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現代メタ倫理学入門[2003]
by アレキサンダー・ミラー



注:以下では、「 」and《 》を訳者カッコとし、[ ]の中は訳者が補ったものとする。
  なお、原文イタリックは下線で示し、原文カッコも「 」で示している。


【p.1】
1. イントロダクション

本章では、《メタ倫理学においてカバーされる領域》、及び《本書を通じて詳細にカバーされるメタ倫理学における主要な哲学的立場》について簡単に説明する。

1.1 メタ倫理学とは何か?
「飢餓救済をおこなうべきかどうか」、つまり「飢餓救済をおこなうよう我々は道徳的に義務づけられているかどうか」という問いについて私が友人と議論している、そう想定してみよう。この種の議論について哲学者たちが掲げるような質問は、大まかに言って2つのグループに分けられる。まず、一階の問いというものがある。これは、「その議論debateにおいて、もし正しいものがあるのなら、どちらの側partyが正しいのか、そしてそれはなぜなのか」についての問いである。つぎに、二階の問いというものがある。これは、「それぞれの側がその議論に携わっている場合に、その議論においてそれぞれの側がおこなっていることは何なのか」ということについての問いである。大まかに言うと、一階の問いが規範倫理学の領域[のもの]であり、二階の問いがメタ倫理学の領域[のもの]である。最近の研究者が述べるところによると
メタ倫理学において我々が関心を持っているのは、「私は飢餓救済をおこなうべきか?」あるいは「私は自分が道で見つけた財布を[持ち主に]返すべきか?」のような規範倫理学の領域の問いなのではなく、これら[規範倫理学]のような問いについての問いなのである。(Smith[1994a]p.2)
規範倫理学において我々は単に、「自分たちは飢餓救済をおこなうべきか?」という問いに対して答えを探しているだけではなく、我々はまた、その正しい答えがなぜ正しいのかということ関する何らかの洞察をも探し求めている、これが明らかであることが大切である。こうした後者のような「なぜ?」を用いる問いに対する答えに関してさえ、規範倫理学における古典的な諸理論は意見の一致を見ていない。そうした諸理論の例として、以下のものがある。行為功利主義(ひとが飢餓救済をおこなうべきであるのは、
【p.2】
いくつもの可能性を持ったうちのその特定の行為が、最大多数の最大幸福に最も貢献するからである
); 規則功利主義(ひとが飢餓救済をおこなうべきであるのは、飢餓救済をおこなうことが、《その一般的な遵守が最大多数の最大幸福に最も貢献するところの規則》によって指令されているからである); そしてカント主義(ひとが飢餓救済をおこなうべきであるのは、飢餓救済を普遍的に拒否ってしまうと、ある種の矛盾がひきおこされるだろうからである)である。かくして、規範倫理学は道徳的な実践の基礎にある、一般的な諸原理を発見しようと試みている。そして規範倫理学はこのような仕方で、実践的な道徳的問題に対して潜在的に影響を及ぼすのだ。つまり、さまざまな一般的諸原理が、いくつもの個別事例においてさまざまな判定verdictを生み出しうるのである。本書において関心があるのは規範倫理学における問いや理論ではない。むしろ、我々の関心は以下の事柄についての問いである(註1)

(註1)
私は、メタ倫理学における問いが、規範倫理学における問いとはもっぱら独立しているということを言おうとしているのではない。現代の研究者の多くは、「問いのタイプは、はっきり異なるとしても、相互の結びつきがある」と信じている。たとえばSmith[1994a]とBrink[1989]pp.4-5を参照せよ。[ ⇔ シンガーなどは、結びつきがないと考える]


(a)意味:道徳的言説moral discourseが持っている意味論的機能とは何か?道徳的言説がもつ機能は、事実を述べることなのか?それとも、それは事実を述べることに関わらない何か別の役割を担っているのか?

(b)形而上学:道徳的事実(あるいは性質property)は存在するのか?もし存在するとしたら、それはどのようなものなのか?それら道徳的事実とはある別タイプの事実(性質property)と同一なのか、もしくは別タイプの事実に還元されるのか?それとも、それら道徳的事実とは還元不可能であって独特のものなのか?

