郎 出家 小別当長慶(異い.広)
┃ ┃┃┠末長 別所次郎
┃ ┃┃┃┠師長
┃ ┃┃┃┗某
┃ ┃┃┠某
┃ ┃┃┗長生(異い.氏) 上三郎
┃ ┃┠有長 幸徳二郎
┃ ┃┃┠佐長
┃ ┃┃┗季長 波沙次郎
┃ ┃┠忠長 湯川庄司 本宮住
┃ ┃┃┗光長 同庄司
┃ ┃┃ ┠光春 四郎 同庄司
┃ ┃┃ ┠光時
┃ ┃┃ ┗光平 八郎
┃ ┃┠長村 四郎
┃ ┃┗長俊 五郎
┃ ┃ ┠長清 若太郎
┃ ┃ ┃┠長康
┃ ┃ ┃┗長経
┃ ┃ ┠長義 尾喜次郎
┃ ┃ ┃┠頼村 次郎太郎
┃ ┃ ┃┠某
┃ ┃ ┃┠某
┃ ┃ ┃┠某
┃ ┃ ┃┗某
┃ ┃ ┗経長 三郎
┃ ┠師房 御本三郎
┃ ┃┗師親 左兵衛尉 土州住
┃ ┃ ┠師重 兵衛太郎 出家良坊
┃ ┃ ┃┠重継
┃ ┃ ┃┠師直
┃ ┃ ┃┗為重
┃ ┃ ┗経重 兵衛三郎
┃ ┃ ┗某
┃ ┃ ┗某
┃ ┗弘俊 武田四郎
┃ ┠光俊 武田太郎 出家 法名:城佛 号:日足入道(←道号と言います)
┃ ┃┠俊平 武田四郎
┃ ┃┃┗俊秀 武田孫四郎
┃ ┃┠源慶 権大僧都
┃ ┃┗長俊 掃部左衛門尉
┃ ┃ ┗守俊
┃ ┠忠俊 会洲次郎 又作愛州
┃ ┃┠宗俊 左(異い.右)衛門尉
┃ ┃┃┠某 左衛門太郎
┃ ┃┃┠頼宗 左衛門次郎
┃ ┃┃┠某
┃ ┃┃┗某
┃ ┃┠頼忠 會洲又二(異い.五)郎
┃ ┃┠季俊 會洲三郎 号:紀伊権守
┃ ┃┃┠季房 三郎太(異い.五)郎
┃ ┃┃┗忠季 三郎二郎
┃ ┃┠家俊 會洲四郎
┃ ┃┠俊平 武田二郎
┃ ┃┃┗貞俊 武田次郎 美濃住
┃ ┃┃ ┗俊綱
┃ ┃┠忠行 會洲五郎 伊勢住
┃ ┃┗忠房 伊勢守
┃ ┃ ┠春松丸
┃ ┃ ┗熊菊丸
┃ ┗實俊 會洲三郎
┃ ┠頼俊 會洲源太 号:讃岐権守
┃ ┃┠俊氏 左衛門尉
┃ ┃┠景俊 左衛門尉
┃ ┃┠頼定
┃ ┃┠菊熊丸
┃ ┃┗六郎丸
┃ ┗重俊 會洲源次 号:甲斐権守
┃ ┠俊春 會洲源七
┃ ┃┗小法師丸
┃ ┃ ┗定俊
┃ ┃ ┗慶橘丸
┃ ┗俊房 備中権守
┠家継 源二
┠重房 源二(三カ)
┗重連 四郎
┠重氏 四郎二郎 日高住
┠眞連 二郎太(異い.五)郎
┗眞氏
┗堯眞
┠重行 左衛門尉 丹波国住
┃┠行眞
┃┠宣深
┃┗泰深
┗嚴深 法印
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嫡男と長男の違い 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月23日(土)18時39分53秒
長男は一男
嫡男は家督相続権を持つ男子
統計では
礼儀として
長男
長男の子で長男
実質として
家主足る者
一番若く家主足る者
が大半でした。
その他に
本家が再興
本家からの養嗣のみ
外孫を養嗣にする(論外ですが一応..(;^_^A アセアセ・・・)
がありました。
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下の続き 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月23日(土)18時16分21秒
次男は代番に不登不足して甲州を立退、紀伊国熊野の内、湯川と申所に城を構へ居住す。
湯川の先祖是也。
本来武田家次男也、家紋割菱也、それより湯川末々の代に、紀伊国口部に押出、日高郡小松原と云所に居城す。
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若州湯川彦衛門覚書(郡書系図部集 第二 p354 下段) 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月23日(土)18時05分33秒
湯川家老四天王
湊
高垣
津村
林
以上四人
湯川の名字は、湯川一門ならでは名乗不申候
1.湯川の先祖は、古昔甲斐国武田之次男なり、武田の家に三人の子あり、嫡子と次男湯川とは本腹の一腹一生なり。
三男は後腹の子なり、嫡子次男為継母なり、然るに昔国々の守護より禁中の三年づつの大番の勤に、都に三年づつ相詰候、
武田の家の当番の時、嫡子武田太郎病気にて、上洛仕る事不成、其代番に次男可登ところに、三男の継母たる故、我が子を世に
可立為に、次男を指置、我が子の三男を、嫡子の代番に登せ勤させ候に附き、禁中より其褒美に、三男に若狭国を被下候、若狭武田
の由来是成。
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四代 湯川庄司 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月23日(土)17時37分43秒
法名:天源宗泉
此時人王95代後醍醐天皇の御宇に当て、天下大乱れて日本二つに分る、天皇芳野に移り座す、新田中将義貞、寺方為武将、足利治部少輔高氏卿、
時明院を御立即、其身任征夷大将軍、天下を争い事年久、其此紀伊国八庄司湯川、玉置、山本、恩地、贄川、貴志、荒川、湯浅、田辺の別当、
吉野の宮方に属す、延文五年の此、湯川、足利新将軍義詮卿の御手に属す、其此何者か仕たりけん、湯川の門の扉に、落首を亡書付ける。
宮方のからとに成し湯川を都に出て、何の音もせす、其後天下武家の御代と成て将軍より牟桜、日高、有田三郡永代安堵の御教書を蒙り、
紀州一国の旗頭、錦直垂を被下、日高郡小松原に城を築代々此住す。
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南部・湯川系図 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月23日(土)17時07分52秒
奈古九郎義行
┗八条蔵人義継
┗ 浄連
┗武田九郎家房
┗武田太郎家弘
┗武田太郎景弘
┠武田次郎範長
┠御本三郎師房
┃┠行長 毘沙王太郎
┃┠長慶 出家別当
┃┠有長 幸徳次郎
┃┠忠長 湯川庄司 法名:玉峰
┃┃┗光長 同庄司 法名:天心道誠
┃┃ ┗光春 号:湯川庄司弥太郎 法名:祖印宗源
┃┠長村 四郎
┃┗長俊 五郎
┗武田四郎弘俊
┠武田太郎光俊 号:日次郎 法名:城仏
┗会洲次郎忠俊 会洲元祖
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(;^_^A 云云ゥ・ 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月23日(土)07時18分10秒
お早う御座います。
過去ログ見ましたがたろうさんの博識の深さは、驚嘆ですね。(;^_^A アセアセ・・・
やはり系統学か地理歴史学の研究をされている方なのでしょうか?
