Site Map: 京都大学 --> 文学研究科 --> 倫理学研究室 --> 林誓雄HP --> このページ

訳:林誓雄

意志の自由とパーソンの概念
フランクファート, H. G.


p. 322
哲学者たちが近年、パーソンの概念についての分析として受け入れるようになってきたものは、実のところ、その概念そのものについての分析ではない。ストローソン(彼のやり方は現行の基準の代表格だが)が、パーソンの概念と見なすidentifyのは、「あるタイプの存在者entityの概念、つまりは、意識状態を適用可能な述語身体的な特徴characteristicsを適用可能な述語との両方が、両方とも、その単一タイプの単一の個人に帰属できる、というようなタイプの存在者の概念である 。」だが、心的mental・物理的physical性質propertyの両方を持ち合わせるパーソン以外にも、存在者というものの数は多い。偶然にも----とはいえ、これは異様なことだと思われるが----ストローソンの念頭にあるようなタイプ(人間だけでなく、様々な下級種の動物も含むタイプ)の存在者というものに相当する一般的な英単語は存在しない。だからといって、以上の事情のために、貴重な哲学的タームの乱用misappropriationを許しているわけではない。

ある動物種のメンバーがパーソンかどうかということは、身体的な特徴を帰す述語に加えて意識状態を帰す述語を、そのメンバーに適用することが正しいのかどうか単純に決めることによって、定められるべきではないことは間違いない。精神的psychological性質と物質的material性質の両方を実際にもつものの、その語の通常の意味ではパーソンでないことが明らかな数多くの生物に対して「パーソン」という語の適用を認めることは、我々の言語に対する暴力である。こうした言語の乱用misuseは、なるほど理論的錯誤という点では間違っていない。だが、その[言語規則に対する]違反offenceが「単なる言葉のもの」ではあるとしても、それは重大な害を生む。というのも、その違反によって、我々の哲学的語彙は不当にgratuitously減り、逆に「パーソン」という語が最も自然な感じで結びつけられている重要な探究領域を我々が見落とす、という可能性が大きくなるからである。もしかすると、我々自身にとって本質的であるものを理解するという問題以上に、哲学者たちにとって中心的で根深い問題などありはしないだろう、と思われてきたかもしれない。
p. 323
だが、この[我々にとって本質的であるものを理解するという]問題は、一般的には見向きもされていないので、ほとんど気付かれることなく、そして明らかに、喪失感を喚起したり広めたりすることもなく、その名前そのものを奪ってしまうということが可能であったのだ。

「パーソン」という語が「人々」の単数形を単に意味する場合もあれば、両方の語が、ある生物学的な種の一員であることしか示さないような場合もある。しかしながら、哲学的に大変興味深いという意味で、パーソンであるための基準criteriaは、我々人間という種と他の種とを区別するのにそもそも役に立たない。むしろ、この基準は次のような属性attributeをとらえる目的で作られている。その属性とは、自分たちに対する最も人間らしい懸念をもつ基体(?)subjectと、我々が自分たちの生において最も重要でありながら最も問題あるものと考えているものの源泉sourceである。さて、これら二つの属性は、たとえ実際には、我々自身の種のメンバーに特有でも共通でもないとしても、我々にとって等しく重要なものであるだろう。人間の条件という点で我々の関心を最もそそるものは、仮にそれが他の生物の条件の特徴でもあるとしても、我々の関心をそそらないわけではないだろう。

それゆえ、パーソンとしての自分たちの概念は、必ずしも種に限定された属性の概念として理解されるべきではない。今まで見られたことのない種のメンバーや、見慣れていても人間ではない種のメンバーがパーソンであるというのは、概念上可能である。そして、人間種のあるメンバーがパーソンではないこともまた概念上可能である。その一方で実際のところは、他の種のいかなるメンバーもパーソンではないと想定されている。その結果、パーソンにとって本質的なものは、―正しいかろうが間違っていようが―人間に独特であると我々が一般的に考えている特徴である、と想定されてしまっているのだ。

私見では、パーソンと他の生物との間にある本質的な違いは、パーソンが持つ意志の構造のうちに見出すことができる。人間だけが欲求や動機を持ったり、選択するのではない。これらを持つというのは人間だけでなく人間以外の種のメンバーも同じであり、そのうちいくらかは、熟慮をしたり、また先に考えたことに基づいて決定をしているように見えさえする。しかしながら、人間にとりわけ特徴的だと思われるのは、「二階欲求second-order desires」あるいは「二階の欲求desires of the second order」と私が呼ぶところのものを人間が形成できるという点である。

あれやこれを欲し、選択し、そうするよう動かされることに加え、人々はまた、ある欲求や動機を持つこと(持たないこと)を欲するかもしれない。人々は彼らの選好や目的において、実際とは異なっているよう欲することができる。多くの動物は「一階欲求」あるいは「一階の欲求」と私が呼ぶところの能力は持っているようである。これらは、あることや別のことをしたりしなかったりする単純な欲求である。しかしながら、人間以外の動物には、二階欲求を形成する際に見られる反省的自己評価の能力がないように思われるのである 。
p.324