(c)認識論正当化:道徳的知識のようなものは存在するのか?「道徳判断は真であるか、それとも偽であるか」ということを我々はどのようにして知ることができるのか?道徳的知識について自分たちがおこなう主張を、我々はいったいどのようにして正当化することができるのか?

(d)現象学:道徳的質qualityは、道徳判断をおこなっている行為者の経験においてどのようにして現れるのか?道徳的質は世界の「外側に存在するout there」ように見えるのか?

(e)道徳心理学:道徳判断をおこなっているひとの動機付けられている状態について、我々は何を言うことができるか?《道徳判断をおこなうこと》と《その判断が指令するように行為するよう動機付けられていること》との間には、どのような結びつきがあるのだろうか?

(f)客観性:道徳判断が実際に正確であるcorrect あるいは不正確であるincorrectということはありえるのか?我々は道徳的真理を見つけようと努力するwork towardsことができるのか?

明らかに、上記のリストは網羅的であることを狙ったものではない。そしてそのさまざまな問いがまったく独立であるというわけではない(たとえば、(f)に対するYesという答えは、表面的には、「道徳的言説の機能は事実を述べることである」ということを前提しているように見える)。しかし、注意に値するのは、「そのリストは4、50年前の多くの哲学者たちが考えていたであろうものよりも一層広い」ということである。たとえば、4、50年前の哲学者の一人は次のように述べている。
【p.3】
[メタ倫理学は]人々が何をすべきかということについてのものではない。メタ倫理学とは、「人々が何をすべきかについて語っているときに彼らがやっていることは何なのか」ということについてのものなのだ。(Hudson[1970]p. 1)
「メタ倫理学とは、もっぱら言語についてのものである」という考えは、「哲学というものが概して日常言語についての研究以外の機能を持たない」とか「《哲学的な問題》が生じるのは、言葉が日常的に用いられる文脈の外で、言葉を用いることからのみである」という、より一般的な考えに起因していたというのは間違いない。幸いなことに、この哲学についての「日常言語学派的な《捉え方 ordinary language 》conception of philosophy」が、幅を利かせなくなって久しい。そして、メタ倫理学的な関心---意味論や意味についての理論における関心と同様に、形而上学、認識論、現象学、そして道徳心理学における関心---はこのこと[日常言語という哲学の考え方が幅を利かせなくなって久しいこと]を裏付けているbear out。

メタ倫理学における立場は、それらがこの種の問いにどのような答えを与えるのかということに応じて、定義することができる。メタ倫理学理論の例として挙がるのは、道徳的実在論非認知主義錯誤理論、そして道徳反実在論である。本書の課題は、これらの諸理論を説明し、それらについて評価することである。本章では、さまざまな理論について簡単なスケッチをおこない、そしてそれら諸理論が取り組むそのような問いについての考えを提供してみたい。それゆえ、こうした予備的スケッチは、本書の残りの部分でより詳しく展開されることになる。

1.2 認知主義と非認知主義
特定の道徳判断、つまり「殺人は不正だ」というような判断を考えてみよう。この判断が表明しているのはどのような種類の心理状態なのか?哲学者の中でも、認知主義者と呼ばれる人々の中には、「この種の道徳判断はある信念を表明している」と考えるものがいる。信念は、真ないし偽でありえる (註2)。信念とは、真理適合的truth-apt、すなわち真や偽という点で評価される適性があるのだ。それゆえ、認知主義者は「道徳判断は真、ないし偽であることができる」と考える。他方、非認知主義者は「道徳判断が表明しているのは、情動や欲求のような非認知的状態である」と考える。欲求や情動とは、真理適合的ではないものである。それゆえ、道徳判断は真、ないし偽であることができない。(1パイントのビールへの欲求を私が持っていることは真であるかもしれないし、イングランドがワールドカップをとることを見る欲求を私が持っていることは偽であるかもしれないが、だからといって「欲求そのものが真、ないし偽でありえる」ということにはならないことに注意せよ。) さまざまな意味で、認知主義と非認知主義との闘いは、本書における中心的な話題となる。第3章から第5章までは非認知主義とそれが抱える問題に関するものであり、その一方で認知主義とそれが抱える問題は第2章と第6章から第10章までのトピックである。