とても着いて行けそうにもありません。
それから信貴家について、岸和田市積川町にも居ます(この家の家主の兄弟の女性が林家の嫁に
なって教師をしています。)が、これ以上は今の生活を壊しそうなのでここでは書けません.(;^_^A アセアセ・・・
それでは失礼します。
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(無題) 投稿者:YOAKE 投稿日: 6月23日(土)01時11分02秒
以前に、過去ログ、たいしたことはない、などと、失礼な事を、書き込みまして、お詫びします。
あれは、あくまでも、私自身の書き込みに、たいしてのものです。他の人の書き込みの事を、忘れ
ておりました。かさねて、お詫び申します。それにしても、多様で、博識な、たろうさんという方、
どこに居られるのですかね、残念です。
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(無題) 投稿者:YOAKE 投稿日: 6月22日(金)14時28分41秒
更新、おめでとう御座います。過去ログ結構おもしろいです。更新、この勢いで、木島戦記なども、お願いします。楽しみに、してます。
Sさんから、頂いた守の書状、色々考えています。何か、ご意見ありませんか?この書状、守のものとしては、一番古いのじゃないかと、
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月16日(土)20時39分51秒
私、日本刀が好きです。ところが、傑作な事に、一振も所持してませんし、なんと日本刀に触れた事もないのです。そのくせ、博物館などに、
日本刀の展示があると、ひたすらに、見ております。少し以前、和泉市の桃山大の近くにある小ホールで「和泉の刀工展」というのがあって、
行きました。ほぼ、半日、ここで楽しめました。日本刀関係の参考書も、見つけると、買い込んでます。刀工にゆかりのある、奈良のあちこちや、
志津、直江、赤坂、桑名の走井山など、機会があれば、行ってみました。ところが、現物は、一つも知らない、こんなのを「実感」のない「情報」
というのですかねえ。とても「知識」には、なりません。私の日本刀好きの原点は、あるいは、私が、昔、ぱっとしない洋菓子屋をしていた頃の、
カステラ包丁の銘が「一竿子忠綱」、これに、あるのかも知れません。この一竿子忠綱は、江戸時代の日本刀の名工です。鉛筆削りの肥後守に「正宗」
と銘があるような物で、カステラ包丁だから、許せる包丁鍛冶のジョークですが、カステラ包丁というのは、白板という大きなカステラの塊を切るために、
刃渡りの寸法がすこぶる長いのです。刃物としては、長さだけは、日本刀に、少し近いですか。しかし、私の「忠綱」ほんとうに、よく切れました。さすが
「一竿子忠綱」というところですか。ひょっとしたら、私が、本当に好きなのは、実は、日本刀ではなく、カステラ包丁なのかも知れません。それなら、
私にも、確かに、「実感」があります。
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月16日(土)09時35分27秒
いや、「きよひめ」という字が、色気のある、姿のいい字だったので、それで、隆Oという名前と堺という地名から、小唄の起源になったという
高三隆達を、ふと思い出しただけで、関係があるのかどうか、私にも、わかりません。神南辺というのも、姓字なのか、地名なのかも、わかりませんが、
このような石の道標は、武家の立てたものでは、ないでしょう。いつの時代かといえば、江戸期だろうというぐらいで、何も、わかりませんが、
この「隆O」という人、この「きよひめ」と彫った道標を残しただけでも、「いい人生だった」と、思えただろうと、そんな気がしますね。
現在人というのは、ただ情報の多さを、自己の知識とカン違いしている場合が、よくあります。情報は、整理して、それを自分なりに組み立てて、
そこに自己の「実感」を加えて、初めて「知識」となるのですが、我々は、多くの情報を、抱えているだけで、整理もできず、組み立てるなど、
程遠い有様のまま、結局、「きよひめ」の道標一本も、立てられずに、終わってしまうわけです。
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よあけさんへ 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月15日(金)06時30分21秒
>湯浅氏の資料の引用が、多いのは、なぜですか?例えば、御坊が好きだとか。
資料が残っていて勿体なかっただけです(笑)
>「泉州堺 神南辺 隆O」
もしかしたら高三では?隆三ともありますし、高三節の...
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月14日(木)07時48分02秒
御坊といえば、近くに道成寺があります。熊野古道から少しはずれて、道成寺に向かう道の脇に、小ぶりな石の道しるべがあって、
「左OO]「きよひめOOO」きよひめだけが読めました、姿のいい字です。側面には、「泉州堺 神南辺 隆O」勝手な想像ですが、
この人、清姫が好きだったに違いないと、そう思いました。あるいは隆達節の関係者かも知れませんが。この道が清姫が血の涙を流しながら、
安珍を追いかけたという道かと、御坊の方角を見ましたが、当然、日高川は見えませんでした。
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月13日(水)22時33分01秒
Sさん、なんだか、元気がないですね。突然、正体不明の資料が出てくる、あの驚きと、面白さ、期待してます。
何が、なんだかわからないけれども、神秘的じゃないですか。湯浅氏の資料の引用が、多いのは、なぜですか?
例えば、御坊が好きだとか。
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はじめまして 投稿者:ゆー 投稿日: 6月12日(火)15時45分30秒
泉州人HPから、お邪魔しました〜^^
熊取に13年前まで住んでいたので、懐かしくて・・・・
でも、学生時代から歴史・地理関係がダメな私には
難しすぎるー^^
でも、熊取。。。なつかしいから又来ます。
http://eclat.gaiax.com/home/mikato3/main
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よあけさんへ 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月12日(火)15時44分05秒
勝竜寺について
今の造幣局の機能と勝竜寺城が有った事しか知りません。
徳川の世でも漁業・商業を石高換算されているので、土地の広さに比例しません。
一貫文の値段
これは壹石と十石の両方見たことがあります。
(多分、永禄年間の備前長船の刀の販売の件に載っていると思います.刀銘は忘れました)
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月11日(月)00時16分53秒
私、一人で三連発、ちょっと、寂しい。Sさん、静かですね。
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月11日(月)00時13分55秒
細川幽斎の息子、忠興(三斎)は、長岡から、細川へ、姓を変えるにあたって、細川奥州家の系譜引く人
の養子になるという手続きを、踏んでます。先に書いた三斎の自己の系譜を語った文章の中で、
「自分は外様なので、詳しいは知らない」という外様とは、このあたりの事を言っているのかも知れませんが、
彼は、幽斎とは不仲であったので、同じ細川を名乗るにしても、父の系譜を継ぎたくなかった?それにしても、
わざわざ、そこまでする必要があるのかと、思ってしまいます。幽斎は、幽斎で細川管領家の行事であった千句
連歌会を、復活興行して、あたかも彼が、その後継者のように、振舞っているのに、です。これでは、もはや、
三斎が、「自分たちは、同じ細川を名乗っても、親子ではない」と、宣言しているに、等しい行為です。わかり
ません。よほど、父、幽斎が、嫌いであった?しかし、それならば、自分だけ、長岡のママで居るという事もで
きたはずで、ややこしいやり方で、細川を、名乗る必要もないわけで、奇妙です。
それと、後で考えると、勝竜寺3000貫の土地ですが、一貫で一石、つまり3000石の年貢の取れる土地という、解
釈の方が、正しいのか、どうか。一貫で十石というのもあったと思う、のですが、はて?今、思うと、あやふや
です。
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月10日(日)20時43分48秒
久し振りに自転車で散歩に行きました。自転車での散歩を、少し気取って言うと、ポタリングと言います、専用
の自転車もあって、YAHOOの自転車の掲示板などを、覗くと、侃侃諤諤、それは、もう、「ああだ、こうだ」
と五月蝿いほどです。しかし結局は、たかが散歩、どんな自転車でも同じですが。とか言いながら、やはり、自
転車馬鹿は、ポタ車を、引っ張り出しました。今回は和泉市、熊野詣の井ノ口王子跡から旧熊野街道に入りました。
このあたりの道は、気分がいいです。ちょっと先に小栗街道と彫った石柱があります。熊野街道というより、小
栗街道という方が、私は好きです。
業病に犯され人とも思えぬ姿になりはてた小栗判官を、箱車に乗せ、その箱車をエイサラ、エイサラと引きながら、
熊野権現の功徳を信じて、ひたすらに熊野を目指す照手姫。箱車は人々の手を借り、引き継がれるようにして、
難路の果ての熊野を、目指すのです。この凄絶なある種、恋物語は、熊野勧進比丘尼とよばれる人々によって語られ、
そして、物語を聞く人々を涙させた事でしょう。(エイサラ!エイサラ!)感動して、比丘尼に唱和する人々の
声が聞こえるようじゃないですか(私だけかも知れませんが)。私は、この物語が好きです。そして南紀熊野が
好きですね。少し以前の夏、熊野古道の難所、自転車に乗るどころか、自転車に引きずり廻されるような、人の
誰もいない寂しい所で、(エイサラ、エイサラ)と小さな声で言ってみました。これが、したかった。ちょっと
馬鹿みたいです。
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月10日(日)08時23分16秒
藤孝の幼名を満吉と、してしまいました、萬吉ですか。西岡3000貫の地は、天皇ではなく、幕府から、元有が、
貰ったものでは?今谷明氏(専門中世史)は、当時の幕府にそのような、余力があったとは思えないと、書いて
おられましたが、実質3000貫は、なかったかもしれません。後年、ここを引き継いだ藤孝は、同じ西岡で信長か
ら加増を受けるのですが、その時、彼の命に服さない国人を討伐しています。それ以前では、とても3000貫は無
理だったでしょう。しかし土地の高を、貫であらわすと、わかりづらいです。一貫は凡そ十石といいますから、
3000貫だと、3万石で、たしかに、当時の幕府に、それだけの土地を捻出すことができたか、どうか?