1

「欲する」という動詞が指し示している概念は、極めて理解しにくい。「AがXすることを欲する」という形の言明は―それ自体だけで考えて、それが意味していることを拡大したり明確にするのに役立つような文脈から離してみると―非常にわずかな情報しか伝えない。そのような言明は、例えば以下の言明のそれぞれと一致することだろう。(a) Xする見込みはAの心の中に、いかなる感覚も、すなわち内省的で情動的な反応も引き起こさない。(b) Aは自分がXすることを欲していることに気付いていない。(c) Aは自分がXすることを欲していないと信じている。(d) AはXすることをやめたいと思っている。(e) AはYすることを欲しており、YすることとXすることの両方を得ることは自分には不可能だと信じている。(f) AはXすることを「本当は」欲していない。(g) AはXすることよりもむしろ死ぬだろう、など。それゆえ、先にやったような、一階欲求と二階欲求との間の区別を定式化するためには、あるものがこれこれのことをしたい・したくないときに一階欲求を持ち、ある一階の欲求を持ちたい・持ちたくないと思うときに二階欲求を持つと、単純に主張するだけでは、まったくもって不十分なのだ。

私の理解では、「AがXすることを欲する」という形の言明は、可能性あるもののより広い範囲をカバーしている 。それらの言明は、たとえ(a)から(g)のような言明が真である場合でさえも真であることだろう。つまり、AがXすることに関するいかなる感じfeelingにも気付いていない場合、彼は自分がXすることを欲していることに気がついていない場合、彼は自分が欲しているものについて自分自身をだまして自分はXすることを欲していないと間違って信じている場合、彼がXすることへの欲求と衝突する別の欲求も持っている場合、彼が相反する感情を持っているambivalent場合、これらのような場合でさえも、上記の言明は真であることだろう。問題の欲求は、意識的であるかもしれないし、無意識的であるかもしれない。つまり、それらの欲求が一義的である必要はなく、Aはそれらの欲求について間違うこともあり得るわけだ。しかしながら、ある人の欲求を特定する言明に関する不確定性を引き起こすさらなる源泉がある。そしてここでは、あまり適当に済ませないことが私の目的にとって大切である。

まずはじめに、一階欲求を特定するidentify「AがXすることを欲するA wants to X」という形の言明を考えてみよう。―もう少し言えば、「to X」というタームが、ある行為を指しているような言明を考えてみよう。
p. 325
この種の言明はそれ自体で、XすることへのAの欲求がもつ相対的な強度を示すことはない。《この欲求が果たして、Aが実際にすること・しようとすることに対して決定的な影響を与える割合が高いかどうか》は不明である。というのも、XすることへのAの欲求が、たとえ彼のいくつもの欲求の中で唯一のものである場合でさえ、あるいは、それらの欲求の中で最優先のものではない場合にも、AがXすることを欲していると言うことは正しいだろうから。それゆえ、 1 《AがXする代わりの別の行為の遂行を強く選好する場合にさえ、AはXすることを欲している》、これは真であるかもしれない。そして、《Aが行為するときに、Xすることへの彼の欲求が彼の行為を動機づけるわけではないにもかかわらず、彼がXすることを欲している》ということも真であるかもしれない。他方、 2 AがXすることを欲していると述べる人が伝えようとしているのは、《この欲求こそ、彼が実際にしていることをするようAを動機付けている・動かしているのだ》ということ、つまり《Aは、自分が行為するとき、(心変わりしない限り)実際にはこの欲求によって動かされることになるだろう》ということであるかもしれない。

上記のうち二番目の使われ方に話を限れば、私が採用しようとしている「意志will」の特別な使い方を前提すると、その言明はAの意志を特定identifyしている。ある行為者の意志を特定することとは、〈1〉その人物が行なう何らかの行為において、彼を動機付けるときの欲求(諸欲求)を特定すること、あるいは〈2〉彼が行為するとき・するとしたら、彼を動機付けることになる・であろうところの欲求(諸欲求)を特定すること、以上のどちらかである。そうすると、行為者の意志とは、その人物がもつ一つ以上の一階欲求と同じである[特定される]ことになる。だが、意志の概念notionは、私がいま用いているように、一階欲求の概念と外延が同じわけではない。意志の概念は、行為者をある程度ある仕方で行為するよう傾けるinclineだけの何かについての概念ではない。むしろ、意志の概念とは、効果的なeffective欲求の概念である----効果的な欲求こそ、パーソンを最後まで行為へと動かすのである(動かすことになる・動かすだろう)。それゆえ、意志の概念は、行為者がしようと意図することの概念と外延が同じなのではない。というのも、たとえある人がXすることに対する一定の意図を持っている場合でも、彼はそれにも関わらず、Xすること以外の別の何かをするかもしれないからだ。その理由は、彼の意図にも関わらず、Xすることへの彼の欲求が、なんらかの衝突する欲求よりも弱かったり効果的でなかったりすることを示しているからである。

では、二階欲求を特定する「AがXをする[を欲する]ことを欲している」という形の言明について考えてみよう。-つまり、「to X」というタームが一階の欲求を示しているような言明を考えてみよう。ここでもまた、AがXすることを欲することを欲することが真となりうる二種類の状況がある。第一に、《Aがすることがないようにしたいという一義的な欲求(衝突や相反する感情からは完全に自由なもの)を持っているにも関わらず、Xすることへの欲求をAが持つということ》これはAについて言えば真であるかもしれない。言い換えると、ある人はある欲求を持つことを欲するかもしれないが、一義的に言うと、彼はその欲求が満たされて欲しくはないと欲するかもしれないのである。

麻薬中毒患者に対する心理療法に携わっている医者が、《中毒対象のドラッグを欲求することが患者にとってどのようなことなのか、ということを自分がよりよく理解すれば、患者を助ける自分の能力が向上するのではないか》と信じているとしよう。このようにして彼が、ドラッグへの欲求を持つことを欲するようになる[二階の欲求をもつようになる]としよう。それが医者の欲する真の欲求だとしたら、彼が欲しているものは、ドラッグへの欲求に囚われているときに中毒患者が特徴的に感じている感覚を感じることだけではないことになる。
p. 326
医者が欲しているのは、彼がある欲求を持ちたいと欲する限り、ある程度ドラッグを服用するよう傾けられること・動かされることなのである。