(註2)
のちに、とくに第4章で明らかになるように、認知主義的 / 非認知主義的議論についてのこのような説明は、過度に単純化したものである。


【p. 4】

1.3 強い認知主義:自然主義
強い認知主義的理論とは、「道徳判断は、(a)真と偽という観点でなされる評価に適合すると同時に、(b)判断を真とするような事実に認知的にアクセスした結果である」と考える理論である。強い認知主義的理論は自然主義的なものか、非自然主義的なものかのどちらかである。自然主義者によると、道徳判断とは、自然的な事態natural state of affairsによって真か偽とされるものである。そして、この自然的な事態こそ、真なる道徳判断によって我々がそれに対するアクセスを獲得するものなのである。しかし、自然的な事態とは一体何なのか?本書では、G. E. Mooreの性格付けに従うことにする。
そこで、‘自然’ということで私が意味したり意味してきたのは、自然科学、そしてまた心理学の主題となるようなものである。(Moore[1903/1993]p. 92)
自然的性質とは、自然科学、ないし心理学の性質において現れるものである。例として、《最大多数の最大幸福に寄与すること》という性質や、《人間種の保存に寄与すること》という性質を挙げることができるかもしれない。自然的な事態は単なる事態に過ぎないが、その本質は自然的性質を例示するという点にある。

自然主義的認知主義者たちの考えによると、道徳的性質は自然的性質と同じである(あるいはそれに還元できる)。コーネル実在論者たち(たとえば、Nicholas Sturgeon, Richard Boyd, そしてDavid Brinkである。Sturgeon[1988]、Boyd[1988]、そしてBrink[1989]を参照)は、「道徳的性質とは、そもそもin their own right自然的性質に還元できないものである」と考えている。自然主義的還元論者たち(たとえば、Richard BrandtとPeter Railton。Brandt[1979]とRailton[1986a]を参照)は、「道徳的性質は、自然科学と心理学の主題となる他の自然的性質に還元することができる」と考えている。コーネル実在論者と自然主義的還元論者とは両方とも、道徳的実在論者である。つまり彼らは、「道徳的事実や道徳的性質が実際に存在する」と考え、「《これら道徳的事実や道徳的性質が例示されたもの》が存在するということは、人間の意見から構成上独立だ」と考えている。コーネル実在論者を含めた非還元論的自然主義は第8章で論じられ、自然主義的還元論は第9章の主題となる。

1.4 強い認知主義:非自然主義
非自然主義者の考えによれば、道徳的性質は自然的性質と同じものではないし、それに還元もされない。道徳的性質は還元不可能であって独特のものなのだ。
【p. 5】
我々は2つのタイプの強い認知主義的非自然主義を見ることになる。一つ目はムーアの倫理学的非自然主義である。これは彼の『倫理学原理(初版は1903年)』において展開されたもので、これによると、道徳的善性という性質は、非自然的で、単純で、そして分析不可能なものである。2つ目は、非自然主義の現代バージョンであり、これはジョン・マクダウェルとデイヴィッド・ウィギンズによって展開されてきた(大まかには1970年代から現在まで。McDowell[1988]とWiggins[1987]を参照)。さらに、双方の非自然主義者は、道徳的実在論者である。つまり彼らは、「道徳的事実と道徳的性質が存在する」と考えており、「《これら道徳的事実と道徳的性質が例示されたもの》が存在するということは、人間の意見から構成上独立である」と考えている(註3)。ムーアの非自然主義、および自然主義に対する彼の批判attackは第2章と第3章で論じられる。マクダウェルの非自然主義は第10章で論じられる。

(註3)
さらに、後に本書で、特にブラックバーンの準実在論について論じるときに見るように、道徳的実在論をこのように特徴付けることは、あまり役に立たない。上で導入した認知主義 / 非認知主義という区分と同じで、私はその特徴付けをここでは単なる話のとっかかりとして用いている。