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よあけさんへ 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 9日(土)19時58分35秒
>元常の子、五郎
ごめんなさい。知りません。
>藤孝が元常の養子と認められたという、確実な資料がないというのです。
有るはずがないかも知れません。
話に聞くと、藤孝は足利将軍家に上和泉家を継ぐよう要請されたようですが、
元常が死亡する1552年迄、其の接触点が見いだせません。
>彼が、あっさり長岡と改名
京都長岡市史に出ているようですが、長岡京を天皇から貰らったので逃避していたのだと思います。
織田信長の荒い気性と信長上位の環境と細川幽斎系の元総理細川さんをトレースした細川幽斎では逃避もしたく
なると思います。
>三淵氏は、足利義満の落胤で、義持の時、山城、三淵村を貰い、三淵を名乗ったと言うのですが、その三淵の
場所が、わかりません。
美濃余語家(風呂屋):三淵藤英 出 1569年 言継卿記
三淵家についてはこれだけしか解りません。
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 9日(土)18時26分25秒
元常の子、五郎、天文4、5年頃、彼が、堺に居て、父、元常は、だいたい勝竜寺にいたようで、五郎が、守護の
役割を、していたようです。ところが、その後の五郎がわかりません。何かしりませんか?藤孝(満吉、与一郎)
が元常の養子になったとされるのは、天文8(1539)です。この間に、五郎が死亡したのか、どうか?不思議な事
に、藤孝が元常の養子と認められたという、確実な資料がないというのです。これは、後の熊本細川家が家譜を幕
府に提出するにあたって、散々あちこち、和泉細川家の永源庵なども、勿論、探したのですのですが、なかったの
で、以前あったらしいと、お茶を、濁しています。そもそも幽斎が、細川という名字に、まるでこだわりを、持っ
ていなかったのは、彼が、あっさり長岡と改名していることからも明らかで、又、幽斎の子、三斎も家の事を、尋
ねられて、「三淵の家の出で、刑部とやら、治部とやら、いう人に養われたらしい」と、すこぶる、あやふやなの
です。三斎(忠興)にとっては、一応、祖父にあたるはずの、元常についてさえ、この程度の認識しかないという
のは、少し首をかしげます。しかし三淵の出であるとは、はっきり言っているのです。三淵氏は、足利義満の落胤
で、義持の時、山城、三淵村を貰い、三淵を名乗ったと言うのですが、その三淵の場所が、わかりません。はて?
過去のログ、ああは言いましたが、考えてみれば、期待させるほどの、ものでも、ないのですが。こんな事を言う
と、管理人さんが怒りますか。
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管理人さんへ 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 9日(土)12時16分46秒
塚本家について
1530年頃の熊取天野社の神文の連書(神主は、一文字の姓で..(;^_^A アセアセ・・・)を、見た気がしたのですが、1531
年、近木庄天野社の神文の連書しか手元にありません..(;^_^A アセアセ・・・m(__)m
>細川五郎元有、細川五郎元常、松浦五郎次郎守、日根野五郎左衛門景盛
についてですが、
細川元有
播磨守 刑部少輔 善法寺 法名猷公 道号雲渓 幽斎の養父なり(郡書系図部集第二P372上段)
細川元常
播磨守 萬松院 光源院
--------- 歴史読本の細川家の特集をTex化し、その特集を捨て、そのtexも失った為ここまでしか分かりませ
ん。
松浦守
肥後 肥後守
---------私の資料では、此処までしか有りません。
美濃日根野氏
武功夜話に少し載っていました。
五郎について
上和泉細川家の五郎は家督継承権だと思います。
松浦守の五郎次郎は系譜だと思います。(永禄十三年1/15日二条宴乗日記には松浦総五郎とありますから相続の
家訓で嫡男は成るべく五男にしていると思います。)
日根野景盛の五郎左衛門については、系譜だと思います。(後が九郎左衛門ですし)
あと、過去ログ別ページ掲載の件、宜敷御願いします<(_ _)>
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塚本家 投稿者:管理人 投稿日: 6月 9日(土)00時57分41秒
>元熊取の塚本家が岸和田市白原辺りにある事です。
>で、それを否定する根拠も、
熊取に永い間住んでましたが、塚本家というのがあったのですか。
詳しいことを教えて下さい。
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五郎 投稿者:管理人 投稿日: 6月 9日(土)00時48分56秒
泉州中世の武将は五郎が好きなようですね。
細川五郎元有、細川五郎元常、松浦五郎次郎守、日根野五郎左衛門景盛と・・・。
通行人_Sさんはどう思われますか?
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過去ログについて 投稿者:管理人 投稿日: 6月 9日(土)00時42分57秒
>よあけさんにこう言われましたが、新規書き込みで古い順に過去ログが消えていくので、
>過去ログのページを月々か件数単位で載せて貰えれば、嬉しいのですが..
はい、なんとか考えてみますが、少し時間を下さい。
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河内鶴原家について 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 8日(金)22時05分11秒
河内鶴原村鶴原城の城主家と言う事だけしか解りません。私が調べた地史にもこれ位しか載っていなかったよう
に思います。(これも書名は..m(__)m)
で和泉鶴原領主佐竹氏の事ですが、多分、鶴原姓に成っている地史があると思いますが...
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 8日(金)21時45分03秒
「官制大観」見てきました。これだけで、一ヶ月は、楽しめますよ。
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 8日(金)21時27分16秒
何が、なんだか?河内鶴原氏というのは?はて、わかりません。泉佐野市鶴原の佐竹氏と、
どのような、つながりが、あるのでしょうか?
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官職に関する大きなサイトの件 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 8日(金)15時54分18秒
見つけました。これがなければ、大概話は進まない....(;^_^A アセアセ・・・
以下のリンクがそうです。
『官制大観』
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/
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小豆島村上水軍について 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 8日(金)15時33分17秒
意外に水軍で検索してみると分かりました。
小豆島村上水軍を『四海水軍』と言うのだそうです。
以下のリンクは、四海太鼓のメンバ−のHPです。
http://homepage1.nifty.com/isakiti/
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管理人さんへ 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 8日(金)14時36分02秒
>なんなら一度、この掲示板の以前のも、目を通してみてください。
よあけさんにこう言われましたが、新規書き込みで古い順に過去ログが消えていくので、
過去ログのページを月々か件数単位で載せて貰えれば、嬉しいのですが..