しかしながら、《ドラッグを服用したいという欲求によって動かされることを医者が欲しているにもかかわらず、彼はこの欲求が効果的なものとなることを欲してはいない》ということはまったくもって可能である。医者はその欲求に突き動かされて最後まで行為に至ることは欲していないかもしれない。ドラッグを服用することが[実際に]どのようなものなのかということを解明することには、医者が興味を抱く必要はない。そして、医者が今、ドラッグを服用したいと欲することだけ欲し[二階の欲求をもちつつ?]、かつそれを[実際に]服用しないことを欲する限り、医者が今欲しているものの中には、ドラッグそのものによって満足させられるようなものはなに一つない。彼は今、実際のところ、ドラッグを服用したくないという完全に一義的な欲求を持っているかもしれない。そして彼は、もしドラッグを欲する自分の欲求がやがて満たされるはずだとしたら彼が持つであろう欲求を満足させないように、思慮深く調節するかもしれない。

こうして、医者がいま、ドラッグを服用したいと欲求することを欲していることから、彼は前々からドラッグを服用したいと欲求していると推論するのは、正しくないことであるだろう。ドラッグを服用するよう動かされたいという彼の二階欲求は、ドラッグを服用したいという一階欲求を彼が持っていることを含意しない。もしドラッグがいま、医者に投与されてしまっても、このことはそれの服用を欲するという彼の欲求に内在する欲求[二階]を満足させることはないかもしれない。彼はドラッグの服用を欲することを欲する[二階]一方で、彼はそれを服用したいという欲求[一階]を一切持っていないかもしれない。もしかすると、彼が欲しているのは、ドラッグへの欲求を経験することだけなのかもしれない。つまり、自分が持っていないようなある種の欲求を持ちたいという彼の欲求は、自分の意志が、実際とはまったく異なっているべきだという欲求ではないかもしれないのだ。

こうした不完全な仕方でしか、Xすることを欲することを欲することがない人は、とても気難しい人である。そして、彼がXすることを欲することを欲するという事実は、彼の意志の特定identificationとは関連しない。しかしながら、「AがXすることを欲している」ということで描かれる二種類目の状況がある。そして、上記の言明がこの二種類目の状況を描くために用いられる場合、それは、自分の意志がそうなって欲しいとAが欲するものと関連することになる。そうした場合にその言明が意味しているのは、《Aは、Xすることへの欲求が自分を効果的に動かして行為へ導くような欲求になることを欲している》ということだ。それは、《Xすることへの欲求が、多かれ少なかれ彼を行為へと動かす・傾ける欲求のうちの一つであることを彼が欲している》というだけにとどまらない。彼はこの欲求が効果的なものとなることを欲しているのである―つまり、彼が実際に行なうことへの動機をもたらすものその欲求がになることを欲しているのだ。さて、AがXすることを欲することを欲するという言明がこうした仕方で用いられる場合、その言明には、《Aは前々からXすることへの欲求を持っている》ということが含意される。《Aは、Xすることへの欲求が自分を行為へ動かすようになることを欲しているということ》と、《彼はXすることを欲していないということ》が、両方真であることはないだろう。彼が実際にXすることを欲している場合にのみ、彼は一貫して、Xすることへの欲求が自分の欲求のうちの一つとなるだけでなく、一層決定的に、自分の意志となることを欲することができるのだ 。
p. 327
自分の仕事に集中したいという欲求によって、自分のやることへ動機付けられたいと欲する人を考えてみよう。もしこの想定が正しいのであれば、《彼が前々から自分の仕事に集中したいと欲している》というのは必然的に真である。この欲求は今現在、彼のいくつもの欲求のうちの一つである。だが、自分の二階欲求が満たされるかどうかという問いは、彼の欲する欲求が彼のいくつもの欲求のうちの一つであるかどうか、ということによって単純に決まるものではない。そうではなく、この欲求が、そうなることを彼が欲するように、彼の効果的な欲求、すなわち意志であるかどうかによって、決まるのだ。切羽詰まったとき、仕事に集中したいという彼の欲求が、彼を自分のなすことへと動かすのだとしたら、彼がそのとき欲しているものは、実際には(関連した意味で)彼が欲することを欲している[二階欲求の対象]ところのものであるのだ。他方で、彼が行為するときに彼を実際に動かすものがある別の欲求であるとしたら、彼がそのとき欲しているものは、(関連した意味で)彼が欲することを欲しているところのものではないのだ。このことは、仕事に集中したいという彼の欲求が、彼のいくつもの欲求のうちの一つであり続けるという事実にも関わらず、変わらないことだろう。


2

《人が二階の欲求を持っている》と言えるのは、《その人がある欲求を持ちたいと端的に欲するとき》か、《ある欲求が自分の意志になって欲しいと欲するとき》かのどちらかである。後者の状況において、私はその人の二階欲求を「二階意欲volition」あるいは「二階の意欲」と呼ぼう。さて、パーソンであるための本質的要素を、二階欲求を一般に持っていることではなく、二階意欲を持っていることであると私は考える。どれほどありそうになくとも、《二階欲求は持っているが二階意欲を持っていない行為者が存在する》というのは、論理的には可能である。私の見解では、そのような生物はパーソンではないだろう。私は「ワントンwanton(単純欲求者)」という語でもって、次のような行為者を指示することにしたい。すなわち、一階欲求を持ってはいるが、二階の欲求を持っているかどうかに関わらず、二階意欲を持っていないのでパーソンではないような行為者をワントンと呼ぶ 。

