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第三部 意志と直接情念について
第三節 影響力をもつ意志の動機について

【SBN413】

2.3.3.1
哲学において, いや普通の生活おいてさえ, 情念と理性の闘争について語り, 理性の方を選び, そして理性の指図と一致する場合に限り, 人々は有徳なのだと主張することほど, ありふれたことはない. すべての理性をもつ被造物は, 自身の行為を理性によって規制するよう責務づけられていると言われる. そしてもし[理性以外の]その他の動機や原理が, その被造物の行為の方向に逆らうのであれば, その動機や原理が完全に制圧されるまで, 少なくともそれが理性という上位原理に一致するようになるまで, 彼はそれに反抗すべきである, そう言われる. こうした考え方に, 古代から現代までの道徳哲学のほとんどが依拠しているように思われる. そしてまた, そのように考えられている, 情念に対する理性の卓越さということ以上に, 普段の熱のこもった語り合いだけでなく形而上学的な議論の領域にとっても数多くの意見交換がなされた主題はない. 理性の永遠性, 不変性, そして理性が神に起源を有することは, この上ない利点であることが示されてきた. 逆に情念の盲目さ, 移り気, そして虚偽性もまた, 声高に叫ばれてきた. こうした哲学すべてが誤謬であることを示すために, 第一に理性単独では, なんであれ意志のいかなる行為にとっても動機となりえないことを示し, 第二に, 意志の方向において情念と対立することは決してできないことを証明するよう試みよう.

2.3.3.2
知性は, 次の二つの仕方で働く. つまり, [1]論証に基づいて判断するか, あるいは[2]蓋然性に基づいて判断する. 言い換えると, [1]観念間の抽象的な諸関係を考慮するか, あるいは[2]経験によってしかそれについての情報がもたらされない事物間の諸関係を考慮するかのどちらかの仕方で働く. 第一の種類の推理のみで何らかの行為の原因となる, そんな風に言われることなどほとんどないだろうと思う. 第一の推理に相応しい分野は観念の世界なのであるし, しかも意志はわれわれを常に現実の世界に置くのだから, その理由のために〈論証〉と〈意志の働き〉とは, 互いに完全に別々のものであるように思われる. なるほど数学は, 機械を操作するときや, ほとんどすべての技芸や仕事において算術をおこなうときに有用である. しかし, 数学がそれだけで何らかの影響を及ぼすことはない. 力学とは, 何らかの目指す目標ないし目的へと物体の運動を規制する技術である. また, 数の割合を定めるときに我々が算術を用いる理由はただ, その数の影響と作用の割合を発見することができるからということ以外にはない. 商人は, 自分と誰か他の人との間での勘定の総計を知りたいと思う. なぜか?その理由は, 「どれほどの金額ならば, 自分が[商品の]仕入れ金を支払い、その上で取引をするときに、個々の商品すべてをまとめたものと同じ結果になるのかを学ぶ」という以外にはないのである. それゆえ, [1]抽象的・論証的推理は, それが原因と結果に関する我々の判断を導くという形でしか, 我々のどのような行為にも影響を及ぼすことはないのである. そしてこのことは, われわれを, 知性の第二の作用の検討へと向かわせる.
【SBN414】

2.3.3.3
何らかの対象から苦や快が見込まれるとき, その結果として生じる, 苦を避けようとする情動か, 快に傾こうとする情動をわれわれは感じる, つまりこの心地悪さをわれわれにもたらすであろうものを避けるか, この満足感をもたらすであろうものを取り込むよう促される. これはよく見られることである. そしてまた, この情動はここにとどまらず, むしろわれわれの視野をあらゆる方面に向けながら, 原因と結果の関係によってその元の対象と結びつくあらゆる対象を把握する, このこともよく見られることである. このとき, 推理とは, この[因果]関係を発見するために生じている. そしてわれわれの推理が変わるのに従って, われわれの行為もそれに付き従った変化を被る. しかしこの場合, その衝動が理性に由来してはおらず, ただ理性によって方向づけられているだけであるということは明らかである. 嫌悪や傾きが何らかの対象に向かって生じるのは, 苦や快の見込みによる. そしてこれらの情動は, その対象の原因と結果が理性と経験によって指し示されるようになるに連れて, それら[原因と結果]にまで拡張する. かくかくの対象が原因であり, しかじかの対象が結果であると知るとしても, その原因と結果が両方ともに自分たちと無関係である場合に, その知識が我々の関心を引くことなど微塵もありえない. 対象そのものがわれわれの心を動かさないのなら, それら対象の結びつきが, それら対象[そのもの]に何らかの影響力をもたせることはできないのである. それゆえ明白なことだが, 理性とはこの結びつきを発見することに過ぎないのだから, その対象がわれわれの心を動かすことができるのは、理性の方法によるなんてことなど, あるはずがないのだ.