誠に勝手な御願いで済みません。<(_ _)>
自業自得と言われれば其れ迄です(笑)
検討のほど御願い致します。<(_ _)>
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薗御坊住職歴代書上(一部) 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 8日(金)11時59分01秒
43 薗御坊住職歴代書上 入山三宝寺蔵
一 第一世 祐存
湯川中務小輔直春の舎弟治部少輔信春、初唯可と称し、後証如上人より祐存と付給ふ、又タ真西とも号す、
隠居して秋蝉居士といふ、好んで笛を吹く、沈々たる蓬夜に夢も締バず、枕にすだく虫の声にいと父淋しき
折柄に、笛を取出してしらべけるに、忽虫の音止む、虫類も笛の音を感ずると覚ゆ、夫より此笛を虫おひと云ふ、
八拾弐歳にて往生す
一 第弐世 祐圓
天正十三年湯川落域、壱族熊野へ落行、此時直春の伯父湯川安芸守宗慶、其子右近生年九歳なりければ、
汝此度我等が供難叶、跡に残りて信春入道の養子と成り、一門の後世を弔ふべしと申げれバ、右近ハ父の
袂にすがり、言葉ハなくて涙ながら
立わかれいつかは父を三熊野々
神より外にたのむかたなし
(円)
拾三歳にて出家して西了坊祐園と号す。名帳をつくり門徒をすすむ
一 第三世 祐玄
祐圓の養子薗浦津本七左衛門四男熊四郎、祐圓娘玉と嫁す、直了坊祐玄と号ス、一書に曰、河内國真超に
順つて学間す、依りて直了と号ス、実名祐玄といふ、寛永十二年八月大法王より寺号を給ふ、夫より御坊
西圓寺と称す
一 第四世 祐賢 高家竹のはな塩路氏の娘を娶て室とす
祐玄の実子、寛文元年六月三日禁官権律師祐賢法橋に被成下る、舎弟寿延ハ天性寺に住す、長男正元と申ハ
弱年より病身に付、入山の道場へ入寺致させ侯、三宝寺是也、二男ノ秀賢御坊西圓寺相続致し侯、然処兼々
支配下高家道場、年久敷無住に付、御坊西圓寺より支配致し来り、小僧を遺し置侯処、右の道場に木佛尊像
願度旦家共の志願に付、寂如上人の御代に西圓寺の号を高家道場に付し、木佛尊像相願侯処、寛文四年辰六月
木佛尊形御下附相成、此時高家村西圓寺願主祐賢と御免許被成下侯也、且又入山三宝寺も病身の正元を住職
に致侯も、全く右御坊西圓寺より相分レ侯事故、先祖の墓印も彼寺内有之侯、高家道場開基ハ、興國四年の
記録に相見へ、御坊西圓寺より古き寺蹟に有之侯得共、小庵故子孫断絶の後、御坊西圓寺より支配し来り侯事也
元禄四年十一月十二日祐賢八十歳に而往生す
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河内鶴原家について疑問 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 8日(金)11時11分15秒
鶴原家に関しては、14〜15世紀頃に河内に存在した事しか知りません。
泉佐野の鶴原家に徳川家に退かされたものだと思いましたが証拠もありませんし(此方が調べてないだけです)
で、退かされたと思われる根拠は、元熊取の塚本家が岸和田市白原辺りにある事です。
で、それを否定する根拠も、
河内津田氏→和泉津田氏(花枝城左衛門家)
遊佐氏の14世紀の動向
14世紀頃に泉・大鳥郡に領地を持つ河内の者が居ない事
が、挙げられます。
もう一つ付け加えますと、津田家は、紀伊根来寺に坊を持つ一族で、
紀伊根来寺から泉南に抜ける道があります。(犬鳴山越えの道の方が有力ですが:泉佐野に抜けます)
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和泉五社 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 8日(金)00時45分05秒
大鳥神社以下五社は、天皇より和泉国国府の神社(もしかしたら一宮)に入封した朝鮮の王子を監視する役目を
608年(だったと思います)に負わされています。
ですから此の五社は元々、只の郡・郷の神社だった可能性があります。
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神社の機能 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 8日(金)00時29分11秒
神社とは本来、役所・政所で、神が附く所を見ると605年以前からあったシステムだと思います。
で、機能とは、
中央⇔国⇔郡⇔郷⇔村
の行政システムで、
一国に1、一郡に1、一郷に1の社があります。
国の社は、一宮とも呼ばれますが、それ以降の二宮・三宮等は郡の等級を表します。
和泉では
1.大鳥 (大鳥郡)
3.我孫子(和泉郡)
3.信太 (和泉郡)
4.積川 (南郡)
5.日根 (日根野郡)
が、上記を見ての通り、長く続かなかったようです。
ですが、明治期以前まで、このシステムは情報伝達収集システムとして残っていました。
それが、神祇職です。
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よあけさんへ 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 8日(金)00時03分00秒
>鶴原の領主だったという佐竹氏
河内鶴原家ですか?
>日根野氏の又五郎系、つまり和泉に残った方が、嫡流なのだ。
正解だと思いますが、理由が違います。
本来武家は、屋号・姓・名と本懐の領地があって武家なのです。
日根野氏の場合は日根野村の地主で無ければ、日根野は名乗れないのですが、
日根野氏の場合、郡司かも知れません。
大鳥郡の大鳥氏も郡司ですし...
で、郡司系の出になると、其の中心の社が本家になります。
社家は、武家ではなく武家よりも上級になります。
系統としては、
神祇官←神部(中央の神主グループ)←祝部(地方の祝グループ)
郡司←地頭(武家はここに位置します)
※.神主=畿内の神社の主.それ以外の神社の主は祝
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常陸愛洲氏について 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 7日(木)23時45分08秒
常陸愛洲氏は、甲斐源氏伊勢愛洲氏庶流の様で、
愛洲移香斎が有名です。(兵法陰流流祖)
で、この移香斎は日向国鵜戸神宮で兵法の開眼をしたらしいです。
で、此の行動範囲の基と成るものが常陸愛洲家の上司佐竹氏の関係です。(逆かも知れません。)
其の理由というのが、熊野水軍佐竹氏(例の三段壁付近)・土佐佐竹氏の存在です(笑)
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伊豫河野氏の1セット 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 7日(木)23時13分55秒
伊豫河野氏流の美濃国林氏が1550年美濃国に渡り、有名に成りましたが、実は、それ以前に分家して、
直系の入封になるわけです。
美濃国以外にも、和泉・紀伊に河野・稲葉・林姓があります。
で、和泉国稲葉氏ですが、内陸の岸和田市稲葉町に城を構えていたらしいです。
面白い事に、其の隣町は、山直と云い、安積系神社の領地だったそうです。
安積というのは、海から川を遡り、鋳造を伝えたとされる民族だそうです。
で、その山直は、A級河川の牛滝川に接しています。
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 7日(木)22時13分33秒
「貝塚市史」のせいで、松浦氏は、貝塚の山の中の土豪だったと、信じている人が、結構いるみたいです。
私は、それは、間違いだと思っているのですが。Sさんは、嵯峨源氏を称する松浦党では、ないかと?であ
るかは、別にして、伊予に「松前」があります。これはマツサキと読みます。豊職時代には、確か城もあり
ました。水軍の拠点ですかね?四国には、内陸ですが、仁井田という地名があります。四国は、大部分が細
川の領国でした。あるいは、和泉の松浦氏は、水軍系で四国から?
例の卒業論文、私も見ました。確かに、HPで披露しようというだけあって力作ですが、第一章が、ないの
が、残念でした。それと残念だったのは、和泉上守護家については、他の細川諸家と共通する守護代家、内
衆が、あまりなかったのか、記載が、少ないです、それでも、結構いい勉強になりました。しかし松浦氏に
ついては、書かれていません。つまり松浦氏は和泉上守護家だけの家のようです。この論文は、細川諸家が、
京兆家を中心にして、共通の家臣団があって、それがネットワークのように、細川各家を結びつけていたと
いうものです。つまり、細川氏は、伝統的に内衆を中心にして運営されていたというわけですから、松浦氏は、
細川氏に属する、純正の家臣とは、別のものであった?
弘就は、五郎左衛門と名乗っていたわけですね。ありがとうございます。管理人さんが、以前、日根野氏の
又五郎系、つまり和泉に残った方が、嫡流なのだ。理由は、「五郎左衛門の、名前を継いで、又五郎を名乗
っているからだ」といっていたのですが。やはり美濃系が嫡流みたいですね。
Sさん、なんなら一度、この掲示板の以前のも、目を通してみてください。ためになるかどうかは、別です
が。鶴原の領主だったという佐竹氏にも、こだわりがあるのです。常陸の佐竹氏の分家、幕府奉公衆だった
という家です。
例の守の書状、あるいは、元常が、反高国で、四国に脱出した時のものか?このあたりが素人の悲しさとい
うか。趣味ですから、ちびちびやります。
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新田(しんでん)について 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 7日(木)15時38分26秒
776年頃、旧国別から明治期に成る迄続いた国別制へと変わりました。
(この旧国別制の資料は此方にはありません。余談ですが、尾張国造家は大和国に本郷がある皇別の一族で、
この頃に国造に成りました。)
で区画単位は、
国郡庄郷村字(東北では庄が郡を跨るのか郡より上に記さて居る所もあります。)
で支配単位は、
国主(大名)・郡主(郡司)・庄司・村主(地頭)
と、成ります。
で、問題の新田に係わる12世紀公家と武家の争いに成るわけで、その後の展開で武家が領地を横領し、池・沼を
干拓したか、森林を伐採し開墾したのが、新地です。
其の新地に作った田を新田と呼びます。
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日根野弘就 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 7日(木)12時34分30秒
日根野弘就
本田城主(岐阜県穂積町)
徳太郎・五郎左衛門・備中守・雄就
慶長七年五月廿八日没
--------------歴史読本 織田信長家臣団 裸のデータファイル
1573年、浅井氏滅亡後、1574年、日根野郡日根野氏を頼り...
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天皇の台所 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 7日(木)12時01分57秒
天皇の台所(御厨)
釣師1人(鰹の一本釣りとかそういう風な役目だと思います)
網元1人(今は公務ではありませんが、あの網元です)
後、何名か居たのですが思い出せません
この御厨は一国に一つあるわけではなく、特産地単位です。
米の特産地があったかどうか.....
忠岡は近衛の領地でしたし.....