ワントンにとって本質的な特徴とは、彼が自分の意志について関心を持たない点である。彼の欲求によって彼はあることをするよう動かされる。そのとき、彼がそれらの欲求によって動かされることを欲するということや、他の欲求によって動かされることを彼が選好することは、彼には当てはまらない。
p.328
ワントンの中には、欲求は持つが人間種ではない動物すべてが入るし、極めて幼い子もすべて含められる。もしかすると、大人の人間の中にもそれに含まれる者がいることだろう。ともかく、大人の人間は、多かれ少なかれ、ワントンであるかもしれない。なぜなら、頻度に差はあれども、大人の人間だって、それに対して二階の意欲を持たないような一階欲求に反応して、ワントン的に行為することがあるからだ。

ワントンが二階意欲を持たないからといって、彼の一階欲求それぞれが、よく考えられもせず一度に行為へと変換されるわけではない。ワントンは自分のいくつかの欲求に一致した形で行為することができないのかもしれない。さらに、彼の欲求を行為へと変換することは、それとは衝突する一階の欲求か、熟慮の介入かのどちらかによって、遅らされたり邪魔されたりするかもしれない。というのも、ワントンは高次の理性的能力を持っておりそれを使用することができるかもしれないからだ。ワントンの概念の中には、推理できないとか、自分がしたいことのやり方に関して熟慮できないというようなことは含まれていない。理性的なワントンを他の理性的行為者から区別するものは、ワントンが自分の欲求それ自体の望ましさdesirabilityというものに関心がないということだ。彼は自分の意志がどうあるべきかという問いには無関心である。彼は、追求するよう最も強烈に傾けられる行為にならいかなるものをも追求するだけでなく、彼は自分の傾向性のうちどれが最も強いものであるのかということに関心がないのだ。

こうして、ある理性的な生物は、二つ以上の行為への自分の欲求に対するふさわしさを反省するとしても、それにも関わらずワントンであるかもしれない。《パーソンであることにとって本質的であるものは、理性ではなく意志にある》、そう主張するとき、私は生物が理性をもたなくともパーソンであるかもしれないと主張しているのではない。というのも、理性的能力によってのみ、パーソンは自分の意志に批判的に気がつけるようになるのだし、二階の意欲を形成できるようになるからである。したがって、パーソンの意志の構造には、彼が理性的な存在であるということが前提されている。

パーソンとワントンとの区別は、二人の麻薬中毒患者の違いによって描き出すことができるだろう。中毒に関する生理学的な条件が、二人の人間で同じであると想定してみよう。また、二人とも、自分たちが中毒になっているドラッグへの断続的な欲求に必ず屈してしまうとしてみよう。患者のうち一人は、自分の中毒を嫌い、常に必死でもがき苦しんでいる。といっても、その猛烈な力に抗うことは無駄なのだが。彼は、ドラッグへの自分の欲求に打ち克つようになれると思われるあらゆることを試みる。だが、これらの欲求はあまりに強すぎて逆らうことができず、結局それらの欲求に従うことを避けることができない。彼は嫌々ながらの中毒患者であり、自分自身の欲求にどうしようもなく侵されているのだ。

嫌々ながらの中毒者の心の中では、一階欲求同士が衝突し合っている。つまり、彼はドラッグの服用を欲していると同時にドラッグをやめたいことも欲しているのだ。しかしながら、これらの複数の一階欲求に加えて、彼は二階の意欲を持っている。彼は、ドラッグを服用したいという欲求とそれをやめたいという欲求との間の衝突に関して中立ではない。
p.329
彼が自分の意志を構成するものとなることを欲しているのは、前者ではなく後者の欲求なのだ。つまり、前者よりも後者の欲求の方こそ、彼が効果的なものとなることを欲しているのであり、実際に遂行するものにおいてその実現を求めるような目的を、もたらすようになることを欲するものなのだ。

もう一人はワントンである。彼の行為は自分の一階欲求の秩序economyを反映しているが、ワントンは、自分を行為へと動かす欲求が、自分を行為へ動かすものであることを欲する欲求であるかどうかに関心がない。もし彼がドラッグを手に入れたり、それを投与するときに問題に出くわすならば、ドラッグを服用しようとする衝動に対する反応の中には、熟慮が含まれているかもしれない。だがワントンには、《いくつもの欲求の間の関係によって、実際に持つ意志を自分が持つようになることになってほしいと自分が欲しているかどうか》を考えるということなど決して思い浮かばないのだ。ワントン中毒者は動物であり、それゆえ、自分の意志について考慮することができない。いかなる出来事においても、関心というものがワントン的に欠けているという点で、彼は動物とほとんど同じなのだ。

二番目の中毒者は、一番目の中毒者が一階の衝突で苦しんだのと同じように、一階の衝突で苦しむ可能性がある。彼が人間であろうとなかろうと、ワントンは(おそらくは条件付けが原因だろうが)ドラッグの服用を欲すると同時に、それをやめたいと欲することだろう。しかしながら、嫌々ながらの中毒者[一人目]とは違って、ワントンは自分の衝突し合う諸欲求のうちの一つが、他のもの以上に最優先であるべきだということを選好しはしない。つまり、彼はある一階欲求よりも、別の一階欲求が自分の意志を構成すべきだと選好することはない。彼が、いくつもの欲求の間の衝突について中立的であると言うのはミスリーディングであろう。というのも、このことは、彼がそれらの諸欲求を等しく受け入れ可能なものと考えているということを主張するものだろうから。彼には自分の一階欲求以外にアイデンティティがないので、一方の欲求を他方より選好するというのも、どちら側にもつかないというのも、どちらも真ではないのだ。