2.3.3.4
理性単独では, 何らかの行為を生み出したり, 意志の働きを引き起こすことができないのだから, 私は次のように推論する. すなわち, その同じ能力は意志の働きを妨げたり, 何らかの情念や情動を伴う好みに抵抗することもまたできない, と. この帰結は必然的なものである. 理性が, 仮に意志の働きを妨げるという後者の効果を及ぼすことができるとして, それはただ, われわれの情念とは反対方向の衝動を与えることによってしかできないわけである. しかしこのことは不可能である. というのもその衝動は, 仮にそれが単独で働いたのなら, 意志の働きを生み出すことができただろうが、それは不可能だからである. 情念の衝動に対立したり, それを妨害することができるのは, 反対の衝動しかない. そしてもしこの反対の衝動が理性から生じるのであれば, その後者の能力は意志に対して原初的な影響を及ぼすに違いない, つまり意志の働きの作用を妨げるだけでなく, それを引き起こすこともできるに違いないのである. しかしもし理性に, いかなる原初的な影響力[=意志の働きを引き起こしたり妨げたりする力]もないのなら, 理性がそのような効果[=原初的な影響力]をもついかなる原理にも抵抗することは不可能であるし, 心を一瞬たりとも中空に留めることも不可能である. かくして, 我々の情念に対立する原理は, 理性と同じものであるはずはなく, それはただ不適切な意味でそう呼ばれているに過ぎないように見える. われわれは, 自分たちが情念と理性の闘争について語るとき, 厳密でも哲学的でもない言い方で話をしているのである. 理性は情念の奴隷であり, ただ奴隷であるべきなのである. つまり理性が, 情念に付き従う以外の役目を申し立てることはできないのだ. この意見はいくらか驚かれると思われるので, いくつか他の考察をすることによってその意見を確証することは不適切なことではないだろう.
【SBN415】


2.3.3.5
情念は原初的な存在である. もしお望みなら, 存在の様態と言ってもよかろう. つまり情念には, それ自身を他の存在や様態のコピーにするような表象的性質が一切含まれていない. 私が怒っているとき, 私は実際に怒りの情念を持っているのであり, 喉が渇いていたり病んでいたり, あるいは5フィート以上の身長である場合と同じで, その情動の状態にあるときに, 他の何らかの対象を指示しているのではない. それゆえ, この情念が真理や理性と対立したりそれらと反対になったりすることは不可能である. なぜなら, この反対は, 〈コピーと考えられている観念〉と〈その観念が表象している対象〉との不一致に存しているからである.

2.3.3.6
この主題に関して, まずは次のことが思いつかれるだろう. すなわち, 〈真理ないし理性に反しうるものは, それを指し示すもの[情念を指し示すもの=観念]を除けば存在しない〉のであり, そしてまた 〈我々の知性の判断のみがこのような指示をおこなう〉のだから, 「情念が理性に反する」ことが可能になるのは, その情念が何らかの判断や意見を伴う場合に限られるに違いない, と. 極めてよく見られて自然なこの原理に従えば, 何らかの情緒が「不合理」と呼ばれうるのは次の二つの意味に限られる. 第一に, 希望や恐れ, 悲しみや喜び, 失望や安心などの情念が, 「実際には存在していない対象が現に存在している」という想定に依拠する場合. 第二に, 行為において何らかの情念を働かせているときに, 目指す目標にとって不十分な手段をわれわれが選ぶ, つまり原因と結果について判断するときに誤解している場合, 以上の二つである. [逆に,]ある情念が偽なる想定に基づいておらず, そしてまたその目標にとって不十分な手段を選んでもいない場合, 知性は, その情念を正当化することも非難することもできない. 〈自分の指を引っ掻いて傷をつくること〉よりも〈全世界の破滅〉を選ぶからといって, それは理性に反していない. あるインド人が, つまり私の全く知らない人が, 僅かでも不愉快になることを防ぐために, 私が自分の身を完全に滅ぼすことを選ぶとしても, それは理性に反していない. 同様に, 自分でもその少なさを十分に分かっている善の方を, それより大きな善を捨てて選び, 後者よりも前者の方に, より熱烈な愛情を抱くとしても, それは理性にほとんど反していない. 〈瑣末な善〉は, 特定の事情によって, 〈最大の最も価値ある楽しみに由来するもの〉に優る欲求を生み出すことができるだろう. そしてこれは, 力学において, 1ポンドの重さのものが, その位置を利用することによって, 100ポンドの重さのものを持ち上げることを目にすることと同じで, 何も驚くべきことではないのである. 要するに, ある情念は, それが「不合理」であるためには, 何らかの偽なる判断を伴っていなければならない. そしてそのときですら, 適切に言えば, 「不合理」なのは情念ではなくその判断なのである.
【SBN416】