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水田の等級 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 7日(木)11時49分06秒
昔は、田にも等級がありました。
其の理由は、苗を国家が貸し出し、出来高の何割かを返還させるシステムにしていたからです。
その米は、神に捧げる進物として、蔵(正式名称は忘れました)に納められました。
で、実際はというと寺が麹室権を持ったりの有様ですが..
で、田の等級の基準は
1.良く取れる田
2.美味い米が取れる田
が基準になります。
で、田の等級名ですが、
一位田.一等田.一級田
二位田.二等田.二級田
三位田.三等田.三級田
四位田.四等田.四級田
五位田.五等田.五級田
で.8段階か12段階あったようです。
下位になる程米は採れず、稗・粟を栽培していたようです。
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雑賀氏が湯川氏の下位 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 7日(木)11時24分45秒
右意趣者、今度代替為礼儀差越湊喜兵衛尉侯処、如先々不可有別儀旨、誓紙到来侯、此方之儀茂、
聊不可有疎意、若此旨偽申者、日本国中大小神祇・八幡大菩藩・春日大明神・殊氏神可罷蒙御罰者也、
仍起請文如件、
(湯川直春)
永禄五年七月吉日 直(花押)
雑賀
本郷 源四郎大夫殿
岡 三郎大夫殿
湊 森五郎殿
同 藤内大夫殿
宇治 藤右衛門尉殿
市場 五郎右衛門尉殿
三日市 左衛門大夫殿
中嶋 平内大夫殿
土橋 平次殿
同 太郎左衛門尉殿
福嶋 次郎右衛門尉殿
狐嶋 左衛門大夫殿
狩取 与三大夫殿
中郷
岩橋 源大夫殿
岡崎 藤右衛門尉殿
栗栖 四郎大夫殿
野上
若林 治部殿
和佐 九郎大夫殿
山本 刑部左衛門尉殿
加能 刑部大夫殿
十カ郷
鈴木 孫一殿
楠見 藤内大夫殿
坂井谷 源治郎大夫殿
松江 左近大夫殿
賀田 助兵衛殿
木本 源内大夫殿
南郷
大野 稲井殿
旦来 松江殿
多田 神主殿
吉原 林殿
安原 五郎右衛門殿
吉礼 次郎大夫殿
三葛 田所殿
本和多利 左衛門大夫殿
社家郷
中嶋 嶋田殿
神崎 中務殿
進之侯
案文
敬白 起請文事
右意趣者、今度代替為礼儀差越湊喜兵衛尉侯処、如先々意不可有別儀旨、
誓紙到来侯、此方義茂、聊不可有疎意、若此旨偽申侯者、日本国中大小神砥・
八幡大菩薩・春日大明神・殊氏神可罷蒙御罰者也、仍起請文如レ件、
(湯川直春)
永禄五年七月吉日 直
湯河 左近大夫
湯河 式部大夫
湯河 右馬允
湯河 治部大輔
湯河 源衛門尉
湯河 掃部助
湯河 久兵衛
湊 新五良
津村 式部丞
口郡
雑賀庄
中郷
十ケ郷
三上
社家
御中
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もしかしたら水軍関係? 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 7日(木)11時23分11秒
肥前松浦氏
嵯峨源氏.中国の監視に平戸・壱岐に定住
伊豫河野氏
清和源氏.伊豫守護.村上氏の上司
瀬戸内水軍村上氏
藤原氏→清和源氏→村上源氏
赤門村上氏(福岡県)・塩飽村上氏(塩飽は、暫定です.香川県)・小豆島村上氏(小豆島は、暫定です.岡山県)
讃岐真鍋氏
和泉真鍋氏
---------------これらの関係と
細川氏
足利源氏.讃岐・土佐(十市姓)・阿波・両上和泉・備中(鴨方)・京兆・典厩の細川家がある。
------------------を併せると...
ん〜、細川家を対象にした卒論のHPがあったのですが、これも閉めてるようです。
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 6日(水)22時22分40秒
あまりに、沢山の情報に、戸惑っています。例の松浦左衛門太夫の書状、最初、天文2(1533)2月晴元が一向衆に
追い詰められて、淡路に脱出した時のものかと、思いましたが、月日が11月で合いませんし、文意も違うようです。
はて?と、いま乏しい知識で考えています。
二位田姓は、和泉のものでは、ないでしょう。貝塚の字名に二連田というあるようですが、関係なしですね。
泉大津市二田町は、フッタです。四国に仁井田という知名が、ありますが、ちょっと違います。福島県に二位田が、
ありますが、「まさか?」です。滋賀県安土の近くに、五位田というのもありますが、その近くに二位田は、ないかと、
地図を見ましたが、不明でした。馬鹿馬鹿しくも、はて?はて?
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注意点の追記 m(__)m 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 6日(水)18時16分49秒
5.其の書の編纂者の手抜き
6.2+3
以上です m(__)m
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官位偽称について 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 6日(水)18時01分21秒
御存知の方も多いとは思いますが、
【官位偽称について】
松浦 肥後守 某 (松浦家の肥後守系は肥前松浦家の本家...( ̄。 ̄ ) ボソッ)
↑ ↑ ↑
屋号 官位 名
で正式には、
正五位下肥後守 という表記に成ります。
↑ ↑
階位 官名
が、 肥後 と成っている場合は、注意が必要です。
以下に注意点を
1.前肥後守 一度、肥後守を受領して其の任を引退、又は、剥奪若しくは解任された。
2.自称
3.略称 肥後守の守を取り呼ぶ、其の家中か近辺に肥後守が一人しか居ない場合。
4.肥後守以下の官職 肥後守を筆頭に介・大掾・小掾・大目・小目がありました。
この官位に関しては大きなサイトが在ったのですが、閉めてしまったようです(T_T)
代わりに、http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kanitihou.html
↑
これでも
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新田について 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 6日(水)17時09分56秒
んー、此方の資料では載ってませんね。
泉南市・阪南市・岬町史を見れば載っているとは思いますが....
佐野か泉南の辺りの地名で新田が昔あった様な気も...
( ̄-  ̄ )ん〜・・・
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語呂 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 6日(水)12時57分37秒
んー、新田氏ですか...色々調べましたが新田氏は、ちょっと聞いた事が無いです。
語呂なら、『新田』=あらいた.あらた.にった.にいた.しんでん と読めますが....
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根福寺の事 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 6日(水)12時42分37秒
少し思い出したのですが、泉大津我孫子の佐々木氏は1540年頃に争いがあり城を追われ、
屋号を??から佐々木に復姓したとの記述があるのを思い出しました。
それと、根福寺の三好・根来による取り合いも、1541年です.........
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 6日(水)12時35分38秒
二位田氏は、新田氏となっている場合もあるようで、ますます、ややこしいです。
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木村氏が佐々木氏付属の訳 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 6日(水)12時29分21秒
これについては、
間宮 敬義氏のHP http://www4.justnet.ne.jp/~kmamiya/
(当時81歳の老人が一太郎文書で書かれた物でしたが現在は代が代わられたのか..(;^_^A アセアセ・・・)
の http://www4.justnet.ne.jp/~kmamiya/tarokz1.jpg に載っている
行定【佐々木宮神主家祖】−定道【佐々木宮神主】−成俊【木村姓】
(群書系図部集 第三 にはこの入れ替えは記述されていません)
となり木村氏が代々、佐々木宮(滋賀県大津市)の神主をしています。
上記の事により、木村氏と佐々木氏の上下関係が見えてきます。
以上
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佐々木氏の事 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 6日(水)11時59分47秒
よあけさんへ
和泉松浦氏の事については解りました。
佐々木氏については木村重堅の屋主、泉大津我孫子の佐々木氏
(屋号は分かりません。永禄元年頃没より3代を記した書物が有ったのですが、
これは随分探しましたが見つかりませんでした。鳳の図書館から移動されたのか、
未だあるのか..)