パーソンである嫌々ながらの中毒者に影響を及ぼすのは、衝突し合ういくつもの一階欲求のうちのどちらが最終的に打ち克つのか、ということである。確かに、両者とも彼の欲求である。そして、彼が最終的にドラッグを服用するにせよ、やめることに成功するにせよ、彼は文字通りの意味で自分自身の欲求であるものを満足させるために行為する。どちらかの場合で、彼は自分のしたいことをする。それは、その狙いがたまたま彼自身のものと合致するような外的影響のためではなく、そうしたいという彼の欲求のためである。しかしながら、嫌々ながらの中毒者は二階意欲の形成を通じて、自分自身を、衝突し合う一階欲求のうちの一方よりも他方と同化identifyさせる。彼は二つのうち一方を真に自分のものとし、そうすることで、自分自身を他方から分離させるのである。二階の意欲を形成することを通じて達成されるこうした同化と分離によって、嫌々ながらの中毒者は、重要な意味で、分析が困難な言明を行なうのだ。すなわち、自分をドラッグの服用へと動かす力は、自分自身のものではない力であり、そして自分自身の自由意志からではなく、自分の意志に反するものによって、この力は自分をドラッグへと動かすのだ、と。

ワントン中毒者は、自分の衝突し合う欲求のうちどちらが打ち克つのかについて気にかけることができないし、実際にしない。彼が関心を欠いていることは、説得力ある選好のための根拠を見つけられない彼の能力のせいではない。
p. 330
それは、反省能力が欠けているせいか、自分自身の欲求や動機を評価する気性enterpriseが欠けているかのどちらかのせいである 。ワントンの一階での衝突によって引き起こされる苦悶struggleには、一つだけ問題がある。それは、衝突し合う欲求のうちどちらがより強いのかという問題である。彼は両方の欲求によって動かされるので、どちらが効果的なものであれ、自分が行なうことによって完全に満足するということはないだろう。だが、自分の渇望ないし忌避のうち、どちらが優位に立つかということは、彼にとって関心のないことなのだ。彼はそれらの間の衝突に、全く関心がない。それゆえ、嫌々ながらの中毒者と違って、彼は自分が関わることになる苦悶に勝つことも負けることもできない。パーソンが行為するとき、パーソンを動かす欲求は、彼が欲している意志か、あるいは彼が持ちたくない意志かのどちらかである。ワントンが行為するとき、それはどちらでもない。


3

二階意欲を形成する能力と、パーソンにとって本質的である別の能力-これは人間の条件の特徴的なしるしである―との間には、極めて密接な関係がある。二階の意欲をパーソンは持っているという理由のみによって、彼は意志の自由を享受したりenjoy失ったりすることができる。そして、パーソンの概念は、一階欲求と二階の意欲との両方を持つタイプの存在者の概念であるだけではない。それはまた、その存在者の意志の自由が問題となるようなタイプの存在者の概念として理解することができる。この概念はあらゆるワントン、つまりワントンな類人猿とワントンな人類を排除する。というのも、それらのワントンは、意志の自由を享受するための本質的な条件を満たし損なっているからである。そして、この概念は、その意志が必然的に自由である超-人類を排除する。
では、どんな種類の自由が、意志の自由なのか?この問いに答えるためには、他の種類の自由概念とは違って、意志の自由という概念が特に密接な関係をもつ人間の経験の特別な領域を特定する必要がある。この問いを扱うとき、私の目的aimは主に、パーソンが意志の自由と関係しているときに最も直接的に関係している問題を突き止めることになるだろう。

おなじみの哲学の伝統に従うと、自由であるというのは、根本的に、人がしたいことをするということである。
p. 331
ところで、自分のしたいことをする行為者という概念は、完全に明晰な概念では決してない。つまり、するということthe doingと欲するということthe wantingだけでなく、それらの間の妥当な関係も解明が必要なのだ。だが、その焦点は鋭くされなければならないし、その定式化は洗練されねばならないものの、私はこの概念が、自由に行為する行為者という観念に内在するものの少なくとも一部を捉えていると信じている。しかしながら、その概念は、自由な意志を持つ行為者についての極めて異なる観念がもつ独特な内容を、完全に取り逃がしている。

我々は、動物が意志の自由を享受しないと想定しているが、動物が自分の好きな方向に走っていく自由を持つということは認められている。それゆえ、したいことをする自由を持つというのは、自由意志を持つことの十分条件ではない。それは必要条件でもない。というのも、ある人から行為の自由を奪うことは、必ずしも彼の意志の自由を弱めることにはならないからだ。ある行為者が、自分にはそれをする自由がないようなものがあることに気付いているとき、このことは間違いなく、彼の欲求を触発し、彼ができる選択の幅を制限する。だが、それに気付いていないが、行為の自由を失っている・奪われてしまった人を考えてみよう。彼にはもはや自分のしたいことをする自由がないとしても、彼の意志は依然として、前と変わらず自由である。彼は、自分の欲求を行為に変換する自由、あるいは自分の意志の決定に従って行為する自由を持たないにもかかわらず、彼は依然としてそのような欲求を形成し、まるで自分の行為の自由が損なわれていないかのように自由にそうした決定を行なうかもしれない。

パーソンの意志が自由であるかどうかを問うとき、我々は彼が自分の一階欲求を行為に変換することができるかどうかを問うているのではない。それは、彼には自分の望むようにする自由があるかどうかという問いである。彼の意志の自由についての問いは、彼が行なうものと彼がしたいと欲するものとの間の関係とは関わっていない。むしろ、その問いは彼の欲求そのものと関わっている。だが、欲求そのものについての問いとは一体どのようなものだろうか?