1.5 道徳的実在論なしの強い認知主義:マッキーの‘錯誤理論’
ジョン・マッキーは、「道徳判断は真、ないし偽に適合する」そして「道徳判断が、仮に真だとすれば、道徳的事実に対する認知的アクセスを我々に与えるだろうが、道徳判断は実際には常に偽である(Mackie[1977])」と論じた。この理由は以下の通りである。まず、そのような世界には、我々の道徳判断を真にすることを要求するような道徳的事実、ないし道徳的性質は、端的に存在しない。そして、「我々がそのような事実や性質にどのようにアクセスできるのか」ということについて、認識論的にもっともらしい説明を我々はすることができない。さらに、そのような性質や事実は、私たちが知っているような万象universeにある[道徳的性質や道徳的事実ではない]他のいかなるものとも異なって、形而上学的に奇妙であるだろう。道徳的性質とは、それを道徳的行為者が把握することによって、その行為者を行為させるよう動機づけるのに十分であるようなものでなければならないだろう[内在主義を前提している]。[以上の理由から]マッキーは、この考えがまったくもって疑わしいものだと考える。彼は「道徳的性質や道徳的事実などは存在せず、それゆえ(肯定的で、アトミックな[論理的にそれ以上分割できないような])道徳判断は、一律に偽である、つまり我々の道徳的思考は我々を根本的な錯誤に陥れている」と結論する。マッキーは道徳的事実や道徳的性質の存在を否定するので、彼は道徳的実在論者ではなく、道徳的反実在論者である。マッキーの錯誤理論は第6章の主題である。

1.6 道徳的実在論なしの道徳に関する弱い認知主義:‘ベストオピニオン’理論
弱い認知主義理論は次のように考える。すなわち、「道徳判断とは(a)真と偽という観点でなされる評価に適合するものであるが、(b)道徳的性質や事態へ認知的にアクセスした結果ではない」と。
【p. 6】
かくして、弱い認知主義は強い認知主義と、(a)については意見が合うが、(b)については意見が合わない。弱い認知主義理論の一つの例は、次のように考えることだろう。つまり、道徳に関する我々のベストな判断こそが、道徳的な述語の外延extension of moral predicateを決定するのであって、道徳的性質を例示したものに関する事実を、追跡したり探索したり認知的にアクセスしたりするような何らかの能力facultyに基づくことはないのだ、と。(述語の外延とは、その述語が正しく適用されるところの事柄、出来事、ないし対象の集合のことである。) かくして、たとえ道徳判断が、追跡、アクセス、あるいは探索する役割を持つ能力に基づいていないとしても---言い換えれば、真の道徳判断が、道徳的な事態に認知的にアクセスした結果ではないとしても、道徳判断は真、ないし偽でありうるのだ。それゆえ、このような見解は道徳的実在論を退けるが、それは道徳的事実の存在を(錯誤理論のように)否定することによるのではなく、そのような事実が構成上、人間の意見とは独立であるということを否定することによるのである。第7章において私は、反実在論にかんするクリスピン・ライトの著作の中で、このタイプの弱い認知主義理論について論じることにする。

1.7 非認知主義
非認知主義者は、道徳判断が、真ないし偽に適合的であるということすら否定する。非認知主義者はそれゆえ、弱い認知主義と強い認知主義のどちらとも意見が合わない。我々は、非認知主義が認知主義に反対して用いる数多くの議論を見ることになる。そのような議論の一例として、道徳心理学から提出される議論がある。

認知主義者が主張するように、道徳判断が信念を表明しているとしてみよう。《あることをするよう、あるいは一連の行為をするよう動機付けられること》とは、《常にある信念とある欲求とを持つこと》である。たとえば、私は冷蔵庫に手を伸ばそうと動機付けられている。なぜなら、私は「冷蔵庫にはビールが入っている」と信じており、さらに私は《ビールへの欲求》を持っているからだ。しかし、「もしある行為者が誠実に《Xは善い》と判断しているのならば、そのひとは一連の行為Xをするよう動機付けられている」というのは、その行為者に関する内在的で必然的な事実internal and necessary factである。それゆえ、仮に道徳判断とは信念を表明するものであるとすれば、その信念は《欲求に対して、内在的で必然的な結びつきを維持している信念》でなければならないことだろう。つまりそれ[?]は、「その信念を所持している行為者は、なかんずくその欲求も所持している」という必然的真理でなければならないことだろう。だが、いかなる信念も必然的に欲求と結びついているということはない。なぜならば、ヒュームが主張しているように、「信念と欲求とは別個の存在であり」、別個の存在の間で必然的結合を結ぶことは不可能だからだ(Hume[1739/1968])。それゆえ、道徳判断が信念を表明しているというのは本当ではないbe the case。それゆえ、道徳判断は真理適合的not truth-aptではないのである(註4)