がある様です。
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 6日(水)11時37分09秒
Sさんへ、和泉の松浦氏は、嵯峨源氏、渡辺氏と、まるで無関係らしいのです。佐々木義清の後胤、
二位田某が松崎あるいは松前に移って、松浦を名乗ったというのが、松浦の名字の、そもそもだと言
われているのです。和泉に二位田氏は、居ました。松浦氏の家臣にも、その名があります。では、
二位田氏は、どういう理由で、どこからやってきたのか?松浦氏を、派生させたのは、和泉に来てからか、
それ以前か?和泉の松浦氏は、佐々木を、名乗っている場合もあるようです。松浦という名字に、肥前守と
いう受領名、それに渡辺党風の一字名、ところが、肥前の松浦氏と無関係というのが、和泉の松浦氏の不思
議なのです。
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追記 m(__)m 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 6日(水)04時38分10秒
長男が双子の場合は
■
┠大郎
┗太郎
---------------------------------------------------------------------------------
数え方、その他 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 6日(水)04時31分39秒
【数え方】
■
┠太郎
┠二郎
┠三郎
┠四郎
┠五郎
┠六郎
〜
┠十郎
┠十一郎(與太郎.余太郎.與市郎.余市郎.與一郎.余一郎)
〜
┠二十一郎(彦太郎.彦市郎.彦一郎)
〜
┠三十一郎(孫太郎.孫一郎.孫市郎.弥太郎.弥一郎.弥市郎)
〜
後は知りません。
【名】
松浦 源 太郎 左衛門大夫 家
↑ ↑ ↑ ↑ ↑
屋号 姓 番号 官位 名
御粗末でした m(__)m
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追記 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 6日(水)04時18分08秒
守に関しては、甲斐武田氏家臣団に見えるように、数代続けてという可能性もあります。
【豆知識】連続の名の相続以外は先祖帰りと言います。
奥州伊達家の政宗が有名
これらの事に関しては、武家社会の習性で新規発意ではなく基となる事項が存在します。
これ以外の政治・軍事行動もそうですが、必ず地縁・血縁に関係者が居ます。
【未確認情報】 幼名の丸と千代
丸=屋形号(城主より上です)を持つ者の子
千代=城主の子
だと思います。統計で確認しただけで正確な証拠は有りません。m(__)m
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(無題) 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 6日(水)03時55分38秒
>吉益系図は、羽曳野市の畠山家文書に収録されているものですか?
ん〜、図書館のカウンターに向かって右側のPCを越えた先の本棚の上にありました。
地史よりも大きなサイズだったように思います。生憎書名は覚えていません。
(2〜3年前の事なので配置も換わっているかも知れません)m(__)m
>松浦氏ネタもっとないでしょうか?
後は、
岸和田市史の第3章第4節P626 松浦氏と三好氏と岸和田城
高石市史か堺市史の
中世編/V 戦国時代
P881.P882 422 松浦守書状
P886 429 二条宴乗日記
松浦総五郎・同和泉国衆
熊取町史か貝塚市史か泉大津市史
P38 天文四年(1535)、松浦肥前守、秬谷に野田山城を築くという。
天文一二(1541)、根来寺衆野田山城を領し、やがて根福寺と改むという。
【井手文書】
−(略)−
天文六丁酉十二月十三日
水間寺目代御房
松浦肥前守
守(花押)
此位です。
尚、織田期(1549〜1582)に生存した者の家系図製作を念頭に書物を集めていたので
松浦家重視で地史を見ると書簡資料はこれ以上に載っていると思います(笑)
邪魔くさいので書簡類の大半は割愛しコピーしませんでした。
又、松浦家は渡辺家の分流で一字名です。よって沼間家と連署している[ ]家は松浦
かも知れません.(証拠は有りません)
松浦氏を調べるのなら血縁・地縁で寺田家・大和国衆・六角家・難波渡辺・両上和泉細川家・
十河家を調べれば意外な事が分かるかも知れません。
これを調べるには金銭・時間的に...(;^_^ A フキフキ
細川両家記は伊丹市史だったかの中に一部有りました。中之島図書館で見つけました。
>この掲示板にカキコまれたことHPで使ってもいいでしょうか?
どうぞ、但しスキャナーで読み込んでText化した為、ニ(カタカナの、に)が二(数字の2)に成っていたり
見落としもあるかも知れません。それでも宜しければどうぞ御自由に。
【訂正】
湯川家
末尾
同 甚丘ハ衛 → 甚兵衛
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吉益系図 投稿者:管理人 投稿日: 6月 6日(水)00時25分17秒
吉益系図は、羽曳野市の畠山家文書に収録されているものですか?
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こんばんは 投稿者:管理人 投稿日: 6月 6日(水)00時19分00秒
こんばんは、よあけさん。
そして、はじめまして通行人_sさん。
今夜掲示板を見て、あまりのにぎやかさに、びっくりしました。
ご両人様、ありがとうございます。
>おもしろいのですが、ここは、「中世の泉州」と、かなりマイナー過ぎますねえ。
>管理人さんは、何を、どう考えて、いるのですかね。もっとも
実は、あんまり深く考えていないのです。
こんなHPあってもいいんじゃない?あんまし、有名じゃないけど、あんまり出世しなかった
けど、みんな忘れ去っているけれど昔頑張って生きていた人がいたんだよ。って世間様への紹介
のつもりで作っています。もっとも最近随分サボってますけど・・・。
そして、多分メジャーなことよりマイナーなことの方が本質的に好きなんだと自己分析してい
ます。
ところで通行人_Sさん、松浦氏ネタもっとないでしょうか?
そして、この掲示板にカキコまれたことHPで使ってもいいでしょうか?
これからも、この掲示板にどんどん関わって下さい。
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(無題) 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 5日(火)22時26分29秒
よあけさんへ
423の書状については何の意見も御座いません。1540頃の松浦氏の居城築城の文書も有ったはずですが、
どこかに....高石市史か堺市史資料編に載っていたと思いますが..(;^_^A アセアセ・・・
系図についての雑学
本来、系図は本家のみの一筋の系図で分家は其の父又は祖父からはじまります。
太郎−九郎四郎
と、成っている場合、相続順のみ記述ですから
太郎−九郎−九郎四郎
と、成ります。
それと長男・次男(これが曲者)・三男と成っている場合、必ずしも其の通りではなく、
家督相続候補順の場合があります。
もう一つ、兄・弟は明治時代に転換されて兄・弟の順が逆になっているらしいです。(故.蟹江銀さん談)
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 5日(火)19時02分39秒
通行人_Sさん、できれば、この松浦守の書状について、ご意見があれば、聞かせて下さい。
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守 書状 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 5日(火)18時48分14秒
う〜ん、ありがとうございます。この書状は知りませんでした。しっかり読んで見ます。
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 5日(火)18時37分27秒
断片だけと言ったら、ドカンときましたね。それも突然、湯川氏の資料ですか、何がどうなって、こうなるのか、
いや、なんだかシュールの世界ですね。驚いてます。しかし、私、これ面白い資料なので別い保存しておきます。
今まで、紀州勢と一言で片付けていましたが、こういう人達だったわけです。「御坊史」を見る事など考えもしま
せんでした。ありがとうございます。教光寺の大敗の有様、林兄弟の話など、本当にリアルですね。「屍骸を肩に
懸け、、、」情景が見えるようです。
岩代氏の「家来多くうたれ身独にて令帰国」凄まじい大敗であったという実感がわいてきます。
しかし、南紀から畿内の真中まで戦いに行こうという彼らのエネルギーが、何なのか?と、ふと考えてしまいました。