パーソンの意志が自由かどうかという問いを、行為者が行為の自由を享受しているかどうかという問いのアナロジーとして解釈することは、私には自然で有用なように思われる。ところで、行為の自由は(少なくとも大まかにいって)やりたいと欲することをする自由である。そして、類比的に言えば、パーソンが意志の自由を享受するという言明は、(これもまた大まかに言って)彼には自分の欲すことを欲するところのもの[二階の欲求の対象]を欲する自由があることを意味している。詳しく言うと、それは、彼がそれを意志しようと欲するところのものを意志する自由、つまり自分の欲する意志を持つ自由があるということを意味している。ある行為者の行為の自由についての問いが、《それは彼の欲する行為であるかどうかということ》と関係しているのとちょうど同じように、彼の意志の自由についての問いが、《それは彼が持ちたいと欲しているところの意志であるかどうかということ》と関係している。

彼の意志を彼の二階意欲と一致させることを保証するとき、パーソンは意志の自由を発揮する。そして、彼の意志と彼の二階意欲とが不一致であるとき、あるいはそれらの一致は彼自身の行為ではなく、単なる幸運なチャンスでしかないということに彼が気付くとき、この自由を持たないパーソンが、それ[自由]を欠いていると感じるのである。
p. 332
嫌々ながらの中毒者の意志は自由ではない。このことは、それが彼の欲する意志ではないということによって示される。そしてまた、別のやり方でだが、ワントンの中毒者の意志が自由でないことも真である。ワントンの中毒者は、彼が欲する意志を持ってもいなければ、彼が欲する意志とは異なる意志も持っていない。彼は二階の意欲を一切持っていないので、彼の意志の自由は彼にとって問題であることがない。ワントンは自由を、言わば欠陥によって欠いているのだ。

人間peopleは一般に、パーソンの意志の構造についての私のおおざっぱな説明が主張しているのより、よっぽど複雑な構造をしている。例えば、二階の欲求に関して相反する感情を持ちambivalent、衝突、そして自己欺瞞といった機会が、一階欲求と同じくらい沢山ある。ある人の二階欲求の中に、解消されない衝突があるとしたら、彼には二階意欲が一切ないことになってしまう。というのも、この衝突が解消されないとしたら、彼は、自分の一階欲求のどれが自分の意志であるのかということに関していかなる選好も持たないからだ。この条件は、もしそれが極めて厳しくて、そのために彼を、衝突し合う一階欲求のいかなるものとも十分決定的な仕方では特定させないのであれば、パーソンとしての彼を破壊してしまう。というのも、その条件は、彼の意志を麻痺させたり、彼をまったく行為させないようにしたりする傾向を持つか、彼から意志を取り除いてしまうために、彼の意志が彼の与り知らぬところで働いてしまうからである。両方の場合において、異なった仕方ではあるけれども、嫌々ながらの中毒者と同じように、このような人は自分を動かす力に対して何の希望もなく傍観するしかなくなってしまうのだ。

もう一つ複雑なことがらがある。それは、とりわけ彼の二階欲求が衝突し合っている場合、二階よりさらに高次の欲求や意欲をパーソンは持つかもしれないということだ。さらに高次に上がる欲求の階層について、理論的な制限はない。常識common senseや、もしかすると面倒を防ぐということsaving fatigue以外には、彼が次階の欲求を形成するまで、個人が強迫的に、自身を彼の欲求のいかなるものとも同化identifyさせることを拒むことを妨げるものはないのかもしれない。そのような欲求形成に関する一連の作用を生み出す傾向は、人間化の蔓延を示す一例であるだろうが、それと同時にパーソンというものを破壊することへもつながるのである。

しかしながら、そのような一連の作用を、恣意的にカットすることなく終わらせることが可能である。パーソンは自分自身を、自分の一階欲求のうちの一つと、決定的にdecisively同化させるとき、このコミットメントは、潜在的には終わりがない高次階の配列のはじめから終わりまで、「とどろくresound」のである。保留や衝突なく、自分の仕事に集中したいという欲求によって動機付けられたいと欲するパーソンについて考えてみよう。この欲求によって動かされる二階意欲は決定的な意欲だということによって、高次の欲求・意欲の適切性に関する問いから、余地を奪ってしまうのである。そのパーソンに、彼が自分の仕事に集中したいと欲していることを欲しているか尋ねてみよう。彼は適切に次のように答えることができる。つまり、三階欲求に関するこうした問いは生じない、と。彼は自分が形成する二階欲求を欲しているかどうか考えたことがなかったので、彼が自分の意志にこの意欲と合致して欲しいと思っているのか、それとも別の意欲と合致して欲しいと思っているのかという問いには無関心であったのだ、そう主張するのは間違いだろう。
p. 333
彼が行なったコミットメントが決定的であるということが意味しているのは、自分の二階意欲に関しては、さらに高次のいかなる段階にあっても、問わないようにしようと彼が決めていたということである。こうしたことを説明するために、このコミットメントがさらに高次の欲求を終わることなく確認する作業を引き起こすと言うか、それとも、そのコミットメントは、さらなる高次の欲求に関するすべての問いがもつ鋭さpointednessを解消することと同じであると言うかは、あまり重要な問題ではない。