(註4)
こうしたラインに沿って議論がどのように進んでいくのかということに関する説明に関しては、Smith[1994a]1.3.を参照せよ。


もし道徳判断が信念を表明するものでありえないのなら、道徳判断が表明しているものとは何なのか?この問いに対してさまざまな答えを与える、以下の三つの非認知主義を我々は見ることになる。
【p. 7】
一つ目は、A. J. エアの情動主義(1936)で、これによると、道徳判断とは、《是認ないし否認の情動ないし感情》を表明しているという。2つ目はサイモン・ブラックバーンの準実在論で、これによると、道徳判断とは、《是認ないし否認の感情を形成する我々の傾向性disposition》を表明しているという。最後はアラン・ギボードの規範-表出主義norm-expressivism(1990)で、これによると、我々の道徳判断とは、《自分たちが規範を受け入れているということ》を表明しているという。

おそらく、非認知主義に向けられる主要な批判は、フレーゲ・ギーチ問題と呼ばれるものであろう。たとえば情動主義によると、「殺人は不正だ」と判断することは、実際にはただ、‘ブー、殺人!’と叫んでいることと同じなのだ(私が‘ブー’と叫ぶとき、私は自分の否認をあらわしているevince最中なのであって、何かを記述しようと試みているのではない)。だが、‘もし殺人が不正であるなら、あなたの義母を殺すことは不正である’[という文章]についてはどうだろうか?この文章の意味はわかる。だが、情動主義的な解釈に基づくと、その意味がわからなくなる([つまり、]情動主義的な解釈に基づくとそれはどのようになるだろうか?)。われわれは、準実在論と規範表出主義が、非認知主義を支持しつつこの問題を、非認知主義者を脅かす他の一連の問題と同様に、解決を試みるその仕方について見ることになる。非認知主義は第3、4、5章の主題である。

1.8 内在主義と外在主義、ヒューム主義と反ヒューム主義
上記の道徳心理学からの論証argumentにおける前提の一つは、次のような主張である。すなわち、《誠実に道徳判断を下すこと》と、《その判断によって指令されるような仕方で行為するよう動機付けられること》との間には内在的で必然的な結びつきがある。この主張は内在主義として知られている。というのも、この主張が述べているのは、「道徳判断と動機付けとの間には内在的な、ないし概念上の結びつきがある」ということだからである。認知主義を掲げる哲学者の中には(たとえばRailton, Brink)、道徳心理学からの論証に対して、内在主義を否定することによって応答するものがいる。彼らの主張するところによれば、判断と動機付けとの間の結びつきは外在的で偶然的なものに過ぎないのだ。そうした哲学者は、外在主義者として知られている。認知主義を掲げる他の哲学者(たとえばMcDowell, Wiggins)の中には、道徳心理学からの論証に対して、その別の前提を否定することによって応答するものもいる。彼らが否定する別の前提とは、「動機付けというものには常に、信念と欲求の両方が存在することpresenceが含まれている」という主張である(この前提は動機付けに関するヒューム主義的理論として知られている。というのも、その前提はヒュームによる古典的な解明を受容したものであるからだ)。マクダウェルとウィギンズは、動機付けに関する反ヒューム主義的理論を押し進める。そして、この[マクダウェルとウィギンズの]理論によると、信念それ自体は本質的にintrinsically動機付けうるものなのである。内在主義と外在主義との間の議論と、ヒューム主義と反ヒューム主義との間の議論は、第9章の9節〜10節、および第10章4節の主題である。
【p. 8】

1.9 主要なメタ倫理学理論のフローチャート

[略]

【p. 9】

1.10 読書案内
近年のそしてごく最近のメタ倫理学に関する以下の論考が有益であるように思われる。Sayre-MacCord[1986]; Darwall, Gibbard and Railton[1992];Little[1994a, 1994b]; そしてRailton[1996a]。哲学的倫理学にとってまったく目新しい論考については、Blackburn[2001]が素晴らしくて詳細な入門書である。Benn[1998]もまた有益である。