久米田で実休を討ち取ったのは、根来右京で、畠山勢と言うと、すぐに根来と考えてしまいがちです。しかし、
この時の戦いは、畠山氏にとって紀伊での与党全てを引き連れての総力戦だったわけですね。これに大敗して畠山氏は
完全に未来をなくしたわけです。
鹿ケ瀬、蕪坂と熊野街道の地名も、私にとっては記憶に新しいので、難所だという実感があります。熊野古道は、
いいですよ。そんな何もない所と思うかもしれませんが、古い道には何か不思議な「実感」があるのです。生きて
いて一番欲しいのは、やはり「実感」ですね。私にとっての「歴史」もある種の実感を味わいたいがための物です
かねえ。
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(無題) 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 5日(火)15時19分58秒
423 松浦守書状
田代文書
京都大学所蔵影写本
(包紙上書)
「 松浦左衛門大夫
田代源二郎殿
綾井殿
取石殿 御宿所 守」
尚々、今度者、殊大鳥御在城事共各御辛労候、具可致被露候、
今度者、不慮之儀、口惜次第候、雖然、御館様則下向候て、阿州之儀、被迎調 上意、御迎船
被上候て、夜前 御渡海候、先以可御心安候、然者我等も罷下可然候由候条、罷越、自彼方様体、
具可申上候、長々事候間、各御堪忍可為候、迷惑候へ共、来春者早々可有 御上洛候之間、被成其
御意徳、御馳走肝要候へく候、何も以別紙、可申上候共、取乱候て無其儀候、目出重而可申入候、恐々謹語
11月6日
田代源二郎殿
綾井助六殿
取石八郎殿
玉井彦六殿
成福寺殿
馬場殿
御宿所 守(花押)
408 厳島社奉納絵馬銘文
堺市史
厳島神社所蔵
「天文弐拾一年壬子三月吉日泉州堺住人 綾井九郎左衛門定友」
「狩野口」
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湯川家 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 5日(火)12時21分20秒
五 代 湯川庄司法名天章慶祐
六 代 湯川庄司法名湯白源清
(用)(誉カ)
七 代 湯川庄司法名天甫源寒
(哉カ)
八 代 湯川庄司法名国戴現公
九 代 湯川庄司法名一河宗純
十 代 湯川宮内少輔源政春 法名代山宗建康
十一代 湯川光春芳養日向村二住、古城之跡に今あり
十二代 湯川民部少輔直光・法名祥岸宗吉
(一五六二)
永禄五壬戌五月廿日河内国若江郡教光寺にて討死、天文・弘治・永禄の比の人也
畠山右京大輔高政、天下官領職、河内、和泉、紀伊三ケ国の守護にて河内国に住、城を高屋と云、
永禄五年(1562)之春三好修理太夫、就謀叛二高政当国に下向有りて、直光をかたらひ令上洛・泉洲
粂田にて三好実休を.討取、河洲飯盛之城に三好修理太夫楯籠しを、和泉.河内・紀伊三ケ国之勢五
万余騎を以テ取巻、四月五日より・五月十九日迄手痛攻といへとも、三好堅固二相抱侯・高政は高
屋に在り、同廿日湯川直光飯盛より教光寺一取出戦処、修理弟、三好摂津守、後巻二逢、直光討死
・湯川家ニ而は湯川右衛門太夫兄弟、同勘太夫、湊上野・同紀助人数七拾三人一所ニ討死、国衆の士
には目良兄弟・神保、安宅新助父子、貴志.白樫.富田・飯沼九郎左エ門、竜神形部彼是五拾余人、
根来寺人数弐百余・都合三百余人同日討死、林兵庫兄弟直光討死之節・壱人は御供壱人は国元へ戻
り、直春へ御注進可申と云合、弟討死仕内、直光の死骸を肩ニ掛ケ立退、山の際二死骸を埋ミ、小手
草摺を印ニ取、摂津国の方ヘ逃退、
(播)
幡磨の明石より船にのり、日高へ帰る直春へ此由を申に、小手草摺を掛御目、小手は印ニ小松原ニ
納メ・草摺は在所へ持帰り、古屋谷へ、栗山三郎は聟にて、此屋敷ニ塚を築に今有
十三代 湯川中務大輔直春 法名光岸浄照
(一五五八)(一五九二)
此代に湯川家減亡す、永禄・元亀.天正之比の人也、
天正十三乙酉年(1585)三月関白秀吉公当国御進発、同三月廿二日・根来寺御退治、夫より太田城攻
之内に直春館江討手を被向、三郡の士を集、防戦評定区々の処、寄手陸は鹿瀬、蕪坂に支、海辺ハ
比井の崎三穂之沖より兵舟続・海陸如雲霞向と聞へけれぱ、国衆面々己か
(掾カ)
縁々に落行き、直春此上は力たし、一先熊野へ落行、山林に敵を引受戦むと・小松原の落、相随侍
には、湯川安芸の入道宗慶、同兵都大輔 上野ノ城主・同式都大輔 泊り城主.治部少輔春信、平井
掃都頭春信、嶋右馬允弘春.脇田六郎左衛門俊忠・同藤六俊勝・津村式部丞信秀.林入道閑仁春当・
栗山三郎勝重・玉井新兵衛尉彼是弐百余人、四月廿六日・小松原之城へ火
(懸)
を掛ケ、其夜芳養泊りの城へ落着、明ル廿七日、芳養の奥龍仙山へ籠ル、夫より近露横矢か館へ移り、
落散たる侍一人より近露に集ル、湯川三百余騎ニ成、寄手の大将仙石権兵衛秀久.尾藤甚左ヱ門一也、
(虎)
藤堂与右ユ門高尾、峰須賀彦右衛門政勝、宇野若狭守、青木勘兵衛、杉若越後守巳上七人、其勢三千余騎、
芳養泊り域に入替り田辺之宿に陣ス、在々所に、堂杜仏閣民屋久米田焼払、農夫を山林に逃散家業を忘たり、
寄手は田辺より人数を出し、湯川方にも山本主膳人数加り日々軍無止時、寄手は雖多勢不知案内、味方ハ
小勢といへとも、難所に扣防戦間、五月上旬より同七月中旬迄互に攻戦といへとも不快勝負、終ニ扱ニ成リ、
人質を取替し軍落居〆、紀州俗当国一乱と云也、七人の大将湯川・山本之人質を連、大和郡山へ出る、因之
紀伊国大和大納言秀長公の御領と成る、杉若越後守為御代官、芳養泊り御城ニ住ス、明ル天正十四年(1586)ノ
春湯川直春、山本主膳大和郡山へ被召出、本知可被下旨依有仰、月日を送ル処二、同七月毒害にて死、山本
主膳我身の上と思ひ、郡山越落ル、則郡山より
(懸)
追掛ケ、大和東家と云所にて被討
十四代 湯川丹波守
父直春と一所に郡山に有り、直春死去の後、丹波守大納言殿より知行千石給り、
郡山ニ住ス、文禄四年(1595)の比大納言殿御生害二付、丹波守牢人し紀州久度山に住ス、慶長拾九年(1614)
紀伊国大守浅野但馬守殿へ被召出、先知千石を給り、大坂両陣相務、元和五年己未(1619)但馬守殿国替にて、
芸州広島へ移ル、丹波守を広島ニ子孫に今有り
十一代 湯川光春 二男
十二代 湯川八郎左衛門
岩代二住ス、妻ハ岩代肥前守春重之娘
十三代 湯川八郎左衛門
十四代 同 八郎左衛門
右八郎左衛門弟志波六郎兵衛、四百石 他家相続、同弟湯川伝兵衛三百石、同弟湯川次郎左衛門弐百石被下
芸州広島ニ有る
十五代 湯川八左衛門
十六代 同 善左衛門綏正
十七代 湯川甚八
十八代 同 甚六
二男
同 甚丘ハ衛
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岩代家 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 5日(火)12時20分06秒
肥前守之系図
岩代式部大夫源朝臣政光
岩代兵庫頭信春
岩代肥前守春重
同右衛門大夫光倫
右光倫永禄(1562)壬戌年五月廿日、湯川直光と同河州教光寺へ出陣す、家来多くうたれ身独にて令帰国、
大将直光には此時討死ス
岩代兵部春昌
右春昌天正十三乙酉年(1585)四月廿六目、湯川庄司直春と一所ニ小松原より西岩代へ落来ル、石我坪上山ニ
かくれ居、時に仙石権兵衛秀久よせ来ル、依之手勢百余人相具し、石我坪へ下リ、手いたく一戦し夫より
奥山へ逃籠り、翌日山路近露へ落行、直春と一所に成ル、此時家来古田兵五右エ門但討死の切に石田庄兵衛
といふ者、具足の引合ニ金子弐両と、一首の短冊有之由申伝ル直春落居の後、杉若越後守に属し、岩代登中にて
知行二百石給ル、越後守減亡之後渡辺勘兵衛に附随、嵯峨に行病死す、妻ハ岩代登中ニ止リ正保歳中(1644〜6)ニ
病死ス、政所ニ塚をつきあり、娘弐人、姉は目良へ縁組、妹ハ大沢へ縁付
右岩代氏に今有り
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湯河直春の事 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 5日(火)07時55分36秒
第2編 文書資料 第五章 諸家文書 P1093
6 湯河郷名寄之覚
『御坊市史』
直春 中務少輔
此直春ハ武田信玄ノ二男ニテ湯河ノ家之養子ト成リ湯河惣領ヲ相続ス
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堀籠家文書 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 5日(火)07時47分25秒
第五章諸家文書
第一節堀籠家文書
1堀籠家次第
官領南海道紀伊国日高郡南部之庄
総司殿公文堀籠家代々
(いまだ)
九条殿 未 吉田二住ス比、南部之庄蒙官領、京都吉田ヨリ下向ス、庄内之事ヲ司トル、依テ総司殿
公文ト名乗ル
定紋丸之内に十万
[ ]東福寺[ ]昔時東福寺[ ]伝ル、依之
堀籠家十万年火災ナシト云、誠二是迄テモ度カ有
不思議
産神御霊宮京都祗園ヨリ先祖奉勧請、年々祭礼ニハ勅使下向有リ、後先祖蒙勅使代、御薄墨装束受領有之、
七度半之使ヲ受、諸事取行
大織冠鎌足公十二世卜部
吉田従三位侍従左兵衛督兼忠
同 正四位下侍従 兼尚
同 正五位下太夫 兼延