嫌々ながらの中毒者に関する事例が示しているのは、二階の意欲・さらに高次の意欲が、意図的に作られたに違いないということ、そして、パーソンとはそうした意欲が満たされることを確かめようと苦悶することを特徴とすること、以上の二つである。だが、パーソンの意志がさらに高次の意欲と一致するということは、これよりはるかに考えのないthoughtless無意識的なことであるかもしれない。自分が親切でありたいと欲するときには、親切心によって自然と動かされる人がいれば、自分が意地悪くなりたいと欲するときには、意地悪な心によって自然と動かされる人がおり、そのときにはいかなる明確な見通しもなければ、力強い自己統制も必要ない。逆に、親切でありたいと欲するときに、意地悪な心によって動かされる人もいれば、意地悪になろうと意図するときに、親切心によって動かされる人もいる。このときも同じように、見通しもなければ、彼らの高次階の欲求に対するこうした違反に対して、積極的に抵抗することもない。自由を享受するというのは、ある者にとっては容易である。他の者はそれを獲得するために、苦悶せねばならない。


4

意志の自由に関する私の理論は、《自分たち人間より下等な種のメンバーがこの自由を享受すること》を認めたがらない我々の傾向性について容易に説明する。それ[私の理論?]はまた、意志の自由がなぜ望ましいものと考えられるべきかということを明らかにすることによって、そのようないかなる理論とも合うに違いない別の条件も満たす。自由意志を享受するということは、ある欲求―二階の欲求やさらに高次の欲求-を満足させることを意味している。これに対して、自由意志を持たないというのは、欲求が満たされないことを意味する。問題となっている欲求充足を経験するパーソンは、その人の意志がその人自身のものであると言われるような人のことである。これに対応する欲求不満に苦しむパーソンは、自分が自分自身から遠ざけられている、つまり彼は自分を動かす力に対して無力で受け身な傍観者でしかないことを自覚していると言われるような人のことである。

自分がしたいと欲するものをおこなう自由があるパーソンは、自分が欲するような意志を持つことができるわけではないかもしれない。しかしながら、彼が行為の自由と意志の自由の両方を享受すると想定してみよう。そうすると、彼には自分がしたいと欲するものをおこなう自由があるだけでなく、自分が欲することを欲するもの[二階欲求の対象]を欲する自由もあるのだ。その場合、彼には欲求したり想い抱いたりすることが可能なあらゆる自由があるように、私には思われる。
p. 334
人生には他にも善なるものがいくつかあって、彼はもしかするとそれらのうちのいくつかを所有していないかもしれない。だが、自由という点で彼に欠けているものはないのだ。

意志の自由についての別の諸理論が基本的ながらも本質的なこれらの条件を満たすのかどうかは明らかでない。つまり、我々がなぜこの自由を欲求し、この自由を動物に帰すことを拒むのか、理解できるかどうかは明らかでない。例えば、《人間の自由は因果的決定の欠如を含んでいるhuman freedom entails an absence of causal determination》というロデリック・チザムの一風変わった説doctrineについて考えてみよう 。チザムによれば、パーソンが自由な行為を遂行するときはいつでも、それは奇跡なのだ。パーソンの手の動きは、パーソンがそれを動かすとき、一連の物理的諸原因の帰結である。だが、この連鎖のうちにある、ある出来事、「そしておそらくは、脳内に生じるような出来事のうちの一つは、その行為者によって引き起こされたものなのであって、別の何らかの出来事によって引き起こされたものではない。」(18) それゆえ、自由な行為者は、「神にしか帰されないような特権を持っている。つまり、我々が行為するとき、我々はそれぞれが、不動の第一動者なのだ。」(23)

このような[チザム流の]説明は、《人間より下位種の動物が自由を享受する》ということを疑う基礎を与えることがない。チザムは、ウサギがその足を動かすときに奇跡を行なっているということよりも、人間が手を動かすときに奇跡を行なっているということの方がありそうだと思わせるものについて、何も述べていない。だが、どちらにしても、チザムが描くような仕方で諸原因の自然的序列を人間には途切れさせることができるのかどうか、ということをなぜひとは気にかけるのだろうか。《自分の手を動かすときに一連の諸原因を奇跡的に始めるような人間の経験》と、《普通の因果系列をいささかも破ることなく自分の手を動かす人間の経験》とのあいだに、識別できる違いがあると考えるための理由をチザムは一切与えない。ある事態よりも別の事態の方に関わることを選好するための具体的基礎など何もないように見える 。