2.3.3.7
以上の諸帰結は明らかである. 情念はいかなる意味でも, それが偽なる想定に基づいている場合や, それが目指す目標にとって不十分な手段を選ぶ場合を除いて, 「不合理」呼ぶことができないのであるから, 理性と情念が互いに対立するだとか, 意志と行為の統治をめぐって敵対することなど不可能なのである. 想定されているものが偽であることを, あるいは手段が不十分なものであることを把握するやいなや, われわれの情念は, まったく対立することなくわれわれの理性に屈する. 私があるフルーツを素晴らしい風味を持つものだと考えて欲求するとする. しかし, あなたが私に, 私の間違いを納得させてくれる場合にはいつでも, 私の切望は消え失せるのである. 私は, 自分が望む善を獲得する手段として, 特定の行為の遂行を意志するとしよう. しかし, これらの行為を私が意志することは二次的なものに過ぎず, それらの行為が目指す結果の原因であるという想定に基づいているので, 私がその想定は虚偽であることを発見するやいなや, それらの行為は私の関心をそそらなくなるに違いない.
【SBN417】


2.3.3.8
対象を, 厳しい哲学的な目でもって検討しないような人は, 自然と次のように想像する. すなわち, 異なる感覚を生み出さないもの, すなわち感じや知覚によっては即座に区別できないような心の諸作用は, もっぱら同じであると想像する. たとえば, 理性は気づくことのできる情動を一切生み出すことなく働く. 言い換えると, 哲学の一層崇高な論文や学界のつまらない機微は除いて, 理性が何らかの快や心地悪さを伝えることはほとんどない. このことから, [理性と]同じように穏やかで平静に働く心の作用はすべて, 事物を初見や見かけで判断するような全ての人々によって, 理性と混同されることになる. ところで, 特定の穏やかな欲求や傾向は, 実際に存在している情念であるにもかかわらず, 心にほとんど情動を生みださず, それゆえ直の感じや感覚によって知られるというよりも, その結果によって知られることが多いのは確かである. こうした欲求には二種類ある. すなわち, 善意や敵意, 生命愛, そして子供への思いやりなど, 人間本性に元々植え付けられている特別な本能と, そのようなものとしてだけ考えられる場合の[=道徳的なニュアンスをもたない意味での], 善に向かう一般的な欲と, 悪に対する一般的な嫌悪である. こうした情念のどれもが穏やかであり, 魂に波風をまったく引き起こさない場合, そのような情念は実に安易に, 〈理性が決定したもの〉と取り違えられる, つまり, 真偽を判断するのと同じ能力から生じると考えられるのである. それらの本性と原理が同一と考えられてきたのは, それらの感覚が明確に異なっていないからなのである.

2.3.3.9
しばしば意志を決定するこれらの穏やかな情念とは別に, 同種の特別に激しい情念が存在し, これまた穏やかな情念と同様に, その能力[=意志]に対して大きな影響を及ぼす. 私が他の人から何らかの傷害を被ると, 私はしばしば復讐の激しい情念を感じる. この情念によって私は, 自分にとっての快や利点について何か考えることとは無関係に, その人に害悪や罰が下るようにと欲求する. 私が何かひどい災難に直に脅かされているとき, 私の恐れ, 不安, そして嫌悪は大きく高まり, そして気づきうるほどの情動を生み出すのである.
【SBN418】


2.3.3.10
形而上学者たちに共通する錯誤は, 意志を方向づけるものを, もっぱらこれらの原理[穏やかな情念と激しい情念]のうちの一方[=激しい情念]に帰し, 他方[=穏やかな情念]には何の影響も想定しないところにあった. 人々はしばしば, 分かっていながら, 自分の利益に反して行為する. そのために, 最大限可能な善が見通せるとしても, それが必ずしも, 人々に影響するわけではないのである. 人々はしばしば, 自分の利益や目指すものを実行するときに, 激しい情念に逆らって行為する. それゆえ, 現前する心地悪さのみが, 人々を決定するわけではないのである. 一般に次のように言うことができるだろう. すなわち, これらの原理の両方が意志に働きかける. そしてそれらが反対となる場合, 人物の一般的な性格や現在の気質に従ってそれらのうちのどちらかが優越的となる. われわれが〈心の強さ〉と呼ぶものは, 穏やかな情念が激しい情念に優越していることを意味している. とはいえ, 情念と欲求の誘惑に一度たりとも屈しないほど, この徳を常に保持し続けるような人など存在しないことが頻繁に見られるわけだけれど. こうした気性に関する変動のために, 動機や情念に相反がある場合には, 人々の行動や決意に関して決定することが困難を極めることになるのである.