吉田宗沢 延春
トキ
吉田清安 延秋
吉田次郎左衛門 延義
吉田ト名乗シハ何代ニテ有之哉、尓ト不分明、牟婁郡ノ湯川甲斐源氏ナリ、三代宗源足利将軍義詮公二属テ
有田日高ト三郡ヲ安堵スル事アリ、此時初テ湯川二属ス、併本名ハ禁仕之名ユエ不名乗、林ト名乗、是ハ母方
ニテ芳養ノ名字ナリ、又野辺弥六南部賜テ弾正トナリ、又愛須七兵衛賜テ兵部大夫トナル事アリ、然レトモ是等
ニハ曽テ不属ス
トモ
林 源七郎 延偕
林 孫四郎 延鄰
カズ
林 久 助 延枚
林 兵 庫 延堅
タカ
林 久 助 延位
堀籠ト名乗事、湯川十三代直春ノ時、印南原堀籠谷ヲ与小田二取ル事アリ、是ヨリ名乗ル、又春ノ字ヲ賜事アリテ
此一代春安ト名乗ル
堀籠 源 七 郎 春安
堀籠 四郎左衛門 延雄
カネ
堀籠 平 兵 衛 延周
ヨリ
堀籠 忠 太 夫 延階
堀籠 四郎左衛門 延高
堀籠 安左衛門 延行
シケ
堀籠 及右衛門 延重
ヒサヨシ
林 源 助 久慶
延重ノニ男嫡子寿延上京シテ留守之間暫時家を立ル
ヒサ
堀籠 四郎左衛門 寿延
延重嫡子京都ヨリ帰家ヲ続
タカ
堀籠 弁右衛門 延阜
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 5日(火)06時38分45秒
通行人_Sさん、どんどん、関わってください。掲示板というのは雑多な人が雑多な情報を持ち込むから、
おもしろいのですが、ここは、「中世の泉州」と、かなりマイナー過ぎますねえ。管理人さんは、何を、
どう考えて、いるのですかね。もっとも、私としては、気に入ってますが。あなたの、断片だけの話も妙な
含蓄があって、何だか面白いですよ。
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┃_・) ジー 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 4日(月)17時52分55秒
皆様へ
図書館の図書は移動が利き図書館のLANで操作でき最寄りの図書館に取り寄せて貰えるそうです。
書名が解っている書物を一度図書館で調べて貰う事をお薦めします。
以上
何度も済みません。<(_ _)>
それでは失礼致します。
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追記 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 4日(月)17時35分09秒
書き忘れましたが、
塩飽水軍というのは村上氏を筆頭とする讃岐国塩飽諸島の海賊です
??村上氏の??も解りませんが、『村上水軍のすべて』に少し記載がありました。
『村上水軍のすべて』は和泉市図書館(和泉府中下車)にありました。(今もあるかどうかは解りません)
信長の覇王伝に触発されて、シュミレーションゲーム製作を目指した武将のデータベース化だけを行っていた物ですから、
広く浅くです。 (;^_^A アセアセ・・・
それでは、失礼します。
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先に塩飽水軍に属された事を 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 4日(月)17時23分13秒
関連で匂わせるものを..
1551年、大鳥郡綾井城の一族か城主?綾井氏、安芸国宮島に絵馬を奉納(海賊が航海に出る前にした風習らしいです)
細川元常、讃岐へ。
紀伊国土豪は阿波を経て讃岐に和泉細川家を頼り..。
---------------------------以上です。
源畠山吉益系図の事
ですが、生憎地史別に明記していないものですから泉南か泉佐野か岸和田の市史のp52としか..(;^_^A アセアセ・・・
蛸地蔵縁起の立て札の事
ですが、蛸地蔵にある銀色の立て札です(南海本線蛸地蔵駅下りホームから見えます)
願証寺願主新井田家の事
新井田家か新井川家だったと思います。(確か公家の子息が下降して..)
------------以上です。
曖昧な記憶で書いてしまうと冷や汗物だと言う事を痛感しました..(;^_^A アセアセ・・・
もうこれ以上、歴史分野に係わるのは控えて置きます。m(._.)m
それでは
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(無題) 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 4日(月)15時48分46秒
明応9年の盛の署名のある書状、これは丁度、元有が岸和田で敗死する1ケ月ほど前に出されているのですね。
尚順の和泉侵攻の緊迫した状況で出されたものです。「盛」が有盛の義父にあたるのか、あるいは「有盛」
本人か?それとも、まるで無関係か?守護代であろう「盛」という名前にばかり気を取られて、又五郎の方は
失念していました。私の見ている日根野氏の系図は例の「和泉戦記」に記載のものです。はて?と言ったら、
故人に失礼ですが。著者中井保氏もこのあたりは少しあやふやです。又次郎も孫次郎も載ってません。しかし
通称名は、一家で継承して使われるものですから、又五郎が何人いても不思議じゃないと思うのですが。
立石念典?ますます、判らない。混乱しますね。頭の引き出しに入れておきます。
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成り代わりまして 投稿者:よあけ 投稿日: 6月 4日(月)15時13分24秒
通行人_Sさん、まるで疾風怒濤のようなと、いや、この掲示板寂しいですからな、管理人さんに、成り代わって、
御礼申し上げます。それでですが、
貝塚図書館の吉益系図の記載されている、書名を、是非教えて下さい。私、見てきますよ。
貝塚願泉寺の先祖に縁のあるのは、新川家ではなかったのでしょうか?新井田家ならば、私としては、嬉しいのですが。
天性寺の蛸地蔵縁起は、そんな、難しい話じゃないのですが。「建武の頃に、海から蛸に乗った地蔵尊が、上がってきたが、
世の中が、乱れていたので顧みる人がいなかった。それで、いつのまにか忘れられてしまったが、時代が下って、松浦肥前守が
岸和田城の主の時」と最初に地蔵尊が現れたのは、建武の頃という事になってますが、、民話のようにもなって、いくつかバリ
エーションがあって、例えば、岸和田城の堀で大蛸に遭遇する岸和田城下の傘屋が、出てきたりするのもありますが、
大筋は同じです。それで「蛸地蔵縁起の立て札」というのを教えてください。
麹室専売の事は、私も疑問に思っていたのですが。享禄2年3年と松浦肥前守が佐野、日根野で麹室の宛行いを、している
わけで、安明寺五座の持つ専売権が、消滅し、守護守護代にその認可の権限が移ったのか、あるいは、五座の利権も日根郡
にまでは、及ばなかったのか?二年連続で古文書の残っている所から推測して、高国政権の崩壊で、この時期から五座の手を
離れたのかもしれません。しかし麹室は利権としては、京の幕府の酒の専売を連想させますね。結構、大きな利権だったのかも
しれません。それで、どうして?
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蛸地蔵縁起について 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 4日(月)10時29分20秒
源平の頃の逸話で108匹の蛸と1匹の大蛸の食い違いが見られます(高石の図書館と蛸地蔵縁起の立て札より)
中世の蛸の件は何処に載っているのでしょうか?
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続未確認情報 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 4日(月)08時01分23秒
忠岡町史第一編第四章中世後期の忠岡地方 128p
これは、日根野村の宮内二郎という者に、先祖相伝の麹荷販売権を保障した...(中略)..麹室の支配権は、南北朝期から黒鳥村の
安明寺の五座が.....(後略)....。
荒らしてる様な.....申し訳御座いません m(._.)m
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未確認情報 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 4日(月)07時35分51秒
┃_・)ソォーッ
貝塚御坊願証寺願主新井田家(確か..1501年生の...)
日根野氏系図(書名は忘れました) 堺市鳳東町の図書館(13号線(ウイングスと堺南署の間の道)沿い)
誠に未確認で申し訳御座いません m(._.)m
┃)≡サッ!!
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吉益系図 投稿者:通行人_S 投稿日: 6月 4日(月)02時54分49秒
┃_・)ソォーッ
今の日野家の話題とは違いますが、
水間鉄道貝塚市役所前の貝塚市民図書館に吉益系図なる畠山家の系図があるのを御存知でしょうか?
一度見られた方が宜しいですよ。
それでは又。