一般的に考えられていることだが、私が述べてきた二つの条件を満たすことに加えて、意志の自由についての満足いく理論は、必然的に、道徳的責任のための諸条件の一つについての分析をもたらす。意志の自由を理解するという問題へのアプローチのうち最も一般的な最近のものは、実際のところ、《ある人が彼の行なったことについて何らかの道徳的責任を持つ》という想定によって言われていることを探究している。しかしながら、道徳的責任と意志の自由の間にある関係は、極めて幅広く誤解されて来たように思われる。パーソンが彼のなしたことについて道徳的責任を負うのは、彼がそれをしたとき、彼の意志が自由であった場合に限られるというのは真ではない。彼は、たとえ彼の意志がまったく自由でなくとも、それをしたことについて道徳的責任を負う可能性があるのだ。
p. 335
パーソンの意志が自由であるのは、彼が欲する意志を持つ自由がある場合に限られる。これが意味しているのは、彼の一階欲求のいかなるものに関しても、その欲求を彼の意志とするか、それとも代わりにある別の一階欲求を彼の意志とするかのどちらかをする自由を彼が持っているということだ。そして、彼の意志、つまりその意志が自由であるパーソンの意志は、それがどんなものであれ別のものでありえたわけである。つまり、彼は実際に自分の意志を構成したのとは別様になしえたcould have done otherwiseかもしれないのだ。「彼が別様になし得た」というのは、例えばこうしたような文脈では、どのように理解すべきなのか、という厄介な問題がある。だが、この問いが自由についての理論にとって重要であるとしても、それが道徳的責任についての理論とは無関係である。というのも、パーソンが自分のなしたことに道徳的な責任があると想定しても、そのパーソンが自分の欲したあらゆる意志を持つことができたということまで言うことはできないからだ。

この想定の結果実際言うことができるのは、そのパーソンが自由にしたことを彼がしたということ、つまり彼は彼自身の自由意志からそれをした、ということだ。しかしながら、《ある人が自由に行為するのは、彼が自分の欲することならいかなるものをもする自由がある場合に限られる》あるいは《彼が自分自身の自由意志から行為するのは彼の意志が自由である場合に限られる》と信じることは間違いである。[1]パーソンは自分がしたいと欲したことをした、[2]彼がそれをしたのは彼がそれをしたいと欲したからだ、[3]彼がそれをしたときに彼を動かした意志は、それが彼の欲した意志であるから、彼の意志であった、以上のように想定してみよう。彼が別様になし得たと想定するとしても、彼は別様にはなさなかったことだろう。そして、彼が別の意志を持ち得ただろうと想定するとしても、彼は自分の意志が実際とは異なることを望みはしなかっただろう。さらに、彼が行為したとき彼を動かした意志が彼の意志である理由は、彼がそれをそうであれと欲したからである。それゆえ、彼は、自分の意志は自分に対して強制されたものだ、と主張できない。あるいは彼は、意志の構成に対して受動的な傍観者であった、と主張できない。これらの条件の下では、彼が反対して選んだ選択肢が実際に彼に利用可能であったかどうかを探究することは、彼の道徳的責任の評価とはまったく無関係である 。

説明のために、三番目の種類の中毒者を考えてみよう。彼の中毒症状は嫌々ながらの者、およびワントンな中毒者の中毒症状と、同じ生理学的基礎をもち、また同じほど抵抗できない渇望を持つものの、彼は自分の状態を心から喜んでいると想定してみよう。彼は自らすすんでなったwilling中毒者であり、抵抗できない渇望以外の欲求を持ち合わせていない。もし彼の中毒症状の支配が、幾分弱いものであるなら、彼は回復するためにできることすべてをやることだろう。もしドラッグへの彼の欲求が衰え始めるとすれば、彼はその強さを回復する手続をとることだろう。

自ら進んでなった中毒者の意志は自由ではない。というのも、ドラッグを服用したいという彼の欲求は、この欲求が自分の意志を構成するものであって欲しいと彼が欲するか否かに関わらず効果的なものであるからだ。だが、彼がドラッグを服用するとき、彼はそれを自由に、自分自身の自由意志から行なうのだ。彼の状況には、ドラッグを服用したいという彼の一階欲求の重複決定overdeterminationが関係していると、私は理解する方へ傾いている。
p. 336
この欲求が、彼の効果的な欲求であるといえるのは、彼が生理学的に中毒に冒されているからだ。だが、それが彼の効果的な欲求であるといえるのは、彼がそれにそうであって欲しいと欲するからでもある。彼の意志は彼のコントロール外にあるが、ドラッグへの自分の欲求が効果的であって欲しいという彼の二階欲求によって彼はこの意志を自分自身のものとしたのだ。それゆえ、彼のドラッグへの欲求が彼の中毒のためだけではないということを前提すると、彼にはドラッグを服用することに対する道徳的責任があるかもしれない。

意志の自由についての私の構想conceptionは、決定論の問題に関しては中立的であるように映る。パーソンには、自分が欲することを欲するものを欲する自由があるということは、因果的に決定されているはずだ、そう考えることができると思われる。もしこのように考えられるなら、パーソンが自由意志を享受することは因果的に決定されているのかもしれない。不可避的に、自分たちのコントロールを越えた力によって、自由意志を持つ人もいれば、持たない人もいるということが決められているという命題には、無味乾燥なパラドクスが現れる以上のことはない。《パーソン自身の行為者性以外のある行為者性には、彼が意志の自由を享受したりし損なったりすることに対して責任がある(道徳的責任すらある)》という命題には、何らの不整合もない。パーソンには、彼が自分自身の自由意志から行なうことに道徳的責任があるはずだというのは可能だし、ある別のパーソンもまた、彼が行なったことに道徳的責任があるはずだというのも可能である 。

他方で、パーソンが自分の欲する意志を持つ自由があるというのは偶然に過ぎないと考えることができると思われる。もしこのように考えられるのなら、意志の自由を享受する人もいれば、持たない人もいるということは、偶然の出来事なのかもしれない。もしかすると、数多くの哲学者たちが信じているように、事態は、例えば一連の自然的諸原因の帰結のように、偶然以外の仕方で生じるということも考えられる。もし、実際に第三の仕方で、関連する事態が生じると考えることができるなら、パーソンがそのような第三の仕方で意志の自由を享受するはずだということもまた可能であるのだ。